榎田竜路(えのきだりゅうじ)という人物を知っていますか?音楽家にしてメディアプロデューサーであり、アースボイスプロジェクト代表社員というのが一般的な肩書ですが、そういってもあまり分かりませんね。「情報は資産」を核に、映画技術を応用した認知開発手法を用いて、地域や中小企業の活性化、人材育成などを各地で実施しているといえばかなり彼の実像に迫ることができるかもしれません。昨年らい、淡路島の地域おこしに取り組む中で私は彼と知り合いました。何しろ、北京電影学院客員教授、内閣府地域活性伝導師やら公益社団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会経済・テクノロジー専門委員なども務めるというマルチタレントの持ち主です。北京電影学院で教鞭を取る日本人は彼だけ。以前に高倉健さんがその立場にいたといいいますが、中国で圧倒的な実力と人気を誇る映像分野の殿堂にかかわる人物です▼その彼が私の地元にある神崎郡市川町にやって来るというので、先日出かけました。市川町の地域振興課が企画した「町づくりスペッシャル講演会」を聴くためです。講演のタイトルは、「地域の価値を開発する力とは」というもの。実はこれが皮切りで、このあと、6回にわたって「グローカルメディア・プロデューサー育成講座」が年内いっぱい開かれるのです。講座の全貌を総論の形で知れるとあって、町内を中心に30人ほどの皆さんが集まってきておられました。冒頭私が挨拶をさせていただくというハプニングがありました。榎田さんを引っ張ってきた市川町を褒め称えたあと、観光を軸にして地域活性化にいま力を注ぐ私として、この講演にいかに胸ときめかせているかを述べました。稀代の脚本家・橋本忍生誕の地である市川町こそ、メディアプロデューサーを生み出す地に相応しいということも付け加えました▼講座は、実に斬新で魅力的な内容でした。冒頭、彼が審査委員を務めるミス・インターナショナル日本大会での美女に囲まれたスナップ写真を見せるという衝撃から始まって、次々とユニークなトライアングル解説(三分割手法)を加えて、聴衆を巻き込んでいくのです。なかでも途中にアメリカの人気テレビ番組「メンタリスト」のワンシーンを織り込んでの話には圧倒されました。突然、妻が銃で夫を射殺する場面が出てくるのですから、驚かないわけにはいきません。理屈で解るというよりも、あれよあれよというまに講師の術中にはまってしまったというのが正直なところでしょうか。最終盤のところで、福島支援の狙いを持った「横山飾りや」の2分間の映像を見せられて、「なるほど、こういう風に地域の価値を見せる映像手法なら、どんな田舎の地域でもみんな誇りを持って元気になるぞ」と納得するに至りました▼現在、榎田さんは、鹿児島、沖縄、徳島、津山の各地で、高校生を相手にいわゆる人材育成のための講座も開いています。高校生×認知開発力×6次産業化=地方の未来といった図式が示すようなアプローチの仕方で日本の地方が抱える課題克服に立ち向かっています。彼の時代認識は、日本という国は(1)新卒の3割が3年以内に退職する(2)失敗に対して極度に不寛容である(3)大きな潜在力を秘めながらそれを生かせないーつまり、マッチング力がないというものです。地域においては、高校生が地域社会、地域経済の担い手でありながら、マッチングがうまくいかず、人口流出や地域経済の縮小に大きな影響を与えているということは周知の事実でしょう。そこに目をつけた榎田さんは、能力云々ではなく、物語とマッチングすることを狙いにした独特の教育展開を施しているのです。彼の認知開発力養成講座は、高校生に地域企業を取材させ、情報を整理させる。それを元に「画像」「文字」「音声」の三種類の情報として組み合わさせ、2分間の映像に編集させるというやり方です。この取材→整理→編集という過程で高校生は、苦しみながらも地域企業の持つ力や可能性に深く共感するというのです。この方式に絶対の自信を持つ彼は、私に対してぜひ一度高校生たちの成長した姿を実際に見てほしいと強く迫っています。(2017・4・13)
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「核廃絶」への遠すぎる道➀ー「原発是非」と入り乱れての論争
