Monthly Archives: 11月 2015

健やかに生きられる地域作りへ大競争の始まり

ウエルネスマネジメントー少子高齢化、人口減少が進む中で注目される事業分野です。健やかに生きることができる町づくりとでも言えましょうか。厚生労働省の仕事を7年前にしていらい、わたしも関心を強めてきたのですが、このところ急速にその課題解決に向けて具体的に取り組む必要性に駆られています。先日も上京してその道の専門家たちと意見交換をしてきました。日本を代表する研究者(東京大学特任教授)並びに直接その事業に従事するコンサルタント会社の幹部たちとです。なかなか魅惑的な面白いひとときでした▼この問題を考える上で、中心に置かれるべきものは⓵医療・介護の集約⓶新たな産業の集積、整備⓷健康地域への転換ーの三つだとされています。要するに、医療、介護がワンストップで得られるような地域包括ケアシステムが確立されることが第一。次に、その地域に適応した新たな産業をそこに集めることです。そして最後に、その結果として雇用や新規の事業が創出され、若者が永住したくなるような魅力を持った町づくりをすることでしょう。この日の懇談の中で話題の一つに上がったのは、空き家、空き地対策でした。空き家を古くて邪魔なものとして建て替えてしまうのではなく、古き良きものとして再生させることの大事さが強調されました。かの人気テレビ番組の「ビフォア・アフター」の全面展開でしょうか▼いま、具体的なモデル事業を実施される候補地として考えられているのは奈良県橿原市、岩手県矢巾町です。こうした自治体は共に奈良県立医科大や岩手県立医科大など大学が存在し、そういった事業の先導役をするべく意欲を示しています。様々な企業群がこれから名乗りを上げてくることになるはずです。また、こういった事業展開のために必要不可欠な人材育成も集中的になされねばなりません。懇談のなかで、候補地の当事者の間では、はやる気持ちばかりが先行して、具体的な構想の中身が明らかになっていないことが指摘されました。集中的な議論の不足です▼聴いていて、私の地元姫路市での県立病院新設問題が思い起こされました。県立循環器センター病院と民間病院の統合を通して新たな地に基幹病院を新設しようというのですが、大事なのは医療関係者、行政、そして一般市民を巻き込んだ広範囲な地域医療に向けての議論です。どういう町づくりをするのかを合わせ論じないと、単なる場所選びではまったく意味をなしません。姫路には医科大がないという欠陥があります。そのマイナスをどう乗り越えて、立派なウエルネスタウンを作るか。他人ごとではないと強い決意を改めて持つにいたりました。思えば、住民みんなが自分の住む町の再生に向かって競争しあう時代の幕開けです。(2015・11・21)

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現代社会を覆う不審、不安、不満を誰が払しょくするか

20年来の友人であるAKR共栄会(オール小売り連合=小売業に共同で仕入れ、配送し、保険をかける画期的な仕組みを進める一般社団法人)の河田正興専務理事と現今の政治、社会、経済をめぐって話し合いました。さる13日神戸市内で開催された公明党の赤羽一嘉氏のパーティに出席する前のひとときのことです。河田氏は私と同世代。日本なかんずく関西圏の中小企業の実態を知り抜いています。大企業との格差は歴然としているだけに、政権の経済運営はなかなか難しい舵取りが迫られているとの認識を持っています。加えて日米、日中関係を始めとする外交課題は山積しています。つまり政党の力関係とは別に、日本の底流には不安定さが付き纏っており、まさに今は正念場だとする厳しい見方です。その直後に二人揃って太田あきひろ前国土交通大臣の20分ほどの演説を聴きました。いつもながらの鮮やかな演説で、聴いていて気持ちいいものでした▼民主党政権時代の不始末から公共工事は行き詰まりすべてが閉塞してしまった。ようやく今、それがアベノミクスで一気に息を吹き返した。国外からの観光客も当初の予想を上回り2000万人に迫りそうで、大いに活気が出てきているというものでした。聴くもの皆がこれからの日本の前途に大いなる希望が持てそうな勢いが感じられる演説でした。ただ、河田さんとのやりとりにあったように、我々の日常にはそこはかとない不審が漂っています。それを太田さんの演説が払しょくしてくれたかどうか。私には何か足らない、これでいいのかとの不満が残りました。彼独特のリズミカルな熱弁が触れていないことへの不安でもあったように思えました▼来年は参議院選挙の年ということで今各党とも準備に余念がありません。公明党もすでにほぼ陣容を整え、機関紙にその候補者一覧がお目見えしています。選挙区には東京、埼玉、大阪の現職3人に加えて、神奈川、愛知、兵庫、福岡に新人を立て、合計7選挙区に挑みます。顔ぶれはまことに多彩かつきらびやかな経歴の持ち主ばかりです。比例区も定数48に対して現職5人に新人1人の計6人が挑みますが、これまた実力十分の素晴らしい面々です。私はかれこれ50年公明党の選挙をサポーターや取材記者として、あるいは候補者として関係してきましたが、これほどの人材が結集したのはこれまでにないことだと、改めて関心してしまいます▼とりわけ24年ぶりに挑む兵庫選挙区では、伊藤たかえさんが出馬します。先日ご本人に会って言葉を交わしましたが、まさにほれぼれしました。堂々たる体躯は”肝っ玉姉さん”とでも呼びたくなるような女性です。私は「凄いパンチ力だなあ」と失礼さも顧みないで、思わず口走ってしまいました。要するに頼りがいのある力強くて優しい雰囲気を五体に称えた。まことに素晴らしい個性を感じさせるのです。実は私の高校時代の友人・蔵重信博弁護士が経営する事務所にこの数年所属していたとあって、ひときわ強い関心があります。辣腕弁護士の彼も彼女の実力には太鼓判を押してくれています。こういう風な人材の宝庫たる公明党の参議院候補を見ていて、ぜひとも日本の前途に大きな希望を投げかけてほしいものと大いなる期待をするものです。といった思いを巡らせていた矢先、フランスでのおぞましいテロ事件が発生しました。遠く離れた異国でのよそ事ではありません。何時なんどき日本でも起こるかもしれないーこう考えたときに太田演説で聴きたかったことが浮かび上がってきました。日本の政治家の中では文明評論に無類の長けたものを持つ彼から、人類が直面するこうした事態の解決への手立てを示してほしかった、と。(2015・11・15)

