●兵庫の地から「哀」を超えて
阪神淡路大震災から1月17日で30年が経った。この地震は、同じ兵庫県下とはいえ明石海峡大橋を境に、ほぼ東西で運命を分けることになった。〝地震の牙〟は発生源の淡路北部地域から瞬時、海峡を越えて東の摂津方面に向かったのである。このため、当時の私の生活拠点だった西隣の播州地域は直撃を免れた。衆議院議員当選が1993年7月だったので、1年半後に起こったこの大惨事の復旧・復興におおわらわになったものの、自身も被災者となった赤羽一嘉代議士(後に国交相、現公明党副代表)とは大違いの「災後」となった。13年後輩(同じ慶大法学部出身)の彼とは一緒に当選したが、今も最前線で震災対応の専門家として八面六臂の活躍をする彼を横目に私は議員を辞めて10年余が経つ。そんな私ではあるが、あの震災からの30年は特段に感慨深い。
いま改めて兵庫の地から過去を振り返り、未来を展望すると、兵庫県が日本の抱える課題の「先取り」を果たしてきたかのごとき「錯覚」にとらわれる。かつてこの地で県知事の職にあった井戸敏三氏が、「兵庫は日本海と瀬戸内海の双方の海域に面し、都市部から山間部、島嶼部まで多彩な地域性を持つ「日本の縮図」である」との趣旨の発言をしばしば口にしていた。私個人としては、兵庫で奇怪かつ不可解な事件が起きたりすると、その都度、井戸県政へのいささかの皮肉を込めて批判をしたものだ。すると、そのたびに、「縮図」というセリフを使って切り返された。知事は「どこにでも起き得ることに過ぎない」と反論したのである。あの震災からの30年の間に、新潟、熊本や、岩手、宮城、福島など東北全域、そして能登半島へと、全国各地で大きな地震が相次いだ。さらには豪雨被害に関しては枚挙にいとまがない。まさに、あの震災が「失われた30年」の口火を切ったことは間違いない。哀しい意味をも含む「先駆け」だったのである。
また、地震や豪雨という「自然災害」だけではない。井戸氏の後を襲った現知事・斎藤元彦氏の去年一年の行動、発言、選挙戦などにおける一連の所作振る舞いを追うと、まるで「人的災害」においても同様かもしれない。彼は「民主主義の変容」という現代日本の最大の課題を考えさせる機縁になった人物と言わざるを得ないからだ。県の幹部らを結果的に死に追いやったことによる大騒動の張本人になっただけではなく、その後の再選に至る過程においてもSNS を使った選挙違反の嫌疑を受ける身でもある。また、100条委員会の場で斎藤知事批判の急先鋒であり、後に県議を辞職した人物が自殺をした。更に1月半ばの現時点でも副知事のなり手がいなく、県政は依然として混迷の極みであると言っていい。
思えば、兵庫県の初代知事は官制下だったとはいえ、初代首相の伊藤博文だったことや、戦前最後の沖縄県知事として〝覚悟の采配〟を振るった島田叡氏は、戦時でなければ最後の兵庫県知事になった公算が強い。80年後の今日、兵庫県の知事が「民主主義の存亡」をめぐって注目され、県議会の有り様が問われ続けていることに、日本の課題を「先取り」する〝兵庫県の宿命〟を私が感じるというのは大袈裟であろうか。偶々、震災30周年の前日の16日に、同知事は公明党兵庫県本部の新春年賀会に来賓として出席した。天皇皇后の来神と重なってほんの僅かないとましか会場に留まらなかったのは残念だった。彼は一般参加者の複雑な思いとは別に、殆ど儀礼的な挨拶のみで会場を後にしたものである。翌17日は「大震災30年を追悼する式典」が兵庫県公館で行われ、私も参列した。遡ること4回にわたって5年ごとの追悼式典開催の実行委員長だった井戸敏三前知事と隣り合わせの席だったことは感慨深いことだった。この30年の県政、国政を顧みるいい機会となったのである。
●「大災害の連鎖」と「ヤングケアラーの悲劇」を描く2冊の本
実は、昨年末から今年にかけて、ある小説家の2冊の新刊本の広告が全国紙5紙に5段広告で一斉に出た。17日には地方紙の神戸新聞にも登場した。この広告は単なる本の宣伝ではない。戦後日本における自然災害の連鎖と、子どもたちの不幸な現状の積み重ねが、やがて近未来にとてつもない災いをもたらすとの警告である。著者の強い意志に共鳴した一人の愛読者が著者の警告を無駄にさせたくないとの思いを募らせて、多額の資金を提供して広告宣伝に及んだ。いわゆる「意見広告」でもあるのだ。その2冊とは、高嶋哲夫氏の『家族』と『チェーン・ディザスターズ』である。