小泉純一郎首相が登場したのは、季節外れの大雪現象のようなものだ。今はあたり一面が雪景色で、古い自民党政治の汚いものを全部覆い隠してきれいな風景に見える。しかし、雪は必ず溶ける。溶けたら今まで以上に汚いものが露呈して来るーこういう意味のことを私が衆議院の委員会で、直接首相に問いかけを始めたのは、彼が総理に就任したほぼ一年後の2002年の5月9日のことだった。私はそのあと、こう続けた。その汚いものを自民党政府のトップとして、川に全て押し流す大水現象を起こしてほしい。そういう決意ならば、私共はしっかり支えたい、と。何かと派手な小泉首相に対して、比喩を使いつつ皮肉もそれなりに織り交ぜての質問だった。導入部としては傑作の部類であり、自民党と公明党の関係の核心を突いてこれ以上のものはないと自画自賛したものだ。その後、同じ質問のなかで、私は、国際社会における日米関係は、あたかも国内政治における自公関係に似ている、と。それは、対米関係で日本があまり言いたいことをいえずに苦慮しているように、国内政治で公明党は自民党に大いに気を遣い苦労していることが類似しているからだ。公明党が自民党との連立でどれだけ苦心惨憺しているかは、米国との関係で苦労する自民党政府ならよくわかるはず、との思いもあった。「そんなことないよ。公明党はあれこれ言ってくれるよ」と首相席から彼が野次ったことは20年近い歳月が流れた今もなお妙に耳に残っている▼こうした古い話をいきなり持ち出したのは、昨今の核兵器禁止条約をめぐる政府自民党の対応ぶりを見ていて、対米忖度の典型例として思い出したからである。岸田外相は昨秋にはこの条約に賛成する意向を示し核保有国と非核保有国の橋渡し役を果たしたいと述べていた。これは広島県はじめ多くの関係者をして喜ばせたものだ。ところが、当の外相はこの3月末に一転して、日本が条約交渉の場に参加することは両陣営の対立を深め、逆効果になるかもしれないとして、後退する態度に変わってしまった。対米関係への悪化など始めからわかっているにも関わらず、格好いいことを言っておきながら結局は元の木阿弥に終わるのでは全くだらしがない。かねて私どもが日米、自公の関係が似ていることにことよせて、自民党政府に対米自立を追求する姿勢を求めたのだが、結局は十年一日のごとくその体質は変わっていないかに見える▲「核廃絶」という課題は、公明党議員にとってどの党よりも大きく重い問題である。最大の支持団体・創価学会がいかにこのテーマに真剣に取り組んでいるかは改めてここで触れるまでもない。「核廃絶」は、生命の尊厳に強い関心を持ち、平和確立を至上命題とする公明党にとって、まさに存立基盤が問われるほどの意味を持つ。一方、国際政治の現場では長く「核抑止力」が”市民権”を有してきており、”必要悪”としての位置を確保してきたことも否めない。理想としての「核廃絶」を叫ぶことは政治の現場では、意外に簡単なことではないのである。20年の議員生活の中でほぼ同期間を外交・安全保障の議論の場に置いてきた私としては、しばしば両論並び立たぬジレンマに悩んできた▼かつての同僚代議士・斎藤鉄夫元幹事長代行(党選対委員長)は、広島県を主な地盤とする。このひとと私は歳こそかなり違うものの”同期の桜”ということもあって親しい関係だが、その政治的主張ではしばしばぶつかることがあった。それは時に「核廃絶」であり、「原発是非」であった。被爆地・広島を背景に核兵器の絶対悪を颯爽と掲げる斎藤氏。それに対して、私は「核抑止」の立場を慮らざるを得ない安保・外交畑の人間だった。一方、テーマが「原発是非」になると、彼は工学博士として元大手建設会社の宇宙工学研究部門で鳴らしただけあって、原発を低減させやがては廃止するという主張には与しない。ゴールをゼロにおき、原発は順次減らすべきという私の立場とは折り合わなかった。かつて、「3・11」前には安全対策を最大限に凝らしたうえで、原発に依存することに疑問を抱かなかった私だけに、偉そうに言うべき立場ではないと分かっていながら、である。今となっては、政調の現場で大勢の後輩たちを前に激しく論争したことが懐かしく思い出される。これから数回にわたって「核廃絶」への道がいかに遠く険しくとも、それを乗り越えねばならないことについて考えていきたい。(2017・4・5)
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「文際的世界」という大沼ワールドの面白さ
