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【40】「沈黙のパートナー」でいいのか━━自民党総裁選に思うこと/9-30

 「三角大福中」って知ってる?━━自民党総裁選挙の間に幾つかの懇談の機会にお会いした方々に訊いてみた。年配の人は知っているが、比較的若い層の人は知らなかった。まして「麻垣康三」となると、もっと〝知名度〟は低い。前者は、佐藤栄作首相の後継の座を争った1970年代の自民党の領袖たち5人の苗字の頭文字(「角」だけは名前)をとったもので、後者は2005年に小泉純一郎首相の後を競ったリーダーたち4人の苗字と名前の一部をとったものだ。谷垣禎一氏を除いて8人は、全て後に首相になっている。今回の5人の名前の一部を取るとどうなるか。試しにやってみたが、過去の2例のように語呂合わせなり、どこかにいそうな名前は思いつかない。せいぜい「小小高茂林(しょうしょうたかもてばやし)」ぐらいかと、口ずさんでみたが、どの場でも受けなかった。それだけ自他共に認める実力者とは言い難い人たちだからと言えようか◆ただし、いわゆる学歴からすると皆さん立派だ。5人中4人の男性は全員、日本の大学を出たあと、米国の著名な大学で学んで(高市早苗氏は神戸大学を出たあと米議会で仕事をした経験あり)いる。かつて、宮澤喜一首相のあとの自民党を軸とした連立政権時代の首相たち10人(細川護熙氏から麻生太郎氏まで)がすべて日本の私大卒ばかりだったことに比べると、隔世の感がすると言えようか。昨年の総裁選で辛勝してこの1年ほど首相の座にあった石破茂氏とはあれこれと僕も縁があったが、今度の5人とはさして関係は深くない。茂木氏とは衆議院初当選が一緒の同期の桜だったが、一度予算委員会で隣り合わせになり喋った程度の関係だけ。それ以外の方は、小泉氏とは純一郎元首相との縁(最後の内閣で副大臣を務めた)、高市氏とは夫君の山本拓元衆議院議員との縁(大前研一、市川雄一氏らと一緒にマレーシア、シンガポール、豪州旅をした)があるぐらい。林、小林両氏とは殆ど無縁できた。それではならじと、この機会にそれなりに観察した◆尤も20年の議員生活を通して、遠くからながら、将来は必ず総理になる器だと僕が思ってきたのが林芳正氏である。実は彼を最初に意識したのも本人ではなく、親父さんの林義郎元蔵相だった。その昔テレビでジョギングしながらイヤホンを離さず英語を勉強していた姿が放映されていた。芳正氏の只ならぬ英語力を思うにつけ親子の関係に思いを馳せる。彼とは滅多に会う機会はなかった。だが、防衛相に就いた時に、同省きっての俊才・高見澤将林(元国家安全保障局次長)氏が、「これまでお支えした大臣は数多いが、林芳正大臣は最も英邁な人」と賛辞を送っていたことが忘れられない。当方は「防衛なら石破」と思い込んでいただけに意外な感じが強くしたものだ。その林氏は、防衛相の他に農水相、文科相、外相など6つの閣僚を務め「政界の119番」の異名を持つ。閣務に緊急登板の機会が多かったのだ。岸田文雄、石破茂両首相の官房長官として「両者の後継」を強く意識しているかに見える。特に石破首相については「話す相手の地域性などを常に考え、独特の言い回しをしたり、例え話を引用したりするなど言葉を重んじる方だ。類いまれなる言葉の才能があり、非常に参考になった」と強調し、「私が総裁になった暁には、国民に届くような言葉を常に意識したい」と新聞インタビューで答えている◆総裁選まで5日を切った。この間のメディアの報道を見たり聞いたりしている限り、これまで僕がたびたび指摘した懸念は殆ど解消されていない。つまり、総裁候補の自公連立政権に対する考え方の公開についてである。総裁に選ばれたら、今の野党のどこと組むかについては言い辛いかもしれないが、公明党については、長きにわたる関係なのだから、突っ込んだ注文や自省の念の披瀝があっていい。特に、茂木氏は幹事長当時に兎角の問題を抱えていた感が思い起こされるし、高市氏や小林氏は保守政治家として公明党との距離感が懸念されてきている。だが、またしても肝心の点については口をつぐんだままである。公明党は珍しく斉藤代表が「公明党の理念に合う人でなければ連立しない」と言わずもがなのカウンターパンチを繰り出した。おっと、いいぞと呟いた人は多かろう。だが、その後はまた〝音無しの構え〟だ。せめて、党内機関をフル活用して、それぞれの候補の個別の政策、哲学、ビジョン、構想などを探っていることを、たとえ〝フリだけ〟でも見せて欲しい。公明党は「誰がなっても、黙っててもついて来る」と見られている限り、先が思いやられる。かつて、ある先輩党幹部が「公明党は『沈黙の艦隊』か」と、かわぐちかいじ氏の原作をつまみ取りして皮肉ったことがある。政治家のコメント力の巧みさに感心せざるを得なかった。公明党の60年を見続けてきて、今ほど政党として世に注目される存在であって欲しいと願う時はない。(2025-9-30)

