Author Archives: ad-akamatsu

【93】〝消えゆく運命〟に抗う小売市場━━AKR総会から/5-30

 AKR(全小売市場連合)共栄会の顧問に僕がなってから四半世紀を超える。大型スーパーの進出を前に町の小売市場が苦戦を強いられている状況をなんとかせねばと、前世紀末に当時の専務理事の河田正興さん(故人)が、仕入れと配送と保険を三位一体のものにして組み上げたのはグッドアイデアだった。大衆の側に立つ政治の担い手として政治家になった直後に、毎日新聞大阪本社の幹部だった大学同級の友人から紹介されて彼と会ったのが始まりだった。歳月が流れ、一段と小売市場を取り巻く状況は厳しい。とりわけコロナ禍の奔流に河田さんが早々に飲み込まれて逝ってしまったのが悔やまれる◆今はHaccp(ハサップ=衛生管理)委員会に関わる程度でAKR本体の運営には関わっていない僕だが、毎年の定例総会には来賓として参加して、京都、大阪、兵庫、滋賀の会員(小売店主)や、メーカー、ベンダーの皆さんを前にご挨拶をする。今年は5月26日に開かれた。今回は12星座のうち射手座(11月22日から12月21日生まれ)に関する話題と、堺屋太一氏の遺作『団塊の後━━三度目の日本』を踏まえての今の時代の捉え方を絡めて語るべく準備をした。一言でいえば、「人生は楽観的に強気でいけば道は開かれる」との趣旨だった◆この話の背景には、昭和20年11月26日生まれという僕の出生に関わる逸話が外せない。産声を上げたのは戦後だが、母がその胎内に僕を宿したのは恐らくお正月だったろう。つまり、空襲警報発令の最中に僕の誕生の原因的行為がなされたかもしれない。僕は過去に幾度となく、戦時中に身籠った母と父の楽観的生き様に感心したものだった。しかも僕の星座は、縛られるのが大嫌いな天下御免の自由人である(と言われる)射手座。おまけに血液型は世にいう自己中心的なB型とくる。こういう星のもとに生まれた僕は、戦後の占領期から高度経済成長期を楽観的に強気で生きてきた。という風な話をして、何事もクヨクヨせず悠々と生きることが大事ですよって、勇気づけたつもりである◆更に、話は堺屋さんが前述の著作において近代日本が一度目は明治維新、二度目はアジア太平洋戦争で苦悩の底に沈んだが、三度目はIT競争でまたまた厳しいという見立てに触れた上で、それを回避するために「楽しい日本」の構築を謳っていると運ぶ。この流れは拙著『77年の興亡』とほぼ同じだけに僕の得意球だ。堺屋さんが「流通の無言(=沈黙のレジ)」が平成の時代を通じて日本政府が進めてきた政策の本質だと述べながら警鐘を鳴らしていることを紹介。巨大スーパーと違って、小売市場は「賑やかなレジ」のはずだから、先行きは大丈夫だとの結論にしたつもりだ◆尤もこの日の僕の気分は動揺していた。実は神戸の小売市場の親しい経営者が「近く店を閉めざるを得ない(倒産する)」という話を会場に着くなり打ち明けたのだ。しかも「これから用があるので」と途中で帰ってしまった。予定した話の中身と直前に受けたショックとの落差が我がこころを苛んだ。小売市場への烈風は止まず、抗いは続く。(2026-5-30)

 

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【92】卓球をするパーキンソン病患者/5-25

 パーキンソン病を患った昔の仲間が見事に復活した。それをFMラジオで2週(16、23日)にわたり聴いた直後の24日に、今度はNHK綜合テレビで歌手の美川憲一さんの闘病中の姿を観た。関心が重なった。そういえばあの人も、それからこの人も、と。周りに患者さんは少なくない。日本では30万人近くもいるとのことだが、実際はその3倍くらいだとも。僕の議員時代の後輩・山田哲郎さんは、4期にわたって神戸市議を務めたが、50歳代後半から原因がよくわからぬまま身体の不調を感じるようになった。あらゆる医療機関に行っても分からない状態が続いたという。数年間の苦闘の末に、ようやくパーキンソン病と判明、見えなかった敵が姿を現した。死闘が始まった◆この病は、人間の脳からの指示系統に支障をきたす難病とされ、今は確実に治す方途がないとのこと。症状的には手指が震えたり足がうまく動かないなど、動作や歩行困難をきたすことが一般的な兆候とされる。人によって様々な障害を伴うが、進行を抑えることは十分可能だ。前述の山田さんは闘病生活15年ほどの中で、運動が効果的だと自覚した。ボクシングやら卓球をやってきたというからなんともはや凄い。発症していない頃の彼を知る身からすると、パワフルな生き方が目立っただけにやり過ぎを心配する◆闘病生活の中での思いを聞いたのは、FMkiss神戸の「ひまわりラジオ」による。聞き手は参議院議員の伊藤孝江さん。かねてこの番組を注目していたが聴くのは初めて。卓球は効果的だろうとは素人考えでもわかる気がするが、ボクシングは何かの間違いではと思った。その上、これからアメフトに挑戦するというのだから。ともあれ、何事も過ぎたるは及ばざるがごとしと、常識的に考えてしまう僕なんかは邪推する。だが、彼は病になって後ろ向きどころか一段と挑戦姿勢が強くなったようだ。病の実態を知ってもらい、国の様々な支援を引き出そうと国会陳情にも余念がない。市議当時のパイプを十二分に生かして縦横無尽の活躍は頼もしい限りである◆一方、パーキンソン病の宣告を受けて、何事をするにも差し障りを感じて、身体を動かすのに億劫になりがちの人もいる。テレビでのインタビューを受けていた美川さんは僕と同じ80歳。子供の時からの母親の助言「しぶとく生きる」を座右の銘に日々ストレッチに励む。放映では同病の人たちに諦めずに闘病に取り組むようメッセージを伝えていた。また山田さんの周囲の人の思いやりが大事との発信も印象深かった。高齢社会に生きる我々には容赦なく様々な不都合が押し寄せてくる。かくいう僕も先日身体の不都合部分を書き出したところ、十指に余った。我ながら呆れる。心臓、脳というエンジン部分は大丈夫だとの身勝手な自信はあるものの、手足から皮膚、眼歯など細部は心許ない。日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経は獅子吼のごとし、いかなる病障りをなすべきや」(経王殿御返事)との御書の一節を身口意に刻み、強気でいくしかないと心に誓っている。(2026-5-25)