「文際的世界の国際法」シンポジウム実行委員会なるところから、東大名誉教授の「大沼保昭さんの出版記念シンポジウムと懇親会」のご案内を頂いたのは去年の9月。大沼さんとはかねて懇意にして頂いており、その学問上のお仕事ぶりには深い敬意を抱いています。加えて、娘さんのみずほさんが参議院議員選挙に出馬した(現在、自民党所属の一期生)際に、いささかのご支援をしたことなどもあり、単なる学者と政治家の関係を超えた親しみをも感じている次第です。ここで言われる「文際的」とはいわゆる「学際的」よりももっと幅広い概念をさすものと思われます。文明間の壁を乗り越えるという意味で、そこに共通する国際法を求める試みだと私は解釈し、ぜひとも参加したいと思っていました▼しかし、当日( 3月19日)は、同じ東京ではあるものの、大事な会合とぶつかってしまいました。私が青年期に過ごした中野区の仲間たちによる「中野兄弟会」の会です。創価学会の池田大作先生によって作られた人材育成グループの44年目の総会です。何をおいても参加せねばなりません。残念ながら大沼さんの方のシンポジウムは欠席し、終わってからのミニコンサートと懇親会にのみ参加してきました。このためシンポジウムの深いところは何も語ることはできません。ただ、案内状にあるように、大沼さんが営々として築き上げてきた学問や実践活動は、「『欧米中心主義的世界から文際的世界へ』、日本社会の文脈では『脱亜入欧信仰からの脱却』という理念に立脚している」というところにあります。したがって、私が関心を持ち続けている「西欧文明から、東洋の思想へ」という若き日からの大いなる問題意識と全く一致する方向です。今回のシンポジウムの成果に強い関心を持って、その所産に期待し、また私なりの解釈をこのブログにおいて報告するつもりです▼錚々たる実行委員会のメンバーのなかで、私の友人と言えるのは、読売新聞の特別編集委員の橋本五郎氏と論説主幹の小田尚さんの二人ぐらい。後は知ってはいても少々距離のある人たちでしたので、懇親会への出席は若干気が引けていました。ところが、さにあらず、同じテーブルには大沼さん(彼は1946年3月生まれ)と同世代の人間を中心に配席される(ただし女性は別。ご本人の好みが基準=笑)という気の配り方。お蔭で阿部信泰氏(元外務省幹部で軍縮の専門家、今は原子力委員)、コーディネーターの加藤タキさんらと楽しい会話をすることができました。登壇する方々のお話はいずれもウイットに富んだ暖かいものばかりでしたが、共通していたのは大沼さんが「いかにひとに犠牲を強いる」人であるか、という点。これは恐らく「目的追求に熱心なあまり、つい周りのひとに多くを求めてしまう」ことをさすものと思われます。たとえば、この日の会合はトータル11時間に及ぶもので、巻き込まれた参加者は大変だった、というわけです▼大沼さんは、学者でありながら単に象牙の塔に留まることをよしとせずにあらゆることに挑戦してきました。勿論政治、政治家に対しても多くの要求をされてきたのです。そんな彼のメガネにかなったのは、原文兵衛氏と五十嵐広三氏(共に故人)であることは良く知られています。これはまた、慰安婦問題や人権問題で、彼が政党、政治家に頼ろうとしたが「不愉快な思いをした」ことが多かったことと裏表の関係です。彼は著作の中でしばしばこのお二人を礼賛していますが、この日も「最後は自分が責任をとる、抜群の行動力のひとだった」と終わりの挨拶で繰り返し強調していました。列席していた人間の中で、代議士経験者はわたしだけ(ただし、大沼瑞穂参議院議員も参加)だったので、いささか恥ずかしい思いがしたことは禁じえません。つまり、他の政治家はロクなものじゃなかったと言外に匂わせておられたからです。ともあれ、近日中に読売新聞紙上で橋本五郎氏や小田尚氏がコラム『五郎ワールド』や『補助線』でこの日の模様を活字にする(橋本氏には「書いてね」=笑、と伝えておきました)はずです。それを楽しみにしています。皆さんもどうぞ。
(2017・3・22)
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インドネシアで人気の女性大臣との出会い
