安倍晋三元首相が奈良県で参議院選挙の街頭演説中に狙撃され、亡くなっての1周忌から、一週間が経った。あの当時、突然の死に驚愕すると共に、当然ながら私の思いはまさに複雑だった。衆院当選〝同期の桜〟のあまりに無念な散り方に、「〝臨終只今にあり〟との覚悟、我にありや」との問いかけが胸中にまず浮かんだ。その一方で、安倍との私的交流の幾つかの場面が思い出され、胸掻きむしられる思いに苛まれた◆私と彼とは「新学而会」という名だたる学者と自民党保守派政治家の私的勉強会で席を同じくした(公明党からは私だけ)のだが、太田昭宏元代表や赤羽一嘉前国交相らとは違って、あまり親しく付き合う機会はなかった。私は引退してから10年、つくづく自らを政治家ではなく、新聞記者出身の評論家だと思う。常に政治家を観察し、評価する傾向が強かった。もちろんそれは今も続いて飽くことがない◆彼の政治家としての業績への判定はひたすら光と影のコントラストが強く、国民的評価はまさに真っ二つに分かれよう。私のような公明党の結党直後に大学生党員になり、卒業後に公明新聞記者になって、40歳過ぎて政治家に挑戦した者からすると、「自民党を変えるかどうか」しか政治、政党への判断基準を持ち合わせていない。私の公明党衆議院議員生活20年のうち、前半は野党、後半は与党だったが、今なお、公明党の与党化が本当に良かったのかどうかは、恥ずかしながら確信が持てないでいる◆自民党の中でひとり激しく同党批判を続ける村上誠一郎氏と懇意な関係にあったり、立憲民主党の野田佳彦元首相の「安倍晋三観」に共感するところなど、自らを非自民党的体質が強い人間だと思わざるを得ない。自民党との与党共闘に苦労する山口那津男代表や、石井啓一幹事長への慰労の思いは十二分にありながらも、ついつい注文が先立つ。こういう思いを我が体内に確立させたのは、紛れもなく安倍晋三元首相の振る舞いにあったことは間違いない。かつて、「公明党赤穂浪士論」(中道政治確立に向けて、身をやつし時を待つ)を唱えてきた私としては、安倍亡き後の日本の政治は、まるで討ち入り前に、「大石」も「吉良」も死んでしまった「忠臣蔵」のようなもので、拍子抜けしてしまい、観ていて全く面白くない。(2023-7-15)