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【213】政党機関誌の枠を超えた斬新な視点━━『公明』5月号をこう読んだ(下)/4-23

 前回は『公明』5月号が現在の政治課題をどのように面白い視点で捉えているかを述べた。政党の理論誌といえば、自分の党の主張を唯我独尊的に述べていると、見られがちだろうが、ドッコイそんな狭い了見はないと私は思う。その観点から具体的実例を示したところだ。今回は、①特集『首都の安全を考える』から「大都市防災の視点」を②『試練続く国際秩序』から米脱退でWHOは岐路を③ユニークな読み物3点を紹介してみたい。

⚫︎見落とされがちな大都市防災の焦点━━首都の安全を考える

 私の妻は、生まれも育ちも東京中野。私と結婚して15年ほどが経って、40歳代半前半に夫の選挙出馬のため、生まれ故郷を泣く泣く離れ、未知の播州姫路に居を移した。40年近くが経ったいまでも時々、挨拶回りを終えて、帰路についた夜を思い出すという。駅員のいない山奥の駅のプラットフォーム。1人立ってたその時にどれだけ心許なかったか。その妻に、私は東京に帰りたくないかと、水を向けたことがある。答えは「帰りたくない」。なんでかと問うと「だって首都直下型地震が怖い」と。

 そんな私たち夫婦が共に目を凝らして読んだのが、特集『首都の安全を考える』。闇バイト対策と地下シェルター構想というユニークな2つも興味深く読んだが、やはり、廣井悠・東大先端科学技術研センター教授の「見落としてはいけない大都市防災の焦点」に目は向いた。

 「都市は人類最高の発明である」から始まって、であるが故にさまざまなものが集積した大都市で災害が発生すると、その被害がどれだけ甚大なものになるか計り知れない。ということを丁寧に淡々と述べつつ防災対策の方向性を披瀝している。その特徴は、巨大な「集積」から派生する「激甚性」であり、「複合性」「新規性」であるという点だ。最も面白いと思ったのは、複合的リスク対応として、防災とスポーツを組み合わせた「防災スポーツ」を提唱していることである。「端的に言えば防災とスポーツの『よいとこ取り』を実現したもの」だという。この論考を読み込んで、都議選をめぐる各地での支援活動の手引きにするといいと思う。

⚫︎わがまま気ままなトランプ米大統領令で国際秩序は破壊へ

 二つ目の特集は、「試練続く国際秩序」とのタイトルで、トランプ関税とWHO(世界保健機関)からの米の脱退を取り扱っている。ここでは後者の詫摩佳代慶大法学部教授の論考を読んでの感想を述べる。

 就任早々、パリ協定やWHOからの脱退、パンデミック交渉からの離脱、海外援助の90日間停止と見直しに踏み切る一方、米国がこれまで加盟してきたすべての多国間組織及び国際条約を180日以内に包括的に見直すとする大統領令に署名した。これが現実になると、約14%分のお金がWHOのもとに入って来なくなるのだ。因みに日本のWHO会計負担額は1・13%、中国は0・32%。比較すると米国の存在感がよく分かる。

 詫摩さんは、米国のこの政策変更がもたらす影響について、微に入り細を穿って述べ、世界の人々の健康が悪化の一途を辿ることになると警告する。そして保健分野における国際連携の意義や、取るべき日本の立ち位置などを多角的に論じている。これを読むと、米国の凄さが理解出来ると同時にトランプ氏がいかに酷いことに手を染めようとしているかも分かる。

 「健康面」に加えて、関税をめぐるトランプ氏の仕業も全部「悪夢」で終わり、世界中が米国の有難さが分かって目が醒めるという劇的変化を待望したいのだが?「トランプさん、あんたの凄さはようわかったから、もうめちゃせんといて」とのセリフが現実の中の悲鳴と怒号で、かき消されそうなのは、めちゃ怖い。

⚫︎『公明』ならではの役立つ「知的お宝」探しが楽しい

 さて、最後に5月号に込められた「知的お宝」とでもいうべき面白くて役立つ情報を3つ紹介したい。一つ目は、前回も触れた浜崎洋介さんの超刺激的発言である。一杯ある中から一つに絞ると、彼が日頃家族や友人、仕事仲間と議論している事柄が、「そのまま国政レベルで議論されていると感じたことは、この数年のあいだ、一度もありません」「『市井』の感覚と『霞が関』『永田町』の感覚が、完全にズレている」とのくだりである。これを読んで、事実と違う、誤認識だという政治家がいたら名乗りをあげて欲しいものだ。

 二つ目は、松本茂章・文化と地域デザイン研究所代表の「文化✖️地域✖️デザイン」学の提案だ。アカデミックスペース「本のある工場」を開設したという彼の試みは、これからの日本を甦らせるとてつもない挑戦だと思う。「社会を元気にする『総がかり』な学問の創造を」というタイトルには魅せられた。読売記者を彼がしていた頃を知っているが、この変身に驚いた。引っ張り出した『公明』編集部の眼力に拍手したい。

 三つ目は、安成洋・映画『港に灯がともる』プロデューサーの寄稿。この人は、かの有名な『心の傷を癒すということ』の著者・安克昌医師(故人)の実弟である。兄は、阪神淡路大震災の直後から自身も被災しながら被災者の「心のケア」に取り組み、その1年間の記録をまとめた。弟はそれを映画にした。

 兄・克昌さんの残したものを「「生きづらさ」を独り抱える人の傍らに寄り添う作品に」して、普及に取り組む弟・成洋さんの戦い。震災後30年の今船出した「兄弟船」の行く末をしかと見届け、応援したい。(2025-4-23)

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【212】相反する評価を併せ読む面白さ━━『公明』5月号をこう読んだ(上)4-17

⚫︎与野党間の幅広い合意形成の要役・公明党

 公明党の理論誌『公明』って、つくづく面白い読み物だ。毎号感心しているが、今月5月号も良くできている。自分の政党の「売り」を幹事長(西田実仁参議院議員)にインタビューして巻頭に掲載した上で、それを評価する学者(諸富徹・京都大学公共政策大学院教授)の主張と、逆に評価しない学者(浜崎洋介・京都大学特定准教授)の言い分を並べているのだから。私のように、今の日本の政党の中で、公明党は「ベストではない」けど、「よりマシ」政党だと思ってる人間からすると、考える糸口を貰ってとても嬉しい気がする。

