Author Archives: ad-akamatsu

被害者ジャーナリズムを嘆くより、琉球ナショナリズムに思いをー「沖縄の今」を考える➀

きょう6月23日は沖縄にとって忘れがたい「慰霊の日」。先の大戦で20万人(米軍兵も含む)もの人が命を落としたことを悼む日である。ただ、日本の各県・地域にとっては、忘れがたいのは、8月15日であって、その日ではないとの印象は強い。日本史において外国から攻め込まれて戦禍に巻き込まれたとの記憶が残るのは、鎌倉時代の蒙古襲来と先の大戦での沖縄戦である。しかし、鎌倉期のそれは海上戦であって、陸上でのものではない。地上戦は沖縄が初めてなのだ。沖縄は歴史を遡れば、琉球王朝が支配をしてきた地域で、日本に組み込まれたのは明治期からである。民族も琉球民族であって大和民族ではない。あらゆる意味で日本における異質の存在が沖縄なのだ。このように述べるのは、沖縄を考えるうえで、一貫してつきまとう「差別」という意識の寄って来る由縁に思いを致さざるをえないからだ■私は公明新聞の記者時代(昭和44年/1969年~昭和62年/1987年)から幾たびか沖縄に足を運んだ。数えきれない思い出があるが、中でも印象深いのは「7・30」(ななさんまる=昭和53年/ 1978年)のとき。それまでの交通ルールが一変し、ひとの左側通行が右側に変わり、車が反対通行になったことを取材するために行ったのである。戦後30年余。本土では壊滅的な戦禍も癒えて復興の雄姿を見せている時に、沖縄はようやく今復帰したのだ、との思いを抱いた。形の上ではようやくアメリカから日本に返ってきたのだ、と。しかし、それはあくまで表面上のことだけで、米国占領下の実態はそれ以降40年近くが経とうとする今もなお全く変わっていない。これを考えるうえで、私たち日本本土で生活する人間の、「対沖縄差別意識」に正面から向き合わなければならないと思う■それを考えるうえで格好の題材は、沖縄県におけるメディアの動向である。同県には琉球新報、沖縄タイムスの二紙しか実質的には存在しないとされている。日経新聞が数年前に鳴り物入りで参入したものの殆どといっていいほど根付くに至っていない。こうした二紙の牙城が揺るがぬことを、長きにわたって私はイデオロギーのもたらす悪弊の結果と思い続けてきた。しかし、10年ほど前に沖縄の地で後輩の遠山清彦代議士(沖縄県を含む九州地域を地盤とする比例区選出)と語り合った時に、自分の間違いを心底から思い知らされた。沖縄が左翼イデオロギーに毒されていると見る限り、真に沖縄を理解することはできない、と。一言でいえば、「琉球ナショナリズム」がその基盤に横たわっているのだ、と知った。琉球の歴史を理解し、思いを寄せずに、結果としての政治の動向を見て、「被害者ジャーナリズム」だとしているだけでは、「沖縄問題」は到底分からないのである■情報誌『選択』6月号が、沖縄の二紙の「本性」を攻撃するとの記事を掲載していた。「偏向報道」合戦の重い罪とのタイトルで。「『反米軍基地』一色の偏向報道を連日垂れ流す。しかも占有率は100%近く、沖縄県民は、その論調に染まっていく」ー「米軍憎し」が生む誤報によって「不都合な真実」は封印されたまま、だというのだ。そうだろうか。確かにここで明らかにされている現実はなにがしかの真実を含んでいよう。否定はしない。しかし、それを補って余りあるくらいに、沖縄のこころから、「米軍」と「日本政府」の現実は遠く離れている。私は、「沖縄が先の大戦で『捨て石』にされ、戦後、過重な米軍基地負担を担わされてきたのは紛れもない事実であり、本土の人間はその過去に思いをはせるべきだ」との数行に注目した。過去形で書かれ、「沖縄の今」に思いをはせていないとの欠点を持つのだが、それでも全編でこの部分だけが「偏向」していない眼差しに見えたからだ。ところが、その直ぐ後に、「しかし、だからといって、沖縄の立場が一方的な報道を許す免罪符にはならない」と続く。これでは二紙の「本性」やその「重い罪」を暴いたことにはならない。沖縄のメディアの現状を嘆く前に、それを許している本土ジャーナリズムの怠慢に目を向けるべきではないか。そして、自民党や公明党の支持率が左翼のそれと拮抗している現状を見れば、沖縄の人々の見方が二紙の論調によって捻じ曲げられているとは思えない。ことの本質はこの二紙が沖縄のこころをうつ「琉球ナショナリズム」を代弁しているところにあるのではないか。「被害者ジャーナリズム」だと切って捨てる前に、むしろ被害者の実態に目を向けるべきではないのか。(2017・6・23)