東南アジア地域一帯で食品輸出に携わる友人と共に、インドネシア・ジャカルタに3泊4日の旅をしてきました。ジャカルタを漢字で「雅加達」と書くことも、「尼」と略称することも知りませんでした。昨夏の香港、シンガポール、今冬のタイ・バンコクに続いてこの地域への三たびの機会です。中国、インド、アメリカに続き、2億を超える人口は世界第4位。しかも人口の比率は若年が圧倒的に多くて若々しい、未来溢れ、活気漲る国家です。バンコクと同様に道路事情は悪く、渋滞の連続。お蔭でトヨタをはじめとする日本車のバックナンバーに取り囲まれ、この国の持つ一面が良く分かりました。加えて電車の車両仕様も日本のものがそのまま輸入されているとのこと。親近感はただならざるものがあります▼今回インドネシア行きを決めたのは、故中嶋嶺雄先生のご縁のたまものです。昨秋東京・四谷で開かれた先生の選集全8巻の出版記念の懇親会の席で、元日経ジャカルタ支局長の小牧利寿さんと隣席になったことが機縁となりました。今はジャカルタを中心に政府コンサルタントのような仕事をされており、しばしばこの地を訪れているとのこと。「是非、一度」ということになり、かねてインドネシア進出を考えていた友人を誘って実現しました。「縁は異なもの味なもの」です。共に、中嶋門下の一員であるうえ、元ジャーナリスト同士のよしみもあって、あっという間に気が合いました▼加えて、インドネシア大使の谷崎泰明氏(元欧州局長)とのご縁もあります。久しぶりに会ってインドネシアと日本をめぐる話を聴こうと思い立ちました。偶々私たちが行く数日前に、後任の大使決定(ベルギーの石井正文大使)を新聞発表で知りました。このために彼とは「ご苦労さん会」になってしまいました。オランダ統治の時代から先の大戦を経て独立、スカルノ、スハルトと、この地での傑出したリーダーたちの政治力の由来から話は始まりました。いらい今日に及ぶ「多様性の中の統一力」を誇るこの国に秘められたパワーの源泉を教えて頂いた次第です▼私たちの短い滞在中に、日本とインドネシアの漁業関係者を中心とするフォーラムが開催されることになり、そこにスシ漁業担当大臣が出席されるというので、予定を変更して急遽私も覗きに行くことにしました。JBICなど政府金融関係機関者はじめ少なからざるインドネシ人や日本人が出席し、大変な盛況ぶり。この大臣は女性ながら、刺青をしていたり、「気風の良さに加えて妖艶さも漂う」との評価で知られる猛者。それだけに出席者の本心は怖いもの見たさが本心だったのかも。想定と期待にたがわぬチャーミングな顔立ちと迫力ある声。なかなかの風貌でした。失礼ながら講演の中身はともかくとして、まずは洋の東西を問わぬ今風の女性政治家の抬頭ぶりに改めて感心を強めた次第です。(2017・3・12)
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大災害時に発電設備が作動しない恐怖をどうする
あの東日本の大震災からこの11日で6年が経ちます。阪神淡路の大震災を経験した兵庫県民のひとりとして思うことの多さに比べ、被災民に寄り添う実行動の乏しさに苛立つばかりです。大災害の時代と言われる今日の状況の中で、せめて間接的にでも被災の影響を少なくする、いわゆる減災に役立つことをしてみたいとの思いが募ってきました。自分にも何かできることはないかと考え続けていたところに、私が顧問を務めるAKRの河田専務理事(ビジネスファーム研究所所長)から話があっったのは昨年の今頃のことでした。それは非常用電源設備の実態をめぐって法定点検が確かにおこなわれているかどうか疑問だということでした▼大きな非常事態が発生した際には、しばしば外部電源が遮断されてしまいます。となると、それぞれの建物が自前の設備内に保有する設備が作動して被害拡大を食い止めることが求められるわけです。スクリンクラー、非常用消火栓、非常用電源、非常灯など人命にかかわる設備に電気を供給する防災の要になるものがそれで、全国での設置数は100万台にも及ぶと見られています。しかし、阪神・淡路の大震災においては23%が始動しなかったことが確認されており、東日本大震災でも同じような数値で動かなかったと見られています。これは点検が十分に行われていなかったためにいざという時に役に立たなかったということなのです▼一般社団法人「全国非常用発電機等保安協会」の調査によると、負荷をかけずにお座なりな点検めいたものだけーたとえば、エンジン始動だけといったようにーなのが、95%にものぼっているとといいます。実は、非常用電源設備の点検については電気事業法、建築基準法、消防法などで明確に実施が定められており、違反すると罰則が適用されているのです。平成14年6月には消防庁の予防課長通知「点検要領」で、30%以上の負荷をかけて必要な時間の連続運転を行い確認することが求められているのです。