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戦闘は一目瞭然ー転機を迎えた国連平和維持活動(PKO)➀

さる5月28日に放映されたNHKスペシャル「変貌するPKO 現場からの報告」は衝撃的だった。南スーダンに派遣された日本の自衛隊PKOが一触即発の危機にあったことが一目瞭然で分る中身だった。これを見たひとは誰しも、よくぞ無事だったと胸をなでおろす一方、日本のPKO部隊が戦闘そのものに直面していたことに疑いを持つはずがないといえよう。2016年7月8日から10日にかけて自衛隊の宿営地はまさに戦場のさなかにあった。政府軍と反政府軍が各国PKOの宿営地を挟んで、砲弾を打ち合う状況下にあったことを、この番組は見事に捉えていた。これまで、世界各地での紛争を映像で見ることはあっても、日本の自衛隊をその場に発見することは皆無であった。あのイラクやアフガンでも戦場からは遠く離れていたからである。それが今度ばかりは違った▶2016年6月にジュバに派遣された第10次隊は、いきなり厳しい局面に遭遇した。テレビ取材に防衛省が応じたわけではない。この日の放映は、隊員が自らのスマホで撮った映像や、匿名を条件に音声も換え、顔も見せずに帰国後の取材に応じた姿をもとに報じていた。道路敷設工事などを始めとするインフラ整備に従事するために、彼の地に赴いたのであって、およそ武器を使用するような場面にはぶつからないはずとの発言もなされていた。しかし、実際は違った。監視塔に銃弾が直撃し、砲弾が頭上を飛び交う事態に直面した。宿営地は文字通りパニックに陥り、死を覚悟した隊員もいた。「今日が私の命日になるかもしれない。これも運命でしょう」と書置きさえも綴っていたことが紹介されていた。こうした隊員の行為の是非や真偽については敢えてここでは問うまい▶こうした出来事が日々の現地での部隊の日報に記されることは当然のはず。ところが、後にその記録をめぐって大騒ぎになったこと(今も続行中)は周知のとおりだ。自衛隊員がいる場所で、戦闘が起こったとなると、そこから外れなければならない。日本のPKO5原則は、紛争に巻き込まれることを認めてはいないからだ。直ちに撤収する必要がある。「戦闘ではなく、衝突であった」というような、言葉遊びに近い稲田防衛相(当時)の発言があったり、日報そのものが破棄されて存在しない、というような不可思議極まることが次つぎと報じられた。「政治」によって現場の自衛隊員の直面した事実が消されようとしたのである▼日報問題の顛末を追っていると、日本の自衛隊の位置づけの不自然さが際立つ。そもそも本来は「軍隊」でありながら、「戦闘」をすることは憲法のうえから認められていない。「国際貢献」を旗印に、海外に派遣されたPKO部隊において、隊員は身の危険が迫り、撃たねばわが身がやられるという時には、武器の使用は認められる。身近なところで仲間が危機に瀕していても、見て見ぬふりを余儀なくされてきたが、ようやく「駆けつけ警護」の名のもとに、助ける行為が可能になった。二重三重に縛りを受ける特殊な「軍隊」である自衛隊。万が一の際にはどうすればいいかは、まさに高度な対応力が求められる。その格好のケースが起きた。尤も、映像を見ている限りでは、自衛隊の宿営地を「砲弾」が襲ったのであって、個別の隊員が身を護るために、発砲を余儀なくされる場面であったわけではないように見えた。つまりひたすら身を隠し、砲弾の通り過ぎるのを避けていればよかった。その点、「戦闘か、衝突か」といった事態認定に曖昧さが入るゆとりが、幸か不幸かあったと言えるかもしれない。だが、そうした事実そのものを隠蔽しようとした自衛隊幹部、防衛省中枢の罪は極めて大きいと言わざるを得ない。結果、認めたくない「戦闘」があったことを証拠づけたようなものだからである。(2017・8・13)