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「遥かなるルネサンス」展でキリスト教の布教を思う

「遥かなるルネサンス 天正遣欧使節がたどったイタリア」展を神戸市立博物館に観に行きました。これは東京富士美術館の特別企画によるもので、イタリア・ウフィツイ美術館の特別協力のもとに実現しました。勿論、日伊両政府の肝いりによる賜物(日伊国交開始150周年記念事業)ですが、忙中閑あり、なかなか得るところは多かったです。ご存知のように、「天正遣欧少年使節」というのは1582年に長崎からイタリアに向けて旅立った伊東マンショら4人の使節のことで、ローマでは時の教皇グレゴリウス13世に謁見しました。訪問した各地で手厚いもてなしを受けたといいますが、この展覧会では、彼らが訪れた各地を順に追いつつ、それぞれの都市の芸術作品を紹介しようというものです。ブロンズィーノ(ビア・デ・メディチの肖像)やティントレット(伊東マンショの肖像)の絵画作品やら、タピストリー、陶器、ガラスなどの工芸品、書簡資料が展示されていました▼出発から3年経った1585年にヴェネツィアに到着(そこには10日間いました)、その後難行苦行の末に帰国したのは1590年といいますから約8年間程の文字通りの長旅でした。出発した頃の伊東マンショは12歳くらい、イタリアで歓迎を受けた頃は15歳。帰ってきたときは20歳になっていたはず。この展覧会はルネサンス期のイタリアの芸術を鑑賞することが主たる狙いですが、どうしても彼らが派遣された頃の日本の宗教事情に思いが飛びます。時あたかもキリスト教の世界布教盛んなる頃。とりわけ九州の地では大名で洗礼を受け、信者になるものも多くいました。イエズス会士ヴァリニャーノが日本における布教をさらに進めるために、この4人(伊東のほか、原マルチノ、中浦ジュリアン、千々石ミゲル)ーいずれもキリシタン大名有縁の若者だったわけですがーが選ばれました。彼らが行った頃と違い、帰ってきた頃にはキリスト教をめぐる事情は違っており、まさに”行きはよいよい帰りは怖い”でした。その後の彼らの人生は迫害の連続で、殉教の道をたどります▼私は西洋の絵画を観るときは、どうしても寓意を探る癖があります。だからといってなにもかもその角度から観てるわけではありません。ですが、単なる肖像画や風景画では物足りず、絵画の中に何気なくはめ込まれた動物や人間の表情を通して作者が何を意図しようとしたのかを考えさせる絵に興味を持ってしまうのです。この日の作品でも、例えば、「息子アンテロスをユピテルに示すヴィーナスとメルクリウス」という作品の中に描かれたワシに注目しました。これは私が気づいたのではなく、そんなことをあれこれと話しながら会場を歩いてるときに、一緒に行った私の友人が指摘してくれて気づいたものです。尤も、これとて正直どういう意味合いがあるのかはにわかには判じることは出来ぬまま通り過ごしましたが▼その友人は、成川愼吉君といい、ハリマ化成を定年後に学芸員になったり、気象予報士の資格をとってあれこれと研究するという豊かな才能に恵まれた変わり種です。研究対象は神戸の生んだ画家「金山平三」について。彼は気象予報士としての知見をもとに画家が描いた当時の天候と絵との関係を追うというのです。彼は今まで3回もフランスに渡り、観光の傍らパリ時代の金山平三の足跡を追っています。つい先日も4回目の訪問をして、彼の描いたある絵の制作当日の気象状況を調べに行きました。実はそれに関する資料があるのではないかと、パリの日本大使館に聴いてほしいというので、旧知の木寺昌人大使を紹介したものです。同大使も彼の熱心な研究姿勢や博学ぶりに驚いていたようです。こういうマニアックな趣味を持つ友人の解説付きの鑑賞は、何時にもまして贅沢で充実したものになりました。(2917・6・18)

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「がん難民はどうするか」との坂口力先輩の講演を聴いて

「がん難民はどうするか」-最初、「がん難民をどうするか」の間違いではないかと思いました。坂口力元厚生労働大臣が元議員の会合で講演された際のタイトルです。冒頭、ご本人から、がん難民の取り扱いをどうするかよりも、がん難民自身としての対応をどうするかとの観点からの話をしたいとの講演趣旨が披露され、納得しました。さすが、坂口先輩らしい視点で、体験を織り交ぜての聴きごたえある中身でした。同氏は今から8年前に大腸がんを患われ、小腸と大腸をあわせて30センチ切られたとのこと。余命3年と言われたそうです。昭和9年のお生まれだから、御年83歳。年齢相応の雰囲気を漂わせられてはいるものの、演壇での講演ぶりは現役時代と全く変わりません。ご自分で作成されたと思われる映像を縦横無尽に駆使ししての展開は、お見事という他ありませんでした▼お話では直接的には触れられませんでしたが、現在は東京医大特任教授をされており、「統合医療研究」に従事されているご様子。ご自身の闘病にあっても抗がん剤を使わずに免疫療法を受けたとのこと。この日の講演でも随所に、代替医療をめぐる話題が顔をのぞかせていました。とりわけ興味深かったのは、アメリカでの代替医療の実態。年間1億ドルかけての研究が進められており、がん患者の45%が代替医療を取り入れているといいます。一人平均57000円もの出費との統計報告もあり、健康食品が主で主治医には相談しないというケースが専らのようです。しかし、日本では、➀三大標準医療(外科手術、抗がん剤、放射線)に取り組んでいる医師の多くは、代替医療を頭ごなしに否定することが多い➁三大標準医療でがんが完治しないから、代替医療へ患者は走る。しかしながら反対する医師がなぜか多い⓷代替医療について、知識のない医師も多く存在するーという状態が続いています。坂口氏は「アメリカは効果があって副作用がないものには柔軟だ」と指摘したうえで、日本も治療の幅を広げ、代替医療も含めて併用療法を認めるべきで、社会全体で相談する仕組みを作る必要を強調されたのが印象に残りました▼また、「がん難民はなくなるか」という課題については、ポイントとして「医師と患者は治療法を話し合うことになっても、医師は最後の決定権を手放せるか」と力説。坂口氏の場合、主治医が「抗がん剤をつかうかどうかは自分で決めよ」と言われた結果が、免疫療法を選んだことに結びついたことを明らかにしていました。さらに、優れた治療法を確立したひとが社会から法の名において排除されたケースが多数あるとのエピソードには、全く初耳だっただけに驚かされました。主題である「がん難民はどうするか」については➀医師はあなたの人生まで考えて治療をしてくれるわけではない➁自身や家族、社会における立場を考えて治療方法を決める必要があり、医師にいうべきことは明確に伝えるべきである⓷がん治療の選択肢は大幅に広がり、完治の希望が生まれてきたーとしたうえで、「人生は残された時間が重要である。それは諦めることではなく。残された人生に希望を見出すことである」と強調されていたのは胸にあつく響きました▼「がん難民をどうするか」をめぐっては、「患者の意見を充分に聞き、家庭環境、社会環境を考慮して、医師を含めた各分野の専門家が集まり、どのような治療が望ましいかについて協議し、決定する体制を作る」ことを提案されました。その理由として、「医療としての最善の方法が、患者の残された人生にとって、最善とは言い難い場合があるから」だ、と。なかなか現状では困難ではないかと思うものの重要な指摘だと言わざるを得ません。最後に、「がんは人間に考える時間を与えてくれる疾病である。自分の人生を生きがいのあるものにするための期間をがん患者は要求している」とする一方、「研究者に告ぐ」とことわったうえで「根治が難しくても、がんと共存の時間を延長する研究も、するべきではないか」と強調されました。まさに遺言であるかのごとく重く聴いたのは私だけだったでしょうか。政治家への信頼が薄れいくことが強調されがちな今日、まことに素晴らしい先輩を持ったと誇らしい思いに駆られたしだいです。                                      (2017・6・8)