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2025年9月30日 · 6:28 AM

【39】不思議な活力源との出会い━━姫路での「第9回異文化交流会」に参加して/9-25

 「自他共尊の社会を目指して」と謳った『異文化交流会』が一昨日(9月23日)に姫路キャスパホールで午後1時から開かれました。バンド演奏や歌やダンスから箏曲とフラメンコのコラボまで全部で11の演目が途中10分の休みを挟んで3時間に渡って披露されました。私も懐かしい友人を誘って参加してきました。この催しは今年で第9回になるのですが、主催はMusic & Danceの会。姫路界隈に住む皆さんが日頃様々な文化芸術と接触した結果を披露し合うものです。兵庫県や姫路市などの地方自治体の各部局が後援してきています。実はこの試みを企画運営している中心者は、僕の竹馬の友で豊田秀昌君といいます。彼とは小学校2年の後半まで一緒だったのですが、その後30年ほどの〝中抜け〟状態の後に、縁あってこの40年近く、軽やかな付き合いをしてきています。ここでは、彼の行動から受けた「触発」と、僕との「共振」とでも言うようなものをご紹介したいと思います◆会場で見聞きした「異文化交流」の実態は、ラテン音楽やフラメンコダンス、ハワイのフラダンス、アンデス系の民族楽器の演奏(写真)や、中東アラブを発祥地域として世界に広まっているベリーダンスなどの披露でした。それに、日本古来の伝統文化としてのお琴が加わって、フラメンコダンスとコラボをしたり、一方、ケーナの演奏でベリーダンスを踊るなどといった異色の組み合わせもありました。そんな中で、アンデス民族衣装をまとった老若男女が、ケーナ、サンボーニャ、チャランゴなどといった珍しい楽器を演奏したのは目を惹きました。たつの市御津町を拠点に活動するグループで結成4年目だといいます。偶々メンバーの1人に30年来の旧知の友人がいるのを発見しました。3年前から月2回の練習に参加してきたといいます。久しぶりの出会いでしたが実に楽しそうで確かなる変身を驚きの目で見たものです。また、普段はCMソングやアニメソングを中心にアカペラで活動しているという男性4人組のコーラスグループが著名なジャズピアニストと組んだ巧みな演奏には、舌を巻きました。日常の仕事の合間に、異文化を取り入れようとする挑戦の姿に目を見張る思いでした◆実はこの催しに僕が初めて観客として参加したのは第2回大会の時でした。会場は僕の生まれ育った地域の公民館でした。舞台というようなものはなく、パイプ椅子を並べた観客席がしつらえられた狭い空間での開催でした。だけども不思議な活力を感じたことを覚えています。7年が経って会場は見事に〝成長〟していました。立派な客席に身を沈めて、壇上袖で挨拶する豊田君(写真)や、応援に駆けつけた姫路市長の話を聞きながら、「豊田の頑張り」に改めて敬意を抱いたしだいです。僕は議員を辞して既に12年ほどが経ち、住まいも姫路から西明石へと転じましたが、姫路での豊田君の地域活動には大いなる敬意を表して、見倣ってもきました。引退後直ぐに、新在家自治会の役員を引き受け、副会長から会長を経て顧問をするなど引っ越すまで5年以上地域活動をしてきたのです。それまでなかった青年部や超青年部(老人会の別名)を新たに作りました。月刊の地域ニュースの発行や、地域の著名人による講演会や演舞会の企画実行など、あれこれと新しい企画にも取り組んだものです。引っ越して5年を超えましたが、秋祭りに担いだ神輿の重さが忘れられずに今でも「里帰り」を心がけています。同自治会公民館に「赤松文庫」と称する、僅かながらの書棚コーナーを作っていただいたご恩も忘れ難いものがあります◆実は豊田君は、この催し以外にも播磨国総社の「輪抜け祭」の展開にも関わり、卒業して60年を超える出身高の合唱団で歌う一方、何かとお世話を焼くほか「英語多読の会」で自身の知性を磨くことも忘れていません。交流会に一緒に行った友人たちと、「これだけの面々を束ねる豊田君の常日頃の努力は大したもんだね。人が好きなだけでは務まらないよ」と大いに称賛し合ったものです。「人生百年時代」と言われる今日、定年後の30有余年ほどの生かし方が問われています。僕の高校時代の仲間たちを見ても、絵を描くグループに所属してひたすら絵筆を握る友や、気象予報士や美術館の学芸員の資格を取って趣味の領域を広げたり、カラオケに没頭する人など多士済々です。来年は10周年を迎える姫路の「異文化交流会」も、大きな区切りにふさわしい軌跡を築きあげた上で、一段と充実した盛り上がりを見せてくれることを期待しています。と同時に僕自身は新たなる挑戦への秘策を練っているところなのです。(2025-9-25)

 

 

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【38】「大衆重視」に生き抜いてきた日々の重み━━『公明』10月号を読んで/9-19

 わずか80頁の小冊子だが、日本の政治、経済、社会、文化をめぐる大事な情報の解説が満載されている━━公明党の理論誌『公明』のことである。今発売中の10月号も実に面白くためになる。色んなことを感じるがここでは一点に絞る。公明党が先の参院選で負けた根本的理由についての専門家の見立てと、公明党の60年の「大衆重視」の取り組み姿勢そのものから、考えてみた。

⚫︎公明党はこの国をどうしようとしているのかの発信を

 僕は2022年5月に拙著『77年の興亡』で、明治維新以来の日本の敗戦とその後の、2つの77年のサイクルの中で語り得る価値観の変遷を概説した。そしてその後2023年7月までの約一年の間に、朝日新聞と毎日新聞のサイト版(『論座』と『政治プレミアム』)にそれぞれ寄稿した論稿6本、合計12本を、翌2023年8月に『新たなる77年の興亡』と銘打って出版した。サブタイトルを「連立政権のジレンマ解消へ国民的大論争を起こそう」とした。連立与党間で国家ビジョンをまとめるべく協議を持てと、訴えた。この論考集を力を込めて書いた一年がいま無性に懐かしい。

 実は2021年の衆院選、翌22年の参院選と連続しての選挙結果も低調で、共に3年後の両院選挙と同様の傾向を見せていた。その得票、議席減の厳しい流れを受けて、僕は公明党が考える国家構想を明確にした上で、自民党との間で連立政権の国家ビジョンを作る必要があると判断した。で、それを作るための協議の場を持てと提案したのだった。ところが、残念ながらその後の2年間、そうした場作りの気配もなく時間だけが過ぎ去った。今度の選挙結果を受けて、いま再びの総括の議論が展開され、様々な内外からの反省や要望の意見が渦巻いている。