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最新ロボット考ー科学の進歩で未来の文化はどうなるか

淡路島                     awajisima2

毎夏恒例の「アジア太平洋フォーラム・淡路会議」の18回目の会合が8月4日に淡路市のウエスティンホテルで開かれました。これに3年連続で私も参加。一昨年は福田康夫元総理の対中関係についての講演、去年は林芳正衆議院議員(現文科相)のTPPに関する話などに触発されてきました。今年は政治家抜き。「テクノロジー、カルチュア-、フューチュアー」というテーマで、未来社会への展望をめぐってそれぞれの道の第一人者が登場しました。参加した感想は、「ウーン、刺激的だったなあ」の一言です▼この日の圧巻は、自分と同じに見えるアンドロイド(人造人間)を製作し、今”二人して活躍中”のロボット工学者の石黒浩大阪大学教授のお話でした。エピソードめいたものだけに絞って紹介すると、ご本人よりもアンドロイド君だけの講演出席の方が何かと都合がいいとのこと。それは交通費がかなり安く上がるということーなぜなら本人が行くと、飛行機ならビジネスクラスだが、アンドロイド君ならエコノミー席で済むからといいます。秘書氏が身体を分解してバックに詰め込んだものを持ち運び、現地で組み立てるから、と。聴衆の皆さんもアンドロイド君の方を面白がるので、人気は遠隔操作する本人よりもぐっと高いと語る口調は、自嘲気味に聞こえました。バッグにいれた頭首部分を荷物検査で明けた時の係員の驚いた姿は見ものだったとは、いささか趣味が悪いことかも▼また、ファミリーレストランでの話も面白かったです。家族4-5人が同じテーブルで食事する際に、最初から最後まで全員が会話をせずにスマホをいじって食事をするとのケースも多いといいます。このため、ロボットをファミレスに置くようにしたら、それをきっかけに家族が和んで、あれこれ会話が弾んだというのです。ロボットの現代社会での役割はこういう次元だけにはとどまりません。スマホやパソコンなどテクノロジーの最先端を行く電子機器もある種のロボットといえましょう。ITの指図通りに対応しなければ、にっちもサッチもいかない現代人は、もはや十分にロボットに支配されていると言えるかもしれないのです▼「初音ミク」ってだれか、と同窓会で訊くと全員知らなかったが、大学で教え子たちに訊くと、知らないものはゼロだったという阿部茂行同志社大教授の話も聴きごたえがありました。バーチャルな作曲家といえるこのロボットの存在を、実は私も全く知らなかった。最初は珍しい名前の人だなと思ったのですから、お恥ずかしいしだいで、自ら笑ってしまいました。この日、私は淡路島から神戸へ取って返し、友人の高柳和江さん(笑医塾塾長)と懇談しました。兵庫県各地で毎年展開している講座を、今年は尼崎で実施するための来神の機会をとらえてのものでした。早速この日の話題にロボットを持ち出してみました。笑医の代役を高柳さんのアンドロイドを作ってやらせてみたら、と。今すぐは無理でもその内、可能になるかもしれないということで意見は一致。さてさて科学の長足の進歩を前に、どう一個の人間としての存在感を示すか。考えることを置き去りにしていると、ロボットに笑われるかも、とは究極のブラックユーモアといえましょう。(2017・8・6)

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夢かうつつか「琉球独立」論のゆくえー「沖縄の今」を考える⑤

