人生で60年は「還暦」にあたります。組織体でいえば生まれ変わる時ともいえましょう。「60歳になる公明党」について、つれづれなるままに考えたことを3回にわたって記してみます。
◆「大衆」の手に政治を取り戻す戦いへの出発
公明党の存在を私が知ったのは1964年(昭和39年)11月17日。結成大会のニュースをテレビ、新聞で気づいたのが初めてです。高校を卒業し、大学受験浪人中のことでした。創価学会に入った翌1965年(昭和40年3月15日)よりも少し早かったのです。大学に入って4年間。信仰を我が身に取り入れつつ、区議の選挙支援活動や公明新聞の熟読など党員活動を続けました。そして大学卒業と同時に公明新聞記者になりました。これもはや60年が経とうとしています。私は、党の歴史を考える時、1993年〜95年辺りを境にして、前半30年と後半30年を分けて考えるとわかりやすいと思います。前半は、野党時代。後半は世紀末の混沌とした時期を経て与党時代という風に分けられるからです。勿論、後半には、与党になる前の第1期政治改革の嵐の中での7年ほどがあり、途中で野党に転身を余儀なくされた3年(民主党政権時)も含まれてきます。これら双方合わせて約10年間は野党だったわけですから、正確に言えば、後半は与党時代に括っても、正味は20年だったといえます。
さて、こう仕分けすると、何が見えてくるでしょうか。公明党は周知のように、創立者池田大作先生の「庶民大衆に根ざした政党たれ」との教えを旨として、当時の自民、社会の二大政党によるいわゆる「55年体制」下のイデオロギー中心の政治打破を主たる目標に掲げました。結党当時の時代はいわゆる「60年安保」と「70年の安保」の2つの安保闘争の狭間のただなか、保守と革新の激突期にありました。公明党の母体たる創価学会的には、「大衆の手に政治を取り戻す」ことが最大の目的でした。当時の青年部は、古代中国の「三国志」になぞらえて、最大勢力の自民党を「魏」に、対抗する社会党を「呉」に、そして第3の勢力「蜀」に公明党を擬して胸躍らせたことを思い出します。
◆自民党単独政権に終止符を打った細川政権
その当時の創価学会、公明党の気分は保守と革新に対抗する「第三文明」の担い手・中道との位置付けにありました。国家権力の横暴による犠牲となった牧口初代会長と二代戸田城聖会長の「仇討ち」が本心です。その戦いの先頭に立つ第三代池田大作会長への一般世間における悪口雑言、中傷の数々への〝意趣返し〟の戦いでもありました。それは「赤穂浪士」による「忠臣蔵」的感傷とピタリ一致していました。「憎っくき吉良上野介」という〝主君の仇討ち〟(具体的な人を指すのではなく、反権力をシンボライズさせたもの)に、身をやつして、江戸城下に潜みやがて目的を果たす、との故事を自分達のものとして借用したのです。
今となっては、「遠い日の太鼓」ですが、当時の20歳から40歳ぐらいまでの、学生部員や青年男子部員はそう言った幻想的志向にはまって、我が身を鼓舞激励していたのです。公明党の先輩議員を中軸に党員支持者たちは、内外にわたる様々な〝花も嵐も乗り越えて〟「金権腐敗政治」打倒に向けて走りました。その結果が1993年の細川護煕連立政権の誕生に、ある意味で結実しました。兎にも角にも自民党単独政権を倒したのです。日本政治史上38年ぶりの快挙でした。これはその後の新生党と公明党を中核にした羽田孜政権(細川政権から社会党が離脱したため短命)へと繋がりました。個人的な感慨になりますが、その当時の政権樹立の立役者だった市川雄一氏(後の党書記長)が、若き日からの悲願達成の喜びを口にされたことを、そばで聴いた私は忘れることができません。
それから宿敵自民党との悪戦苦闘(自社さ連立政権による公明党攻撃等)を経て、10年足らずのうちに、自由党を介在させた「自自公連立」から「自公連立」の誕生になるのです。これは、決して数合わせでも野合でもなく、公党間における連立政権の「政策合意」を踏まえたものでした。これはまた、先の〝私的比喩〟に置き換えると、「吉良」を倒し「仇討ち」を成し遂げた〝赤穂47浪士〟の気分だったわけです。つまり、その時点から個人的な思いや現実は別にして、公明党を取り巻く「政治的・歴史的局面」の空気が変わったと言えましょう。(2024-6-7 以下続く)