しかし、現実には、いちいち負荷点検をしていると、停電が起こるため難しいとか、時間がない、費用が高い、業者がいないなどの理由で正しい点検がおこなわれていないのが実態だというのです▼こうしたことを関係者から聴き、消防庁にも足を運び、予防課長からいろいろと話を聴いたり、非常用発電機保安調査士の資格を持ってるひとや関係業者からも話を聴きました。特に驚いたのは、こうした非常時に備えての対応について、肝心の公的建築物の管理者でさえあまりわかっていないということです。およそ、そんなことはおこらないだろうとの安易な気持ちがあったら、文字通りすべては壊れてしまいます。兵庫県や神戸市など私の身近な地方自治体こそ率先してこの点検を行ってるはずだと信じているのですが……。このあたり、大いなる関心を持って今着々と調査の機を窺っているところです。せめてこうしたことで、私は大災害時代への対応に貢献したいものだと考えています。(2017・3・6)
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「憲法改革」を探りつつ「予備的国民投票」へー「改憲と加憲のあいだ」➅
私が国会に籍を置いている時代の憲法をめぐる議論での最大の成果は「国民投票法」の制定であった。2007年5月に実現した時は、それまで欠落していたものが遂に補われたということでのそれなりの高揚感があった。当時の衆議院憲法調査会長の中山太郎氏、自民党の「議案提出」メンバーだった保岡興治、船田元、加藤勝信氏らと手を取り合って喜んだことが懐かしく思い出される。あれからもう10年が経つ。その間に民主党政権の誕生から破綻、「東日本大震災」による福島原発事故の大混乱などが起こったこともあって、その後に出来た憲法審査会における動きも殆ど見るべきものはない。10年一日のごとき議論の停滞はいかんともしがたい。今年は憲法制定70年、国民投票法制定10年の節目だけに一歩前進の足跡を期待したいものだ▼公明党はこれまで「環境権」の加憲を主張してきたことは周知のとおりだ。だが、一般的には「3・11」以降、まず急がれるべきは、緊急事態に対処する規定を憲法上に書き加えるべしとの主張が展開されている。主に自民党サイドからで、公明党はさほど関心を持ってきていない。そうした規定を置かずとも現行の法律で十分に対処できるとの判断を持っていたからである。この点に関連して私がかつて強く主張したのは、憲法の条文のどこを変えるか、あるいはどこは変えなくともいいかについて、徹底した議論が必要だということであった。予め「改憲ありき」や、あるいは「護憲ありき」の立場にこだわるのではなく、ニュートラルな(中立的な)立場から一つひとつ検証していくことが大事だというものであった。日経新聞による「憲法改革」(同名の著作あり)という立場がそれなりに共感できた。憲法の条文改正を必要とするマターと法律対応で済むものなら法律改正で、それも必要ないものは行政施行の対応ぶりでと、一つひとつ吟味し選別をしようという考え方であった。私は公明党がその作業をするのに最もふさわしい政党だと信じていたが、それをせぬまま引退をしたことは悔やまれる▼そういう意味もあって、私は国民投票のやり方として、いきなり憲法改正のための国民投票のときを迎えるよりも、予備投票の意味合いを込めて事前に実施してはどうかと提案をしたものであった。つまり、どの条項を変えるべきかについて、国民の考え方を予め問うておけば、唐突感は回避できるし、また初の国民投票のもたらす混乱をも免れるのではないかという思惑である。たとえば、緊急事態対応についての国民の考えや、環境権、教育の在り方などについて国民投票を実施して世論の動向を先に知っておけば、立法府の発議と国民の対応の双方の兼ね合いからもいいに違いないと思われる。当時はあまり賛意を得られなかったが、国民投票法制定10年を期して今の時点で世論を推しはかるためにも、やる価値はあるはずだ▼ところで、安倍自民党がこの3月に、同党の党規約を改正し、総裁任期を延長したら、憲法問題の推移はどうなることが予測されるか。憲法改正の発議から国民投票に至る時間ーすなわち2017年から4年間ーが生みだされることによる見通しが成り立つ。憲法論議に詳しい筋に取材をしたところ、憲法改正発議までには、以下の三段階を経ていく流れが想定されるとのことであった。1)衆参憲法審査会の再始動から、個別の改正項目の抽出・検討を経て具体的な改正項目の絞り込み2)絞り込んだ改正項目の検討から憲法改正原案の作成3)憲法改正原案の提出を受けて両院での審査を経て、3分の2以上の賛成で議決ーとの流れである。