 

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【91】3ヶ月経った新党「中道」という「政治的実験」/5-20

 立憲民主党の東京都連会長を選ぶ選挙で参議院議員の蓮舫氏が川名雄児・武蔵野市議に負けた。これまで気にしたこともない他党の組織の内部事情が気がかりになってきた。中道の塊を作ろうとの掛け声の中で、兎にも角にも「この指止まれ」に呼応した唯一の集団と言ってもいい存在が立憲民主党だから無理もない。特に蓮舫氏はあの衆院選の際に僕が参加した明石での政談演説会に応援弁士として来た人物である。僕は彼女の生の演説を初めて聞いたのだった◆新党『中道』が誕生して約3ヶ月。県下の議員OBたちの代表が集まる場に、兵庫県公明党の中核だった中野洋昌氏を呼んで最近事情を聴くことにした。彼は現在「中道」の幹事長代行。落選した立憲民主党の前衆院議員たちのヒアリングも担当しているという。細部は分からぬものの苦労ぶりはしのばれた。こちらが事前に投げた聞きたい要点は①大惨敗の戦後処理②旧公明、立憲民主両党間の政策調整③合流問題の進捗状況などだった◆僕の最大の疑問は総選挙で比例区のみに絞った公明党が解散時の24議席から28議席へと4増したことだった。立憲民主党が小選挙区で167議席から49議席への大惨敗と比較すると大いなる違和感が込み上げてきたからだ。これは既に各種報道で判明しているように、両党幹部の間でそれぞれの「棲み分け戦略」上の合意済みのことだったことが改めて確認された。つまり、両党は共に小選挙区と比例区のそれぞれで「勝てる」と皮算用をしていたに過ぎないと言うのが結論だ◆この4分の1世紀というもの主に政権与党として戦って来た公明党と、ほぼ野党として生きて来た立憲民主党とでは、政党の立ち位置が真反対で、「思考の出発点」が違うという。片や政府自民党の批判・追及一辺倒、もう一方は「責任を持って政策を実現する」ことに専念してきたのだから、と。ここいらはついこの間まで国交大臣をしてきた中野氏が最も感ずるところだろう。だが、それは小選挙区制度のもとでは当たり前のことであり、約3年とはいえ立憲民主党は政府を経験し、公明党は野党で苦労したはず。早急に今の立ち位置に慣れ親しむしかない。例えば長妻昭元厚労相の舌鋒鋭い追及ぶりは健在なのだから公明党若手が見倣うべきところは多いはず◆参院、地方議会との合流問題も前途多難はよく分かるが、ここはじっくりお互いを分かりあう努力が大事だと思われる。公明党の議員はそれぞれ創価学会の座談会で日蓮仏法を学び、庶民大衆の暮らしぶりを肌で知ってきた。立憲民主党の議員も経験をして貰うといい。また逆の場合も同様だろう。公明党出身の議員も組合活動の一端やリベラルのものの考え方を培う現場にも足を運んでいくといい。ともあれ、大いなる「政治的実験」を両党は選択した。色々あっても前進するしかないというのが僕の今の結論である。(2026-5-20)

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【90】自民党がめざす「改憲」の論点━━「女性部」との憲法懇談から(下)/5-15

⚫︎自民党の改憲目標4項目について

 自民党が今目標にしている憲法改正テーマは次の4つ。一つは自衛隊の位置付けを明記すること。二つは緊急事態の際の対応について。三つは参議院の合区を解消すること。四つは教育への取り組みの強化である。一つ目については前回述べたように故安倍晋三首相と太田昭宏元公明党代表との間での合意が前提としてある。ただし、その後山口那津男代表になって公明党は9条加憲には慎重な姿勢になっている。(写真は党兵庫県本部女性部との勉強会)

 安倍氏は、そのあたりのことを先の回顧録で、「(山口さんが)私の前では自分の意見を言わず、いつも私の話を聞いた後、『うちの組織は難しいですね』みたいな話をする」とぼやき気味だ。と共に、改憲が「そんなに簡単でない」ことを吐露している。現実には自衛隊明記をめぐって、与党内では維新がそれだけでは不満で、軍隊としての役割まで書き込もうとする一方、自民党内には当初の公明党提案と同様に自衛隊の存在に触れるだけでいいとする意見も強い。

