【87】「明暦の大火」後の保科正之の選択になにを学ぶか/1-20

 先日、お気に入りのテレビ番組『英雄たちの選択』で、江戸時代初期の「明暦の大火」(1657)を観て、大いに考えさせられた。消失した江戸城を再建するかどうかで、幕閣で会津藩主の保科正之は、①中止するか②続行するかの選択を迫られた。当時の江戸の6割が消えてなくなり、10万人を超える人が死んだ。町民大衆の生活再建を先行すべきで、天守閣再建など中止すべきだとの考えと、いや、権力と権威の象徴である天守閣は再建せねば、政権運営が成り立たぬとの考えと二択だった◆保科は、①を選択。町民たちの生活再建に力を注ぎ、防火対策を優先させて、数々の施策を打った。この英断があったればこそ、このあと200年の江戸幕府が続いたのかもしれない。時の将軍は四代目の家綱。17歳と若く、それを補佐する者たちは元老格の井伊直孝(68)、元大老の酒井忠勝(71)、元老中の松平信綱(62)らと重厚だったが、むしろ若手に属した47歳の保科が貴重な役割を果たした。それは、家康の孫、秀忠の子であり、三代将軍家光の異母弟という血筋のなせる業だったかもしれない。ともあれ、それに従った幕閣たちも賢明だったといえよう◆かつて、皇居内を見せていただく機会があって、土台だけで上には何もない江戸城天守閣跡地の側にわたしは立った。凡庸な身には、なぜ天守閣がないのかに考えが及ばなかった。世界文化遺産にまで位置付けられた天下の名城のすぐそばで生まれ育った身には、従来、天守閣がない城はただただ貧相に見えるとの浅薄な考えしかなかったのである。皇居の場合はイコール江戸城とも見えなかったのだから、恥ずかしいどころか始末が悪い◆ここで、私はハコモノ無用論を言いたいのではない。ハードかソフトかの選択は時と場合によって様々な判断を要する。家康の草創期から50年しか経っていない当時に、象徴とお膝元地域を焼失するという致命的な危機にあって、庶民大衆の生活を守りつつ、大災害再発防止の諸政策を優先させた知恵と決断力に学ぶ必要が今の日本にもあると言いたいのである。現在ただいまの日本は、人口減から一人当たり名目GDP費(27位)に至るまで、あらゆる側面で国力の低下が懸念されており、貧富の差に大衆は喘いでいる。そんな状況下に政権の支持率下降は何を意味するか?しかと考えたい。(2023-1-20)

 

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です