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「核兵器廃絶」への遠すぎる道➄ー注目されるSGIの地道な闘い

先日、アメリカの首都ワシントンで、米SGI(創価学会インターナショナル)が「核兵器政策の根本的な変革を目指して」と題する会合を開いたとの報道に接した。その会議では、国連で核兵器禁止条約制定に向けた交渉が進んでいることを受け、学者や専門家、市民団体の代表らが活発な意見を交換したという。四つのセッションでは、1)深まる核戦争の危機について2)核兵器の人道上の影響について3)宗教間の協力や青年の役割をめぐって4)核兵器政策の根本的変革に向けてーなどがテーマとなった。プリンストン大学・科学と地球安全保障プログラム共同ディレクター、グローバルゼロ共同創設者、軍備管理協会事務局長らの基調報告や広島の被爆者の体験談などを聴いたうえで、参加者相互の活発な議論が展開された。こうした地道な実践が持つ意味を考えるにつけても、この団体の「核廃絶」に向けての歴史的な経緯に思いを致さざるをえない▼創価学会の戸田城聖第二代会長が1957年に行った「原水爆禁止宣言」がその活動の原点をなす。「(生存の)権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」との発言を受けて、その弟子として第三代の池田大作会長(現SGI 会長)が60年後の今日に至るまで、営々と「核廃絶」に向けての闘いを展開してきた。これは生命の尊厳を説く仏法を基調とした、草の根の平和運動として遍く知られている。核廃絶のための展示の開催から始まって、被爆者の証言を収録した反戦出版物の刊行、各種の講演会、セミナーの開催や意識調査や署名活動など、日本から世界に向けての民衆に根差した運動としてうねりを高めている。一方で、毎年1月に発表される池田会長によるSGI提言は、微に入り細にわたって、ありとあらゆる角度からの「核廃絶」に向けての具体的な提案をしてきている。一例を挙げると、2006年8月に同会長は核兵器廃絶に向けた民衆の力を結集する目的で、「核廃絶に向けての世界の民衆行動の10年」を国連で制定しようと提言をした。一般民衆や市民社会が主役になって政策責任者に核兵器廃絶を強く求める活発な世論のうねりを起こすことを狙いとしたものであった。この提言を受けて、SGIは2007年9月に「民衆行動の10年」のキャンペーンを開始。これは、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN) などの様々な国際的な運動と連携しながら、核兵器禁止条約の実現に向けて行動してきた。本年9月でちょうど10年、区切りを迎える▼先日、国連での交渉会議を前に英字紙「ジャパンタイムス」のオピニオン欄に池田SGI会長の寄稿文(本年3月1日付け)が掲載された。そこでは、唯一の核被爆国日本が国連での交渉会議で積極的なとりまとめに貢献すると共に、交渉会議を力強く支持する市民社会の声を届け、核兵器禁止条約を”民衆の主導による国際法”として確立する流れを作り出すべきだと呼びかけている。この主張に多くの点で賛同している黒澤満大阪大学名誉教授(元日本軍縮学会会長)が、核なき世界を築くための方途として、様々な国々やNGO(非政府組織)が提起している具体的な道筋を挙げており、興味深い。それは、1)核兵器国が中心になって核兵器禁止条約を締結し、段階的な廃絶と検証を目指す2)核兵器国の参加がなくても、まず核兵器の使用と保有を禁止する条約を締結する3)地球温暖化防止のための「気候変動枠組み条約」のような形で、まず条約の枠組みをつくり、詳細は議定書で規定する4)実際的な措置を積み上げていく漸進的なアプローチ5)可能なものから、一つずつ取り組みを進めるステップ・バイ・ステップ方式の五つだ▼当面は1)は到底無理で、2)がうまくいくかどうかが焦点だろう。そのためには、やはり日本の八面六臂の活躍が必要となってくる。小泉純一郎元総理や細川護煕元総理が「原発ゼロ」に向けた活動を展開し話題を呼んでいることは周知のとおりだが、核廃絶に向けても共同行動を起こしてほしい。この問題についてすべての団体が党派を超えて一致団結して立ち上がることが切に望まれる。「愚行の葬列」に切れ目を作り、大きく希望を持たせるのは唯一つ世界各地で広まる「賢者の陣列」だと思いたい。(この項終わり=2017・6・3)