 西田幹事長はインタビューで、①「年収の壁」②「教育無償化」③「高額療養費制度」④「政治とカネ」など一連の課題について、公明党が「与野党間の幅広い合意形成の要役」だったことを明らかにしている。細かな交渉の中身は本誌に委ねるが、①については、「所得税の課税最低限を160万円に引き上げることを盛り込んだのは」、「限りある財源の中、追加の赤字国債を発行せずに、現段階での財政規律とのバランスで示せるギリギリの線」だったと主張している。②は、「26年度から私立加算の所得制限を撤廃し、上限額を私立の全国平均に相当する年45万7000円へ引き上げた」のだが、その過程で「教育の質と多様性を担保する必要性を強調した」ことが重要だとしているのだ。(③と④は省略)

⚫︎公明党への評価の声と評価しない声のぶつかり合い

 このうち①について賛成の立場から諸富徹さんが『福祉国家を支える税を嫌う国民が多いのはなぜか』とのインタビュー記事で、「『年収の壁』は、公明党案は非常に考え抜かれた良い内容だ。単純に178万円まで引き上げる国民民主党案と比べ二つの点で評価できる」としている。つまり、一つは、所得水準に応じて控除の引き上げ幅を変えた点。つまり、国民民主党案は高所得層ほど減税額が大きくなるというのだ。もう一つは、減税規模を1兆2千億円程度に抑えた点。要するに、国民民主党の案では、7兆〜8兆円もかかってしまうというのである。一方、②については、国際的に見て、教育における国家の負担が低くて遅れている日本だから、「(私は)高校授業料の無償化は肯定的に見ている」と評価する。

 一方、浜崎さんは、『社会の柔軟性、思考力を支えるのは信頼感と文化』というタイトルの記事で、①の自公案は方向性が見えにくい内容だと手厳しい。一方、国民民主党の「現在の最低賃金を基準にした所得税の課税最低限『178万円』への引き上げの方が全体の理屈は通るし分かりやすい」と。それに比べて自公案は、「178万円」と、「123万円」とのあいだを取って「160万円」に落ち着かせたようにしか見えない、というのである。しかも、「社会保障制度改革や経済政策を実行するには、その手前にある政権与党の価値観や国家観が見えていなければならないのだが、それが見えない」と。また、②についても、「逆に『市場』に任せるべき私立高校の運営に、『国家』が出張ってきた悪い例」だとして、結果的に「公私の格差」は開くばかりだと、「正論」を突きつけている。

⚫︎経済学者の優しい励ましと思想家の厳しい檄

 二人の違いをどう見るか。諸富さんは、財政的にも政党間力学的にも、厳しい環境の中で公明党が目一杯頑張って合意形成に努力したと、短期的観点から優しく励ます意味で評価してくれていると私は読みたい。一方、浜崎さんは、国家の根本的有り様に立ち返って、長期的視点から厳しく檄を飛ばしていると思われる。ざっくりいうと、前者は経済学者の見方、後者は思想家の視点だといえそうだ。(以下続く2025-4-17)

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【211】「普通の党」に脱皮するには?━━落選中の後輩の活躍から/4-12

 「当選した君には興味ないが、落ちた君には大いに関心がある」━━そう〝泣かされる〟セリフを口にして、私が最初の選挙で落選した時に物心両面から励ましてくれた外部有力者がいた。もう35年ほど前のことになるのだが、はっきりと覚えている。有り難かった。私の場合は初陣での落選だから、また元の職場に戻ることが出来た。しかし、現職議員で落ちると、様々な面で苦労する。収入源の確保から何やかやと大変である。去年の衆議院選挙は大阪の4小選挙区の公明党現職が全敗だったので、それぞれ再起に向けて(一人は引退だが後の3人は)悪戦苦闘中である。そのうち、伊佐進一・前衆議院議員が主宰する「サブチャンネル」(ユーチューブ)で選挙プランナーの松田馨さんと対談しているものを見た。公明党の選挙戦略に問題を投げかけていたものだが、これからの選挙戦を考えるうえでの課題として取り上げてみたい。

 ⚫︎選挙プランナーが投げかけた3つの疑問

 松田氏は、①公明党はなぜ小選挙区と比例区に重複立候補しないのか。しないことで多くの死票が出てしまうのはもったいない②党代表選挙をなぜ普通の形でやらないのか。結果的に無投票で終わってきてるのは惜しまれる③公明党は創価学会員以外にも党員の門戸を開くべきだ。閉鎖的に感じる━━以上の3点に要約される。

 いずれもかねてから関係者の間では議論されてきたが、採用されるには至っていない。結論をいうと、彼の指摘通り導入すべきだろう。やっても期待通りの結果は出ないかもしれないが、やる価値はある。公明党は普通の政党とは〝良いも悪いも違う〟というイメージが付き纏っている。それを払拭出来ると思うからだ。

 このうち私がかねて主張してきたのは②である。他の2つは、これまでは賛成できない立場だった。まず①から。これは今の選挙制度そのものが持つ問題点に起因する。重複立候補を認めているのだから、小選挙区で落ちても惜敗率が高ければ救われていいという意見だろう。しかし、基本的に定数1の小選挙区で負けたら「敗者復活」はないと言うのがスジだろうと思ってきた。だが、制度としてあるものを採用しないのはやはり「痩せ我慢」かもしれない。今回のように若くて優秀な議員が惜敗すると、本当にもったいないというのはその通りだ。ただ私のような単独比例区で5回当選してきた人間からすると、複雑な思いにならざるを得ない。「重複あり」なら、皆平等に小選挙区に出て1議席を取る戦いに参画させて欲しい。贅沢言うなと言われそうだが、単独比例区候補は種々の意味で惨めな思いを味わう。これを機に、重複をする方向を考えるべきだろう。

 ②については、党代表選挙は絶対実施するべきだ。去年の衆院選前に自民党、立憲民主党が党首選挙を行ったのを横目に、公明党はあいも変わらず「無投票」でお茶を濁した。せめて選挙期間中にたとえば国家ビジョン、外交安保政策、社会保障政策などテーマを決めて党内議論をすべきだと主張したが、それさえもなかった。代表選挙をやれば、波風は当然立つが、必ず公明党の支持層は増えるはず。小さい政党が分断されてしまうとか、派閥が出来るからというのが反対論だが、そんな俗論に怯んでいてはならない。やれば公明党へのイメージが変わる。