 二つ目については、衆議院憲法審査会での議論はかなり熟しているように見られるが、その実、最終合意は難しい。「大災害の時代」の到来で、衆院選の狭間などに緊急事態に追い込まれた際にどう対応するかで、議員任期の延長論などが台頭している。しかし、今の憲法の54条の参議院の緊急集会で事足りるとの主張も根強い。

 三つ目は参議院の選挙区割りの問題。公選法の改正で鳥取、島根両県と、徳島、高知の2つの県を合区にした。それを一転、「憲法」の土俵で議論するのはなぜか。一票の格差拡大をめぐる違憲訴訟の問題が絡むからだ。参院サイドでは「一県一議席」のこだわりから、合区には不満が強い。(尤も、この議論は道州制導入の観点からすると瑣末な議論に思われる)

 四つ目の「教育」については、国際的な水準における日本の地位の低下という深刻な問題が影を落とす。元々、日本には二組み二層の対立軸がある。一つは、知識詰め込み教育とゆとり教育の二項対立。もう一つは、戦前の垂直思考的教育と戦後民主主義の水平思考的教育の伝統的対立である。重要な論点だが、自民党的には曖昧な決着になると推測する。

⚫︎与野党の変化と共に揺らぐ「平和主義」

  国会における各政党の憲法についての対応姿勢は、長く自民党、維新の「改憲」、公明党の「加憲」、民主党の「論憲」、社民党、共産党の「護憲」などといった政党ごとのグループ分けがなされてきた。さらに今、多党化された状況下にあって、9条「改憲」には参政党、保守党、国民民主党が加わり、中道は「加憲」、公明党と立憲民主党が「護憲」に回るという風に入り乱れている。

 そんな状況下で、これまで自民党の改憲姿勢へのストッパー的役割を担ってきた公明党の野党への変化の持つ意味が大きい。10年余前の「安保法制」制定時には玉虫色決着とはいえ、集団的自衛権導入に歯止めをかけた。これは、憲法解釈の変更による実質的「改憲」に匹敵するとの評価もある。一方、与党入りした維新の積極的な軍備拡大の方向性はアクセル機能が目立つばかりだ。

 加えて、先の「武器輸出」を可とする国策転換により、非核三原則の危機的状況と相まって、日本の平和主義は危うい局面に立ち至っている。与党に公明党ありせば、見られなかった風景のはず。

⚫︎高市首相の「本領発揮」に、今こそ公明党の出番

 高市早苗首相は、明年には憲法改正の国民投票に向けて「発議」に持ち込めるように党内に指示をしたという。しかし、衆参両院議員の3分の2以上の賛成を得た上で、過半数の国民投票の賛成を得るという条件をクリアすることは到底難しい。

 同首相の国論を二分する議論をしようという姿勢そのものは評価に値する。これまでの自公連立時代に私は国家論や、安全保障や社会保障、消費税といった国家運営上の基本的な課題で国民的大論争を起こそうと呼びかけた。公明党は小さな声を聞くことに熱心でも、大きなテーマで議論することには躊躇してきたかに見えたからだ。与党内での亀裂を恐れたのだろうが、結局は日本の針路決定を遅らせ、足踏みするだけだったかに思われる。

 日本の選択は、これからも日米同盟を今まで以上に強固な基軸とする方針で行くのか、それとも欧州やASEAN各国などアジアとの協調に路線を変えるのかなど、重要な分岐点に直面している。その時に、状況対応でしかない軍事的拡大に専心するだけでは心もとない限りである。

 公明党はこれまで60年間、大衆重視、人間主義の旗のもと、「人間の安全保障」に力を込めた平和路線をリードしてきた。国際社会において超大国が相次ぎ国際法を無視する体たらくに陥った今こそ、大きな「物語」を掲げて、その独自性を発揮すべきである。新党「中道」を軸に、立憲民主党との間での三党の議論を重ねて、超大国に翻弄されることのない新たな方向性を打ち出す時である。(2026-5-15)

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【89】「改憲」と「護憲」の〝閉塞状況〟を破る「加憲」━━「女性部」との憲法懇談から(上)/5-10

 先頃の憲法記念日を前に、公明党兵庫県本部の議員OG(女性部)の皆さんから今の憲法をめぐる状況をかいつまんで話して欲しいとの依頼を受けた。明後5月12日にその機会はやってくるが、その前に以下、上下2回に分けて、かつて公明党憲法調査会座長を務めた僕の「体験談風憲法論」のさわりを述べてみたい。まず(上)では中曽根康弘、土井たか子、塩野七生、安倍晋三といった4人の「巨人」たちとの思い出話から始める。ついで、(下)では現時点での「憲法事情」に触れる。

⚫︎中曽根康弘さんとの思い出

 今80歳を生きている僕にとってこれまで出会ってきた政治家の中から最も印象深い人物を挙げろと言われたら、中曽根康弘元首相になろうか。ただし引退後の彼である。〝青年将校風〟剥き出しのギラついた若かりし頃ではなく、85歳で衆議院議員を引退される前後の、枯れた頃の中曽根さんだ。あらゆる意味で貫禄があった。

 現役時代の中曽根さんとは、僕が秘書をした市川雄一元公明党書記長との委員会での教育論議などを拝聴し感想を述べことがある。市川さんを「彼は勉強家だね」と褒められたのが記憶に残る。また、引退前後の憲法に関する会合で幾度かお会いする機会があったことを懐かしく思い出す。