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「核廃絶」への遠すぎる道➃-今こそ「持たせず、作らせず、使わせず」の”新非核3原則”を

北朝鮮の核実験や弾道弾ミサイルの発射をめぐって日本周辺に危機感が高りかけたちょうどその頃の5月2日に、NPT(核不拡散条約)再検討会議に向けた準備会議がオーストリアのウイーンで開かれた。核不拡散体制の基盤をなすNPTは、5年ごとに運用を検討する会議が開かれており、次回は2020年に予定されている。この日の会合は、それに向けての第一回目の準備のためのものであった。今、核兵器を弄ぶ北朝鮮のような怪しげな国家の存在が、地球を蝕む癌のように危惧されている。そんな中で、世界の良心ともいうべき動きが遅々としたものではあるが展開されてきていることは注目されねばならない。”一歩前進、二歩後退”といった従来の歩みを一変させ、数段跳びに換えたと思わせたのはオバマ米大統領の2009年のプラハでの演説であった。「核兵器のない世界」を真面目に模索しようとするこの演説は、近年にない核兵器禁止への議論の進展をもたらしたかに見えた。翌2010年には、NPT再検討会議における最終文書において、核兵器の使用がもたらす壊滅的影響を認識すると共に、核兵器禁止に向かっての枠組みを創設するための努力の必要性が盛り込まれたのである。今更という感がするのだが、多国間の核軍縮交渉の長きにわたる停滞や、その一方での核兵器の近代化の進展という事態を鑑みるとき、無視しえない希望の兆しとも言えた■それから5年。次のNPT再検討会議が開かれた2015年には、核兵器の廃絶こそが人類の生存にとって欠かせないとする共同声明を支持する国が159か国にまで及ぶことになった。この間に、2012年にスイスなど16か国が音頭を取っての核兵器廃絶へのアピールや、2013年以降、ノルウエー・オスロ、メキシコ・ナヤリット、オーストリア・ウイーンの三回にわたる会議で核兵器の非人道的影響を科学的に検証する試みなども行われた。こうした動きがあったうえで、いま2年を経て次の2020年の再検討会議に臨む段階にある。「人道優先」の観点から今の事態をどう乗り越えて進むかについては、おおむね3つのアプローチがあるとされている。一つは、文字通り真正面から核兵器を廃絶せよと主張する立場である。これに賛同する国家は、非同盟諸国を中心とした159か国が挙げられる。二つ目は、核兵器国と同盟関係にある国家群で、人道性は勿論だが、安全保障面も考慮すべきだというもので、日本をはじめオーストラリア、ドイツ、オランダ、カナダなどの中堅国家群が位置する。そして三番目が、アメリカ、イギリス、フランス、中国やロシアといった核兵器の廃絶は安全保障が確保されなければ意味がないとする核兵器保有国家である。こうして改めて三つのアプローチの主張と分布をみると、まさに50年一日の如く変わらぬ人類の性(さが)とでもいうべきものを感じざるを得ない■そのなかで、日本は唯一の被爆国だけに常に注目を浴びるはずの立場である。しかし、アメリカの核の傘に入っているがゆえのジレンマから抜け出せない。戦後70年余の歴史を追う時に、時に核廃絶への希求が高まった時はあったが、結局は現実的安全保障論の前に潰えてきたことは否めない。「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という佐藤栄作首相の頃に掲げられた「非核3原則」にしても、三原則目は公然たる事実としての「核持ち込み」が話題となってきた。そんな中、私は公明党の安全保障分野の責任者として、この原則の生ぬるさに問題の根源があると主張した。つまり、日本が核を持たない、作らないというのは、自分を律する縛りを公表しているだけであって、他国に対する働きかけをする必要があるとしたのである。すなわち、「核兵器を持たせず、作らせず、使わせず」との新しい原則を作るべきだというものであった。「新非核3原則」の名のもとにその時の党大会での政策に採用された。しかし、世の中へのインパクトは弱く、僅かに朝日新聞一社だけが反応を示し、三段記事で扱ってくれたことを鮮明に覚えている。実は、後になって秋葉忠利氏が市長の時代に広島市がほぼ同じ趣旨のものをかかげたが、これは明らかに私の提案のパクリである。あれから10数年が経ち一歩も状況に変化がないことを憂えるとともに、自らの非力を恥じる■たとえ、いかに非現実的に見えようとも、あくなき挑戦をしていくことが大切であることを今にして強く感じる。現実政治は確かに核兵器の抑止力なるものを肯定せざるを得ない。核兵器大国が持つ理由をそのまま認めて、非核兵器国に持つなと、押し付けることにはご都合主義を否定できない。しかし、これを言いだすと堂々巡りになるのが関の山だ。一方で、現実論を戦わし、もう一方で理想に向けての不断の努力を続けることが大事であるとつくづく思う。日本こそ被ばく国として、核兵器保有国のアメリカ以下の国々に強く訴えていく必要がある。そのことと、アメリカと軍事同盟を結んでいることとは決して矛盾しない。心ならずもの核の傘入りであることを堂々と言っていくというのはどうか。まずは核兵器は廃絶するしかないという強い主張に日本が立たねば、こっかとして恥ずかしい。自民党と連立政権を組んでやがて20年を迎えようとする今だからこそ、公明党は「新非核3原則」に立ち返るべきだと訴えたい。(2017・5・27)