調査・論点整理の段階→憲法改正原案の立案の段階→憲法改正原案の審査の段階といった順序立てである。第一段階が2017年暮れから2018年初頭。第二段階が2018年いっぱい。第三段階が2019年いっぱいで、2020年から発議を経て国民投票の実施へと流れていったうえで、2021年の投票に向かうという次第である。これまでの悠長な流れからすると、とてもこのようにはいかないと見るのが普通だろう。私としてはそのように一足飛びに急ぐ「憲法改正」よりも、先に述べたような「憲法改革」ともいうべき点検をじっくりしながら、「予備的国民投票」などを実施して、加憲への機運を醸成することが大事であると思う。急がば回れである。(2017・2・21=この項終わり)
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新築か改築か増築か。それとも庭にプレハブか……「改憲と加憲のあいだ」➄
現役時代の憲法議論で忘れられないもう一つのテーマがある。それは増補型改正(アメンズメント)という問題である。これは今ある憲法はどの部分も一切削除しないで、必要な部分を足していくという改正のやり方である。つまり、1946年憲法は手つかずでそのまま残しておき、新たに付加した部分で、20XX年憲法として成立させるというものである。加憲と似てはいるが、原型を留めたままにしておくというところがいささか違う。これは家の建築に例えていうと分かりやすい。新たな憲法を作るー例えば、昭和憲法のようにーのが新築だとすれば、改憲は改築、加憲は増築といえ、この増補型改正というのは今ある家の庭に小さなプレハブのようなものを作るケースといえようか。古い家も使いながらこのプレハブへも行き来するといった使い方だ▼この改正方式については、法政大学の江橋崇教授を招いての勉強会の場でご本人から直接聴いた。今ではこれはすっかり忘れられているが、憲法制定当時は話題にのぼったという。建国直後の雰囲気を今に伝えるアメリカ合衆国憲法は、その方式を採用しているし、フランスの人権宣言も200年前を彷彿とさせる。またイギリスでは1215年のマグナカルタや1689年の権利章典がついこの間まで、この国の現行法の一部であったことも明記する必要がある。そういう各国と同様に、世界に冠たる「平和憲法」をそのまま残しておき、それに新たな条項を付け加えていこうというものだ。加憲が今ある憲法の中に書き加えていくのと違って、新たに補っていくものである▼実はこの辺りのことについては今からちょうど10年前の2007年3月22日の憲法調査特別委員会公聴会の場で、公述人として招かれた江橋崇さんに私があれこれと訊いている。その二人のやりとりのポイントは、江橋さんが加憲と増補型改正はあまり違わないといってるのに対して、私が二つは結構違うのではないかと主張しているところだ。ここで面白いのは、江橋さんが「日本は、法律を改正したりすると、それまであったすべての法律を新しい法律の中に吸収合併したものにしなければいけないという思いが強く」て、なかなか立法作業が追いつかないと言ってる。つまりそういった整合性を求めるために官僚主導の作業になってしまうのが日本の特徴だというわけだ▼アメリカやイギリスは前のものと後のものの矛盾など気にしない。「まあ、何とかなるだろう。その辺のいい加減さがあるから議員立法で行ける」という。江橋さんは「加憲でも増補型改憲でも、官僚主導の立法というものに対する風穴があくことになるかな」と述べ、あまり細かなことを気にせず政治主導でやって見ろとけしかけていたかのように思われる。結局は官僚主導に取り込まれてなんとも思わず、がんじがらめにされた日本の政治の姿ではないか。10年一日のごとくどころか、70年一日のごとく憲法の呪縛に陥ってるのは、官僚に負けている日本の政治家の惨状だと彼は言いたかったのだろう。引退して4年経った今頃になって、私はそれが一段と身に染みて分かる思いがしてくるのだから、悲劇を通り越してお笑いだといえよう。(2017・2・17)
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9条に新たな規定を書き加えるとー「改憲と加憲のあいだ」➃
