●「15年前の敗北」の再来の意味
今回の選挙結果を前に思い起こされるのは15年前の衆院選です。民主党旋風にあって、公明党の11小選挙区候補は全滅。比例区は21人の当選でした。小選挙区は今回はまだしも4つ勝ちました。比例区は近畿ブロックで民主党候補者の数が足らずに1議席が公明党に回ってきた結果でした。今回も北関東ブロックで同じことが起こったため、20議席とはいえ、実力は19議席といえます。15年前とほぼ同じでしょう。
「政権交代」という前回の敗北を受けて、公明党は総括を行いました。社会保障と安全保障の二つの分野に分け、前者は坂口力氏、後者は私、赤松正雄が担当して徹底的な議論をした結果をまとめたのです。そのうち、前者を要約すると、「家計が悪化する中で社会保障の自己負担増を強いられることになった生活者の声を政治に反映するという公明党に期待された力を十分に発揮することが出来なかったことは反省しなければならない」でした。
「与野党伯仲」という結果を招いた今回の選挙は「政治とカネ」、そして「旧統一教会」の2つが争点でした。後者は選挙期間中殆ど表に出て来ませんでしたが、底流では問われていたのです。共に、自民党という政党の存立基盤を揺るがすものでした。これから、公明党内議論がなされることになるでしょうが、自民党のしでかしたことの煽りをくった側面はあるにせよ、「貰い事故だった」とだけで片付けることはあってはなりません。それでは、公明党自身の「反省」と繋がらないからです。
●変わらぬ大衆レベルの生活の苦しみ
公明党が原点に帰るという場合、それは党創立者池田大作先生が発足にあたって投げかけられた《大衆と共に》との「指標」です。イデオロギー論争の前に顧みられることが少なかった〝生身の人間大衆を忘れるな〟とのあつい思いが溢れていました。その後、ほぼ30年前のリクルート事件を契機に起こった「政治とカネ」の論争を経て、自民党の弱体化と共に、「連立政権の時代」が常態化しました。前回に見たように、その時代に公明党は自民党を内側から変革しようとしたのです。もちろん、その戦いの原点には常に《大衆と共に》がありました。
連立の相手である自民党にパートナーの精神が理解されてきていたかどうか。真っ当な意味で理解されていたら、今回のような今再びの「政治とカネ」の問題は起こらなかったはずだし、ましてや「旧統一教会」問題のような「社会ルール違反」に汚染されていなかったはずです。
この60年間で、公明党が目指した政治はどこまで進歩したのでしょうか。イデオロギー競争でニッチもさっちもいかないという事態は、「社会主義の崩壊」と共に遠のきましたが、庶民大衆の生活は相変わらず苦しい状態が続いています。貧富の差は60年前よりもむしろ拡大したとの見方もあり、大衆の悩む課題が変化したことにも気づく必要があります。学校教育現場のいじめ、引きこもりなどによる子どもたちが抱える苦痛、各世代に幅広く浸透する「こころの病い」が示す生きづらさの悩みなど、社会全体の澱みが指摘されています。大衆の持つ悩みの多様化です。「公明党の60年。されど我らが日々」とのフレーズが頭をよぎります。こうした時代の空気の変貌にどう挑むのでしょうか。
●連立時代における「大衆と共に」の原点
公明党にとって連立の時代は当然、「自民党をどう変えるか」が課題であり続けます。それはまた、自民党にとっては公明党をどう変えるかの問題のはずです。そのせめぎ合いの第2ラウンドの15年間は、公明党にとって不十分な結果だったといわざるを得ません。「選挙協力第一」の連立政治が再考を必要としているのです。もっと、日常的にこの国の在り方を問い、自公間で目指すべき国家像などについて議論する場を持つべきでした。かつて、両党間で教育基本法の改正をめぐっての激しい論議や、安保法制をどうするかの大激論をしたように。
今回の敗北にあたり、そういう次元にまで立ち入らないで、選挙総括が「他損事故」のおかげとか、選挙戦略的なことのみに終わってはならないと思います。自民党という政党がどこまで大衆を大事にする目線を持ち続けて行くのかを問う作業をせねばならないと思うのです。
自民党が総裁選挙をやっている間、立憲民主党も代表選挙をやりました。公明党の代表選挙は石井啓一氏しか立候補者がいず、実質的には行われませんでした。私はせめて各党のトップ選びの間に、「連立の有り様」をめぐっての党内議論をするべきだと訴えました。自民党との連立政権合意を早々と用意するのではなく、なぜ今この自民党なのか。どうしてこの自民党と組むのかとの徹底した議論がなされるべきだと思ったからです。9日の臨時公明党大会までにそれをやるべきです。(2024-11-1 この項つづく)