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孤高の兄弟子の少し早い”長すぎる不在”

とても親しい関係にあった同門の兄弟子が数日前に死んでしまった。この夏の初めに大病を患って入院加療中と聞いていた。回復し退院したとご本人から連絡をいただき、全快祝いを段取りせねばと思い込んでいたのに、突然の訃報にしばし茫然自失してしまった。あらゆる意味で青春を共有した仲だった。共に稀有の大師匠を仰ぎ見ながら、切磋琢磨したかけがえのない同志でもあった。まだ古希を迎えたばかり。ようやく第一線の仕事から少し身を引き、これからは壮大なる天地で束の間の自由を謳歌できるという矢先に。別れの言葉も交わさずに、早々と逝ってしまった▼昭和55年の夏。35歳だった私は、大阪の地に転勤し、神戸に戻ってきた。それからの1年半というものは、19の年に上京していらい久しぶりの慣れない関西の地のため悪戦苦闘することが多かった。その間、陰に陽に激励をしてくれ心を砕いてくれた。大阪のとある場末の酒場で一緒に食ったてっちりの味は忘れ難い。当時関西の若き青年群像のリーダーだった、この兄貴は輝ける存在だった。背筋がびしっと一本通った孤高ともいえる男だった。彼の義母上が不慮の事故で義弟とともに焼死されるという惨劇があった時のことは今なお鮮明に覚えている。涙をこらえて凛々しく振舞っていた姿には、個人の悲しさを超えて、大義に生き抜く者の尊さと厳しさを教えられた。実父を早い段階に失っていて、その存在を記憶に持たない彼は、師匠を実の父同様に思い慕い抜いたに違いない。色々な場面で関西の師弟の壮絶な関係を身で教えてくれた。得難いひとだった▼その後東京に戻った私は、やがて5年余りが経った平成の初年に再び関西の地に戻ってきた。そしてまた苦節5年の戦いの末に大きな立場をいただいた。ここでも生来の生意気でわがままな気質が災いして、まわりと軋轢を生むことが少なくなかった。そのつどかれは陰に回って私をかばってくれた。幾度助けられたことか数知れない。あるとき、大先輩がついむつかしい顔をしてしまう私を咎められたことがあった。その時、「人はそれぞれだ。一緒じゃないよな。そんなこと気にするな」と、慰めてくれたことは無性にうれしかった▼定年前の私は数回にわたって入院したことがあって迷惑をかけたが、いつも激励をしてくれた。また定年後、ブログやフェイスブックで勝手気ままな言動を発信する私をしばしば褒めてくれた。私が発刊した電子書籍六冊もことごとく読み、感想を寄せてくれた。つい数か月前に私は72候に因んで5日間ごとに原稿を書くことを公表した。そのときも真っ先に「赤松ちゃんらしい発想だ。とてもふつうはそんなことを思いつかない」と言って感嘆してくれた。褒められれば豚も木に登るというが、70近くになってもその原理は適応するようだ。そんな兄貴も今はいない。かつて神戸のスナックで二人だけでカラオケを楽しんだ。その時に彼が歌ったのは『わが人生に悔いはなし』(石原裕次郎)だった。「右だろうが、左だろうが」とのくだりで、「真ん中だろう、俺たちは」と茶々をいれたことが堪らなく懐かしい。しかし、いつまでも嘆き悲しむのはよそう。その死は肉体の不在であって、消えて亡くなってしまったのではない、と。「長き不在」の身になってしまった兄弟子の代わりを一分なりと果たせる弟弟子にならねばならない、と心に期している。(2015・11・5)

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