的を射た公明党の「日共批判」-「改憲と加憲のあいだ」➂

日本共産党と公明党の間でのいわゆる「公共憲法論争」から40数年が経った。当時私は、公明新聞記者をしていた。編集の最高責任者だった市川雄一編集主幹(当時。元党書記長)のもと、先輩たちが懸命に「公開質問状」に対応していた姿を思い出す。ことの発端は、1973年(昭和48年)12月17日に、日本共産党中央委員会が公明党中央委員会に宛て、25項目の質問を含む「公開質問状」を送り付けてきたことだ。これに対して公明党は、翌74年2月8日に、全ての質問に答えた回答状を共産党に返した。これをきっかけに、公明党は逆に74年6月18日、7月4日の二回に分けて、「憲法3原理をめぐる日本共産党への公開質問状」を提起した。全文22万字に及ぶ、70項目200余問の質問を含むものだった▼入社4年目の30歳前の新米記者だった私など、当時は到底預かり知らないやりとりだった。およそ半年余りの期間に、高揚する社内の気分だけは今なお鮮明に覚えている。以来、共産党からいつ返事が届くのか、心待ちにし続けた。しかし、呼べど叫べど回答はこない。まさになしのつぶてとはこのこと、今となっては、論争から逃げてしまった共産党という政党には呆れるばかりという他ない▼では、この「質問状」で公明党は何を問題としたか。一つは、共産党が平和・人権・民主を柱とする現行憲法を破棄するとの方針を堅持していること。二つは、複数政党制や三権分立など現行政治制度の全面的改廃を狙っていること。三つは、共産党の路線、マルクス・レーニン主義(科学的社会主義)には、自由・民主主義などの市民的社会の持つ諸価値と対立する重大な要素が含まれてること。四つは、共産党の統一戦線論は、政権交代なき共産党一党独裁政権を目指す革命路線(武力革命を含む)であることなどを明らかにした。いずれも今なおなんら解決されていない古くて新しい課題ばかりである▼これらに対して、共産党は例によって「反共」呼ばわりをしつつ、回答不能状態を続けるだけ。その一方で極めて欺瞞的な態度をとるという怪しげな態度に終始している。それは、一般社会では信じがたいことだが、憲法論争における公明党の主張を表面的、皮相的にせよそっくり取り入れて、いつのまにやら自説として押し出すという姑息きわまりない手法である。具体的な例を挙げよう。マルクス・レーニン主義を官許哲学、国定イデオロギーとして国民に押し付けないということや、信教の自由をいかなる体制のもとでも無条件に擁護するといった「新見解」を打ち出したことなどがそれである。また、「プロレタリアート独裁」を「執権」に変えたうえ、「労働者階級の権力」へと用語を入れ替えたり、「マルクス・レーニン主義」という呼称を「科学的社会主義」へと言い換えことなどがそれにあたる。ともあれ、「自由と民主主義の宣言(76年7月)などともっともらしく打ち出してみせざるをえなくなったのは、『公明党の日共批判』がまさしく的を射ていたことを証明しており」、「公共論争における日共の事実上の敗北宣言にほかならない」(佐藤昇元岐阜経済大学教授)。結局、共産党は正面切って回答できないものだから、指摘を受けた方向で見かけだけでも何食わぬ顔で、修正を施すというやり方をとったのである。(2016・11・6)

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