 ある会合で、僕が党を代表して話す機会があった時のことだ。公明党も「護憲」でずっときましたが、最近は脱皮しましたと切り出した。時代が変化する中で、今の憲法が誕生した頃には想定されていなかった「環境権」や「プライバシー権」などといったとり残された課題があり、それを書き加えるべきだという意見が台頭していると続けた。

 そして、「これは加憲という立場です。かけんと、かいけん(改憲)は一字違い。もうあと一歩まで来ました」とやった。その時中曽根さんはじめ居並ぶ自民党の連中はずっこけ気味に大笑いしたことを覚えている。冗談めかした発言だが当たらずといえども遠からず、護憲と改憲の深い溝を埋める知恵の一歩だと当時の僕は自負したものである。

⚫︎土井たか子さん、塩野七生さんとの語らいから

 一方、「護憲」の象徴的存在だった元日本社会党委員長の土井たか子さんとはこんな会話をした。ある日の憲法調査会が終わったあとの衆議院別館の出口でのこと。僕は「憲法は不磨大典のものではないでしょう?時代の変化に対応して新しい権利を加えることが必要です。そう思いませんか?」と挑んだ。これに対して土井さんは、「あなた方はそんなこと言ってるけど、本音は9条改正でしょ。見え見えだわ。そんなことは許しません」と、きっぱり。

 当時の僕は国民主権、基本的人権、恒久平和の憲法3原理には触らないで、今に生きる日本人が自らの手で憲法を定めるために見直す作業が必要であると確信していた。そのためには改憲、護憲で左右が一歩も譲らぬ対立姿勢であり続けることは不毛以外の何ものでもないと思っていた。あらゆる手を尽くして憲法改革の道を探ろうと考えた。そんな僕にとって「ダメなものはダメ」との土井さんの態度は「孤高の人」というより、「石頭の御仁」に思われた。

 また、名著『ローマ人の物語』全15巻で一世風靡した作家・塩野七生さんとはローマで会った。衆院憲法調査会の欧州調査団の一員として21世紀初頭にかの地を訪れた時のことだ。塩野さんは開口一番、日本の政治家の皆さんが日本の憲法について調査研究するためにわざわざイタリアにまでやって来られて、日本人の私に会おうっていうのだから‥‥と、口ごもられた。その後どう続いたかは定かでない。皮肉めいた言い振りゆえ言わずもがなってことだったろう。ともあれ、あの時塩野さんは、憲法改正の手続きが現行の規定ではあまりにハードルが高過ぎると言って、まず憲法96条の「改正」条項を改めるべきだと強調されたものだった。

⚫︎安倍晋三さんとのやりとりへ

 公明党は1999年末に憲法調査会を発足、太田昭宏会長の元で党内議論を活発に行なっていった。憲法制定当時には想定されてなかった権利を加えることを提唱しようとの考え方が強かった。それは左右両勢力がツノ突き合わす事態を打開するのが第三の勢力として当然の役割だとの自覚からである。3年後の2002年秋過ぎには「環境権」が具体的な対象として浮上した。

 やがて9条についても自衛隊の存在を加えて明文化することがあっていいとの考えを、当時外交安保調査会長を兼ねていた僕は議論俎上にあげた。かねて自衛隊の幹部候補生たちとの懇談の場で、違憲の存在のまま置き去りにされていることへの強い不満を突きつけられたことが心の底にわだかまっていたからだ。2006年9月に党代表になった太田氏も9条2項に新たに付け加えることに乗り気だった。僕ら2人の考えは完全に一致した。

 この発想は太田氏から自民党総裁である安倍晋三氏に伝えられた。安倍氏には渡りに舟だったに違いない。案の定、〝くいついて〟きた。その辺りの呼吸については彼の回顧録に詳らかだ。「公明党を説得できない限り、憲法改正は前に進みません。太田昭宏前代表は理解があって、例えば自衛隊明記についても、戦力不保持などを定めた9条2項を維持するのであれば問題はないという考えでした」と書いている。(2026-5-10  下につづく)

 

 

 

 

 

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【88】GW前半は東京から丹波、但馬へと走る/5-5

 GWの前半29日の東京での「昭和百年式典」に参加するついでに、前日28日からあれこれと動いた。安保政策研究会の定例会にでたあと、衆院法制局に出向く一方、新聞社勤務だった大学の後輩及び高校同期の笑医塾塾長、そして朝日新聞政治部長にも会って懇談した。この3人いずれも女性。筋金入りのキャリアウーマンとの会話は楽しく有意義だった。一泊2日の旅から帰ったあと、5月2日は丹波から但馬へと、公明党のOB議員の激励に走った。と共に中2日間は、東京・有楽町での親友の制作した映画『ラドンの奇跡』公演会に友を誘う戦いも電話やメールで尽力し抜いた。

⚫︎安保政策研での厳しいやりとり

 安保政策研究会リポートには毎号欠かさず寄稿しているのですが、東京での会合には中々出られず、何らかのイベントがある時に抱き合わせるのがやっとです。この日は新党「中道」の大惨敗の後、初めての参加だったもので、集中砲火とでもいうような質問を浴びてしまいました。出席者は12人(写真=半数の仲間と)。僕の報告の後に、浅野勝人理事長や、元NHK解説委員の城本勝、元日本テレビ政治部長の菱山郁朗、元OECD特命全権大使の登誠一郎さんらから、衆院選挙の敗因、これからの展望などで次々と意見がだされました。