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「核廃絶」への遠すぎる道③-切れ目なき 「愚行の葬列」

全体主義国家による分割統治での未来社会の恐怖を描いたジョージ・オーウェルの小説『1984年』が書かれたのは1948年のこと。それからほぼ70年が経つ。小説のゴールとされた1984年に刊行され、その当時アメリカでベストセラーになったバーバラ・タックマンの『愚行の葬列』なる本の存在を知ったのは、永井陽之助の名著『現代と戦略』による。『平和の代償』を書いて、政治意識論や政治行動論の研究から国際政治学の世界に転じた永井先生。私は大学時代に講師として来られていた同氏の謦咳に接した。映画の名場面や小説の名表現などをしばしば引用し、巧みな比喩を織り交ぜた講義に、若き日の私は大いに魅了されたものだ。タックマン女史はその著作の中で、「トロイの木馬」から「ベトナム」にいたるまで、人類の歴史は、まさしく「愚行の葬列」だと言い切る。30年余が更に経って、延々と続くその列の長さたるや霞がかかって前も後ろも全く見えない。永井氏は、核兵器を水晶玉(クリスタル・ボール)に譬え、アメリカがベトナムからの遅すぎた撤兵を決断し、フルシチョフのソ連がキューバ危機でミサイル撤去という屈辱の道を選ばざるを得なかったのは、水晶玉に写った「核戦争の地獄図」を見たからだという。現代世界の指導者たちの目が曇っていないかどうか。心もとなさが募ることはいかんともし難い■「核抑止論」ーこれこそ第二次大戦後の世界を貫く「平和」への迂回の道とされてきた。相手国が核戦争の脅威を感じ、戦いに手を染めることを思いとどまるだけの脅威を与える力を持たねば、戦争を回避できない。結局は抑止するに足る力を持つために際限なき競争に陥る。かつての米ソ間のほぼ同等と見えた核開発競争から一転、非対称的な関係における核の脅威が今や最大の問題となってきている。北朝鮮は金体制の存亡の危機を賭けて、アメリカの一都市を標的にしようとしているのだ。文字通りの「弱者の恐喝」を前に、「強者の傲慢」は色褪せて見えかねない。「外交とは、文化を異にする相手国の発する『予兆的警告』のサインを正しく読みとるわざ」(永井陽之助)だというものの、「新冷戦後」の”テロ戦争の時代”におけるその「わざ」はしばしば後方に追いやられかねない。「わざ」を駆使するよりも力で一気に圧し潰す誘惑に駆られがちである。元防衛省の高官であり内閣官房副長官補であった柳澤協二氏は、野に下ってほぼ10年近く、手を変え品を換え『抑止力を問う』作業を続ける。その彼が『安保研リポートVOL12』の「北朝鮮の核開発とどう向き合うか?」という論考で「北朝鮮が核を持ったという不愉快な現実を前にして」、我々に問われているのは「戦争に勝つように備えるのか、それとも様々な問題を解決しようと行動するのか、という選択だ」と結論付けているのは今更ながら興味深い■安倍政権は、「安保法制」を成立、施行させてより、戦争に備えようとする側面ばかりが強調されてきている。「勝負をするのなら、勝たねばならない」は世の常識だが、万が一に備えることがいつの日か主客転倒し、戦争に勝つことが前面に押し出されてきかねない。どこまでも相手の「予兆的警告」に全神経を研ぎ澄ませ、外交の手練手管を駆使することが先決だろう。安倍政権は公明党が連立を組んでいることを忘れてはならない。集団的自衛権をめぐっての定義、解釈において微妙な食い違いを見せ、同床異夢の結果としての「安保法制」だけに、不断の応用展開の場面で、公明党は”らしさ”を見せねば、「平和の党」の看板が泣く。ここは、「様々な問題を解決しようと行動する」ように動かねばならないときだ■今年の憲法記念日当日、安倍首相は読売新聞のインタビューに答える形で、憲法改正の期限を「2020年施行」と区切り、9条改正に取り組むべきだとの考えを示した。その改正の在り様として、9条1項、2項をそのままにして3項を付け加え、自衛隊の存在を明記してはどうかと呼びかけた。これは率直に言って驚く。前号の『安保研リポート』で、私はかねてからの9条3項に自衛隊の存在を明記するとの”自前の加憲論”に触れたうえで、今後の改正へのスケジュールを予測していたからだ。安倍首相は、高等教育の無償化問題は別にして、ほぼ私と同じことを提起してきたのだ。この辺り、首相が加憲を主張する公明党や改正を目指す維新の党を見据えたうえでの”意匠を凝らした投球”に違いない。前号に書いたように、公明党内には私の意見に賛同するひとはかつては殆どいなかった。今はどうか正確には分からないが、恐らくはごく少数意見に留まろう。勿論私とて、2項をそのままにして3項に自衛隊の存在を明記することが、世にそのまま通用するとは思っていない。そのことを提起することこそ重要な「改正への導火線」になるはずとの見立てであった。この「改正」についても安倍首相の周辺には、公明党のスタンスと正反対の面々がいることには要注意である。日本の未来に向けてかつての「保守対革新」の対立軸から、今は「保守対進歩」と呼称されるようである。左右の二極対立の呼び名がどう変わろうとも、中道の旗印にはいささかの変化はなく、日本の進むべき道を誤らせないバランサーの役割を果たすことが強く期待される。(2017・5・20)

