前号(No.29)で僕が小説『国宝』は中々面白い本ではあるけど、重要な部分で読者として腑に落ちないところがあると書いた。冒頭で、主人公の喜久雄の父親を辻村という舎弟が殺したことを著者は明らかにしていながら、その後の展開の中で、全くそれに触れないまま、最終章で辻村が息を引き取る直前に駆けつけた喜久雄が赦してしまうという筋書きは解せないというものだった。ミステリー仕立てを期待した普通の読者の興味を裏切る拍子抜けそのものだと言いたかった。何らかの伏線を用意するのが小説を書く側の作法ではないのかという思いを込めたものである。早速これを『国宝』を勧めてくれた小説家の玉岡かおるさんに届けた。直ぐに返事がきた◆その中身たるや僕の見解とは真反対。「これこそ国宝に至るために必要な仕掛けだと腑に落ちた」と仰るのだ。続けて「辻村が父親を殺さなければ、喜久雄がこの道に進むことはなかった。この赦しがなければ彼はただの芸人どまりです。国宝とは父の無念の死さえ踏み台にする狂人の域の達人をさすからです」とあった。僕は「国宝」の国宝たる所以がそういった通常の常識を超える行動に結びつくであろうことは、理解できた。だからこそ、読書録にもそう匂わせる表現も付け加えていた。だが、僕が問題にしたいのは、「伏線がない」と、著者の「仕掛け」は作者の独りよがりだということなのである。それなりのものが用意されていないと読者と作者の溝は広がる一方ではないのか◆この伏線の有無について、玉岡さんは、二代目半二郎が死に至る床での喜久雄との会話で、「おまえに一つだけ言うときたいのはな、どんなことがあっても、おまえは芸で勝負するんや。ええか?どんな悔しい思いをしても芸で勝負や。ほんまもんの芸は刀や鉄砲より強いねん。おまえはおまえの芸で、いつか仇とったるんや」と述べていることを挙げておられる。これが伏線だと言われると、ただ唸るしかない。芸に生きる弟子への単なる激励と見てしまった僕の残念ながら「見損こない」だったというほかないのか◆ものの見事に外れた「感想文」を書いてしまった僕に対して、玉岡さんは、ビシッとご自分の読み方を提示された上で、笑い転げ続けている絵文字スタンプをつけてこられた。僕は自分の浅い読み方を笑われたように感じた。「半二郎の発言を見逃していなかったら、このような笑いを受けずとも済んだのに。もう笑い(続ける漫画)を止めてくれませんか」とメッセンジャーに書いた。直ちに「笑ってなどおりません。プロの書評家ではないのだから、自由に読むことに意義があるのです。読み方に正解などありません。多様な読み方をされてこそ作品の価値もあがるのです」━━読書録を書き続けて25年余り。なんともはや有り難くも手厳しい指南を頂いたものだ。メッセンジャー上のスタンプは今も笑いこけている。(2025-8-10)