チェーン・ディザスターズとは読んで字の如く、「災害の連鎖」を意味する。この本ではいきなり冒頭に、東海地震と東南海地震が連動して起こる。南海トラフ地震の幕開けである。そこから、首都直下型地震が続き、その上、超大型台風の襲来で首都圏が豪雨に見舞われ、各地で洪水や土砂崩れが多発する。さらに追い討ちをかけるように富士山が噴火。猛烈な噴煙が偏西風に乗って、百キロ先の首都圏を襲う。結局は「首都移転」やむなきの事態に至る一連の流れ中で、初の女性首相が懸命に対応するというのが、筋立てである。
実はこの小説の中身は、著者がこれまで世に問うてきたものばかり。いやそれだけではない。それに端を発した政治・社会的課題なども併せて描いてきた。『M8』『津波』『東京大洪水』『富士山噴火』『首都崩壊』『首都移転』などといった一連の小説群がそれである。いわば、総集編の態をなしているのだ。
高嶋氏の「災害発生予見能力」がいかに卓越しているかを実証したのは、コロナ禍が現実のものになるほぼ10年前に出版された『首都感染』であった。コロナ禍発生で騒がれていた当時、テレビでカフカの『ペスト』や小松左京の『日本沈没』と並んで、彼のこの本が取り上げられていた。これを知って、私は慌てて読むに至った。あの時の衝撃は忘れ難い。このテーマに関連するものだけでも、『バクテリアハザード』『パルウイルス』などがあるが、ほかのジャンルとしては、この人の専門である原子力関連で『原発クライシス』『メルトダウン』『福島第二原発の奇跡』『世界に嗤われる日本の原発戦略』など数多い。このように彼の作品にこだわるのは、見事なまでの分析とその視点の先にある「未来予測のリアルさ」に深い感銘を覚えるからである。これを小説家の戯言と捉えてしまってはならず、日本の今を担う識者たちの関心が強く求められよう。
●政治と教育の貧困さゆえの悲観的展望
一方、『家族』は、ヤングケアラーについてのミステリー仕立ての小説である。既に国会の場でも私の後輩の伊藤孝江参議院議員らが質疑のテーマとしてしばしば取り上げている。近年日本の家庭における「貧困」や「障がい」「病苦」から、子供たちによる「介護」の必要性までがクローズアップされているように、「家族の崩壊」をそこかしこに生み出すに至っている。若者の未来を破壊するという意味で、「老々介護」より深刻な問題を孕んでいるといえよう。
前述した新聞広告では、「2冊の本が一つになる時、日本の未来が見えてくる」とのキャッチコピーが続く。この2冊は、地震など自然災害が国土を崩壊させ、ヤングケアラーの増加が家族関係を破壊するとの近未来の日本の悲劇の予測を併せ描いているものといえよう。ここで「2冊の本」に触れるにあたり、私が連想するのは作家・筒井康隆氏のことである。筒井氏も高嶋氏も、偶然の一致だが、同じ神戸市垂水区に住む。筒井氏は今話題の映画『敵』の原作者として改めて脚光を浴びている。この映画(原作の小説も)は、人間の晩年の敵としての「老い」を、筒井らしいタッチで描いているものだが、両作家の本を併せ読むと、現代日本における「国家と個人」「国家と家族」といったテーマがより一層分かるに違いない。政治家にこそ読んで欲しい。
石破茂首相は就任いらい、少数与党政権の悲哀を引き摺り、25年度予算の審議を経て、夏の参議院選(都議選も)まで持つのかどうかが問われている。そんな中で、首相が掲げた政策構想でなんとか陽の目を見そうなのが、「防災庁」であるが、果たしてその仕組みが迫り来るであろう「大災害の連鎖」に効力を発揮するかどうかは未知数だといえる。また、幼稚園、小学校から大学、大学院まで日本の明日を担う子ども、若者たちの学力、知力を担当する文科省は国民の信頼に耐えうるものなのかどうか。とりわけ、小中学校教育の現場では、いじめの氾濫、子どもたちの登校拒否。引きこもりなどの課題がひしめいており、高校大学教育における知的水準の劣化が俎上に登りがちである。この現状をどうするか。給食費や授業料などお金の給付のみに関心が向かっているかに見える政党、政治家の現状は淋しい限りである。行政対応の遅延はいささかも許されない。
通常国会ではまたぞろ「政治とカネ」といった政治家の質が問われる初歩的課題で与野党が右往左往することが懸念される。そういった基本的課題に翻弄されるのではなく、国家の根底を形成する課題をめぐって、政治家たちの大論争が展開されることを心底望みたい。(2025-1-18 大幅修正、追加)