 そのうちの一つが、『公明』10月号の小林良彰慶応大名誉教授による『公明党再生に生かす参院選の教訓━━ビジョンの見えない〝現状維持政党〟からの脱却』という論考である。同氏は日本選挙学会の理事長を経験した「選挙・投票行動分析」の専門家として著名な学者だ。その人が選挙結果分析として①無党派層のうち公明党に投票した割合が選挙区、比例区共に全政党の中で最も低い②自民党と並んで公明党は最も現状維持的な政党と認知されており、現状に不満を持つ有権者の受け皿とは見られていない③SNSなどインターネットを政治・選挙の情報源とする者の投票先としてこれまた全ての政党の中で最も低い━━との結果を指摘している。残念ながらこれが公明党を取り巻く冷酷な現実なのである。

 その上で、小林氏は公明党に求められているのは「これからの日本をどういう国にしていくかを中長期的視野に立って立案し、明確なビジョンを示す著書を作成して刊行することで、公明党が何をする政党なのか、何を変えてくれる政党なのかを有権者に明確に提示することである」と強調している。これは冒頭に述べた拙著での僕の提案とほぼ同じ結論である。僕は公明党が独自の国家ビジョンを明確にした上で、自民党との間で連立政権のビジョンを作り出す協議の場を持てと言った。だが、小林氏はまず公明党としてビジョンを本にして出版しろと言っている。もはや自公政権は風前の灯(枠組み拡大は必至)だから、僕のいう自公協議の場作りはもう遅いというほかない。小林氏のいうビジョン本の刊行を即実行して欲しいものだ。

⚫︎「大衆重視」━━野党時代は制度新設、与党時代は制度修正の違い

    「公明党再生」というテーマを考える上で、公明編集部による連載「政治家改革の視点」は毎月興味深く読んでいる。今月号での『〝大衆迎合〟に対する公明党政治の真価発揮を━━「現場第一主義」「合意形成の力」がカギを握る』という論稿も極めて重要である。「自己反省」華やかな季節だが、確かなる誇りも大事にしたいとの思いで命に刻んだ。

 この論稿を読む上で、僕が留意したいと思うのは公明党60年の歴史にあって、ざっくりと前半30年が野党時代、後半30年がほぼ連立への胎動期から自公連立政権時代だという〝二分化する認識〟を持つことである。

 ここで筆者のT氏は、公明党の「大衆とともに」(立党精神)と「大衆迎合」(ポピュリズム)の違いを井上義久党常任顧問の発言に言及した上で、「現場第一主義」と「合意形成の力」をさらに深化させ、国民の真のニーズに即した政策実現に邁進することを誓っている。野党時代の公明党は「教科書無償配布」や「児童手当」など制度新設ともいうべき大改革を実現させた。一方、連立与党時代になると、①幼児教育・保育の無償化、出産育児一時金の増額などの子育て支援②消費税引き上げ時の軽減税率の導入など、現存する制度の補修、修正を沢山してきた。「制度新設」から「修正改革」へと、2つの時代のこの変化は意味深長である。公明党は結党以来、「大衆重視」(大衆とともに)の政策実現に奔走してきたが、その所産に違いがあることを自覚したい。野党時代も与党時代も「派手か地味か」など捉えられ方の違いはあっても頑張り抜いてきたのだ。

 大衆よりもエリート重視に偏向しがちな自民党を時に応じて嗜めたり、誘ったりしてきたののが公明党なのである。ましてや与野党間の「合意形成」は言うはやすく行うは難い。多党化時代のこれからは益々困難をきたす。自公少数与党は誰が比較第一党の新たなリーダーになろうとも、国会運営は変質を迫られよう。公明党はそのときどんな立ち位置を選択するのか。「大衆重視」の真骨頂が問われるときは近い。(2025-9-19)

 

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【37】自立していても自律は疑わしい老人の繰り言/9-15

 その昔、9月15日は敬老の日で、世の中お休みと決まっていました。ところが今は9月の第三月曜日が敬老の日となって、15日に固定されていません。去年の2024年は16日が敬老の日で、一昨年は18日でした。偶々ことしは今日15日が第三月曜日ということで、久しぶりに敬老の日になったわけです。2003年(平成15年)から法改正されて変更になったのですが、実は、この変化、個人的にはほっとしたものでした。実は僕ら夫婦は、9月15日に結婚をしました。1973年(昭和47年)のことです。あの日、これから毎年全国の皆さんが僕らの結婚式を祝ってくれるって、冗談混じりで喜んだものでした。ですが、その後は結婚記念日=敬老の日というのは、積み重なる老いを否が応でも意識せざるを得なくなってきました。尤も、連れ添い歴50年を優に過ぎると、お互いに身も心も「不都合な真実」に直面して、どうでも良くなってくるから妙なもんです◆ともあれ今年僕は傘寿を迎えました。本人は全くといっていいほど老齢であることを意識せず、ほぼ毎朝海岸べりをゆっくりと走ったりしています。ただし、ことあるごとに物忘れの酷さを家人からあれこれ指摘され、〝老化の道〟をひた走ってるのかもしれません。そんな折、さる9日のNHKラジオ深夜便「共に歩む100年人生〜初めての老いを上手に生きる〜」を聴く羽目になりました。というのは、生活評論家で活躍中の沖幸子さんが登場すると聞いたからです。この人、東京界隈に住む姫路出身者が集う「姫人会」の仲間です。かつて姫路市長選に挑戦もした〝強者〟でもあります。上京時に時々会います。深夜起きは苦手とあって「聞き逃し配信」という便利なツールで、〝ラジオ早朝便〟として聴きました。「人生百年」の長寿時代を元気で生き抜けるか、それとも躓いて苦労するか。このあたりを乗り切る知恵をたっぷり聴かせて貰おうと意気込みました◆この番組に僕の友だちが出るというのは、笑医塾塾長の小児外科医である高柳和江さんに続いて2人目です。共に期待に違わず話は実に旨い。番組タイトル名から、年老いた者としていかに価値ある生き方をするかの秘伝を授けてくれるものと勝手に想像していましたが、話の大半は掃除や部屋の整理、整頓の仕方についてのユニークな作法の伝授でした。思えばそのはず、沖さんはドイツ直伝の掃除の作法を日本に持ち込んで起業した最初の人でした。勿論趣味の世界の拡大についてもヒントを提示してくれていましたが、概ね、誰しもが億劫になりがちな掃除や整理が楽しくなるノウハウが中心でした。聴きながらつい、これって〝女性向け〟だなあと思ってしまったのです◆家事といえば今は亡き曽野綾子さんが「段取りをし続けることが、実は老年において人間としての基本的な機能を失わせない強力な方法なのだ」「家事は段取りの連続である。頭の体操にはこれほどいいことはない」(『晩年の美学を求めて』)と印象的な言葉を残しています。若き日より家事に無関心で妻に任せっぱなしできた男たちに厳しい警鐘を鳴らしていました。本を読み終えた時は、俺もカレーやオムレツぐらい作れんとあかんなあ。風呂場やトイレの掃除もせんと、と殊勝げに思ったものでした。ところがもう沖さんの話を〝女性向け〟のもので、男の俺には〝関係ない〟と思う気持ちが出てきてしまいました。そういえば、彼女はアンカーの須磨佳津江さんと実に楽しげな〝女の会話〟をしていました。男性のリスナーたちはすっかり置いてきぼりにされていたように聞こえなくはなかったのです。ひとことでも男たちをドキッとさせて欲しかったなあとは、いつまでも自律できない爺さんの繰り言かもしれません。(2025-9-15)