数多ある沖縄をめぐる小説の中で、私としては池上永一の『テンペスト』に最も心惹かれた。仲間由紀恵の主演でテレビ映画化もされたゆえ、ご存知の方も少なくないものと思われる。男と女の二役という現実離れした役まわりなど、奇想天外な物語もさることながら、琉球の中国と日本を相手にした見事なまでの外交展開の筋立てに感じ入ったのである。佐藤優氏はこれを「エンタテイメント小説の体裁をとった政治と外交の実用書なのである」(『功利主義者の読書術』)とまで、礼賛している。私も今の現実政治の中に適応させたい誘惑に駆られる。何も小国・日本が大国・中国や米国のはざまで苦労する姿に投影させたいだけではない。文字通り沖縄が中国と日本を両天秤にかけることと二重写しに見える。前回、加藤朗氏や柳澤協二氏らの議論を追った際に、中国支配に東アジアがなびく流れが現実のものになるのでは、という仮説に触れた。この本を読みつつ考えを深めれば、決してあり得ぬとして切って捨てられない重みを持つ▼琉球が日本民族の中で異彩を放つのは、隣県鹿児島よりも台湾に近いという地理的位置だけではない。歴史的にも文化的観点からもあらゆる意味で、大陸中国や台湾の影響が影を落としている。『琉球独立論』は、単に沖縄が日米関係の中で、顧みられないから自立するとの次元からのものだけではない。沖縄が中国と接近するという意図を持つとどうなるか、との問題設定は決して荒唐無稽なものではないのである。世界を見渡せば、少数民族が自立の方向を目指すという流れは東に西に、今や枚挙にいとまがない。沖縄が日本に対して「三下り半」を叩きつけるということはあながち夢物語とは言えないかもしれないのである▼かつて、私は衆議院本会議で、「沖縄を准国家的扱いにせよ」との主張を展開したことがある(平成23年3月31日)。これは何も小説の読み過ぎで、それでなくとも飛びがちの私の思考回路が緩んだせいではない。本気で沖縄の人々の心に向き合わないと、沖縄の日本離反が起こりかねないと思ったから警鐘を鳴らしたつもりである。それは日本政府が対米忖度を強めるばかりで、一向に沖縄の側に寄り添わないないという県民の苛立ちが大きなうねりになるとの危惧を抱いたからでもあった。せめて対米交渉の場に、沖縄県の代表も常に同席させ、日米地位協定の改定に向けて実質的な交渉を進めるなどの諸提案を様々な場で展開したこともあるのだが、遅々として進まぬのはこれまで見てきたとおりである▼日米関係の成り行き、特に軍事的側面は大きく変わりつつあるという。このことを、日米関係の現実の中で自衛隊員の姿を追ってきた杉山隆男氏が最新刊の『兵士に聞け 最終章』で迫っていて興味深い。彼は、読売新聞記者出身のジャーナリストだが、この10年間というもの陸海空の自衛隊を追い続けてきた。いわゆる「兵士シリーズ」はこの7作目で終わるのだが、なぜかといえば、「取材環境が激変した」のでもう書けない、というのがその最大の理由である。ありのままの姿を追ってきた彼に、このところ様々な制約をかけてきた自衛隊当局。自衛隊が明らかに変質しようとしていると彼は睨む。それは今まで通り日本を半独立国家のままに置きたい米国と、それでいいとしてきた日本の関係に根本的な変化が起きようとしているからだろうか。表面上はとてもそんな風には見えない。深層部では何が変わりつつあるのか。「沖縄の独立」を口にする前に、日本の真の独立がなければならないと私はかねて考え主張し続けてきたが、その兆しすらうかがえず、ますます日米の同化は進んでいるというのが正直なところだ。米国に抑え込まれた日本、そしてその下で不遇をかこつ沖縄。この三者のゆがんだ関係を見て見ぬふりをし続けることは最早許されないのだが。(2017・7・27=この項終わり)