憲法9条をめぐっては長きにわたって正反対の立場からのぶつかり合いがある。ごく簡単に言えば、現実との大きな乖離があるから、現実に合わせて条文を変えていくのか、条文はあるべき理想を示しているのだからそれは触らずに、現実を一歩でも近づけていくべきだ、という改憲論と護憲論の二つだ。それに加えてもう一つの主張がある。それが9条にも新たな項目を加えていこうという加憲論だ。1項と2項はなにはともあれ日本社会に深く定着しているのだから、あえてそれは変えたりせずに、現実との乖離をそれなりに埋めるべく、足らざるを補おうという考え方である。公明党内の憲法調査会で、私もそういう提案をしたことがある▼これは、国際社会におけるPKO(国連平和維持活動)など、すでに多くの実績を残している国際貢献活動の根拠となる規定を設けることが具体例として挙げられる。もう10年近い歳月が経っているが、党内で主張した当時は寄ってたかって反対されたり、無視されたとの記憶がある。3項にわざわざ付け加えずとも、今ある法律の解釈で済むし、それで追いつかぬなら、新たに法律を作って対応すればいいとの考え方が支配的であった。だが、それでは私は満足できなかった。外交安全保障分野の責任者としての私の脳裏には、防衛研究所での「政党研修」の際に自衛隊中堅幹部から質問された場面が思い浮かんだからである。「憲法における自衛隊の位置づけを一日も早くしてほしい」との切なる要求だ。それをせぬまま新たな任務を課すことは更なる矛盾を追加することに思えた▼昨年実現した「安保法制」において「駆けつけ警護」という活動が新たに付与された。私が在職していたほぼ20年間というもの封印されてきていたPKOの本来任務のひとつが遂に陽の目を見たものである。これには忘れがたい思い出がある。中嶋嶺雄先生(東京外語大元学長、秋田国際教養大学元学長)が、かつて「赤松君、日本の参加するPKOには、駆けつけ警護の任務を付与させるべきだよ。でないと国際社会の一員として恥ずかしい」と懇願するようにいわれたものだった。もはや鬼籍に入っておられるので詮無いことだが、生きておられたらどんなに喜ばれたことか。これなど解釈改憲だとの批判があったが、私たちはそうは思わない。駆けつけ警護に伴って発生する「戦闘」は、憲法が禁ずるものとは異質のものだとの認識である▼いま安保法制論議を経て、憲法9条を加憲の対象にすべきかどうかがあらためて注目されている。公明党の現在の担当者は、議論の対象とすることはやぶさかではないとのニュアンスの発言をしている。これには、端からやる気がないのに様子見をしているだけとの見方が専らである。他方、9条に3項を加えるなどという矛盾の上に矛盾を上塗りするのは全く無駄だとの本質的な批判もある。そういう意味では、むしろ3項に「自衛のために自衛隊を保持する」などの規定をおき、それを受けて4項に国際貢献などの任務を書き加えるということも考えられる。これなら、自衛隊員の長年の念願も解決する。だが現実的には9条加憲は9条護憲と9条改憲の間を彷徨うだけかもしれない。ただ、この問題提起は打ち続く「不毛の対立」の壁を乗り越える糸口になる可能性は少なくないものと思われる。(2017・2・9)
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公明党の折り合いのつけ方の上手さを褒められて
先日、仲間内で「カジノ」をめぐってあれこれと話す機会がありました。この際に淡路島なんかに誘致してははどうかと積極的に賛同するひと、いやそれは御免蒙る、絶対反対だというひとの間で論争になりました。結局は日本にあってもいいが、兵庫よりも大阪辺りが相応しいのではないかというところに大筋落ち着きました。昨年夏にシンガポールに行った際にカジノの現場を見てきた私としては、どちらかといえばカジノ賛成の立場です。ですが、ギャンブル依存症などへの十分な対応が用意されることが必要だろうと思っています。既にパチンコを筆頭に「ギャンブル大国」と言われる日本ですが、その陰で人生の破綻を経験し、悪戦苦闘しているひとが多いことは決して見逃せません▼先の国会ではカジノ導入をめぐる法案の採決で一波乱ありました。とりわけ、公明党が採決にあたって党議拘束を外して議員個人の自主的判断に任せたことが話題になりました。口の悪い向きは、政党として一つのまとまった決断を下せないのはおかしい、政党の体をなしていないとまで言う向きもありました。一方、こういう風に公明党を追い込んだのは自民党政権で、公明党は精一杯抵抗姿勢を示したともいえ、立派だったとの考えもありました。