【129】「この38年」から「あの38年」を思いださせた尼崎駅頭演説/11-6

 老いも若きも男性も女性もそこかしこにいっぱい。JR尼崎駅北口のロータリーとそれを覆う歩道橋は鈴なりの人たちで溢れていました。昨11月5日の午後3時半のこと。公明党の中野ひろまさ衆議院議員の駅頭演説に集まってきた党員、支持者とその友人たちです。恐らく二千人は超えていたでしょう。尼崎に生まれ育ったという顧問先のY事務局長を誘って、私もその場に駆けつけました。公明党のこうした演説に参加するのは初めてという彼はその数の多さに驚いていたことはいうまでもありません。そこでの登壇者の話から、私は〝2つの38年〟に思いを馳せました◆一つは、昨日がプロ野球日本シリーズ第7戦の当日に当たっており、阪神タイガースのオリックスバッファローズとの最終戦を3時間足らずに控えて、「38年ぶりの優勝」を口にしていたことです。38年前というと、西暦1985年(昭和60年)。その年は西武ライオンズとの戦いでした。あの年の阪神は開幕から凄まじい勢いで4月17日の対巨人戦で、当時のバース、掛布、岡田のクリーンナップトリオがバックスクリーンに連続してホームランを叩き込むなど今や伝説となった強さを発揮したものです。子どもの時から、「アンチ巨人」だった私など、1959年(昭和34年)の巨人に4タテをくらわせた南海ホークスの活躍が忘れられません。日常的にはセリーグで巨人の風下にあり続けた阪神よりも印象が遥かに濃いかったのです。誤解されるのを承知で言うと、戦後の大阪、兵庫の青少年たちは、「巨人、東大、自民党」が東京を代表する3本柱で、倒すべき対象だったのです◆二つ目は、その自民党が独走的一党支配の座を降りたのが、1993年(平成5年)であり、自民党が誕生してから38年ぶりだったことです。細川連立政権がその座を奪いました。「55年体制」の崩壊でした。その年に衆議院議員に初当選をした私など、遂に自民党単独政権を倒すことに貢献できた喜びで感涙にむせんだものでした。中野衆議院議員は、故冬柴鐵三元公明党幹事長の後継者です。今をさる12年前の冬柴さんの急死に伴う葬儀で実行委員長を仰せ使った私は、親交のあった小泉元首相ら大勢の参列者の前で挨拶をしました。その次男である小泉進次郎元環境相の冬柴後継の中野氏への応援演説は、当時を知る私には感慨ひとしおのものでした◆阪神の「この38年ぶりの優勝」を前にして、「あの38年ぶりの自民党一党支配打破」を思わざるを得なかった私は、2つとも、かけがえのない長い年月を経た上での偉業であると言いたいのです。プロ野球の世界では1965年から73年までの巨人のV9という金字塔がありますが、そこまでいかずとも明年以降の2連覇、3連覇を望むというのが人情でしょう。一方政治の世界では、38年ぶりの一党支配打破に代わって、連立政権が常態になって、もう30年が経ちました。単独政権と連立政権のどちらがいいのかは、もちろん一概に断定出来ません。連立といっても、組み合わせにもよります。野球は応援するファンが喜べばすみますが、政治はそれではすみません。一政党の支持者にとどまらず広範囲な国民の支持を得てこその政治だからです。30年の連立政治のうち、自公連立が20年を超えました。野球に例えると、自公混合チームは20連覇を達成したといえます。果たしてそこに気の緩みはないのか。真に国民大衆が喜ぶ政治になっているのかどうか。謙虚に顧みる必要があると思われます◆こうした思いを抱きながら、友人と共に近くの喫茶店に入ると、そこで明石のSさんご夫婦と、尼崎の親戚ご夫婦との計4人の方々と偶々隣席になりました。直ちに和やかな歓談になったのです。尼崎での街頭演説を聞いた後のひととき。政治談義の楽しさを十二分に味わって帰ることができたことは嬉しい収穫でした。(2023-11-9   一部再修正)

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