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「尖閣」が招く日米中衝突論争ー「沖縄の今」を考える④

国会議員時代に、尖閣諸島にも一度だけだが自衛隊機に乗って上空から見たことがある。その時抱いた感情は、はるけくもきたなあとのとの思いが一つ、もう一つはこの地域を海と空から常時警戒し監視を続けている自衛隊の皆さんへの感謝の一念であった。また、これまで幾たびか船に乗ってこの島々の傍まで行き、上陸しようとした日本人もいる。民主党政権時代にこの諸島の国有化を政府が宣言していらい、大っぴらに中国や台湾の漁船などが示威行動的に出没しだしていることは周知のとおりである。ある意味で一触即発の危機を常にはらむ海域であり、警戒を怠ってはならないことは言うまでもない。ただ、この海域の実態を思うにつけ、日本と中国との対応の異常なまでの差が気になる。つまり、日本の漁船は殆どと言っていいほど尖閣諸島海域に近寄らない。中国側は魚釣島は自分たちのものだと主張し、「日本の不法占有」だとの不当そのもののいいがかりをつけながら、その海域に姿を常日頃から見せていることと大きな違いがある▼私はこうした彼我の差において、日本の漁船の存在感がいたって弱いことにかねて不満を抱いていた。もっと尖閣諸島の傍まで漁に出なければ、我が国固有の領土だといいがたいのではないかとの思いが募って来るからだ。尖閣諸島に対する日本の領有権を主張するからには、もっともっと漁船の姿があっていいのではないかとの素朴な疑問だった。そのためには、尖閣諸島にはせめて漁船が立ち寄れるような船着き場があってもいい、と。このため、要望にこられた沖縄県の漁業者にそのあたりをぶつけてみたことがある。漁業者たちは、島周辺に行くには5時間以上かかるのだから、当然港が欲しい。だが、島に近づくのは海上保安庁が危険視して、一定のところからは進めない、何とかしてほしいとの要望を受けた。このため平成22年の外務委員会で、鈴木久泰海上保安庁長官(当時)に日本の実効支配の具体的手立てを講じるべきだと主張したものである(10・17)。その時の答弁は実態として日本の漁船の操業が少ないと認める一方、むしろ漁業者の側から安全操業のためにきちっと警備をしてほしいとの要望があるとの答弁がなされた。この辺りの実情は恐らく7年経った今も変わっていないと思われるのは残念というほかない▶尖閣諸島をめぐっては、仮にここに中国の海警局やら漁民を装った関係者の侵入や不法上陸を契機にして武力衝突が起こったらどう対応するかという課題が取り沙汰される。いきなり軍隊が出て来るということは想定しづらいので、通常は不法入国、犯罪取り締まりという形で警察権で対応することになろう。海上保安庁や警察で対応しきれないとなると、自衛隊が治安出動や海上警備行動で出る形となり、実力部隊同士の小競り合いから、やがては中国軍と米国軍がぶつかる可能性すらでてくるものと思われる。いわゆる抑止力が効かずに、米中戦争が始まるわけである。日本の国内における米軍基地を狙ってのミサイル攻撃から、際限のない報復攻撃が繰り返される恐れも想定される。そもそも米軍が尖閣諸島をめぐっての日中衝突に本格的にかかわってくるかどうかについても諸説入り乱れている。米国がトランプ大統領の登場で、従来とは一転して独自路線を歩みかねない姿勢が見え隠れする。日本の自前の防衛体制の構築が、日米同盟の強化と相俟って強調されるゆえんでもある▶こうした軍事的対応は揺るがせにできないものの、一方で平和的環境醸成も当然ながら待ち望まれる。この辺りについては、最近発売された『新・日米安保論』(柳澤協二・伊勢崎賢治・加藤朗)が大胆な分析を披露していて興味深い。日米同盟の論理矛盾を衝く議論から始まって、「ナショナリズムと平和主義」の問題提起など、三者三様あるいは三者二様といった議論が喧しい。まさに「三人寄れば安保の知恵」とでもいうような思考実験が続く。尤も、経済的には中国依存の現実があるがゆえに、政治的にも中国主導を周辺が容認すれば、東アジアの平和的安定がもたらされるとの加藤氏の主張には首をかしげざるを得ない。「中国を敵とした集団防衛体制と中国を取り込んだ集団安全保障体制の双方でどちらが作りやすいか」といえば、後者に現実性があるとする柳澤氏は「その時また一番ネックになるのが、大国を夢見る日本のパーセプションということになる」と厳しい。結論的に、加藤氏は「中国とアメリカがつくる体制の中に日本が入るかどうかというだけの話」だとし、柳澤氏はそういう動きになれば本当に歴史を変えることになる、と応じているのだが、現実性に欠けよう。平和を優先させるのか、中国に負けたくないということを第一にするのかとの議論は、果たして二者択一的課題なのかどうか。平和第一主義の党であり、中国との友好関係をどこの党よりもいち早く培ってきた公明党こそ、この議論を積極的にリードする役割があると確信する。このあたりの発信を強めなければと思う事しきりである。    (2017・7・23)

