【134】但馬から尼崎へ━━歴戦の同志たちと語らう/12-11

 先週木曜日の7日に兵庫県北部の和田山から豊岡へと、但馬方面に行ってきました。播但線で姫路から往復6時間ほどかかりましたから、ほぼ東京に行くのと同じです。同じ県内でも兵庫は広いと改めて実感したしだいです。目的は公明党のOB議員と懇談するためです。実は、これを皮切りに、県下に住む150人ほどの仲間たちと順次会って行こうと心に期しており、その第一弾です。翌々日の10日には兵庫東部の尼崎に行き、同じように、懇談会をやってきました。ここでは、この二つの語らいの中身をかいつまんで報告します◆まず、和田山から。ここには但馬、丹波領域に住む21人中16人が集まってくれました。病気療養中のメンバーを除きほぼ全員です。一年に一回この時期に集まり、それぞれ近況報告をしたり、翌年に向けての決意を披歴しあってきました。元気な報告が相次いだ中で、香美町というこの地域でも、とりわけ山あいにある過疎地域の男女2人の話が気になりました。Tさん(女性)は、地域住民から相談をうけるものの自分の手に負えないテーマが舞い込み処理に困っているとの悩み。もう一方、Nさん(男性)は、中山間地域の抱える問題の根本的課題対応にもっと党中央は発信をすべきだが、一向にそれが届いてこないとの苦情でした。前者には同席していた現役のT市議に対応を頼み、後者には私が手を打つことを約束しました◆終了後、T市議の車で、この方面の責任者であるM元市議と一緒に、日高町を経て、豊岡市に走り、半年前に病死(享年77歳)したHさん宅を弔問しました。仏間に入るなり、「もっとあの人の世話をしてあげたかった。悔しい。寂しい」と泣きじゃくる未亡人を懸命に励ましました。既に落ち着いておられるはずと正直思い込んでいましたが、想定外の事態に驚く一方、夫婦の絆の深さを改めて実感したものです。生前の彼が書道の達人とは知っていましたが、仏間の四方の壁を飾る掛け軸の書体の見事さに改めて感じ入りました。聞けば奥さんが、掛け軸作りの技術を身につけてきたとのこと。幾たびか、ふたり展もしたというのです。ふと見ると、書棚の上には「良き友が使命を果たし先に逝き」とのMさんの五七五の句が色紙に飾られていました。豊岡市議として共戦してきたMさんとHさん2人の篤い友情に、涙ぐむことを禁じ得ませんでした◆ついで、9日の土曜日は、尼崎へ。ここは結党以来兵庫県公明党を牽引してきた模範の地域です。岡本富夫、冬柴鐵三の大先輩、その後を今に継ぐ中野洋昌衆議院議員を支えてきた数多の歴戦の闘士たちがいます。この日は代表9人が中野事務所に集まって語らい合いました。私は冒頭、これまでの激闘に感謝すると共に、「30年前の尼崎市議会の不祥事」に対して十分な対応措置を県本部が取りきれてこなかったことへの、〝赤松個人のお詫び〟を率直に表明しました。「今ごろなぜ」「遅すぎる」との声は十二分に解りながら、自身のけじめをつけておきたいとの一心でした。〝風雪の30年〟の中で、既に故人となってしまわれた同志も少なくありません。もっと早くにこういう機会を持つべきだったとの深い悔恨の思いを抱く一方で、これからの戦いで、悔しさを払拭しようと決意を新たにしたしだいです。もちろん、反省ばかりでなく、これからの闘いに向けての私自身の深い思いをも述べ、皆さんの手応えも感じることができました。但馬、丹波、摂津の一部と、兵庫五国のうち三国での懇談をとりあえず済ませて、それなりの充足感にひたれて今、心底満足しています。(2023-12-11)

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