【206】「自由」の果てに行き着いた「専制」━━日米教育比較から/3-8

 日本の教育の歪みは、「いじめ」「ひきこもり」「学力不振」「創造性のなさ」などに現れてきており、幅広い分野で社会全体を揺さぶるに至っています。戦後80年、米国の占領統治時代を経て、その国から「民主主義教育」が導入されました。その結果が今日の惨状に繋がっているとしたら、何がいけなかったのか?一方、米国は、「自由の盟主」の名をほしいままにしてきましたが、ここに来て「専制国家」と見紛うほどの体たらくぶり。その根源はどこにあるのか?日米教育比較の視点で追ってみます。

⚫︎米国の教育の有り様を日本との比較で見ると

 米国と日本の教育の比較で大きく違うと思われる点はなんでしょうか。①義務教育のあり方②大学受験の仕組み③大学の学部制度の3つが挙げられます。まず一つ目。日米共に、大学までは基本的には6-3-3制ですが、日本では義務教育は最初の小中の9年間であるのに対して、米国では高校を終えるまでの12年間なのです。したがって公立高校の受験はありません。二つ目。米国では入学試験は大学から。ただし日本のように落ちたら浪人して翌年以降に挑戦するということはなく、とりあえず現役で入れるところに入れます。入学に際して、米国では日本のような筆記試験はなく、すべて書類審査だけ。このため幾つでも併願できるのです。気に入らなければ、3年後に違う大学に編入する「トランスファー」制度があって、そこで改めて挑戦することができます。次に三つ目。大学4年間には日本のような「学部」はありません。どこの大学でも、4年間に学ぶのは教養のみ。その期間の間に漠然と理系か文系に分かれるといったことになり、日本のように大学に入るときから、細かく分かれた学部を選択するという形ではないのです。(これ以外にも、ホームスクーリングや9月新学期制、飛び級など多々ある違いについてはまた改めて)

⚫︎日米どっちがどういいか、悪いか

 高校までが義務教育で、日本のように中学から高校に行くときの受験がなく、大学の入学も筆記試験が基本的にないとなると、どういうことが起きるでしょう。小学校から中学卒業までの歳月を、大学入試という筆記試験に絞って真一文字に頑張ることの弊害がなくなります。高校卒業の18歳までかなり自由奔放に楽しい生活が送れるように思われます。しかも大学入試は筆記試験ではなく、高校までの生活態度や常日頃の成績全般が加味されるだけとなると、一発勝負ではなく、いわゆる地力がものいうわけです。この違いは大きいといえます。私のような戦後第一世代にとって、大学入学の筆記試験が全てを決めるというのは、顧みるとあたかも「ギャンブル」のようなものでした。高校3年の時に幾つかの大学を受けた私は全部失敗、一年の浪人の末にやっと一校だけ辛うじて合格しました。本当にラッキーでしたが、それで大学時代は殆ど勉強せずに、辛うじて卒業できたというのも思えば摩訶不思議なことでした。このため、後々苦労するわけですが、これって平均的日本人が経験してきたところでしょう。それに比べて米国の場合は高校卒業までの「受験戦争」が なく、大学に入ってから卒業するまでに専門的な学問を身につけるべく勝負をするわけです。その間の努力次第で卒業の可否が決まります。卒業できないと、入学も実質的に意味を持たない(価値が認められない)とされる社会なのです。彼我の差はとても大きいと思われます。

⚫︎GAFAMなど突出した企業が米国に集中

 日本においてだけでなく、「いじめ」は万国共有のように思われます。「ひきこもり」についても同様で、日米の差は殆どなさそう(日本の急増は特徴的)です。それに比べて明確な違いは、大学生の能力や創造性の面では明確に差異があるように見えてきています。21世紀になって25年。GAFAMやMagnificent7と呼ばれるような世界を席巻する企業群がアメリカに続々と出てきたのに比して、日本は全く太刀打ちできない状況が明白です。これは上記のような教育制度の違いがもたらしたものではないかと、思わざるを得ません。日本経済がバブル崩壊と共に、長期デフレ傾向に入り、失われた30年と呼ばれてきた間に、AIの進展と歩調を合わせてアメリカはグングンと個性豊かな企業が羽根を広げてきたのです。

⚫︎「自由」の果てに行き着いた「専制」?

    こうした突出したAI企業の存在をどう見るといいのでしょうか。巨大な利益を得る力だけを見て、人間の能力、社会、国家の優劣を判ずることには異論がありましょう。トランプ政権の中枢にイーロン・マスク氏のような存在があって、独自の強引な采配をほしいままにしています。あたかも「自由」な教育の果てに、「民主」を否定する「専制」的な仕組みが待ち受けていたとは、実に「皮肉な逆転現象」といえるかもしれません。〝弱肉強食の国際社会〟の時代の到来を眼前にして、指導者に道徳を説いても、所詮〝引かれ者の小唄〟と揶揄されるのが関の山かもしれません。我々はまさに地球的規模での分岐点に立っているといえましょう。(2025-3-8)

Leave a Comment

Filed under 未分類

Comments are closed.