 僕は、公明党として精一杯戦ったものの結果として実らなかったのは立憲民主党との共戦に齟齬があったとして、若干の分析を披瀝しました。特に「立憲」という政党の組織力が脆弱だとの印象を持つに至った理由を指摘したのです。ですが、それには同意と共に、公明党への注文も色々と出され、「中道」の前途多難さを思い知らされました。

 その後、衆院法制局に足を運び旧知の橘幸信特別参与に面会し、国会における最新憲法論議の推移を聴きました。その中で高市首相が来年憲法改正国民投票を発議したい意向を示していることについて質したところ、実現可能性は殆どなしとする一方、そもそも首相が「発議」の意味を理解しておられないのではと述べられたことが印象的でした。帰り際に、同氏が『自治実務セミナー』に寄稿した「GWに読みたい この一冊」という一文のコピーを頂きました。なんとその中に、高嶋哲夫氏の『チェーンディザスターズ』が紹介されると共に、僕の本も挙げてあったのです。

⚫︎活躍中のキャリアウーマンとの語らい

 今回の上京では、新しく朝日新聞政治部長になった倉重奈苗さんの就任祝いをしました。かつて公明党番記者だった彼女は大学の後輩でご縁も重なり親しく付き合ってきました。今回は共通の仲間である同社の先輩元政治部長も交え談論風発の楽しい語らいでした。女性政治部長は同社では初めて。初の女性首相に切り込む彼女の鋭い切先に僕としては期待するところ大です。我が人脈の中から〝秘蔵の天才〟にも会わせたいとの意向も仄めかしておきました。

 また高校同期の高柳和江・笑医塾塾長は幾度も小欄で紹介してきました(写真)が、今回は一計を案じて親友のO君との出会いを企みました。彼女は各地での講演で「塾生募集」を心掛けています。一方O君はリタイア後のキャリア拡大にあれこれと取り組み中。マッチングすれば〝新たな師弟関係〟誕生も、と算段したのです。当方は仲人などお節介役にかけては人後に落ちないということで東京駅構内の名店で合流。結果は実に笑いに満ちた楽しい語らいになりました。

⚫︎OB議員仲間を訪ねて但馬路をひた走る

 30、1日の2日間は、前述した東京での映画公演会への参加者を募る戦いの仕上げに奔走。20人ほどに声をかけてきましたが土壇場で4人ほど足らず、友人知人に思いを巡らせた結果、辛うじてゲット出来たのです。日本初の「坑道ラドン浴・富栖の里」で病に悩む人々に寄り添う友のお手伝いを出来ることは嬉しい限り。密かに祝杯をあげました。

 2日は朝8時半に西明石を出て篠山口へ。公明党議員OBの仲間たちに会うために出かけました。丹波と和田山でそれぞれ元市議のお二人と合流。香美町、新温泉町とめぐりました。この30年ほど幾たびか訪れてきた但馬路ですが、新緑の季節はまた格別。お昼に立ち寄ったラーメン冨貴(写真 左端は女将)はこれまた最高のお味でした。

 2年ほど前に突然心臓病に襲われ、まさに九死に一生を得た友との語らいは格別の喜びに溢れました。長年のストレス故でしょうが、頂いた生命の有り難さに話す方も聴く側も〝感激の涙〟でした。また、日本の政治の混迷に強い懸念を抱き、経済格差拡大を憂え続ける友とは新党「中道」への困難さや期待が交錯する議論でした。兵庫のOB議員の仲間の中で山間地域の変貌に具体的手立てを求め動く男は希少な存在だけに、改めて共戦を誓いあったものです。

 そこから鳥取との県境近くで石材業を営む友の店舗を訪れ、近況とりわけ「墓じまい」についての昨今のあり様を聞きました。気掛かりだった疑問に専門家の答えを聞けて有難いひとときでした。彼は連れ合いと死別して今ひとり暮らし。仕事机の上に日蓮大聖人の御書を置き、時に応じて開く。確信漲る佇まいに強い共感を抱きました。

 もうひとり闘病中の丹波の友の処に寄りたかったのですが、迫り来る夕闇の前に断念せざるを得ず諦めました。断りを入れる電話に「お気遣い有難うございます」との元気な声。こちらがかえって励まされました。(2026-5-5)

 

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【87】味気なく、魅力もなし━━「昭和百年式典」に参加して/4-30

 昭和元年の1926年から本年はちょうど100年が経つ。これを記念しての式典が「昭和の日」の4月29日に東京・武道館で行われた。私的には1925年12月生まれの義母が享年101歳でつい先日亡くなったことや、自分自身が80歳になったこともあり、越し方行末に思いを馳せる機会にしようと、参加して来た。

⚫︎『黒い雨』の再読で戦争の悲惨に感じ入る

   この一年、昭和史を身に刻む営みをしていこうと思っている人は少なくないはず。僕も昭和20年に至る歴史を映像や小説などで改めて学び直すこと、同時に戦後史の捉え直しをしたいと考えている。具体的には、既に井伏鱒二の小説『黒い雨』の再読とNHKのバタフライエフェクト昭和天皇を描いたドキュメンタリーに取り組んだ。