 ③については、一番難しい。とっかかりとしては、党員の集まる支部会をもっとオープンにすべきだろう。党費云々の問題やら諸々あるものの、党全体が特殊な人々の集まりであるとのイメージを変えるためには、これこそ第一歩かもしれない。公明党の持つ素晴らしい理念、政策、さらにはその基盤としての日蓮仏法の凄さを国民みんなの前に開けっ広げにすることに躊躇する必要はない、と思う。

⚫︎党の政策を、候補者の人間性をもっとオープンに

 この3つに比べると、角度は違えど、すぐに出来そうな選挙戦略が2つある。1つは、候補者をもっと自由にもっと普通の場所に押し出すことである。選挙戦が近づくと、候補者の党員、支持者による争奪戦が始まる。友人たちに会わせようと。それに地方議員の皆さんの企業、団体回りが加わるから、それこそ〝蟻の入る余地〟すらなくなる。だが、そういうことだけをやっていても、例えば兵庫県の場合、とても当選圏内に迫ることは難しい。普通の市民と直接会う機会をどれだけ多く作るかである。端的にいうと、町の真ん中で、コンビニの前で、駅の前で、制限なく有権者と会うことが大事だ。かつて公明党の地方議員たちがあちらこちらでやった「青空市民相談」のイメージである。

 もう1つは、党中央、代表への要望になるのだが、参院選が始まっても。決して「政権選択の選挙」だと言わないでほしいということである。それは禁句だ。その一言で、選挙戦の表から「政策展開」が消えて、他党の「非難合戦」に終始してしまう。昨年の衆院選がそうだった。公明党の提示する政策のきめ細かさ、大胆さを言わずして、「あんな党に政権を任せられますか」に代表される他党批判に集中してはならない。そんなセリフは評論家に任せておけばいい。党中央はこの国のビジョンと政策を語りつくすのだ。

 ともあれ、伊佐さんを始めとする昨年苦杯を舐めた仲間たちの「苦節4年」(もっと短いはずだが)に期待したい。私も今から35年ほど前の「苦節の時代」(私は足掛け5年)に、一軒一軒、お一人おひとりとの邂逅があったればこそ、のちのちの希望溢れる展望が開けたことを強調しておきたい。(2025-4-12)

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【210】真価問われる公明党の存在━━「国際協調主義」破綻の時代(下)/4-5

⚫︎憲法9条の拡大解釈と縮小解釈の狭間で

 今後トランプ米大統領の動きや国際政治が変動する中で、日本が軍事力行使に踏み切るかどうかの場面が訪れた場合の対応について考えておかねばならない。日本が対外紛争に関るかどうか初めて迫られた機会は「湾岸戦争」であった。この時は「軍事費負担」(つまりカネ)で済ませたのだが、それ以降「人の派遣」が問題となる。ここでも公明党が中心になってPKO(国連平和維持活動)法を成立(1992年)させることで、紛争が終わったあとの再発防止のための自衛隊派遣を可能にした。以後、周辺事態安全確保法(1999年)、テロ対策特別措置法(2001年)、武力攻撃事態法(2003年)と3つの安全保障関連法を成立させた。これらはいずれもPKO法がお手本になったことは紛れもない。

 「イラク戦争」に関しては日本の参加が大きな焦点になったが、この時は後方支援に徹した。万が一紛争に巻き込まれることになればその場から離脱するとの条件のもとに参加したのである。後にこの戦争は大量破壊兵器の有無をめぐって米側に大いなる疑義が生じたが、日本は辛うじて同盟の義務を果たした。

 この間日本の中では、米側からの軍事的要請のあるたびに、保守は憲法の「拡大解釈」に逸りがちであり、革新(リベラル)は「縮小解釈」に陥りがちであった。双方が共に自身の基本方針に合わせて勝手に憲法解釈を伸縮自在にしたというのが、戦後日本政治の偽らざる実態だった。そんな中で、ギリギリの9条適正解釈の道を歩もうと、左右双方からの悪しざまな批判をものともせずに、懸命の努力を続けてきたのが公明党だった。

⚫︎武力行使に応じるときは政権離脱の選択しかない

 2015年の「平和安保法制」制定の場面は、最後の最後まで集団的自衛権の行使を全面的に認めるのかそれとも、個別的自衛権の範囲で収めるのかで、自公両党が真っ二つに分かれた。大議論の末に「限定的行使」で決着した。これは双方に都合のいい解釈、つまり玉虫色の解釈が可能になる余地を残したものだった。「公明党に花を持たせて自民党が実をとった」との巷の解説が専らだったことが暗に示していたように、安倍自民党が永年の懸案だった集団的自衛権問題をクリアできたとして、実質的な「憲法改正」が実現できたとの立場を表明した。一方、公明党はギリギリ個別的自衛権の延長線で収めることができたとの理解だった。平和主義の旗を守るのにもうこれ以上の後退はできなくなったのである。

 高村正彦元自民党副総裁があの交渉での担当者として『回顧録』での抑制を効かせた発言が光る。しかし、その一方で、元総理経験者が衆院選に公明候補の応援演説に来た席上、「公明党さんのおかげで集団的自衛権行使が認められるようになった。ありがとうございました」と堂々と発言したことは聞き逃せなかった。

 「平和主義」の党であろうとする限り公明党がこれ以上の妥協をすることは許されない。平和外交の展開に向けて知恵の限りを尽くして「話し合い」を進めることこそ公明党の中道主義の真価が発揮される時である。例えば、自民、公明、国民あるいは維新との「自公国」か「自公維政権」等で、軍事力行使に踏み切る場面がきたとしたら、公明は政権離脱の道をとるに違いない。裏返せば、それほどの決意で国家運営にあたり、平和外交に徹するということなのだ。宮家氏のいう「軍事力行使にアレルギーのない健全な中道保守」に公明党は相応しくない。ならば、もうそろそろ「軍事力行使を厭わない保守」に寄り添う役目を終えるべきだろう。