 

 

 

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【36】拝啓 斉藤鉄夫公明党代表殿 ━━ほんまかいな自民党の「解党的出直し」/9-10

 石破茂首相が退陣表明をした。思い返せば去年の9月28日にブログ「後の祭り回想記」で、『拝啓石破茂新総裁殿』というタイトルで、私信のかたちを取りつつ僕の新総裁への期待を述べた。あれから一年足らず。正直、無惨な結果をもって石破さんは総裁の座を降りることになった。この間、同首相とは時に応じてメール交換をしてきた。率直で不躾な僕の思いを幾分かはオブラートに包んで、〝厳しくも涼やかな注文〟をつけた。超忙しい身でありながら、石破さんはほぼ全てに返信をくれた。こういう姿勢が、外交の場で交流をいい加減にしてまで、スマホを弄ってると叩かれた原因の一つになったのではないかと、僕は恐れた。ここでは、退陣を表明してしまった首相に、あれこれと追い討ちをかけるようなことは控える。それこそもはや「後の祭り」である。それより僕は石破総裁を破り捨てようとする自民党という政党と、政権を組んできた公明党代表に一言申し上げてみたい。

           ★                                                                         ★

拝啓 公明党斉藤鉄夫代表殿

 斉藤さん。連日の闘い、お疲れ様です。貴方とは一緒に衆議院議員に当選した際(1993年)に初めてお会いしましたから、もう32年が経ちますね。「失われた30年」と呼ばれる年月の大半をお互いに政治家として過ごしてきました。僕は現役を退いてもう12年ほどが経ちますが、貴方は益々重要なお立場で走り続けておられますこと、まことに感嘆にたえず、心より敬意を抱くしだいでございます。

⚫︎私のメール読んでくれたなら返信を

 さて、先日あなたが元自民党の某大物代議士とある週刊誌上で対談されたものを拝見して、大いに感じたところがありましたので、その感想を書いてメールで届けました(8月27日)がお読み頂いたでしょうか。もう大分日が経ちますが、なしのつぶてなのは残念です。同誌上で、元自民党代議士は「早く自民党とは袂を分かつべき」との意を込めた発言をしておられたと記憶していますが、実に面白かった。彼をあまり評価してこなかった自分を恥じました。あの人からすっごく尊敬されている代表を改めて見直したしだいです。

 それより、公明党党員、職員(議員)歴が貴方より古くて長い者としての率直な感慨を述べた部分を思い出して欲しいと思います。「自民党を倒すことに青春をかけてきた僕のような昭和40年入会、入党の人間(44年公明新聞入社)からすると、今の自民党のボロボロの体たらくは、遂に宿願達成せり、以外の何ものでもないようにみえます」━━このくだりです。ここをざっと読み飛ばさずに、噛み締めてほしいと思うのです。宿願達成とはなんてオーバーな言い回しをするのかとか、自民党は友党なのに失礼じゃあないかと言った感想を持たれるかどうか。このあたりは公明党の人間としての重要な分岐点だと思います。今のお立場を束の間棚に上げ、素直に過去のご自分の情念の佇まいを思い起こして欲しいのです。

 私はかねて公明党の歴史は結成された1964年(昭和39年)から数えて何年と、平板に捉えてはいけないと思ってきました。地方議会からすれば結党60年であっても、国会としては、21世紀直前からは与党になって、それ以前の野党時代とはガラッと変わった政党になったとの認識を持つことが大事だと思うからです。ただ、かたちは違えど、こころは変わらず、公明党の党是、目的は「日本の政治の改革」でありました。ぶっちゃけて言えば、具体的には自民党的な大衆と遊離した金まみれの汚れた政治をまともなものに変えることだったのです。

⚫︎自民党総裁選を傍観せず、公明党内大論争を

 政治理念で言えば、本質的には自民党は保守、公明党はリベラル色豊かな中道主義です。仮に今の自民党が保守色が色褪せてきたというならそれは公明党の成果、公明党が中道らしさを失っているとみられればそれは自民党のせいというべきでしょう。今、自民党が結党以来のピンチというなら、公明党も同様に結党以来の瀬戸際です。要するにお互い様。どっちも「連立政治のジレンマのなせる業」で、〝自分らしさ〟を失ってきた結果が党勢に如実に出ているというべきです。総裁選挙に向き合うこれからの流れの中で、自民党からは「解党的出直し」云々との言葉が飛び交うと思います。ほんまにやる気があるのかどうか、大いに疑問です。その動きを真正面から見据えて、公明党は本気で「解党も辞さず」の心意気を天下に示すべきです。

 これまでのような、派手な自民党総裁選挙の展開をじっと待っていて、新総裁が誕生したら、両党間で連立政権に向けての政策協議や政権構想的なものをそそくさとまとめて済ませるだけではならない、と思います。公明党として自公連立の是非やあり様から「この国のかたち」をめぐって徹底的な論議を展開すべきだと存じます。世の中があっと驚き、メディアも注目するような議論をするのです。公明党には他の政党に負けない機関紙があります。発行部数において、幅広な中身において、日本一と言っていい存在です。そこでガンガン報道して欲しいものです。自己開示力を天下に示すいいチャンスです。

