【1】非で似てる体験━━福澤諭吉の故事から考える/5-15

★慶応4年5月15日(旧暦。西暦では7月4日)のできごと

三田祭の後に塾図書館に行った際の同級生たち(24-11-23)

毎年5月になり中旬の頃を迎えると遠い昔の学生時代のことを思い出す。「学費値上げ反対闘争」の嵐に、慶應義塾も巻き込まれていた。一部の学生によって占拠された三田の塾監局を僕は同郷の仲間と少し離れたところから眺めやっていた。その時、偶々通りかかられた石川忠雄教授(後の塾長)が僕らのそばに立ち止まられて、「まったく困ったもんだねえ〜」と呟かれたのだ。「先生と呼ぶのは福澤諭吉だけ」という慶應義塾の伝統に早くも馴染みかけていた僕らは、石川さんに強い共感を覚え、「どういうつもりですかね〜」と、反対はわかるもののやり過ぎだと、嘆きあったものだ。
後に、当時のことが脳裏に時々浮かんでくるのだが、なぜか「慶応4年5月15日」の福澤諭吉先生の故事とダブって甦ってくる。『福翁自伝』には、その日のことがこう書かれている。
「上野ではどんどん鉄砲を打って居る、けれども上野と新銭座とは二里も離れて居て、鉄砲玉の飛んで来る気遣いはないと云うので、丁度あの時私は英書で経済の講釈をして居ました。大分騒々しい容子だが、烟でも見えるかと云うので、生徒等は面白がって梯子に登って屋根の上から見物する。何でも昼から暮れ過ぎまでの戦争でしたが、此方に関係がなければ怖い事もない」━━まるでテレビの実況中継でも観るようにリアルに伝わってくる。

★学問と「社会変革と人間改革」

福澤研究センターの都倉武之准教授から頂いた開館記念の第一回企画展の小冊子

慶応4年は9月に改元されて明治になる。1868年、今から157年前のことだが、この当時の諭吉の振る舞いについては、「日本中で一人として学問など見向きもしない混乱の中、『我々が講義をやめてしまうと、日本の洋学の伝統は断絶してしまう』と塾生を励まし、普段通りに学問を続けたことを、生涯の誇りとした」(慶應義塾史展示館蔵 写真)と語られている。
冒頭に紹介した僕の学生の頃からちょうど60年が経つ。後に数々の紛争を引き起こす1960年代半ばの「学生たちの反乱」を、明治維新の戦乱と比較するわけでは勿論ない。だが、当時の学生にとっては「学問と社会変革」を考える契機としては〝非で似てる〟大いなる事件ではあった。
高校時代3年を経て受験浪人1年の間に、僕は、大学での4年は一生持するに足る思想を探す時間だと、決めていた。偶々入学直前の僅かないとまに、親友の下宿先での大きな出会いがあった。創価学会への入会に誘われたのだが、今に続く号砲になるとは露ほども思わなかった。これが僕には「学問と人間改革」の闘いになっていく。学生運動に走った友とは〝似て非なる〟ものだが、僕には後悔は全くない。(2025-5-15)

※今回から改めて『新・後の祭り回想記』(別名『黄金の僕の5年』)を始めます。ジャンル分けはしませんが、これからの流れしだいで、いずれはするようになると思います。分量はなるべく少なくするように心がけます。ご愛読よろしくお願いします。

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