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「変わらざる夏」に高まらない本土での関心ー「沖縄の今」を考える③

都議選が終わって二週間。一週間前の9日には沖縄県の那覇市議選が行われた。開票結果は翁長雄志県知事を推す与党会派の過半数割れという事態を招いた。これ、沖縄県政にとって重要なことだが、本土ではあまり注目されていない。この数年を振り返ると、民主党政権時代が最も沖縄に関心が集まったと思われる。その機縁として、第一には、鳩山由紀夫(今は友紀夫)氏が首相時に、普天間基地の移転について、県外移転を口にしながら何ともできずに、日本中の失望と失笑を買って終わったこと。第二には、野田佳彦氏がやはり首相時に、尖閣諸島の国有化を宣言したことから、寝たふりをしていた中国を目覚めさせたことの二つが挙げられる。今から振り返ると、それ以前の自民党単独政権や自公連立政権時代には、慎重の上にも慎重を期して取り扱ってきたものを、政権運営に慣れない民主党が弄んだ結果だといえなくもない。すべてオバマ民主党と反対の態度を取って見せたいとのトランプ米大統領の姿勢と似たような心理が働いたに違いない。元の政権に戻って5年以上が経つものの、民主党の蒔いた種は未だに重い後遺症を残している▼鳩山元首相の「最低でも県外」との言い回しには、それなりの真実味があった。同じ日本国民として、全体の約75%にも及ぶ広範囲の米軍基地を一方的に沖縄県に押し付けていいと、真面目に思う神経の持ち主はそうざらにはいないからだ。わかっちゃいるけど、そうせざるを得ないというのが沖縄を除く46都道府県の心理である。普天間基地の度を越した使われ方は当の米軍関係者や米国の国防長官でさえ認めて、辺野古移転でことを収めようとした。あの時には、嘉手納基地への部分移転案から始まって佐世保基地や岩国基地への分散移転から、はては大阪湾での受け入れの可能性を口にしたひとまで、まさに百家争鳴の様相を呈したのである。しかし、どこも引き受け手はいない。今は元の木阿弥というか、それ以下のもっと酷い荒廃した気分が蔓延しているといえよう▼この事態を打開するには、前回述べたような日米地位協定の改定が必須だ。この作業を並行してやらずして、ただ単に右のものを左へという風に、今あるところからどこかほかのところへと移すというのではならない。辺野古移転を認めさせるためにこそ日米地位協定の運用改善でお茶を濁すのではなく、ドイツ並みに改定することが求められる。その交渉を実らせてこそ当面の基地島内移転も認めざるを得ない、となると見るのが現実的である。最近、柳澤協二氏と鳩山友紀夫氏が『最低でも国外』というギャグっぽいタイトルの対談本を出されたようだが、広告文を見ただけで読まぬうちに首を捻ってしまった。先日テレビを観ていると、戦後政治史の中で画期的だったのは、「沖縄返還の実現」であり、それを現実のものにした佐藤栄作首相の功績は偉大との発言場面に出くわした。ノーベル平和賞受賞もむべなるかなといった、コメントも寄せられていた。あれがなければ、未だに沖縄は米国の統治下にあるはずというのだ。それを聞いていて、沖縄は形の上では確かに日本に戻ったが、それゆえにこそ実質的には今も米国のものであり続けているという風に思われてならない。あの時に沖縄は日本に還らずに米国のもののままだったら。こう思うにつけ、北方領土との比較をせざるを得ない。あの北の4島は今なお「終わらざる夏」(浅田次郎)の元にあるが、南の沖縄は四季豊かな日本でありながら、70数年前からずっと「変わらざる夏」のままに推移している、と▼この度の九州地域を襲った大雨は甚大な被害をもたらしたが、日本では梅雨は未だ本格的には明けない。沖縄だけが梅雨明けを宣言して久しい。夏の観光旅行時期を前に、いち早く真夏の太陽のもとにある沖縄に心ときめかせている「沖縄好き」は多いに違いない。この人たちが、沖縄の空と海と陸に強い関心を持つ幾分かでも、「基地の島・沖縄の脱却」に目を向けたならば、と思う。井上章一(国際日本文化研究センター教授)さんが『京都嫌い』を出版して間もなく、ラジオで語っていた話が印象に残っている。京都の本屋の店頭に、平積みされたその本の横に「ほんまは好きなくせして」との小さなタテ看板があったというのだ。彼は思わず苦笑せざるを得なかった、と。この伝でいうと、世に「沖縄好き」は数多いが、その実、京都風に言うと「ほんまは関心ないくせして」というところかもしれない。(2017・7・15)