⚫︎「トインビー・池田対談」から50年が経って

池田大作創価学会会長が歴史学の泰斗である英国のアーノルド・トインビー博士と『21世紀への対話』を発刊したのは1975年(昭和50年)のこと。ちょうど今年で50年になった。この対話の中で、将来において専制主義が再び台頭してくるかどうかを巡って、トインビー博士は第2部「政治と世界」において、「残念ながら、人類は、かつて政治面で記録してきた驚くべき悪行の数々を、さらに上回るような悪行を、今後重ねていくことになるのではないかと危惧されます」と、極めて悲観的な予測を披瀝している。それに対して、池田会長は「そうならないよう、われわれは努力していかねばなりませんね」と応じている。今日のロシア、中国、アメリカを中心にした世界の動きを見た時に、50年前のこの見立てが悲劇的に的中していることに愕然とする一方、なんとしても更なる奈落の方向へ進まぬように力を尽くさねばと思う。

 トインビー博士は、キリスト教史における力による布教といった暗い一面が仏教徒よりもキリスト教徒をして未来を懐疑的にさせると、同対話集のお二人共通の序文において述べているのはとても興味深い。国際政治の現状を見た時に、人類の未来に深い失望を抱くと共に、国内政治の停滞にもそれと同様の悔悟の思いを持たざるを得ない。

 しかし、〝悲観的な思いの淵〟に沈んでばかりではおれない。私がいう「国際協調主義」破綻の時代にせよ、あるいは佐藤優氏の「新帝国主義」の時代の到来にせよ、その先は「新たなる世界戦争」が待ち受けているのだから、それを防ぐための手立てを講じるべく、立ち上がるしかない。「三たびの77年の興亡」は、幕開けと同時に激動する時代に突入を余儀なくされた。この自覚をもとに「新たなる対応」を急ぐしかない。(2025-4-5)

 

 

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【209】「トランプ圧力」に日本はどう備えるか?━━「国際協調主義」破綻の時代(中)/3-31

⚫︎「民主」の仮面かぶった「専制国家」の登場

 民主主義が後退期に入ってきた━━その印象が深まる中でのトランプ米大統領の再登場は国際政治に大いなる変化を引き起こしつつある。ウクライナ戦争が始まった3年前に、「民主主義国家対専制体制国家との戦い」に、世界の枠組みが変わったとの認識が広まった。しかし、そう単純に二極化するのは間違いであるとの見方も当時からあった。いわゆるグローバルサウスの国家群の動向が不確定要素だったからである。案の定というべきか、案に相違してといった方がいいか。バイデンの4年間と全く様変わりのトランプ新時代は、「国際協調主義」という着慣れた古い上着を脱ぎ捨てようとしているのだ。

 この80年ほどの間、欧米民主主義国家の間では、「国際協調主義」が当然視されてきた。ところがそれがトランプ氏の再登場によって、瞬く間に〝店仕舞いの様相〟を一気に強めそうな勢いなのである。それは第1期の時代と違って先端科学技術を取り込んだ企業群の中からイーロン・マスク氏のような経済人が政治の表舞台でトランプ氏と寄り添う姿勢を示し始めたことに象徴される。一握りの超富裕層の代表が国家の枢軸を占めて自在に国家経営をする━━その風景がいかなるものになるか?予測不可能な人物とされる米大統領の今後の動向に不安が高まっていく。

 そんな中で、日本が受ける圧力は如何なるものか。陰に陽に姿を見せている軍事協力の一体化に伴う費用面の負担増である。それは同時に近未来における「軍事的独立」に繋がっていく。有事に日本は自前で賄えとの方向性だ。これは、戦後に歪な形で選択した憲法のもとでの、非対称的な軍事協力としての日米安保体制の終焉を意味する。もちろん、そういった根本的変化は直ちには起こらないであろう。だが、問題はアメリカのご都合主義的自国優先に巻き込まれることに、対応する準備と覚悟が日本にあるかどうかなのだ。

⚫︎「没落」する日本への要求と対応

 アメリカの占領下にあった日本は1950年からの朝鮮戦争を経て、一応形の上では独立をしたものの、米軍事基地の一大拠点に衣替えしただけだった。国家存立の首根っこを掴まえられたままの擬似独立国であった。軍事面における盾と矛を日米が分担する一方で、経済的発展に総力を上げる姿勢は1980年代半ばまでの30年ほどの間は成功したかに見えた。しかし、バブル絶頂期から崩壊過程に入った90年代半ばからの30年間ですっかり日本の値打ちは下がったと見るほかない。経済的にはGDP第2位から第5位(2025年見通し)へと後退し、大学教育のレベルの低下と共に先端科学技術分野での落日は著しい。21世紀初めに『日本はなぜ没落するか』で、経済学者の森嶋通夫氏が警告した通りの惨めな状態にほぼなってしまったのである。

 異形のパートナーの相手方から突きつけられようとしている問題にどう対応するか。左右を問わず、かねて真面目に日本の将来を憂えてきた人々が議論してきた究極の焦点は憲法9条であり、軍事力の行使をどうするかだった。ほぼ10年前にすったもんだの挙句に安保法制を制定(玉虫色解釈)して、ひとまずやり過ごしてはみたが、事態の本質は何も解決したとは言い難い状態が続いてきた。このことは濃度は別にして、みなそれなりに自覚してはいたのだが、国民的合意を得るに至っていないのである。

⚫︎「戦間期の終わり」から次に来るものへの備え

  今年の元旦の新聞で私が強い興味を持った記事の一つが、外交評論家・宮家邦彦氏とフジテレビの反町理キャスターとの対談(産経新聞)だった。トランプ氏の再登場で「国際協調主義」が劣勢となり、ロシア、中国、イランなど力による「現状変更主義」国家との軋轢がやがて軍事的衝突を迎えかねないという情勢認識についてのものだった。宮家氏は現在を「戦間期の終わり」とし、次なる大戦の開始前と位置付ける。その上で、第一次大戦後には「勝ち組」についた日本が第二次大戦では「負け組」になった先例に鑑みて、次に再び「勝ち組」になる戦争のシュミレーションの一端を垣間見せていた。

 世界的な軍事衝突をめぐって、日本に戦争をする覚悟があるのかどうか?この反町氏の問いかけに対して、宮家氏は「専守防衛を厳格に解釈し『反撃能力は相手の攻撃がなければできない』とする公明党は危うい」との見解を述べていた。日本が戦争をするには、平和主義の旗を掲げる公明党が与党にいる限りうまくいかないという見立てを示したのである。これからの日本の政権は「21世紀型保守政権』に脱皮する必要があり、それを担う政党としては、公明党はふさわしくなく、立憲民主や国民民主など労組の支持を得ている政党も同様に難しいとの認識の表明だった。

