【169】五輪を前に「戦争と平和」と「国家とスポーツ」を考える/7-7

 パリ・オリンピックが近づく。前回の2020年は1964年に次ぐ2度目の東京開催だったが、世界中がコロナ禍に見舞われ、開催は1年遅れた。「2020年東京オリンピック」は、実際には2021年の開催。感染症との戦いで、異常な雰囲気の大会となった。第二次世界大戦後で最も大会継続が危ぶまれ、あわや中止の憂き目に晒されたのは1972年の西ドイツのミュンヘンオリンピックだった。もう50年が経つのだが、原因がイスラエルとパレスチナの争いにあっただけに、今もなお生々しい。今年のパリでも類似のことが起こり得るかも知れない。感染症と戦争──人類が抱える二大病根が続け様に「平和の祭典」を襲う◆50年前の事の発端は、パレスチナ過激派集団(「黒い9月」)がイスラエルの選手、コーチたち11人を人質にして立て籠ろうとしたこと。西ドイツ政府を相手取り、イスラエルにおける自分たちの「政治犯釈放」を要求する交渉のテコにすることを狙ったものだった。さる3月19日に放映されたNHKの『アナザーストーリーズ ミュンヘン五輪事件』は、実に迫力に満ちた内容で見応えがあった。ひとたび過激派に拘束されながらも逃げ切ったレスリングのイスラエル代表選手と、過激派を罠にかけようとしながら失敗した西ドイツの警察官をインタビューで追ったものだ。前者では自分が助かった代わりに仲間が射殺された。後者では目の前で人質全員を失った。共に〝罪の意識〟に苛まれる。当事者「個人」の複雑な思いを見聞きしながら、前面に出てこない「国家」が気になった。過去に「ドイツ」を舞台に起きた「ユダヤ人虐殺」。一転、今のイスラエルとパレスチナ相互の「虐殺の連鎖」に思いは飛ばざるを得ない。50年を経て現在の泥沼化した戦争に、観るものとしてどうにもやるせ無い感情に苛まれたのである◆この事件は当時世界中で話題となった。過激派の狙いは、「平和の祭典」の影で、悲惨な現実に苦しむパレスチナからの「宣戦布告」だった。オリンピックのアヴェリー・ブランデージ会長は政治的要求によって、オリンピックが左右されるべきではないとの立場を守り、1日だけ日程をずらして予定通りスケジュールを消化する決断を下した。銃撃戦の決着でその場の火ダネは強引に消え、オリンピック続行は可能になった。当時20歳台後半の記者だった私は、実に後味が悪い結末だったことをよく覚えている。テロリストをイスラエルの人質もろとも爆破した西ドイツ政府に冷徹な〝国家の心〟を見た。もっと優しいはずの〝人間の顔〟を見たいものだ、と思った。スポーツは通常を超えた人間の持つ体力を競わせ、見るものを感動させる。オリンピックはまさにそのシンボルであろう。一方、平穏な生活を根底から覆す戦争は今再び国家間の能力を極限まで競わせる〝地獄の祭典〟というしかない◆2022年2月末からのウクライナ戦争は、ロシアによるウクライナ侵略がきっかけである。もうすでに3年目に入っている。一方、イスラエルとパレスチナの戦いも2023年10月からはや10ヶ月続く。東京オリンピック後の3年で、世界は一段と分断の様相を強め、苦悩は果てしなく続く。この状況下に、パリでオリンピックが開かれる。戦禍のすぐそばで。否が応でも「国家とスポーツ」に考えが及ばざるを得ない。スポーツ選手を丸抱えで養成している国家。スポーツに何不自由なく取り組める選手。一方、参加したくとも国家そのものを持ち得ない民族、人々。本来は人間の体力、知力を純粋に競い合う中で、人間の尊さ美しさを自覚し、平和の喜びを噛みしめるものだったはず。それがいつの日か〝国威発揚〟の場になってきた。しかも今ではリアルな戦争の轟音鳴り響く中での大会が続く。オリンピックもただ繰り返すだけでなく、なんらかの新たな仕組みを作る時に来ているような気がしてならない。(2024-7-7)

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