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都民ファースト圧勝から、明日の日本をどう見るか

今を時めく小池百合子東京都知事と最初に言葉を交わしたのは、「住専問題」の頃(90年代半ば)。衆議院予算委員室の前に座り込みをしていたときのことです。公的資金を使って銀行救済をしようとしたあの問題に抗議するために、数日間行動を共に(問題の本質についてはここでは触れません)していました。彼女は当時は未だ誰もあまり持っていなかった携帯端末を常に傍に置き、「もうすぐこれに電話機能が付くのよ」と目を輝かせていたのが印象的でした。スマホが全盛期を迎える前夜のことです。為替変動のチエックが欠かせぬあさイチの行動だなどといったつぶやきを聴いて、世の流れに敏なるひとだと妙に感心をしました。後に公明党の兵庫県代表をするようになった私は、自民党の兵庫6区の小選挙区候補としての彼女を応援演説をする羽目に。開口一番「この人は男にしたいいい女です」と、セクハラまがいの紹介で笑いをとったものです▼その彼女が後に防衛相になり、自民党総裁選挙に名乗りを上げるようになりました。選挙区を東京に鞍替えされたこともあって、当然ながら疎遠になりました。都知事に転進して一年足らず、今回の都議選では「都民ファースト」を率いて見事に55議席を獲得。自民党を惨敗に追い込み圧勝したことは、昔の仲間として中々に感慨深い。尤も、もう感傷めいたことを披露するのはよします。それより都議会公明党の「全員当選」のことです。選挙の厳しさの質が今回は全く違いました。「小池知事登場で乗り換えるのか」「自民党と袂を別つのか」といった批判のまなざしです。石原慎太郎、猪瀬直樹、舛添要一と続いた都政の流れに「是々非々」ではあったものの、どっぷりとつかってきていたはずとの責任を問う声もありました。小池氏出馬に支援をせず他候補を推した経緯も暗い影を落としました。ともあれ、都政改革の大仕事には小池氏の登場を待たねばならず、自ら風を起こすに至らなかった不明は恥じねばなりません▼問題は国政への影響です。都議選において自公の関係に亀裂が入ったとして、しこりが残る云々とメディアでは専らです。20年近く続く関係は一朝一夕に崩れるものではないとの見方はあるものの、長すぎるがゆえの悪弊も意識せねばならないと思われます。「”安倍政治”は許さない」との批判の声はここ数年続いています。発信する側は同じ意味合いからでしょうが、受ける側には違って聞こえます。政策展開における安倍政治批判から、政治姿勢への傲慢さ批判への変化です。前者には公明党も与党として責任があります。「安保法制」をはじめとして、程度の差はあれ”二人三脚”的側面は否定できないからです。しかし、後者には直接の責任はない。「森友」「加計」問題などにみる一連の首相の政治姿勢への疑惑。自民党関係者の不祥事や不用意な発言。これらの背景には信じがたいほどの脇の甘さと”安倍一強”政治の傲慢さがあると思われます。先日、古い友人である「自民党の一匹オオカミ」村上誠一郎氏が電話をかけてきて、もっと公明党が安倍政治にブレーキをかけてくれねば、と嘆いていました。彼のベースには、小選挙区制度批判があり、「安保法制」や「憲法改正」などへの不満があります。このところ二週連続で日曜日のテレビ番組『時事放談』に登場し、気を吐いています。全面的な賛同はともかく、”万人たりとも我行かん”の政治姿勢には共鳴します。自民党も公明党ももっと安倍首相に対して物言うところは彼に学ばねばならないかもしれません▼ところで、共産、民進両党が都議選結果から、国政での安倍批判に野党共闘の勢いをつけようとしていますが、はなはだ疑問を抱かざるをえない動きです。2議席を伸ばした共産党はともかく、真逆の2議席減で僅か5議席しかとっていない民進党は、まずは足元への見直しから始めるべきではないか。他党のことに口出しすべきではないでしょうが、そういわざるをえないのです。都議選を前にして民進党から相次ぐ離党者が出たことの意味は、必ずしも選挙目当てだけではありません。共産党との共闘路線への反発があることは否定できないのです。そこを充分に意識しない限り、この党に明日はない。巨大与党に対抗する大きな野党が育たないとなると、日本の明日もまた暗くなってしまう。都民ファーストの国政への進出が注目されるゆえんとも関係してきます。小池氏はれっきとした保守主義者で、安全保障政策においても憲法においても、その方向は安倍首相と大きな違いはありません。ある意味で大阪を基盤とした日本維新の党との類似性を感じます。そこで、やはり大事なのは中道主義の党・公明党の立ち位置、振る舞いです。東京都議会で小池都民ファーストと共闘し、国会で安倍自民党と共闘しながら、見据えるおおもとは「大衆のための政治」だという点を片ときも忘れてはならない。いよいよ日本の政治が面白くなってきました。   
                                              (2017・7・4)

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日米地位協定で無為を続けるだけの外務省や国会ー「沖縄の今」を考える➁