 この見方に対して更なる説明を求めた私に対して、彼からは「軍事力の使用にアレルギーのない健全な中道保守の存在がカギになると思います」との返事が返ってきた。(以下つづく 2025-3-31)

 

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【208】トランプという名の〝黒船〟━━「国際協調主義」破綻の時代(上)/3-23

 米大統領にドナルド・トランプ氏が再選していらい、国家間の「関税」や「買収」などで世界各国が戦々恐々とする場面が相次いでいる。ウクライナをめぐる米ロ交渉を見ていると「新帝国主義」(佐藤優氏)の時代の到来と呼ぶのも無理からぬことかもしれない。日本に対しては既に「日米安保体制の見直し」を示唆する一方、軍事費の増強を迫る姿勢を見せている。先の大戦後80年の間、多少の紆余曲折はあれ、揺るぎなき同盟関係を培ってきた両国関係に転機が訪れようとしているのだ。これをどう捉えるか。いつまでも「政治とカネ」をめぐる問題で右往左往している場合ではない。上中下3回でことの本質に迫ってみたい。

⚫︎トランプ大統領の素朴な問いかけ

 トランプ大統領の言動が傍若無人に見えるというのは、通常の「人の世のしきたり」とかけ離れていることに起因していよう。一連の「法外な関税」とは別に、隣国カナダやメキシコを属国扱いにすべく脅かしたり、グリーンランドの買収をデンマークに持ちかけたりするなど、常軌を逸した動きが目に余る。ただ、「日本防衛」について、なぜ「豊かな国・日本」のために、アメリカが守らねばならないのかとのトランプ氏の素朴な問いかけは、ある意味ですごく真っ当な言い分に聞こえる。今では日本の名目GDPは世界第5位(2025年見通し)だが、ついこの間までアメリカと肩を並べていた。そんな豊かな国を守るために米国が汗をかき、血を流すというのはおかしいとは自然な感情といえよう。ロシアのプーチン大統領がことあるごとに、「国家の自立」を口にして、米国の庇護のもとにある国家群について揶揄するのも同じ思考から出てくるものと思われる。

 日本は米国に基地を提供する一方、それ相当の財政負担をしている。何も無償で軍事力の提供を受けているわけではない。「アジア太平洋15年戦争」の敗戦の結果として、日本は米国の占領下7年の末に、その軍事戦略体系の中に組み込まれてきた。どう言い繕おうとも、独立国家、自立した国家とは言い難い国柄になってしまった。日米軍事同盟関係そのものを拒否するのではないが、同盟の形態がいかにもいびつだというのは認めざるを得ないのだ。

 トランプ氏が第一期から第二期に至るまで、「応分の負担増」をあれこれ口にするのは無理難題ではない。深読みせずとも当たり前のことかもしれない。つい先日も米NBCテレビなどが民主党政権下で在日米軍が計画していた態勢強化の中止を検討していると報道した。国防費が1750億円ほどの節約につながるからとの理由である。今後の在日米軍の有り様の劇的変化の前触れと見る向きも少なくない。

⚫︎「日本の自立」をいつまでごまかし続けるのか

   日米関係の戦後80年には様々な紆余曲折があったが、基本的に米国の側より「日本防衛」から後退するとの雰囲気を漂わせることはなかった。占領下から解き放たれ、在日米軍の駐在による平穏が自然になり、いつの間にか日米軍事体制の一体化が当たり前になり、こと荒立てて独立の態様を気にしなくなってしまった。2016年〜2020年の第1期トランプ政権の時代にも、日本防衛の根本的見直しは俎上に乗ろうとしたが、結局は手つかずのままできてしまった。それが再び浮上してきたのである。

 私は2022年に日本が三度めの「77年の興亡」のサイクル(①1868〜1945〜2022〜)を迎えることを期に、自公政権が日本の「国家ビジョン」の提起を示す必要性を主張してきた。その最大の問題が憲法9条の取り扱いであることは言うまでもない。10年ほど前に日本政府は「平和安保法制」を制定して、「憲法改正」を待たずに国家の危急存亡の折に対処する限度ギリギリの方策を講じたが、所詮それは付け焼き刃的なものに過ぎない。「専守防衛」の国の構え方の合意さえ国民の間で共有されているとは言い難い。いわゆる保守とリベラルの価値観の違いによる防衛意識の混乱は戦後80年一貫して変わっていないといっても過言ではないのだ。だからこそ、そのテーマを含めて「国民的大論争を起こそう」と呼びかけてきた。残念ながら全くその兆しが表れぬまま、「防衛」をめぐって日本の自立が問われる〝トランプという名の黒船〟の再登場となったのだ。

 さる2月7日の日米トップ会談では事なきを得たようだが、相手の出方に一々身構え続けるのではなく、日本の基本的対応をそれこそ平時から考えて、国民的合意を確立しておかねばならない。国家経営の基本ともいうべき防衛対応に答えを出さないまま、棚上げし続けて誤魔化す状態を持続させることは大いなる禍根を残す。

 過去に防衛担当の大臣職を最も長きにわたって経験してきた石破茂氏が首相の座に就くことに、国民の間である種の期待感があったのは言い過ぎではない。ところが、現実には、得意のはずの防衛問題で手腕を発揮するどころか、カネと政治の問題でもたついた挙句、自身の不手際といもいうべき「10万円商品券バラマキ」騒動で墓穴を掘りそうな現実には惨めというほかない。(以下続く 2025-3-23)

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【207】民主主義における「中道」の役割━━東浩紀インタビューから/3-15

 『公明』4月号の特集の冒頭に掲げられた批評家・作家・哲学者の東浩紀さんへのインタビュー「民主主義のカギは説得と納得━━『中道』とは人間に向き合い、訂正を許容する営み」がとても読ませます。「中道」政治とは何かを追い続ける同誌編集部の意気込みが伝わってきます。ここでは、私たちが銘記したいと思われる東発言を引用していきながら、その主張についての私個人の考えを披瀝してみたいと思います。

⚫︎選挙の勝ち負けだけが政治だとの思い込み

東発言)政治は選挙で終わりではない。選挙はあくまでも国民の代表を決める制度だ。それは確かに民主主義の要だが、政治というものは、本来、その代表同士が話し合って政策を決め、最後に政策を実行するまでを含む。日本に限らず諸外国を見ても、現代の政治はその点がとてもおかしくなっている。選挙の勝ち負けだけが政治だと思い込んでいる。政治家をめざす人物も、目の前の勝ち負けのためだけに戦略を立てている。(3頁)