私自身は、後者に近い意見でしたが、もう少し自民党に文句を云ってもよかったのではないかとの思いも否定できませんでした▼ところが、そういう状況の直後の世論調査(共同通信)では面白い結果がでていました。政党支持率において公明党だけが支持率を伸ばしたのです。なぜでしょうか。親しい記者と意見交換をした結果、世論は公明党がひとつにまとまらず、議員個人の自主判断にゆだねたことに新鮮さを感じたのではないか。賛否のバランスがほぼ二対一で賛成派が多く、しかも、山口、井上のツートップが反対したことにも意外性があって、評価する向きが多かったのではないかとの見立てで一致しました。後輩の衆議院議員に訊くと、あらかじめ打合せもせずああいう結果が出たことには党内もみな驚いていたといいます▼この間私の親友が姫路に来て久しぶりに懇談をしました。談たまたま政治の今に話題が及びましたところ、何かとうるさい彼が「俺は創価学会員でも、公明党員でもないけれど、近ごろの公明党は素晴らしい。それは政治課題についての折り合いのつけ方が実に上手いからだ」というのです。つまり妥協の仕方がいいというのです。彼は哲学者の永井均氏の『倫理学』なる著書の一節にある「中庸とは何か」とのくだりを引用してまで、公明党代表の山口氏が中庸の本義をみごとなまで実践している、と力説するのです。公明党が時々の政治課題に対して上手く折り合いをつける手法は、何も今に始まったわけじゃあないと言いたかったのですが、折角褒めてくれるのだからと、有難くお褒めの言葉をおし戴いた次第です。(2017・1・29)
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「死に姿で生き方が分る」ことの大事さー「生死の研究」(2)
「死期を悟って、死を受け入れたと思える人の遺体は、みな枯れ木のようで、そして柔らかな笑顔をしています」-映画「おくりびと」の基になった「納棺夫日記」の著者である青木新門さんの「死を語る」(読売新聞1・22付け)は非常に読み応えがありました。いつの頃かぶよぶよした遺体が増えており、それが延命治療を受けてきた人に多く、それは「死を受け入れず、自然に逆らった結果のようにも感じられます」と述べた後に、冒頭の言葉が続くのです。そして「体や心が死ぬ時を知り、食べ物や水分を取らなくなり、そして死ぬ。それが自然な姿なのではないか」と続けています▼志村勝之氏も彼の母上の延命治療が極めて不本意だったことを述べていて印象深いものがあります。ご本人がそれを望まなかったにも関わらず、結局は最後の段階でそうなってしまったことを悔いているのです。私の親しかった従姉は70代半ばで倒れて、もう意識不明のまま3年近く病床に横たわっています。これはもうむごいとしか言いようがありません。本を読むことが大好きで、あれこれと本の読後感を交わしていた彼女が今のような事態になるなんて。しかし、延命治療を放棄せよなどとはとても言えません。ひたすら耐えるしかないのです。青木さんのいうような死に方をしたくても出来ない。辛いことです▼生きてきたようにしか死ねない、っていいます。しかし、これも残酷な云い方です。意識不明のままで寝たきり状態が続くという、死への道程を誰が元気な時に想像できるでしょうか。私の従姉の生き方にどんな咎があったというのでしょうか。この状態を目の当たりにし、じっと看病を続ける夫の義従兄を思う時に、本当に辛いのは本人ではなく彼だなと思います。そういう老妻を持ち、悩み苦しむ宿命を実感するということで。仏法では「宿命を使命に変える」、と教えています。「悩むより挑む」のだとも。愛するひとが死もままならぬ事態にじっと堪えて寄り添う姿に、多くのひとが感銘すると捉えるしかないと思っています▼私は小学校へ入学する少し前、5歳くらいの時に、祖母と一緒に叔母(祖母にとっては娘)の家に行き、そこで祖母の死に直面した経験があります。初めてひとの死を目の当たりにしました。いらい65年余り。あの時にみた祖母の遺体から流れ落ちた一筋の液体が目に焼き付いて離れません。今私には6歳と3歳の孫がいますが、この子たちに感動を与えるような死に方をしなければ、と思います。勿論、どのように生きてきたかを知ってもらいたいとは思いますが、それを直接分からせるのは、今の歳では無理だろうから、取りあえずは死に方を通じてでしかない、と決意しています。(2017・1・25)
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