「被害者としての沖縄」という課題に焦点を合わせるときに、誰しも思うのはこれまで幾たびも繰り返されてきた、米兵の乱暴狼藉であり、理不尽な日米地位協定の規定と、その運用のずさんさであろう。いたいけな少女が乱暴された上に殺されたという事件は枚挙に暇がない。その都度はらわたが煮えかえる思いがしてきた。その悔しくも辛い感情を抱かぬ日本人はいないはずなのだが、沖縄県以外の各県の人々は健忘症に罹ってるとしか言いようがないのも事実だ。私は現役の頃に、訪米の際に米国防省で、沖縄の米軍基地では米海兵隊幹部に、そして衆議院本会議場での発言の際に、言い続けてきたことがある。それは、「日本がホストネーション・サポートをしているのに対して、アメリカはゲストネーション・マナーがなさすぎる」という一点である。米軍に基地を貸与する側、受入国・日本のホストネーション・サポートとは「思いやり予算」に代表される対米便宜供与の数々である。一方、接受国のアメリカはそれに対してあまりにも礼儀知らずではないか、というのが私の考え出した”とっておきの言い回し”だ。米国に久間章生元防衛相らと訪問した際に国防省の幹部に直接伝えたし、沖縄では海兵隊幹部のR・D・エルドリッジ氏にも言ったが、ポカンとしていたり、筋違いの言い訳をしていただけ。国会でも私の発言に注目するひとや、メディアはなかった▶これについては後日談がある。エルドリッジ氏と実に10年近くぶりについ先日再会したのである。ところは神戸。私が友人と共催する「異業種交流会」の場に彼が夫人を伴って参加されたのだ。彼はその後、大学で教えたり、テレビにコメンテーターとして登場したりと、一段と著名度を挙げている。特に最近では「3・11」における米軍の獅子奮迅の支援ぶりを著した『トモダチ作戦ー気仙沼大島と米軍海兵隊の奇跡の”絆”』の著者として。彼との再会で私は満を持して、あの時の”伝わらなかった思いの悔しさ”を訴えた。しかし、だ。結局は彼は理解を示そうとしなかった(これは建前で、本心は別と、睨んでいるのだが)。沖縄における米兵の特殊な乱暴行為がいかに沖縄人を傷つけ、日本人をスポイルしているか。これに共感を抱き、恥ずかしい思いを持てないアメリカ人はいないはずで、マナーを持てという私の思いがなぜわからないのだろう。これでは、どんなに「3・11のトモダチ作戦」を強調されたところで、胸に響かない。エルドリッジ氏が優秀極まりなく、また聡明で美しい日本人の奥様を持っておられるだけにまことに惜しい思いがした▶さて、衆議院議員の頃の闘いの一つとして、日米地位協定改定について幾たびか迫ったものだが、これを否定する外務省の壁は実に硬いものであった。いつでも結論は「運用の改善で」の一点張り。米国当局が言う前に同じ日本人の抵抗に会うのは度し難い。この点に関して最近読んだ『新・日米安保論』は実に明快そのものだ。これは柳澤協二、伊勢崎賢治、加藤朗の3氏による鼎談だが、伊勢崎氏が外務省の恣意的姿勢を克明に描いていて驚嘆に値する。日米地位協定とNATO軍地位協定との根本的違いを明らかにしなかったり、一次資料をわざとしか思えないやり方でミスリードしたりする姿勢は極めて問題である。ドイツは、補足協定という形で実質的に地位協定を変更することに成功しており、日本以外の米軍受入国はそれぞれ工夫してなんらかの改定を実現している。地位協定改定は米軍を全面的に追い出すことに繋がらないのに、結局は地道な改定作業に汗を流させようとせずに、一足飛びに米軍出ていけとする沖縄の現状。この本で伊勢崎氏や柳澤氏らが日本の反基地闘争の在り方に疑問を投げかけていることも興味深い▼このように日米地位協定について、約20年もの間、外務省に一矢を報いることもできなかった私はただただ恥ずかしい限りだ。沖縄の現状を思うにつけ、運用改善などという寝言のような戯言を十年一日のごとく口にするだけの外務省に一泡吹かせたかった。今更何を言っても「後の祭り」だが、是非優秀な後輩たちにこの思いを託したい。思えば、我々の先祖は外交といえば、明治維新いらい不平等条約の改定に全てをかけてきたはずである。『明治維新という過ち』や『官賊と幕臣たち』など作家・原田伊織氏の著作に影響を受けて「反薩長史観」『反司馬遼太郎史観」に与しがちな私でさえ、明治期の外務官僚の不平等条約改定に向けての労苦は高く評価する。今の外務省や国会議員たちは対米従属に慣れ親しみ、沖縄に対する不平等性、歪みを糺すことをしないというのはまことに大きな問題としか言いようがない。いや、そういう現状を放置して、本土の人間たちが差別視したままであり続けることは、やがて全く「新たな決断」へと、沖縄を誘いかねない予感がする。(2017・7・1)

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被害者ジャーナリズムを嘆くより、琉球ナショナリズムに思いをー「沖縄の今」を考える➀