赤松)そう指摘されて、私が思い起こすのは、最近の選挙戦で与党が「政権選択が問われている」と強調し過ぎることだ。昨年の衆院選ではいつもにも増して、野党各党を名指しして「こんな無責任な政党に政権を任せられますか」と叫んでいる場面が多かった。もちろんその側面は事実として正しいのだが、演説の基調がそこに集中してしまうのは聞き辛い。他党批判より、もっと個別の政策を訴えていくべし、と。これは私だけでなく、多くの人が感じたはず。先月の『公明』には「教育の党公明」に、こんな意見があった。

 「昨年秋の衆院選の際に参加した公明党の演説会においては、公約の第一に「教育を柱に、世界一子育てがしやすい日本へ 公教育の再生 子育て支援の充実」「すべての子どもが輝く社会へ 教育環境の整備、教員の働き方改革や処遇改善などを推進」と掲げたビラをもらい、私は大いに喜び、期待した。しかし、選挙戦においては、教育についての具体的、積極的な提案は、残念ながらあまり聞かれず、大きな争点とはならなかった。だが、それは公明党に限った話ではない」(54頁 山崎洋介「ゆとりある教育を求め 全国の教育条件を調べる会会長)

 ここでは「教育」に限った話のように聞こえるが、現実には昨今選挙が加熱すると政権選択の名の下に、具体的な政策論争がどの分野に関してもすっ飛んでしまい、選挙後も与野党対立ばかりが目立ってきている。

⚫︎政治における「訂正」と「修正」の違い

東発言) 私自身、政治とは「訂正の場」のことだと考えている。民主主義を健全化する手段としては「訂正可能性がカギになる。訂正の反対にあるのは、異論を排除する『論破』の思考であり、一つの意見に固執する個人の頑なさだ。(中略)  「中道」とはそのような訂正を許容する営みだ。(5頁)

赤松) ここで、「訂正」と聞くと、「修正」を思う向きが多かろう。前者は間違っているものを直すとの意があり、後者は曖昧な表現を正すとの意味合いがある。この2つの違いは大きい。従来の「中道」の捉え方は、政治的に左右の立場の間に立って、どちらでもない道を行くことを指すことが一般的だった。だが、このスタンスは「中道」というよりも「中間」というべきだろう。東さんは、「中道」とは、「頑なさ」が基にある「論破」を伴うものではなく、「柔軟さと潔さ」がベースにある「訂正」の大事さを主張しているように思われる。「訂正を許容する営み」とは、「間違いを率直に認めて新たな方向を目指す姿」と言い換えられよう。

東発言)ちまたには論破という言葉が溢れているが、民主主義にとって、それはとても良くない考え方だ。民主主義は、論破して勝ち負けを決めて終わるものではない。(中略)  民主主義に大事なことは、皆が意見を変える、つまり皆が互いに「訂正し合う」プロセスだ。それがなければ社会は動かない。(6頁)

赤松)  皆が互いに「訂正し合う」ことは、その場に居合わせるお互いの間に「尊敬の念」がないと難しい。相手を言い負かすことにだけ意を注ぐ人たちが集まって議論しても、真っ当な価値は生まれないに違いない。

⚫︎政治と文学の相関性

東発言)人間というのは決して合理さだけで動くものではないことを学ぶのが文学だ。この部分が欠けているから、高圧的な説得しかできなくなってしまう。(7頁)

赤松)この発言が出てくる前に、フランスの哲学者ジャンジャック・ルソーが政治思想をめぐる著述と同時に小説を書いていた事実の持つ意味を強調しているくだりが興味深い。「過ちを繰り返す弱い個人が、互いの対話を通じて自他の考えを柔軟に再解釈し、訂正を長く続けてゆく」姿が表現されているという。政治家としての私の師は、常に文学にまつわる教養の大事さを解き続けた人だった。そして様々な課題に粘り強く説得をしてみせる人だった。それを知っていながら本は読んでも文学とは疎遠で、説得が苦手な私は何も学んでいないというほかない。恥ずかしい限りだ。(2025-3-15)

 

 

 

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【206】「自由」の果てに行き着いた「専制」━━日米教育比較から/3-8

 日本の教育の歪みは、「いじめ」「ひきこもり」「学力不振」「創造性のなさ」などに現れてきており、幅広い分野で社会全体を揺さぶるに至っています。戦後80年、米国の占領統治時代を経て、その国から「民主主義教育」が導入されました。その結果が今日の惨状に繋がっているとしたら、何がいけなかったのか?一方、米国は、「自由の盟主」の名をほしいままにしてきましたが、ここに来て「専制国家」と見紛うほどの体たらくぶり。その根源はどこにあるのか?日米教育比較の視点で追ってみます。

⚫︎米国の教育の有り様を日本との比較で見ると

 米国と日本の教育の比較で大きく違うと思われる点はなんでしょうか。①義務教育のあり方②大学受験の仕組み③大学の学部制度の3つが挙げられます。まず一つ目。日米共に、大学までは基本的には6-3-3制ですが、日本では義務教育は最初の小中の9年間であるのに対して、米国では高校を終えるまでの12年間なのです。したがって公立高校の受験はありません。二つ目。米国では入学試験は大学から。ただし日本のように落ちたら浪人して翌年以降に挑戦するということはなく、とりあえず現役で入れるところに入れます。入学に際して、米国では日本のような筆記試験はなく、すべて書類審査だけ。このため幾つでも併願できるのです。気に入らなければ、3年後に違う大学に編入する「トランスファー」制度があって、そこで改めて挑戦することができます。次に三つ目。大学4年間には日本のような「学部」はありません。どこの大学でも、4年間に学ぶのは教養のみ。その期間の間に漠然と理系か文系に分かれるといったことになり、日本のように大学に入るときから、細かく分かれた学部を選択するという形ではないのです。(これ以外にも、ホームスクーリングや9月新学期制、飛び級など多々ある違いについてはまた改めて)

