仏教への誤解がもたらす「平和」像ー公明党の二枚看板の検証❸

「平和安全法制」成立に見る到達点

前回に見た変遷を経て、平成27年(2015年)9月に「平和安全法制整備法」が成立した。これは私が議員を辞して約2年後のことであった。憲法第9条が禁ずる集団的自衛権を「容認」するに至ったとして、内外各方面から批判が巻き起こった。しかし、この「容認」は、「発動新3要件」として❶日本または他国に対する武力攻撃が発生し、日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがある❷ほかに適当な手段がない❸必要最小限度の武力行使にとどまるーこの三つの条件を満たす場合ににのみ集団的自衛権の行使は容認される、との厳しい条件付きのものであった。安倍首相自身からすれば必ずしも満足出来ないものであったと云えるものの、花より実を取ったと云えなくもなかった。公明党からすると、個別的自衛権の延長線上ものであり、憲法が許容する限度ギリギリの範囲内と見ることも出来た。自公の直接交渉役としての高村正彦副総裁、北側一雄副代表両氏の弁護士コンビの知恵が功を奏したとの見方が玄人筋の通り相場だと思われる。

例えば、ジャーナリストの田原総一朗氏は、「公明党は現実とギリギリ妥協しながら『戦争をしない国』としての日本の姿を守ろうとした。これは僕は〝ブレーキ役〟として実に見事な態度だったと思います」(『宗教問題』vol28 季刊2019年秋季号)との高い評価を与えている。また、御厨貴東京大客員教授は、「自民党の当初案に相当厳しい制限を加えた形で平和安全法制が成立しました。自民党とケンカすることなく、冷静に法案の問題を指摘し、ギリギリのところで妥協点を見出す。与党化の歩みを進める歴史のなかで、公明党は初めて『統治する政党』としての自覚を強く持ったのです」(『潮』2020年1月号)と、これまた鋭い認識を示して注目される。

私が厚生労働副大臣の拝命を受けた平成17年(2005年)のこと。実は舞台裏を明かすと、私は当時の冬柴幹事長とのやりとりを通じて、防衛副大臣を希望したのだが、国家の中枢のポジションを公明党には渡せないとして、自民党中枢からは受け入れられなかった経緯がある。御厨氏の発言の背後を読み解くに際して、ここでもまさに隔世の感がしてならない。「統治する政党」としての公明党を、初めて自民党が認めたと云う意味で。

私は仲間たちの選択と決断に際して、当時も今も高い評価を下すのにやぶさかではないのだが、一点だけ云わせて貰っているのは、自公両党の間での交渉経緯を公表すべきだという点である。国家の安全保障の基本をなす法制定に当たって、与党内の議論であるにせよ、いやそうであるからこそ、議論の中身を知りたいと思う。かつての安保論議が不毛の与野党対立の温床であっただけに、新たな時代にあっては、合意を得た交渉の全貌が明らかにされるべきではないのか。立憲民主党に〝先祖帰り〟の気配が漂うだけに、世界観を同じくするもの同士の健全な安全保障論議を天下に示して欲しい。

仏教・維摩経に見る菩薩像の意味するもの

こうした「平和安全法制」に対して、一般的には、つまり素人筋的には、「『平和主義』の公明党の名が廃る」とか、「看板が泣く、もうそれを降ろせ」と云った様々な批判が寄せられた。先に見た高い評価との落差はどこから来るのか。

既に見たように、現実的安保観と理想的安保観の違いとの説明が出来ようが、より根本的には世の中に定着している仏教の平和主義に対する誤解が影響しているものとも見られる。すなわち、「十字軍戦争」の例に見るように戦争と深い関わりを持つキリスト教や「聖戦」と常に裏表にあるイスラム教などに比べて、戦いにまつわることを一切否定する宗教としての仏教観がある。しかし、それは本当に正しいと云えるのだろうか。

実はNHKのEテレの人気番組『100分de名著』に登場(昨年再放送)し、法華経を解説した仏教思想家の植木雅俊さんの近著『今を生きるための仏教百話』を読むと興味深い仏教の「戦争と平和の行動論」に出くわす。『法華経』のサンスクリット語全訳に続いて、『維摩経』の現代語訳をも成し遂げた植木さんは、同経では、菩薩の積極的で具体的な利他の行動が列挙されていると指摘しており興味深い。疫病、飢饉、戦争などの現実問題に対して、座して瞑想に耽るのではなく、行動に立ち上がる菩薩像が綴られていると云うのである。特に「戦争の際の行動は目を見張るばかりだ」とまでも。

サンスクリット語の鳩摩羅什訳では、「当事者のところを行き来して」「和平の締結を目指す」として、「積極的な平和行動に取り組むことを述べていることが注目される」と。結論的には「原始仏典から帰結されることは、仏教は本来、平和主義的性格であり、国王に対しては戦争の放棄を勧めるものであった」と、仏教学者・中村元氏の言を引いてまとめている。

こうした記述から、日本のかの「戦国時代」にあって、対立する両陣営相互間を行き来する僧侶を想起するのにさほど時間はかからない。本来的には「行動する平和主義」「積極的平和主義」とでも呼べるものは仏教に固有のものであった。しかし、現代日本では、戦争と平和の相克の中で、戦争にまつわることはいかなることにも手出ししないのが仏教だとの見方が定着しているかに見える。明らかに誤解だといえよう。

「憲法改正」にどう挑むか

令和2年(2020年)の幕開けを飾る新聞各紙を見ると、国内政治的には「憲法改正」に向けて安倍首相がどう動くかが関心を集めている。昨年産経新聞のインタビューに答えて、私は今の国会議員による憲法論議の停滞に幻滅を感じるとした上で、❶憲法改正に向けての事前の国民投票の実施❷有識者による憲法改正草案のまとめ❸国会における2年間の限定付き特別憲法議論チームの結成ーなどを提案した。こうしたことでもしなければ、結局は安倍首相の強行突破を招きかねないと思うからである。公明党の山口代表は、憲法改正への機熟さずとして、さらなる議論を求めている。私があのインタビューで云いたかったのは、公明党が自民党と野党の間に立って、合意形成に向けての汗をかくべきではないのかとの一点だった。安倍首相が9条3項に自衛隊の存在を明記する加憲を提起してきたことを受けて、更なる議論をと云った風に結論をただ先延ばしにするのではなく、積極的に妥協点を探るために動くべきではないのか、と。

憲法については従来から、全面的な改憲論に立つ自民党と、一切触らせないとの旧社会、共産党などの対立があった。今は、野党第一党の立憲民主党は安倍自民党の元では改憲はしないとの含みを持ったスタンスである。そうした立ち位置を放置しているのではいたずらに時が経つだけである。今こそ憲法のどこをどう変えるか、あるいはどこについては変えずとも済ませられるかの詰めの作業を、公明党こそ党内議論の中で推し進める使命がある。その一方で、改憲に前向きな自民党や日本維新の会と、後ろ向きな野党との間に立って、本来の役割を果たすべきだろう。

「平和安全法制」で見せた合意へのギリギリの知恵を、憲法についても公明党が発揮して貰いたい。護憲に戻るのではなく、加憲にこそ、膠着状況を切り開くチャンスがあるのではないか。そこにこそ中道主義の本領発揮を見たいと云うのが私の本意である。(続く=2020-1-4)

 

Be the first to comment

Leave a Reply

Your email address will not be published.


*