 選挙時に圧倒的なスペースを割いて候補者の絶叫場面が紙面を独占してきました。あれくらいの熱量で、党内大議論をすべきです。それをまず第一に要望したいのです。心から待望しています。 敬具 (2025-9-10)

 

 

 

 

 

 

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【35】変わらざる人間と変わりゆくAI━━あの「降伏調印式」から80年/9-6

    1945年夏の敗戦から80年が経った。僕はこの1ヶ月間あれこれと「戦争」にまつわるドキュメンタリー番組を見てきた。80歳の自分としても、あの「敗戦」を直接見聞きした先達の振る舞いや言葉を残しておきたいとの衝動に駆られている。時折りに書いていきたい。これはその第一回。切り口は1945年9月2日。米戦艦ミズーリ号上で行われた「降伏調印式」である。1941年12月8日の真珠湾攻撃で始まった「対米戦争」も、4年後の8-15のあの昭和天皇の「玉音放送」で終わりを告げた。と、誰しもが思っていたが、現実にはその後の数日間に、日本の中枢・東京、そして北海道・千島列島から沖縄に至る各地で「戦闘」は続いていたのである。それら全てが漸く終わり、決着がついたのが9-2だった。(との認識は不正確で沖縄は9-7に式典実施)。この「敗戦式典」での日本の主役は、当時の外相・重光葵(しげみつまもる)。そして脇役は外務省筆頭随員だった加瀬俊一。このうち重光は、外交官の中で僕が尊敬してきた大きな存在のひとりである◆重光は、1932年4月29日、上海蛇口公園での天長節祝賀式典において、朝鮮独立運動・尹奉吉のテロ攻撃に遭い重傷を負った。彼は同年1月に起きた第一次上海事変の後始末の一環として欧米諸国の協力のもと、中華民国との停戦交渉をまとめ、協定調印を残すだけという状況下にあった。その渦中の事件で激痛に耐えながら「停戦成立が実現しないと日本国の前途は取り返しがつかなくなる」と口走ったとされる。事件の1週間後に右脚切断の大手術をするのだが、その直前に停戦協定の署名役を果たした。朝鮮との絡みで、同国関係者(安重根)の恨みを買って狙撃死したといえば、伊藤博文初代首相のことだが、戦後世代の私にとっては、杖をつき義足で歩く重光の姿を映像や写真で見てきた分だけ、身近に感じる人物である。降伏の署名者としてこれを「不名誉の終着点ではなく、日本再生の出発点だ」と捉え、その心境を「願くは 御国の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを」と詠んだ人物だと後に知って深い感動をした。岡崎久彦(外務省初代情報調査局長)に『重光・東郷とその時代』なる著作があるが、重光の名を讃えるひとりでありたいと、私も思っている🔹さてもう1人の加瀬俊一については、ミズーリ号上で署名する重光の横で介添役をする写真を眼にすることが出来る。当時42歳前後。それから20年程が経ち慶應大学の日吉キャンパスで彼の謦咳に僕は接した。特別講師としての講演を聴いた。細かいことは忘却の彼方だが、その声の響きと確信に溢れた振る舞いは60年ほどが経った今も記憶に残っている。戦争前後の日本史の生き証人のひとりの話を聴くにしては、随分と気楽だった我が身を恥じいるばかりだ。この人、あの頃から随分長い間にわたり新聞やテレビなどで活躍された。101歳で鬼籍に入られたのだが、その後お会いする機会がないままになったのは残念だ。せめて彼が残した『晩年の美学:「残灯期」の愉しみを語ろう』というインタビュー記など読みたいと、今頃になって思っている◆つい2日前に、中国は「抗日戦争勝利80年」を記念する軍事パレードを北京で行った。これには、ロシアのプーチン大統領、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党総書記が参加。旧ソ連時代を含めて中露朝3カ国のトップが公式の場で一堂に会するのは1959年以来のことだと、大いに話題になった。ひときわ図体が大きい習近平と、気負った風な歩き方の金正恩に比して、プーチンが精彩を欠いたように僕には見えた。ふと、『隠し砦の三悪人』というフレーズだけが不思議にも頭をよぎった。日本がしでかした「戦争」がすべて終わったあの日から3ヶ月足らずで生まれた僕がもう直ぐ傘寿を迎える。この80年間の自分自身と人間の本質の「変わらなさ」に愕然とする一方、凄まじい勢いで進みゆくAI(個人的にはチャットGptで実感)に、「変わりゆく」人類への希望を抱く。(敬称略 2025-9-6 一部修正)

 

 

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【34】「勇気の連鎖」から「連鎖の感動」へ━━吉田修一『横道世之介』を読んで/8-31