⚫︎日米どっちがどういいか、悪いか

 高校までが義務教育で、日本のように中学から高校に行くときの受験がなく、大学の入学も筆記試験が基本的にないとなると、どういうことが起きるでしょう。小学校から中学卒業までの歳月を、大学入試という筆記試験に絞って真一文字に頑張ることの弊害がなくなります。高校卒業の18歳までかなり自由奔放に楽しい生活が送れるように思われます。しかも大学入試は筆記試験ではなく、高校までの生活態度や常日頃の成績全般が加味されるだけとなると、一発勝負ではなく、いわゆる地力がものいうわけです。この違いは大きいといえます。私のような戦後第一世代にとって、大学入学の筆記試験が全てを決めるというのは、顧みるとあたかも「ギャンブル」のようなものでした。高校3年の時に幾つかの大学を受けた私は全部失敗、一年の浪人の末にやっと一校だけ辛うじて合格しました。本当にラッキーでしたが、それで大学時代は殆ど勉強せずに、辛うじて卒業できたというのも思えば摩訶不思議なことでした。このため、後々苦労するわけですが、これって平均的日本人が経験してきたところでしょう。それに比べて米国の場合は高校卒業までの「受験戦争」が なく、大学に入ってから卒業するまでに専門的な学問を身につけるべく勝負をするわけです。その間の努力次第で卒業の可否が決まります。卒業できないと、入学も実質的に意味を持たない(価値が認められない)とされる社会なのです。彼我の差はとても大きいと思われます。

⚫︎GAFAMなど突出した企業が米国に集中

 日本においてだけでなく、「いじめ」は万国共有のように思われます。「ひきこもり」についても同様で、日米の差は殆どなさそう(日本の急増は特徴的)です。それに比べて明確な違いは、大学生の能力や創造性の面では明確に差異があるように見えてきています。21世紀になって25年。GAFAMやMagnificent7と呼ばれるような世界を席巻する企業群がアメリカに続々と出てきたのに比して、日本は全く太刀打ちできない状況が明白です。これは上記のような教育制度の違いがもたらしたものではないかと、思わざるを得ません。日本経済がバブル崩壊と共に、長期デフレ傾向に入り、失われた30年と呼ばれてきた間に、AIの進展と歩調を合わせてアメリカはグングンと個性豊かな企業が羽根を広げてきたのです。

⚫︎「自由」の果てに行き着いた「専制」?

    こうした突出したAI企業の存在をどう見るといいのでしょうか。巨大な利益を得る力だけを見て、人間の能力、社会、国家の優劣を判ずることには異論がありましょう。トランプ政権の中枢にイーロン・マスク氏のような存在があって、独自の強引な采配をほしいままにしています。あたかも「自由」な教育の果てに、「民主」を否定する「専制」的な仕組みが待ち受けていたとは、実に「皮肉な逆転現象」といえるかもしれません。〝弱肉強食の国際社会〟の時代の到来を眼前にして、指導者に道徳を説いても、所詮〝引かれ者の小唄〟と揶揄されるのが関の山かもしれません。我々はまさに地球的規模での分岐点に立っているといえましょう。(2025-3-8)

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【205】政党として未熟過ぎる「維新議員の罪」の背景/3-2

 3月1日に日本維新の会が党大会を開いた。そのニュースを見聞きしながら、大阪維新の会が誕生した2010年に、「新鮮さと驚き」を感じたことを思い出した。日本の戦後史の中で、いわゆる社会主義、民主社会主義、共産主義といった左翼イデオロギーを根幹に据えた政党と全く違う出自を持った政党だということに「親しみと脅威」を感じたものだった。確かに大阪という日本第二の都市を基盤とする地方発の政党ではあるが、その狙いは、広範囲な保守層をターゲットにした「脱イデオロギー」の理念を持った存在であると素直に理解した。「次世代のための政党」「道州制を実現する政党」「永田町文化を変える政党」といった三本柱で従来型の古い政治の限界を打破するとの方向性を聞くにつけ、自民党と並ぶもう一つの保守政党として、大きく育つ可能性を感じないわけでもなかった。それは自民党政治の変貌を目指して60年戦ってきた公明党と、似て非なる佇まいを感じ取れたからかもしれない◆しかし、この度の兵庫県議会の岸口実氏ら同党所属3人の議員たちがしでかした〝犯罪的行為〟はいったい何なのか。斎藤元彦知事らの疑惑に関する情報を「NHKから国民を守る党」の立花孝志氏に提供していたとの〝事件〟のことだ。これまで、セクハラを初めとする人間性を疑う破廉恥議員を各地で生み出してきた政党であるとの印象が強かったが、これはまた知性を疑わざるを得ないお粗末議員仲間の誕生である。報道によれば、知事選期間当初にいわゆる百条委員会の非公開録音データを流出させたり、真偽不明の文書を手渡す場に立ち会ったなどという。立花氏らが「世の中への強い発信力を持つ」と思ったことを理由に挙げていた。扇動的動きを主眼にした候補への加担の意味を知らなかった議員がいたとは、もはや絶句するしかない。県議会の維新は、2020年の斎藤知事選擁立をめぐって自民党の一部勢力と共に主導的役割を果たした。4年後の「知事疑惑」に浮き足だった県議会の中で表面の動きとは裏腹に、知事を守りたいとの〝組織としての一念〟が発端だったとしたら、責任は3人に被せて済むものではないともいえよう◆前回のこの欄で取り上げた匿名鼎談の際に、某新聞社のトップが様々な反社会的行為やら、事件を相次いで起こす議員が維新に多いことを挙げて、政党の体をなしていないと、激しく詰ったものだった。その際に、構成メンバー個別に問題議員は多くても、政党全体としては未だ存在価値はあるとして、私は同党を守る発言をしてぶつかった。だが、今回の「事件の発覚」で、組織的要因さえちらつく今となっては、身の不明を恥じざるを得ない。「維新」をめぐっては、同党のシンパも含め内外様々な方々と、議論する機会は多い。その際に、同党は、議員候補を選ぶ上で、なぜもっといわゆる「身体検査」をしないのか、また議員になったら、その座に相応しい人間になるように訓練しないのか、という同党の「ガバナンス」を問う観点が話題になる。この度のことを受け、「ガバナンス委員会」を外部有識者で構成して動き出すというが、遅すぎよう◆この党には、「ジャパニーズドリーム」とでも言えるようなオーラがあると見る向きが否定できない。閉塞感漂う現代日本にあって、この党から議員候補に選ばれると、短時間でその座を射止めることができ、若くして高額の収入を得られることが多いからというのだろう。それならそれなりに、その地位を得るに相応しい努力をしているかというと、あまり感じられず、また元々その地位につくだけの付加価値を持っているかというとそれもない。単に見栄えがいいとか、元気があるといった、ある種の上辺だけの勢いだけで選ばれる人が多い。それでは、事故を起こすのは当然かもしれない。私はかつて民主党(今の立憲民主党の前身)が誕生した頃に、「早く追い立て民主党」と、揶揄った。維新についても、冒頭に述べたような観点から、それに近い成長を半ば期待する気分がなくはなかった。しかし、他党のことにそんな関心を寄せるのは無駄で余計なお世話に違いない。(2025-3-2)