 小説は、広島が被爆した昭和20年8月6日から終戦に至った同15日までの現地の10日間を克明に追ったもの。最初から最後まで読むのが辛くてならなかった。原爆が落とされた直後の記述では、「続々と川面を死体が流れ、橋脚に頭を打ちつけて、ぐらりと向きを変える有様は二た目と見られたものではなかった」━━辛うじて書けるのはこれくらい。ページを繰るに従い、ありとあらゆる残酷無比な表現にでくわし、悲しみ切なく胸に迫ってくるばかり。

 ひとり生き残った老科学者が、倒れた家の下敷きになって死んだ家族を焼け跡から掘り出す元気もないと言う。その口実に「放って置きます。骨はどこにあっても、結局は地中の有機物になるんですから」と述べる。著者が「科学的に割り切りすぎているのではないかと思った」とあるところに共感。一方、反発も覚えたりと、心落ち着かぬ。

⚫︎昭和天皇のリアルに驚き増す戦後

   昭和天皇の実像に迫った「バタエフェ」も感慨深かった。前編では2-26事件で「らしさ」を最高潮に示したもののそれをピークにあとは軍部に仕方なく追随するだけで流され落ちてゆく姿が痛ましい。終戦後に全国を行脚して人間天皇を振り撒くのだが、あの「あ、そう」という我々世代お馴染みの天皇の庶民との対話の現実には笑ってしまった。

 ただ、宮内庁担当以外の記者を交えた会見で、戦争責任の所在を聞かれて、文学向きのことに疎い自分はそういうことには答えられないと、不明瞭な言語を曖昧極まる発声で狼狽しながら述べる場面は見苦しかった。占領期に幼少期を過ごし、天皇のことを「お天ちゃん」と呼び、皇太子から「(はよ)交代してんか」と言われているなどと揶揄中傷的な言い振りをしつつ天皇の戦争責任を口にし共和制国家の到来を望んだ身でさえ、気の毒で見るに忍びなかった。

 もちろん、天皇が晩年に至るまで老体を惜しげもなく費やして、懸命に日本の復興と歩調を合わせるように皇室外交に取り組んだ姿は評価したい。だが、頭の先から足の先までどっぷりと「戦後民主主義」に染まって育って来た世代にとって、特別扱いされる皇室の存在にどうにも割り切れなさを抱かざるを得なかったことも事実なのである。

 ⚫︎式典中身に工夫感じられず

    こうした感情を持って生きて来た80歳の老政治家がこの日の式典をどう感じたか。正直およそ無意味な中身だったという他ない。全部で50分の前半は高市早苗首相の式辞から、森英介衆院議長、関口昌一参議院議長、今崎幸彦最高裁判所長官らの挨拶まで、まるで聞き応えなし。せめて昭和の100年を4人で分担してそれぞれの立場を担う長としての矜持と見識を示して欲しかった。

 後半の海上自衛隊東京音楽隊の演奏は男女2人の見事な歌いっぷりで聴かせた。ただ、「上を向いて歩こう」からの6曲には首を傾げざるを得なかった。「ひとりぽっちの夜」や「昨日より綺麗になった」を重ねて強調されると、暗くて寂しくなる気分が増幅されるばかりだった。せめて空の星ばかりでなく「地上の星」を訴える「プロジェクトX」のテーマぐらい聞かせて、日本のモノ作りの底力や庶民の力合わせの妙味を歌い上げ強調して欲しかった。

 後半の企画を聞きながら、こんなものしか考えつかない高市式典委員長の創造、想像力の貧困さを思わざるを得なかった。委員長は挨拶文で「激動と復興の昭和時代を顧み、将来に思いを致す機会となる契機となれば」と発信していた。式典からはそこいらを殆ど感じられなかったのは紛れもない。「昭和100年」関連施策として、国立公文書館における昭和期の文書を中心とした展示会や戦争体験の記憶を次世代に語り継ぐための講話活動などを行う平和の語り部事業、国立文化施設での昭和に関連した展示等の催しなど色々あるのだから機能的精力的に訴えるべきだった。

⚫︎式典よそに面白き読書談義

 そんな感想を抱きつつ、偶々隣席同士になった井上義久氏(元公明党幹事長)と語り合った。彼とは若き日に公明新聞記者の修行を共にし、議員仲間として今に至るまで共戦して来た。どんな状況でも沈着冷静で必要な指導力を発揮する尊敬すべき英邁なリーダーのひとりである。退屈極まる時間の展開の中で彼と交わした対話が僕にとって興味深かった。とりわけ読書談義が面白かった。

 2人の意見が一致したのは、宮本輝の『潮音』全4巻。彼はこの著作の主たる舞台である富山県の生まれ。僕は著者と同じ兵庫県人である。富山の製薬が力を発揮してきたことを改めてこの小説で思い知った。北前船の通常ルートを逸脱しての、鹿児島、琉球、中国大陸を結ぶ密貿易ネットワークの凄味にどう感じ入ったかを語り合った。

 『黒い雨』や「昭和天皇」考を述べる一方、彼からは専ら奥田英朗『普天を我が手に』の凄さを聞かせられた。昭和時代を群像劇風にまとめた大河小説で、軍人、財閥家、女性雑誌の女性編集者、男性ジャズ演奏家など4人の主役が登場するとか。短い時間だったがいかに彼が取り憑かれ嵌っているかが伝わってきた。早速読まねばならぬと思った次第。と同時にこの式典に、若い学者、文化人、アスリート、芸人らいまをときめく多彩な分野の代表を登場させて刺激を与えてほしかったなあと思った次第である。(2026-4-30)