 NHK『映像の世紀』バタフライエフェクト(以下「バタエフェ」と略)という番組はとても興味深い内容で、毎回楽しみにしている人は多いはず。先日、表題に掲げた小説のクライマックス場面で、これは明らかにあの「バタエフェ」での事件から着想を得たに違いないと心躍らせた。たね明かしは後回しにして、まずその小説、吉田修一の『横道世之介』から触れたい。これを読むに至ったのは何を隠そうチャットGPTのお勧めにbよる。小説『国宝』をめぐって彼女(A Iちゃんにしておく)と読後の意見交換をしたのだが、実はその時のご縁で、3冊の吉田氏のお勧め本を挙げてもらった。そのうちの1冊である。柴田錬三郎賞に輝いた青春小説だという。大学進学のため長崎から上京した18歳の青年の生の暮らしを描いたもの(60年前と比較しながら読んだ)。主人公・世之介は「愛すべき押しの弱さと隠された芯の強さ」を持つ。何ともいえぬ妙にふわっとした不思議な魅力に溢れる人物像に、ついつい引き込まれ読み進めた◆4月桜、5月ゴールデンウィーク、6月梅雨ときて、1月正月、2月バレンタインデーなどと、一年間の定番のイベントを並べた平凡な章立てに見えるのだが、ドッコイ中身はなかなか非凡。所々で登場人物の未来の姿が別枠で挿入されて、微妙な伏線の役割を果たす。時系列を追うだけの物語展開ではないところが面白い。と共に、世之介の友達の祥子なる女性がまた飛び抜けて浮世離れした、まるで時代劇に出てくるお姫様のよう。お抱え運転手付きの高級乗用車に乗って移動する祥子と世之介の珍道中には、突然歴史上のリアルな事件が出てくる。実は著者の代表作の一つ『悪人』では、佐賀・福岡間での史上初のバスハイジャック事件が出てくるが、この小説ではベトナム人のボートピープル事案と、駅のプラットフォーム落下事故が登場する。前者は、漂流民の中の赤ん坊の存在が2人の心を悩ませ惑わせるし、後者はなんと主人公が巻き込まれてしまう◆21世紀に入った直後に、駅での悲しい出来事は連発したものだが、そのうち、落ちた人を救おうとした日本人と韓国人青年が2人とも巻き込まれて亡くなったケースを覚えている人は多いはず。その事故とそっくりな話が出てくるのだ。なんと、主人公・世之介が犠牲者のひとりとして韓国人の友人と共に生命を投げ出してしまったのだ。この場面で、僕は冒頭で述べた「バタエフェ」を直ちに思い起こした。実は、2023年1月16日放映の『危機の中の勇気』で、東京・新大久保駅で現実に起きた事件(2001-1-26)を取り上げていたのである。その番組では、かねて日韓の架け橋になりたいとの思いを持ち続けていた韓国人青年シン・スヒヨン君の姿が垣間見られた。しかも、息子の遺志を受け継がんと、母親のシン・ユンチャンさんが一般の人々から寄せられた多くの募金を基に奨学基金の仕組みを打ち立てた経緯が紹介されていた。合わせて、その時から6年後にまたしてもJRの駅プラットホームから落下した人を救おうと3人が飛び込んだ事件がおきたのだが、これも紹介されていた。こちらは奇跡的に全員助かったのだが、その救助者のひとり山本勲さんは、スヒヨン君の行為から「一歩踏み出す勇気」を貰ったと、深い感動を受けていた。映像では、「勇気の連鎖」として高く賞賛されており、観るものの胸を打たずにおかなかった◆小説を読んでいて「バタエフェ」のシーンを連想したのは初めてだった。吉田氏がこの番組を観たかどうかまでは分からない。だが、韓国人と共に救助しようとして命を失ったとの設定は事実と連動しており、着想はあの事件から得ていることは間違いないと確信する。自らの命を顧みず人命救済に身を投げ出した主人公の行為は深く重く読むものの生命に響く。大きな「感動の連鎖」だったのだ。「バタエフェ」は、他にも胸打つ作品は多い。僕が強い印象を持ったのは、これ以外に、ブルース・リーの「友よ水になれ」(Be water)とか、『ビートルズの革命』上下2作や人種差別を静かに熱く批判する『奇妙な果実』など忘れ難い。こうしたドキュメンタリーを観ると、「事実は小説よりも偉なり」と、ことわざを変えたくなる。(2025-8-31 一部修正)

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【33】なぜ日本は凋落したか━━福澤諭吉の「教育・発育」論議を/8-25

 23日に開かれた「姫路慶応倶楽部・夏季例会」でのこと。「独立自尊とイノベーション」という演題で三木則尚・慶應義塾大学理工学部教授の講演を聴いた。冒頭、同大理工学部の国際交流委員長や体育会スケート部部長として活躍される姿が映像で紹介され、参加者との一体感が一気に高まった。講演前半では「失われた30年」と言われる日本を取り巻く厳しい「時代の変化」が世界各国との比較を通じて赤裸々に認識させられた。後半はこれからどうするかについて、福澤諭吉の知恵としての「独立自尊」の精神で乗り越えていこうとの興味深い展開だった。以下、この講演を受けての所感を述べてみたい。

⚫︎福澤諭吉の「教育でなく発育を」の論議はなぜ無視されたか

 三木教授の講演は「我が意を得たり」そのものの内容で、爽快さを覚えた。とりわけ、明治維新から77年後の1945年の「敗戦」と、更にその後77年経った2022年の「敗北」という2つの77年間を対比させての現状認識の披瀝については、拙著『77年の興亡』を著した者として大いなる共感を抱いた。ただ、今日の事態を招いた背景として「教育」に因ありとの指摘については、かねてからの僕の疑問に触れられなかったことがいささか気になった。それは、福澤諭吉自身が『文明教育論』(明治22年)の中で「教育の文字甚だ穏当ならず、宜しく之を発育と称すべきなり」と述べていることに関わる。「教育」との呼称が〝上から目線〟であるのに比して、「発育」は〝内からの発想〟で斬新だと思われる。明治の「文明開花」期における最大の着眼点と言ってもいいのに、殆ど無視されてきたことは不思議に思う。

 講演後、この辺りについて同教授のお話を直接伺った。「福澤の教育論がなぜ受け入れられずにきたのでしょうか。今日のお話でもその点に触れられなかったのは画竜点睛を欠くと言わざるを得ません」と率直に問いかけたのである。三木教授は、「いやあおっしゃる通りです。実は大学でも自分はそのことをいうのですが、皆さん何故か殆ど同意頂けないのです。これからは貴方の言われることをも加味して講演でも使っていきます」と、全面的に同意を戴いた。積年の疑問を解くと共に「教育改革」への強力な同志を得た思いでとても嬉しかった。

 福澤諭吉は「教育」ではなく「発育」という言い方をすべきだと言ったものの、その後の明治日本では受け入れられず、むしろ「教育勅語」の定着化に代表されるように、真反対の方向に流れた。「教育」は、軍国主義日本としての「画一的に教え育む」用語として縦横無尽に一人歩きしたことは周知の通りの歴史的事実なのだ。