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【204】新聞、テレビそして政治の劣化をどう見る━━現役OB匿名記者鼎談/2-22

 私が現役だった当時に付き合った新聞記者たち(現在、50歳代後半〜60歳代)は今どうしてるのでしょうか。分社の社長に上り詰めたり、系列テレビ会社の社長になったり、いわゆる「出世」した連中が少なくないのですが、偶々先日3人がそれぞれの地から姫路に集まりました。話題は昔日の思い出話から、昨今のメディアの苦境に至るまで広く飛び交いました。ここではそのうち、フジテレビの日枝さん、読売新聞のナベツネさん、兵庫県の斎藤知事をめぐってのやりとりを匿名で紹介します。架空ではなくホンモノの鼎談を取捨選択、一部加工したものです。(ABは大手新聞社、CDはテレビ会社、EFは地方紙に勤務。 敬称略)

⚫︎ナベツネさんと日枝さんの似て非なるところ

AB)中居の問題が発端になったフジテレビの一連の不始末を追ってると、本当に情けなくなるね。根底には女性アナへの「人権無視」があると思うけど。接待に女性アナを使うのって、どこのテレビ局にもあるのでは?CD)いや、それはないよ。少なくともうちの社は断じてやってない。他社もそうだよ。フジだけの文化だ。尤も、政治家との懇談の場に女性記者が出ることは最近多いから気をつけないと、妙な問題に発展しかねない。AB)それって別の次元の話だよ。記者は取材という仕事で政治家に会う。アナウンサーの仕事に関係のないことに駆り出されるって変だよ。フジテレビのアナウンサー採用は上層部の好みが反映してるって噂があった。EF)読売の渡辺とフジの日枝は2人とも長期にわたって君臨してる面で同じだけど、両社の体質って似てる?
CD)外から見てる限りはワンマン体制という意味では同じだけど、読売の連中に言わせると、渡辺は人材育成を考える点で私物化してきてはいない、No.2を常に潰すようなことはしてこなかったっていうよね。

AB)将来の人材は必ずと言っていいくらい社長秘書室に配置して直接薫陶してたけど。あれだけ長くトップを続けると弊害は出てくるはず。尤も社長が次々と変わるって会社だから別に良いってこともないけどね(笑)。EF)ともあれ、長時間にわたる記者会見でフジテレビ幹部は吊し上げとも言える場面に直面した。それを日枝はどう見てたのか?みんなだらしない、俺ならこうするのにと思ったかどうか。彼のナマの声が聞きたいね。

⚫︎情実に振り回されて真実を見失ってはいけない

CD)ところで、新聞もテレビも今SNS、とりわけユーチューブに引っ掻き回されている現状がある。我々の若いときと全く違って報道の有り様が根本的に変わってきた。去年の都知事選、兵庫県知事選がいい例だけど。EF)県知事選その後は、混乱の極致だね。斎藤の「パワハラ」から、県職員幹部の死に端を発し、百条委での知事追及の先陣切ってた県議が斎藤再選と同時に辞職。その後自殺した。選挙は、斎藤知事擁護に徹したNHK党の特異な行動。そして知事の「選挙違反」疑惑。さらには維新の県議2人の新たな不祥事が明るみに出た。AB)これは複雑怪奇な事件といえるけど、まずは問題を整理しないと。斎藤知事の「らしからぬ人間性」、リーダー不在の県議会、トラブルメーカーのNHK党、この3つがポイントだ。選挙の前と後でがらり変わった。

CD)選挙前は、知事主犯説で議会もメディアも一致していた感が強い。ところが選挙になって立花らNHK党の参入で一変した。立花は知事はむしろ被害者で、T県議らが仕組んだ謀略だとSNSを使って騒ぎ立てたんだ。EF)確かに、僕もあの動画を見て、T県議らの仕掛け説にハマったよ。だけど、同県議が死を選んでから、ちょっと見方が変わった。自分にやましいことがなければ断固戦うべきなのに、どうして沈黙したのだろうかと。AB)うーん。激しい非難攻撃を受けるとねぇ。第三者があれこれ言っても隔靴掻痒の感は免れないね。でも、生きてて欲しかったね。日本人の文化として、死者に鞭打つことは悪だからね。彼の死後、風景は一変した。EF)あの立花でさえ、前言をひるがえさないまでも、トーンを変えた。形勢逆転して逆に立花謀略説が主流になったのには驚いた。新聞各紙もT県議を悼む記事を発信し、SNSによる世論形成の非を問う声が強まった。CD)選挙で知事再選という大逆転で知事の高揚は自然だけど、選挙違反の件が表沙汰になって、知事が再び能面になった。知事の他人ごとのような発言を聞いてると、この人の人間として感性を疑ってしまうよね〜。

⚫︎大手メディアの役割いまこそ

AB)実は、泉前明石市長も常軌を逸した面を持ってると思った。彼は自分が感情をコントロールできない病持ちであることを認めていた。彼をよく知るある学者が障がい者が市長をやっていけないか、と庇っていた。EF)知事の場合はそういう話は聞かないね。それにしても、県議たちはどうしているんだろう。知事を選挙前には追い込んだけど、どんでん返しをくらって慎重になったんだろうか。今は「選挙違反」の推移待ちかな。CD)選挙前までは自民党県議団の中にまとめ役がいないとか。国会議員団があれこれ口を出すだけで、いい加減さが目立つとか批判の声があった。先程話題にしたメディアの2トップのようなドンがいないのは確かだ。AB)こういう議会や議員の体たらくや、かなり異色の自治体の長を前にして、既成のメディアが右往左往して、SNS を操る特殊な存在に振り回されるっていう現状は打破しないといけないよ。人の生死を超えたところで、つまり、情実にも振り回されないで、事実を掘り起こしつつ、真実を突きとめていきたいものだね。(2025-2-22)

 

 

 

 

 

 

 

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