 

 

 

 

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【86】「武器輸出」の次にくるもの━━「時代の転機」の読み違い/4-25

  公明党が自民党との連立政権離脱を表明(2025-10-10)して半年余り、かねて懸念されていた事態が起きた。日本が平和国家であることの証しの一つとして長く自制してきた「武器輸出」を認めることにしたのだ。「防衛装備移転」などと〝小賢しいすり替え風言い回し〟をしたあげく、非戦闘目的に限定する「5類型」を撤廃し、殺傷兵器を輸出する方向に大きく舵を切った。「死の商人」国家への本格的仲間入りだといって過言ではなかろう。かつての宮澤喜一首相の「武器を売るほど日本は落ちぶれていない」との〝痩せ我慢的名言〟を高市首相は「時代が変わった」との一言で誤魔化してみせた◆時代がどう変わったというのか。木原稔官房長官は「安全保障環境の変化が加速度的に生じる中、日本の安全を確保し、地域と国際社会の平和と安定に一層寄与するものだ」という。この発言、前提状況を述べた前半と結果の判断を示す後半が噛み合わない。変化が起きているから、武器を輸出することに転換することがなぜ「平和と安定に一層寄与する」のか。むしろ、「戦争拡大と不安定に寄与」するだけだろう。さらに「戦後80年以上にわたり築いてきた平和国家としての基本理念を堅持する」というに至っては、自己撞着も極まれりという他ない。「平和国家としての歩みを変えることは甚だ心苦しいがやむを得ない」と正直にいうのが〝誠意ある発言〟ではないか◆武器輸出の解禁で、これまで防衛省の発注への対応だけで競争力が働かなかった防衛産業が一気に活気を呈することになり、世界各地の戦争、紛争をめぐる国家の意思決定が軍事需要の浮沈をもたらすことになる。どこに兵器を輸出するのかをめぐっての〝事前の査定〟など一切なく、国会議員への「事後通知だけ」とは、歯止めなきに等しい。ともあれ最大の問題は日本という国家のイメージがこれまでと違って〝武器で儲ける血塗られた国家〟に見えてしまうことに違いない。トランプ米大統領に抱きつく高市首相のあの〝恥ずべき姿態〟と相俟って、日本国の品格そのものが問われてこよう。次に来るのは「憲法改正」への動きだ。既に衆参両院の憲法審査会での前のめりの対応が取り沙汰されている。自民党は4項目の改憲への取り組みを挙げてきているが、これを突破口にして全面改正への流れを作りたいものと思われる◆現代世界がロシアのウクライナ侵攻に続いて、米国がイスラエルと組んでのイラン攻撃で国際法を無視した方向に強く傾斜している。一気に抑え込めるとイランを甘く見たトランプ氏の采配は支離滅裂で破綻寸前の状況が続く。イランのホムルズ海峡での水際の踏ん張りはあたかも密林におけるベトナムのゲリラ戦法を想起させる。日本はいまこそ、欧州各国と連携して平和構築に向けて積極攻勢をかける必要がある。なのに、真逆に紛争を助長するかのごとき方針転換は重大な禍根を残すばかりである。平和の党を自負してきた公明党と新党中道は、時代を画する高市自民党の暴挙に反対する党声明の一太刀すら浴びせていない。一体どうしたことなのか。(2026-4-25)

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【85】医師と弁護士と〝奇跡の人〟と━━映画『評決』から考える/4-20

 〝いい医者〟に巡り会うかどうかが緊急時には全てかもしれない。かつて深夜の麻雀帰りの帰路で大阪駅構内の階段を踏み外した友人が脳挫傷を負いながら生き延びることが出来た。雀友が担ぎ込んでくれた駅近くの病院に著名な腕利きの脳神経外科医が偶々夜勤でいたことが幸いした。逆に、〝下手な医者〟に当たると悲劇になるケースは数多ある◆映画『評決』では、医療ミスを犯した2人の著名な医師を庇い、裁判長をも巻き込む大弁護団が、ポール・ニューマン扮する飲んだくれから変身した弱小弁護士に最後の最後に敗訴する姿を描く。被害を受けた産婦は生ける屍状態になった。「示談」が家族、弁護士を揺さぶり、医学書まで著述する〝立派な医者〟の影も色濃い◆誤診を恐れていてはまともな医師は育たない。ローマは一日にしてならず、立派な医師も同様だろう。しかし犠牲になる患者はそれではおさまるわけがない。この辺りのせめぎ合いは日常茶飯事かもしれぬ。だが、人の生命を左右する「医療と法律」のどぎついまでのぶつかり合いが陪審員の良識で見事な解決に導かれる。爽やかさを感じた人は多かろう◆つい先年のこと。友人が通勤途上の西明石駅東口改札口を通った直後に意識不明になって倒れた。放置されたまま、ものの数分も経っていたら確実に死は免れなかった。ところがその場に備えられていたAEDを使って呼吸蘇生を施し、病院に通報してくれた〝奇跡の人〟がいた。未だ名さえ知らぬその人の存在がなかったら‥‥。通り合わせた〝ただの隣人〟によって生かされた、この生命を大事に世の役にたっていきたいと語る友の姿が眩しかった。(2026-4-20)。

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【84】戦争の悲惨を体感する━━「舞鶴引揚記念館」を訪ねて/4-15