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高田屋嘉兵衛に学ぶ「北前船フォーラムin淡路島」での出会い

高田屋嘉兵衛ー司馬遼太郎の小説が好きな人なら誰しも知っているに違いないでしょう。『菜の花の沖』の主人公で、江戸時代後期に廻船業を営み、北前船航路で活躍した人物です。日本海沿岸の港を結びながら大坂(大阪)と蝦夷地(北海道)の間を行きかい、様々な物資を売りさばき大をなしました。この北前船が運んだものは単なる地域の名産だけではなく、各地の文化の相互交流にも大いなる貢献をしたことは想像に難くありません。この偉大な業績に刺激を受け、往事を偲びつつ、現代の地域おこしに活用しようという試みが、ほぼ10年前から秋田の地で始まりました。「北前船フォーラム」というタイトルのもと、これまで18回にわたって北前船の寄港地で開かれ(第一回は山形県酒田市)て、各地の振興発展に寄与してきたのですが、それがついに兵庫県淡路島にやってきました▼第19回「北前船フォーラムin淡路島」は、高田屋嘉兵衛の生誕の地(現・洲本市五色町)にほど近いホテルで11日、12日と行われ、私も出席してきました。このフォーラムの存在は実は発足当時から良く知っていました。というのも、立ち上げに尽力した発起人複数が以前からの友人だったからです。一人は代表の石川好(作家)さん、もう一人は相談役の浅見茂(創価学会元男子部長)さんです。この二人は石川さんが秋田県のある大学の学長に就任した時に知り合い、意気投合したと聞きます。私は『ストロベリーロード』で世に華々しく登場した若き日の石川さんを、雑誌『公明』誌上で取り上げるために取材して以来の付き合い。浅見さんとはかつて創価学会第一次青年部訪中団のメンバーとして一緒に訪中した仲間です。加えて慶大時代の同級生・梶明彦氏(元日航取締役)が副会長として名を連ねているということもあって、注目せざるを得ない団体でした。しかも「瀬戸内海島めぐり協会」の一員として、私はこの地の観光振興に役立とうと立ち上がってるときだから、不思議と云えば不思議です▼前夜祭は実に楽しいものでした。圧巻は淡路島の人形浄瑠璃公演と徳島阿波踊りの協演でした。単なる踊りだけではなく、人形浄瑠璃の人形を押し立てての阿波踊りには居並ぶもの皆が感動しました。また当日のフォーラムは二部形式で、前半は「航路としての瀬戸内海」と題して、田辺眞人(園田学園女子大名誉教授)氏が基調講演。その後、三好正文(神戸新聞パートセンター長)氏や木下学(淡路島観光協会副会長)氏らのパネルディスカッション「観光振興と地域創生~高田屋嘉兵衛のフロンティア精神に学ぶ」。これまで、淡路島の地域おこしには少し悲観的になっていた私ですが、木下氏の意欲満々の発言にいささか胸をなでおろした次第です。また、高田屋嘉兵衛に心酔する佐々木吉夫という博多の84歳の経営者のひたぶるな生き様には深い敬意を抱いた次第です。また二部は、瀬戸内観光とクルーズについて、国交省の水嶋智さん(鉄道局次長)のコーディネートによるディスカッションで、JTB、ベネッセ、JR西日本、ANA、JALといった観光に関わる大企業経営体の専門家の発信力は見事という他ありませんでした。以前に国交省に太田国交相を訪ね、淡路島海域問題で要請した際に港湾関係の部署の課長だった水嶋さんとは初めて会いました。別れ際にいかに「北前船フォーラム」が地域創生に意欲的な団体かを熱心に語っていました。あれから5年近い歳月を経ても、彼は微動だにせずこのグループを支援しています。その役人魂のブレのなさに感動を新たにしました▼私が今密かに仲間たちと構想を温めている「大阪湾周遊クルーズ」は、この「北前船」の入口であり、出口に位置するものです。ほぼ200年前に高田屋嘉兵衛が壮大な交易に身を捧げたこの海域に、今度はインバウンドの海外の客たちを送り込もうという試み。世界の人々との文化交流にどう役立てるか、あれこれと構想を思い描くうえにうってつけの機会を得ることが出来ました。昔懐かしい仲間たちとの旧交を温めながらの楽しい語らいと学びの時間の短かったこと。持つべきは過去から未来へと続く友だと心から思い知りました。(2017・5・13)

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「核廃絶」への遠すぎる道➁-はみ出し者の脅しに打つ手なし

