「平和ボケ」より怖い「安全ボケ」

今日であの東日本大震災、原発大事故からちょうど4年。日本中の人びとが地震や災害にどう挑むかを考えています。私も自分が体験した阪神淡路大震災と東日本大震災について思いを馳せたいと思います。20年前の時も、4年前も共に国会議員をしていました。前者はなったばかり、後者はやめる少し前。国民の生命と暮らしを守ることに第一義的な責任のある仕事に従事していたわけです。この歳月を振り返るとき、それこそ「後の祭り」のみ多かりき日々なのですが、新たな地震災害が必至といわれる時に、すべての皆さんと一緒に、地震災害への対応に思いをめぐらせることは重要だと思われます▼「1・17」の時で私の最大の記憶は、当日よりも2日前の15日のことです。赤穂市で行われた新年の行事で千種川の河川敷にいたのですが、その時の寒さといえば尋常ただならざるものがありました。歯の根が合わないという経験はこれまでの人生の中でそうありませんでしたが、あの時は正にガチガチと音が立つほど酷いものでした。あれはどう考えても異常気象で、大震災の前兆だったと私は思っています。当日のあの時間帯は、学校に行くためにお風呂に入っていた(遠いために早く起きていた)娘が大騒ぎしたことが記憶に残っています。ギシギシと音を立てて揺れる天井や柱を見ながら、真っ先に思ったことは「潰れても俺の家じゃあない」ということでした。いささか不謹慎でした。我ながら勘定高さに呆れてしまいます▼「3・11」の際には、東京から姫路への新幹線車中でした。自民党の渡会紀三郎代議士の講演会に来賓として呼ばれていたのです。評論家の青山繁晴さんがゲストで来るというので楽しみにして参加しようとしていました。新横浜を少し過ぎた辺りで10分ほど停車しただけで何事もなかったように動き出したのです。あとで東京も大変だったことを知って驚くとともに身の僥倖を実感しました。このように、二つの大惨事に直面しながら、微妙にずれていたというか、真正面からの被害に合わなかったのです。そのことが今になって、心底からの災害対策に真剣に取り組んできたのかどうか、自責の念にとらわれるところです▼地震災害対策で国会議員時代にやり残したことで最大のものは、災害救助船を作りそこなったことです。超党派の議員連盟が作られ、私も公明党を代表して入ったのですが、残念ながら未だ実現していません。早稲田大の浅野教授はじめ熱心に取り組んでこられた学者や関係者に申し訳ない次第です。これからも今の立場で精一杯努力をしようと思っていますが。また、大津波で犠牲になった地方自治体の職員のことが忘れられません。住民を避難させるために最後まで逃げないで現場にいたために尊い命を失ってしまった人たちのことです。こうしたことを起こさないために、シェルターを作って沿岸自治体に常備させようという試みがあります。すでにそれを作って設置を働きかけている企業の応援をしようと、今私は取り組んでいます▼先日ある気鋭の若い歴史学者が日本では「平和ボケ」とよく言われるが、自分はむしろ「災害ボケ」だと思うと新聞に書いていました。戦争に比べて頻度が圧倒的に多い災害であるのに、のど元過ぎればすぐ忘れてしまう傾向が強いというのです。まあ、自分に直接降りかかってはこないだろう、と。ここは、安全が当たり前と思う心を「安全ボケ」と言ったほうがいいかもしれません。私自身、国会議員時代に地方政治家では経験しえないからこそ、国家に必須の「外交・安全保障」分野に習熟しようとしました。それゆえに「地震災害」対策などに手を抜いてきたわけではありませんが、胸を張れるだけの蓄積がないことに内心じくじたる思いがあるのは否めないのです。これからでも遅くないから「安全ボケ」から脱しなければ、と強く期しているところです。(2015・3・11)

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