 地には満開の桜。空はどこまでも青く、群青色の舞鶴湾はふところ奥深く抱き抱えてくれた。軍港から引揚港へ。立ち並ぶ赤れんがと漂う潮風と。街のそこかしこからは、再会の歓びが沸き立ってくるかのようだ。いつまでもこの平和が続いて欲しいとしきりに思った。

 昭和の終わりに東京から生まれ故郷の兵庫・姫路に戻った僕は、京都の北端にある舞鶴市に行ってみたいと思っていました。当時出来たばかりだった「舞鶴引揚記念館」(1988年昭和63年開館)の見学がお目当てでした。大学同期の親友が此の地に住んでおり、尚更その思いが強かったのです。ところが日常の繁忙の中で機会を逃し続け、平成の30年間はおろか令和になっても行かぬまま歳月が経ってしまいました。それがこのたび遂に念願が叶ったのです。

 先の大戦終結時に旧満州、朝鮮半島、旧ソ連から「引き揚げ」てきた人々を受け入れた港は、舞鶴を筆頭に博多、浦賀、佐世保、仙崎など10を数えますが、舞鶴港には昭和21年から33年までの13年の間におよそ66万人が帰ってきたといいます。引揚者は全部で約660万人ですから、ほぼ1割に当たります。

⚫︎身近なところにいたシベリア抑留者

   縁は異なもの味なもので、私が姫路に帰ってきて住んだ地のご近所にあった電器店の経営者が、実はシベリア抑留者の次男でした。当の親父さんとも平成の初めから面識はあったのですが、具体的な体験談などは聞かないまま、今頃になって知るところになりました。きっかけは、その次男氏(69歳)が神戸新聞の読者欄に書いた「シベリア行きは無理か‥」という見出しの一文を読んだことです。終戦時に占守島で旧ソ連の捕虜になった親父さんは、コムソモリスクで4年間の抑留生活を送り、極寒の中での森林伐採をさせられた苦節の日々を過ごしたといいます。

 新聞には親父さんが亡くなった30年前にお袋さんと一緒に記念館に行った時のことも書かれていました。親父さんの亡くなった年齢に今年彼がなったこともあり、シベリアに行きたいとの思いがするもののウクライナ戦争で渡航は無理なのが残念だという風な内容でした。早速メールで、舞鶴記念館に行きたいと思っている僕の思いを送ったところ、「車で一緒に行きましょう」と、実に嬉しい返事が帰ってきました。ということで、共通の友人も誘って3人で僕の舞鶴の友人宅へと向かうことになったのです。姫路から車で2時間。懐かしい友の案内で舞鶴を堪能してきました。

⚫︎悲惨な抑留者収容所生活の再現を前に

 記念館の玄関先の床には旧ソ連、蒙古を始めとする抑留先の地図が収容所名と共に広がっていました。大小合わせると2000箇所もあったようですが描かれていたのはほんの一部です。白樺の木の皮に書き込まれた日記の一部やら「南の空 ふし拝む朝夕の點呼 一入思ひ深かる」「冬木立凍てし夜半に月蝕けし」などの和歌や俳句を始め、スプーンなど食器の製作品も展示されている幾つかの部屋をじっくりと見回りました。当時の収容所内部を再現した人形(写真)が眼を奪い、そっくりそのままという「体験室」もしつらえてありました。

 館内では案内担当の女性が丁寧に説明をしてくれるので随時やりとりが出来ました。その合間に、くだんの友人が親父さん直伝のエピソードを披露してくれたのですが、これが実に興味深かった。空腹に耐えられず猫を煮て食べたために独房入りになった話だとか、伐採作業の結果を誤魔化すために知恵を凝らした事などを語るのです。聞いた方があれこれ口を挟むことから随所で「珍問答」が展開されました。〝戦人の苦労平人知らず〟ともいうべき事態に自省をしつつも常識を逸脱した非業の所産を前に、やりきれなさを払拭したい思いに瞬時囚われてしまったのです。このあと舞鶴湾を一望できる丘に登ったり、赤レンガパークを訪ねたりしました。

⚫︎新たな世界大戦の始まりを予感して

 2022年に製作された映画『ラーゲリより愛を込めて』は多くの人たちに感動を与えたものの、リアルさには欠けるとの辛口の批評も聞きます。あの映画を観た人も見ていない人も共にこの舞鶴の「引揚記念館」に来ることは大事だと思いました。戦争はありとあらゆる「悲惨さ」を伴う残酷極まりないものですが、空襲のたびに防空壕に入ったり、竹槍での訓練をしたといった程度の話しか親から聞いたことがなかった僕にとって、シベリア抑留の実態をつぶさに見ることは大いなる刺激を伴う経験でした。

 人生の最終盤近くになって、戦後抑留者の家族が身近にいることが分かってきました。公明党の斉藤鉄夫前代表の親父さんもそうです。また旧帝国陸軍の幹部だった瀬島龍三氏の部下で抑留された軍人の長男である勝瀬典雄氏も引退後親しく付き合っている友人です。彼とは、戦後日本の課題をめぐる議論を繰り返ししてきました。この夏には、シベリア、蒙古抑留を追い続けるジャーナリストの井手裕彦さんを迎えての講演会を開催しようと企画中です。戦間期が終わり、新たな大戦勃発の空気が強まる中で、誰しもが「戦争体験」を見聞きした上で、発信する重要性を日々痛感しています。(2026-4-15)

 

 

 

 

 

 

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