国会が最終盤になると、いつも見る風景が今回もあった。内閣不信任案の提出をめぐるドタバタ劇だが、今度のは岸田首相がいかにも解散権を弄んだ風が露骨に出ていた感が拭えない。言葉の言い回しを変えて見せて、周りを慌てさせるというやり方は、〝いかにも〟だが、その時の顔つきに〝含み笑い〟が窺えたように見えたのは私だけろうか。あまりに品がないと言わざるをえない◆先日のNHK の『日曜討論』では、各党幹事長クラスが出ていたが、残念ながらどの党の顔も風格に乏しいと言わざるを得なかった。自民党は幹事長ではなく、幹事長代理だったうえ、公明党はその場ではなく、どこか別の中継場所からのライン参加だった。主役コンビ不在に何となく今の自公関係がかぶさって見えさえしたのである。野党側も立憲幹事長に往年の冴えは見えないし、維新幹事長のよそよそしさに、野党の迫力は微塵も感じられなかった◆いつの日からか、政治家に畏敬の念を抱くことがなくなってしまったように思われてならない。昭和の時代の与野党の政治家にはそれなりに砂塵を巻くかのような迫力に満ちていたのだが。今は、パワハラ、セクハラにハラハラしどおしといった実態が目に余る。選挙制度が中選挙区制から小選挙区比例代表並立制に代わったことが大きいと思ってきたが、それだけでは無いように思われる◆そんなことを考えていた折に、塩野七生の映画評論『人びとのかたち』を読んでいると、『パワーと品格と』というイタリア映画の傑作『山猫』の評論に出くわした。シチリアの社会が何故に「2500年もの長い間他民族の植民地であり続けてきた」のか、との疑問に、塩野氏が気づいたというのである。答えは簡単、シチリアでは、「誰が支配者になろうと状態は変わらないことを、民衆の端々に至るまで知って」おり、「一部の人の情熱ではどうにもならない状態にまできている」からだという。塩野氏は「品格もパワーの一つに成りえることを忘れていると、社会はたちまち、ジャッカルやハイエナであふれかえることになる」と結論づけているが、なんだか、日本の社会にも当てはまるように思われてならない。(2023-6-17)