北朝鮮が核実験の遂行など核開発を着々と進めてきたことを罵ることは容易にできる。およそ地上に生存する生き物を根絶やしにしてしまう非人道的兵器を、国家間の交渉ごとにおいて弄ぶなどという事は許されることではない。しかし、現実には人類はキューバ危機以来の核危機に直面していながら解決への決定打を見出しえていない。このところ、メディアで展開されている北朝鮮の核開発をめぐっての議論は、堂々巡りを繰り返すのみと言ってもいい。先日NHK総合テレビでの専門家6人による議論を聴いていても、北朝鮮の核開発を止めさせるための打つ手なしという他ない中身に終始していた。人類は極悪非道の道具を作り出したうえ、それを拡散させた。ヒロシマ、ナガサキに始まった悲劇の歴史は70年余りの歳月を経て、一段と深刻な状況を生み出してしまった。今や核兵器を逆手にとって国際間のゲームを自己に有利にすべく使おうという存在を否定することは極めて厄介な問題になっているである▼北朝鮮の主張は煎じ詰めれば、大国だけが保有を認められ、そうでない国々が持てないというのはおかしいということに尽きる。国際社会における弱者が大国と対等に渡り合える唯一のカギを握っているものが核兵器であるとの現実は益々重要になってきている。米ソという東西の両大国が核開発競争をし、他のすべての国々が固唾を吞んでその推移を見守った時代はまだしも「平和」な時代だったかもしれない。ヤクザのにらみ合いに似て、堅気には迷惑をかけないという不文律のルールめいたものがあったなどという不適切な譬えを持ち出すつもりはない。だが、少なくとも「暴発」は起こりえぬはずとの妙な確信はあった。しかし、今日では北朝鮮にそうしたことをしないとの保証を求めることは容易ではない。核兵器を放棄することが、かつてのリビアのように国際社会で抹殺されることに繋がると見ている可能性は高い。さらに、少しでも気を抜けば現体制転覆の危機を招きかねないだけに、座して死を待つよりも、との不吉な予測すら現実味を帯びてくるのだ▼近過去における核開発競争で見た風景で生々しい記憶は、米ソ対決におけるソ連の後退である。宇宙開発で後手に回ったうえ、過剰なる経済・財政負担に耐えられなくなったソ連が対米競争の座から降り、体制変換のきっかけとなったことは、この問題における楽観的見通しが存在する土台を形成している。やがては北朝鮮も競争に耐えられず、内部的要因から必ず崩壊の兆しが見えてくるはずとの希望的観測である。私自身もかつてその議論に与しつつ、北東アジアにおける近代化の相違を論じたものである。つまり、北朝鮮はプレ近代の国家であるがゆえに、今まさに近代をいく中国や韓国、そしていち早くポスト近代に入った日本やアメリカなどが同じ地域で生きていくためには、早急にその文化レベルを上げるしかない、と。しかし、これも机上の空論の域を出ず、簡単にことは運ばない。米ソのように、ほぼ対等な力関係の中での競争はある意味で決着がつきやすかった。だが、非対称的な関係におけるゲリラ的喧嘩での勝敗はなかなか時間がかかるように思われる▼通常の社会常識、国際常識が通用しない、価値観を異にする者が暴れ出したら、いわゆる普通の感覚に立つ側としては、その対応は困難を極める。加えて、北朝鮮の核開発をめぐる動きは、トランプ米国大統領の登場という予測困難な要素がその危険性を増長させた側面が無視できない。シリア攻撃の劇的展開に見るように、”北朝鮮潰し”にかかる大国のエゴという危険性である。双方のリーダーの特殊性といった従来にない要素も絡んで、今回の核危機は大いなる”チキンレース”との見方もなされている。今のところ、それは寸止めとなって回避される公算が高いようだが、核兵器廃絶の道の遠さだけは確実に実感させられたといえよう。(2017・5・7 )

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「熊森協会」と一緒に歩んだ20年

一般財団法人「日本熊森協会」の設立20周年記念の全国大会が22日に開かれました。この協会の顧問を務める私は午前中の一部のみ(午後は所要のために欠席)参加しました。思えばこの会とのつながりは長いものになります。ほぼ結成以来と言ってもいいかもしれません。私の街頭演説と彼らの宣伝活動が鉢合わせしたのがきっかけ。「くまもりって、一体なんの団体?」「一度森の実態を見に行きませんか。見て頂ければわかりますから」ーこうしたやりとりから始まって、後に衆議院の環境、農水委員会などで、くまと森の側に立った質問をしたり、議員連盟発足に動いたり、奥山保全トラストの公益財団法人化にも精一杯尽力しました。しかし、決して私は真面目なサポーターではありませんでした。「熊森」の運営の展開の仕方にあれこれ批判してきたからです。森山まり子会長が冒頭の挨拶で「この20年、一切ぶれずにやってきました」との述べたことをわが身に当てはめながら感慨深く聴いたしだいです▼森山まり子さんというひとは、本当に凄い情熱家であり、芯の通った教育者であり、妥協を知らぬ信念のひとです。25年程前の1992年1月に朝日新聞紙上に載った一つの記事がすべての始まりでした。それは、「ツキノワグマ 環境破壊に悲鳴」という見出しで、森が荒廃することでそこに棲めなくなったクマが人里に降りるようになり、人間に捕獲されたり殺され、やがて絶滅してしまうので、との内容でした。それを見た兵庫県尼崎市立武庫東中学校の理科の教師だった彼女は、教え子たちと一緒に「クマを守れ」という運動を起こして行ったのです。いらい5年の助走期間を経たのちに、実践自然保護団体としての「日本熊森協会」が設立されるにいたったのは1997年4月のことでした。まさに山あり谷ありのこれまでの歳月でしたが、この間の活動を要約すると、1)全国各地に足を運び、奥山に実のなる木を植樹 2)鳥獣保護法などの改悪との闘い3)外来生物の根絶殺害に反対する運動の展開4)ナショナルトラスト運動の展開5)兵庫県クマ狩猟再会反対運動の展開などが挙げられます▼こうした活動ぶりを振り返った時に、本当に会長をはじめとする中心者たちの献身的な努力に頭が下がる思いです。が同時にもう少しやり方を変えた方が良かったのでは、との思いも禁じえません。その最大のものはクマと森を一緒にしないで、運動を分けた方がいいのではないのかとの思いでした。これはことの根幹に触れる問題提起です。一般的には、どうしても森の荒廃の予兆がくまに表れるとの主張は受け入れられない向きが多いのです。その一方、森の方は、比較的荒廃が進む現状を認識しており、行動を起こすことに共感しています。幾たびか私はこのことを指摘しましたが、結局は無駄に終わりました。ある意味、これは譲れぬ生命線だからでしょう。単に森を守れ、ではそこらに存在する自然保護団体と全く変わりません。この団体が目指す根源は、生きとし生けるものの共存にあり、ひとと大型動物との共存共栄にあるのです。「ひととクマとどっちが大事なんや」との質問には「どっちも大事や」とのこたえしかないのです▼動物の命は大事だけれど、人間の生活も守らねばならないーこの二律背反に見える課題を解決することは極めて大事です。先日、ある政治家と話していて、熊森は熊を殺すなというが、それはオーストラリアのクジラを殺すなという運動をしている人たちとダブって見えてしまう。クマを守れは、あまりにピュアな主張過ぎて、賛同しがたいというのです。また、リニアモーターカーの反対運動も、自然保護の度が過ぎるという意見も強いものがあります。政治は妥協の世界ゆえ、なかなかこうした意見が素直に受け入れられず、この団体が誤解されている源になっています。つまり極端な原理主義の団体ではないか、と。また、あの東日本を襲った震災と津波による東電福島原発の事故いらい、巨大事故による自然破壊に目が向きがちで、くまと森の相関関係から自然環境保護を守る運動が遠ざけられがちの傾向が出てきています。かつて2万人を超えた会員も、今減少気味なのはそういったことの影響かもしれないと見られます。今回の大会のスローガンであった「日本にも欧米並みの大自然保護団体を!」との叫びは深く心に響いてきました。私は、いま『熊森協会をめぐる10問10答』という電子書籍を準備中です。少しでもこの運動のお役に立てればとの思いからです。(2017・4・25)