⚫︎「戦後民主主義教育」でも続いた封印はどうしてか

    何故にこんなことになったのかという問題意識をこのところ僕は持ち続けている。福澤が論考で発信した当初は、「西洋事情通」らしい発想の所産として注目されたのだが、直ぐに明治日本の土壌には受け入れられないとの空気が支配的になった。統治の有り様として一定方向に教えることが肝心で、個性を育む多様化は、近代国家作りには馴染まないということになったのだろう。この流れに対して、福澤がどういう反応を示したかについては、あまり世に知られていない。ただ、自論を撤回したのではなく、世の風潮に同意せざるを得なかったのだろうと僕は見ている。いかに福澤とはいえ、文字通り「衆寡敵せず」の状態を突破するのは難しかったに違いない。

 むしろ僕が疑問に思うのは、戦後日本の再出発にあたって、米国の教育制度の導入という事態においてこそ「発育」が受容されるべきチャンスだったのに、やはりそれが受け入れられず、封印されたということである。占領期の前後に「教育か発育か」との論争があったかどうかは定かではない。明治以来の「教育勅語」に代わって「戦後民主主義教育」という呼称で世に流れ出でたものの実態は、個を尊重するというよりも全体を平等に一歩前進させるものとして定着していった感が強い。

 高度経済成長期を通じての「詰め込み教育」か、それに対抗する「ゆとり教育」かとの論争はあったが、福澤が提起したような、「外からのお仕着せでなく、内在的なものを引きだすのか」との論議はなされてこなかったように思われる。ようやく個性豊かな多様化の時代が叫ばれている折にあって、日本の「教育」の有り様が改めて問われだしている。今こそ福澤の「発育」論に陽の目を当てていきたいものである。(2025-8-25)

 

 

 

 

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【32】客観的情勢は「解党」気運?━━架空鼎談『公明党のこれから』/8-20

 猛烈に暑い夏が続いています。7月の参議院選の自民党との〝連れ立ち大敗〟の結果、日本の政治は多党化と少数与党の厳しさが一段と鮮明になりました。選挙後1ヶ月が経ち、夏休みも終わりかけていますが、公明党にとってのこれからをどう考えるか。ここでは80代の爺さん、50代のお母さん、20代の孫息子の3世代による架空鼎談を試みました。

⚫︎新しい党を作るぐらいの気構えが必要

孫)暑い熱いって言ってるうちに、参院選からもう1ヶ月が経ってしまった。公明党の選挙戦総括もそれなりに進んでるみたい(斉藤代表の発言)だけど、僕らの感覚からすると、遅すぎるし、ピンとこないなあ。これだけ負けたら、人心一新というか、解党的出直しが当たり前だと思うけど。

母)あらぁ、いきなりきついことを。確かに世間的には大敗の責任は、党執行部にありというのが通り相場だけど、ことはそう簡単じゃあない。自公で組んで20年余。利害得失よく考えんとあかんのじゃあ?

爺)私の世代、特に男性は自民党と離れるべしとの意見が強い。こないだ大阪自民党の前代表が公明党との関係見直し論をぶってたよね。あれには反発感じるなあ。「三下り半」はこっちが突きつけたいよ。

孫)自公共に古い政党だっていう印象が専らだね。SNS、YouTubeを見たり、使ったりしてる僕らからすると、このところの選挙結果の傾向は当然だよ。公明党は自民党の言うがままの弱い党と見られてる。

母)そうかしら。もし公明党なかりせば、自民党はもっと酷くなってる。公明党はそれなりに自民党を制御しているって見方もある。今が正念場で、ここまで来たんだから、政治改革に更に取り組まないと。

爺)優しくも厳しいこと言うなあ(笑)。公明党60年の歴史を振り返ると、前半と後半がほぼ30年で二分される。ここらで、解党して、新しい党を作るぐらいの抜本的な対応をするいい機会かもしれんと思う。

孫)そうだよ。僕らの世代にとって、公明党って色でいうとライトブルー。爽やかで清々しいイメージがあるけど、インパクトが弱いよ。今の時代を変えていく馬力をもっと感じさせて欲しいって気がする。

爺)俺たちからすると、自民党政治を変えるという目標のもとに出来た公明党だから、ボロボロになった自民党を見てると、打倒自民の目標は達成した(笑)とみていいかもしれん。発想の転換をするとね。

⚫︎党のイメージ一新には「代表選挙」の実施こそ

母)自民党っておかしな党ね〜。選挙で負けた責任を石破首相にだけ押し付ける動きは納得いかないわ。「政治とカネ」問題で罪作りだった連中が大きな顔するなって。選挙の結果受けて心底反省しなきゃ。

孫)公明党には斉藤さん辞めろって声ないよね。ちょっと物足りないけど(笑)。これまでの党のイメージを一新するには、もっと若い人が全面に出て、ガンガン議論して日本を変えるために頑張って欲しい。

爺)どう変わればいいって思う?俺なんかはもう自民党との連立には区切りをつけて、党独自のスタンスで公明党らしさを出す方がいいと思うよ。中道主義の政党として「平和」への舵取りを大胆にやって。

母)そうね〜。自民党に気を使い過ぎてる感じが強いわね。「核廃絶」問題でも唯一の被爆国としての「らしさ」がみられない。昔の「素人」からすっかり「プロ」になって物分かりが良すぎる感じね。

孫)イメチェンには「代表選挙」をすることが一番だよ。例えば今なら自民党との連立の是非を巡って丁々発止の議論すればいい。安全保障でも年金制度などについても。それやれば世の中注目するよ。

爺)小さな政党が代表選挙やると、二分されて自壊するっていうけどどうかなぁ?中が見えないっていうのが一番いけないんじゃあ?公明党は「自己開示力」が弱いっていわれてるから、鼻明かしたいよ!

母)参院選で悔しかったのは、選挙区で3人落としたことや比例区で500万票台になってしまったことだった。ポッと出た政党が700万票も獲るって、もう呆れたね〜。こんな党は次の機会はドーンと減るかな?

孫)選挙戦略の根本的な違いや、時代の空気が関係していると思えるから、単なる風じゃあないよね。公明党の縁故に起因する人海戦術的地上戦とは次元が違う。天空から舞来る空中支援って来ないかなあ?