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「在宅医療」の罪深い現実を見せられて

、先日テレビを観ていて大きな衝撃を受けました。それは著名な医師・早川一光さんの『こんなはずじゃなかった 在宅医療 ベッドからの問いかけ』というNHKのETV特集です。昨年に放送された分の再々放送のようなものでしたので、ご覧になった方も多いと思います。何にショックを受けたかというと、信じていた人に裏切られたということでしょうか。早川さんという人を私は深く尊敬していました。それは一度だけ聴いたラジオ番組に起因しています。ご自身の病院を訪れる高齢の男女の患者の姿の観察を通じて、人間はひとと繋がっていることが大事であることを説き、そして笑いがひとの健康にもたらす効用について語った含蓄ある中身のものでした▼この人は、現在93歳。戦後京都市西陣で住民の手による堀川病院を作り、「在宅医療」という言葉も制度も未だなかった時期から、積極的に地域にでて往診医療活動を展開して、病院ではないところでも安心して医療を受けられる仕組みを整えることの大事さを訴え続けてきたのです。今回私が観た番組では、その偉大な医師自身が「多発性骨髄腫」というがんを患われ、いたって気弱になられている姿を描いていました。早川さんが信じてきた「在宅医療」が結局は砂上の楼閣だったのではないか、という風にご自分が思っておられるように受け止められました。ご自分の病んだ姿を赤裸々に放映されるということに大変な勇気を感じますが、一方でここまでさらけ出さずともいいのではないかとの思いが禁じえませんでした。医療の現状と人間の弱さが同時に映し出されて、信じていたものが同時に崩れ去る危うさを実感してしまったのです。どこまでも先生には孤高の姿を貫いてほしかったのに▼後輩の主治医が訪問して「早川先生が死を怖がっているのを見るのは最高です」と言っている場面や、早川先生に究極の選択を迫ったる場面が極めて印象的でした。それは、主治医が「痛みや苦しみを感じた際に、自宅から病院に行くと、それから解放されるが、それだと、自宅で死を迎えるという(早川さんの)年来の願望を果たすことができないかもしれません。また、ずっと自宅にいると、痛みや苦しみから逃れられないかもしれません。さあ、どっちを選びますか。先生ご自身の判断ですよ」という風に早川さんに迫ってるところです。結局、早川さんは決断を先送りしてしまうのです▼「自分ががんを患うとは思わなかった」とか「枯れたくない。熟れるのならいいが」とか、極めて人間的な発言も口にされるのは聴きたくないとの思いが強くします。テレビ放映の狙いは、在宅治療の制度的問題点に早川さん自身が気づいたことを「こんなはずではなかった」とするところにあったと思います。しかし、実際には人間の生き方をして早川さんに「こんなはずではなかった」と言わせているように思われます。人生の晩年にあたって、ひとを根底から救うのは医療だけではない、宗教、哲学、芸術といった分野も含む「総合人間学」だということに、早川さんは早い段階からひとに訴えていたはずなのに。それにつけてもこの番組は罪深いと思います。できれば早川さんには、強がりであっても、たとえ幻想であっても、強い人のままの姿を見せてほしかった。かつては患者の急な容態の変化に対応するために枕元に置いてあった携帯電話。それが今ではご自身が夜中に寂しくなって安心を得るために掛ける役割へと180度変わったというのではあまりに残酷という他ないのです。(2017・4・18)

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