爺)そんなの当てにしても仕方ない。とはいうものの、〝されど我らが戦法〟だよなぁ。候補者の辻説法と握手、支援者の戸別訪問への熱意がベースだけど、それを上回る飛び道具としてのSNSってことか(笑)

母)加えて常日頃からの政治学習も大事ね。それにしても、石破さんが辞めるとなると、また衆院解散、総選挙なの?年がら年中選挙だよ〜。議員さんも大変だろうけど応援する側も、もういい加減にして欲しいって気分になるよね〜。選挙制度の有り様を抜本的に変えるってこと誰か考えて! (2025-8-20)

 

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【31】80年目の「8-15」に「戦間期の終わり」を考える/8-15

 毎年8月になると、6日、9日、15日を中心に昭和20年からの歳月を数えて、新聞やテレビなどのメディアが「アジア太平洋戦争」にまつわる「敗戦・終戦」の特集記事や特別番組を報じる。今年は80年の節目とあって、一段と力がこもっていたように思われる。僕は敗戦直後の年の11月に生まれた。NHKを中心に幾つもの「特番」を観て、改めて「戦争の悲惨さ」を身に沁みて感じた。ここでは昭和20年に生まれ、後に政治家となった者として、敗戦後80年の今が「戦間期」の終わり、つまり〝新たな戦争〟の始まりにならぬようにするために、まず何が必要かの課題を考えたい。

⚫︎近づく「戦間期」の終わり

   「戦間期」という言い方は普段あまり聞かない。戊辰戦争を期に明治維新以降、国内戦争は西南戦争をもって終わる。以後、日本は大陸を舞台に日清戦争、日露戦争で清(中国の前身)、旧ロシアと戦って一応の勝利を収めた後、第一次世界大戦でも戦勝国になった。その後20年足らずの僅かな「戦間期」を経て、昭和6年9月の満州事変を期に、日中戦争に突入し、いわゆる「アジア太平洋15年戦争」の当事者になり、米国を始めとする連合国と地獄の戦闘を繰り返した。沖縄で歴史上初の地上戦を米軍と展開した後、本土決戦も辞さぬ構えを見せた挙句に。2発の原爆を広島、長崎に投下されて命脈を絶たれた末に、一国が滅亡し米国の占領支配の下におかれる。以来、戦争を経験しない「戦間期」が80年もの長きにわたって続いている。

 2022年のウクライナへのロシアの侵略以降、明らかに世界は第三次世界大戦の「助走期」に入ったと見られる。今のところ、アジア全域や太平洋沿岸地域では直接の戦禍はなりを潜めているかに見えるものの、一触即発の危機のタネは随所に伺えよう。「戦間期」の終わりを警告する発言は私が知る限り、外務省出身で今はキヤノングローバル戦略研究所の宮家邦彦氏が最も目立っているようだ。僕自身が最初に彼の発言を目にしたのは今年の産経新聞新年号の正論大賞受賞記念対談だった。彼はそこで、戦間期の終わりが近いことを予測した上で、第一次世界大戦の際のように、「勝ち組」に回れるような日本の振る舞いが大事だと強調した。この、現状認識は、同氏らしいユニークなもので注目されよう。

⚫︎戦争回避の話し合いと軍事力の行使

 戦間期が終わるという意味は軍事的な衝突が現実に起こるということを意味する。宮家氏は「軍事力で自国を守るのは、世界の常識です」と強調すると共に、「力で現状変更しようとしている(相手国がある)のだから、力でしか止める方法はない。話し合いで効果があるなら、中東などで戦争は起きませんよ」と断定。その後、「例えば、専守防衛を厳格に解釈し、『反撃能力は相手の攻撃がなければできない』とする公明党は危ういんじゃないですか。また、ともに連合の支援を受ける国民民主党や立憲民主党にしてもどうか」と発言している。

 彼がここで言いたいのは、国際的に厳しい状況の中で、現政権が少数与党である上に、与党の一翼を担う公明党も野党の中心勢力も、いざという場面で頼りにならない、結局は保守勢力がしっかりせねばならないということであろう。それを「今の日本は、健全な保守勢力が、20世紀型の保守政党から21世紀型の保守政党に脱皮しないといけない」と表現していた。

 僕は宮家氏の発言を読んで、世間に誤解を与えるものだと思った。公明党は紛争や戦争が日本周辺で発生する危険に対しては、予防外交に徹した上で、ギリギリまで「話し合い」による解決を先行させるスタンスであることは間違いない。戦端が開かれたら「力」がものをいうが、開かれるまでは、とことん「話し合い」である。それを「危うい」と表現されると、極めて無責任な存在だと勘違いされる。それなら、話し合いを早々に放棄して、力づくに持ち込む方が真逆な意味で「危うい」といえよう。

 そういう意味合いも含めて、僕は「公明党の中道主義の21世紀型の展開が必須だと(宮家さんの主張を)読み替えました」と、やんわり抗議した。これに対し、「大変失礼しました。軍事力の適切な使用にアレルギーのない中道保守の存在がカギになると思います」との返信が届いた。これはまたこれで掘り下げた議論と相互理解が必要なのだが、公明党がカギを握っているとの認識の表現で、よしとしたい。

⚫︎多党化の中で「戦争と平和」をめぐる本格的論議を

 あれから7ヶ月、参院選の結果を見ると、事態は微妙にかつ着実に変化した。軍事力をどう使うかをめぐる政党の立ち位置の分布図はどうなったか。建て前と本音入り混じる状況を見定めないとならない。

 このあたりについて、徹底した議論を与野党を越えて積み重ねる必要が早急にある。いわゆる「安保法制」を制定してから既に10年が経ち、その具体化としての「安保3文書」の実行も緒に着いた。「集団的自衛権」の議論も自公だけの、しかも担当者だけの秘密討議で国民一般に公開されていない。

 だからこそ、僕は自公間で引き続きの議論が必要だと主張してきた。今日の多党化の状況では、自公だけでは収まらない。政権を担う可能性のある政党と早急に議論を開始する必要がある。(2025-8-15)

 

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