きょう6月23日は沖縄にとって忘れがたい「慰霊の日」。先の大戦で20万人(米軍兵も含む)もの人が命を落としたことを悼む日である。ただ、日本の各県・地域にとっては、忘れがたいのは、8月15日であって、その日ではないとの印象は強い。日本史において外国から攻め込まれて戦禍に巻き込まれたとの記憶が残るのは、鎌倉時代の蒙古襲来と先の大戦での沖縄戦である。しかし、鎌倉期のそれは海上戦であって、陸上でのものではない。地上戦は沖縄が初めてなのだ。沖縄は歴史を遡れば、琉球王朝が支配をしてきた地域で、日本に組み込まれたのは明治期からである。民族も琉球民族であって大和民族ではない。あらゆる意味で日本における異質の存在が沖縄なのだ。このように述べるのは、沖縄を考えるうえで、一貫してつきまとう「差別」という意識の寄って来る由縁に思いを致さざるをえないからだ■私は公明新聞の記者時代(昭和44年/1969年~昭和62年/1987年)から幾たびか沖縄に足を運んだ。数えきれない思い出があるが、中でも印象深いのは「7・30」(ななさんまる=昭和53年/ 1978年)のとき。それまでの交通ルールが一変し、ひとの左側通行が右側に変わり、車が反対通行になったことを取材するために行ったのである。戦後30年余。本土では壊滅的な戦禍も癒えて復興の雄姿を見せている時に、沖縄はようやく今復帰したのだ、との思いを抱いた。形の上ではようやくアメリカから日本に返ってきたのだ、と。しかし、それはあくまで表面上のことだけで、米国占領下の実態はそれ以降40年近くが経とうとする今もなお全く変わっていない。これを考えるうえで、私たち日本本土で生活する人間の、「対沖縄差別意識」に正面から向き合わなければならないと思う■それを考えるうえで格好の題材は、沖縄県におけるメディアの動向である。同県には琉球新報、沖縄タイムスの二紙しか実質的には存在しないとされている。日経新聞が数年前に鳴り物入りで参入したものの殆どといっていいほど根付くに至っていない。こうした二紙の牙城が揺るがぬことを、長きにわたって私はイデオロギーのもたらす悪弊の結果と思い続けてきた。しかし、10年ほど前に沖縄の地で後輩の遠山清彦代議士(沖縄県を含む九州地域を地盤とする比例区選出)と語り合った時に、自分の間違いを心底から思い知らされた。沖縄が左翼イデオロギーに毒されていると見る限り、真に沖縄を理解することはできない、と。一言でいえば、「琉球ナショナリズム」がその基盤に横たわっているのだ、と知った。琉球の歴史を理解し、思いを寄せずに、結果としての政治の動向を見て、「被害者ジャーナリズム」だとしているだけでは、「沖縄問題」は到底分からないのである■情報誌『選択』6月号が、沖縄の二紙の「本性」を攻撃するとの記事を掲載していた。「偏向報道」合戦の重い罪とのタイトルで。「『反米軍基地』一色の偏向報道を連日垂れ流す。しかも占有率は100%近く、沖縄県民は、その論調に染まっていく」ー「米軍憎し」が生む誤報によって「不都合な真実」は封印されたまま、だというのだ。そうだろうか。確かにここで明らかにされている現実はなにがしかの真実を含んでいよう。否定はしない。しかし、それを補って余りあるくらいに、沖縄のこころから、「米軍」と「日本政府」の現実は遠く離れている。私は、「沖縄が先の大戦で『捨て石』にされ、戦後、過重な米軍基地負担を担わされてきたのは紛れもない事実であり、本土の人間はその過去に思いをはせるべきだ」との数行に注目した。過去形で書かれ、「沖縄の今」に思いをはせていないとの欠点を持つのだが、それでも全編でこの部分だけが「偏向」していない眼差しに見えたからだ。ところが、その直ぐ後に、「しかし、だからといって、沖縄の立場が一方的な報道を許す免罪符にはならない」と続く。これでは二紙の「本性」やその「重い罪」を暴いたことにはならない。沖縄のメディアの現状を嘆く前に、それを許している本土ジャーナリズムの怠慢に目を向けるべきではないか。そして、自民党や公明党の支持率が左翼のそれと拮抗している現状を見れば、沖縄の人々の見方が二紙の論調によって捻じ曲げられているとは思えない。ことの本質はこの二紙が沖縄のこころをうつ「琉球ナショナリズム」を代弁しているところにあるのではないか。「被害者ジャーナリズム」だと切って捨てる前に、むしろ被害者の実態に目を向けるべきではないのか。(2017・6・23)

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「遥かなるルネサンス」展でキリスト教の布教を思う

「遥かなるルネサンス 天正遣欧使節がたどったイタリア」展を神戸市立博物館に観に行きました。これは東京富士美術館の特別企画によるもので、イタリア・ウフィツイ美術館の特別協力のもとに実現しました。勿論、日伊両政府の肝いりによる賜物(日伊国交開始150周年記念事業)ですが、忙中閑あり、なかなか得るところは多かったです。ご存知のように、「天正遣欧少年使節」というのは1582年に長崎からイタリアに向けて旅立った伊東マンショら4人の使節のことで、ローマでは時の教皇グレゴリウス13世に謁見しました。訪問した各地で手厚いもてなしを受けたといいますが、この展覧会では、彼らが訪れた各地を順に追いつつ、それぞれの都市の芸術作品を紹介しようというものです。ブロンズィーノ(ビア・デ・メディチの肖像)やティントレット(伊東マンショの肖像)の絵画作品やら、タピストリー、陶器、ガラスなどの工芸品、書簡資料が展示されていました▼出発から3年経った1585年にヴェネツィアに到着(そこには10日間いました)、その後難行苦行の末に帰国したのは1590年といいますから約8年間程の文字通りの長旅でした。出発した頃の伊東マンショは12歳くらい、イタリアで歓迎を受けた頃は15歳。帰ってきたときは20歳になっていたはず。この展覧会はルネサンス期のイタリアの芸術を鑑賞することが主たる狙いですが、どうしても彼らが派遣された頃の日本の宗教事情に思いが飛びます。時あたかもキリスト教の世界布教盛んなる頃。とりわけ九州の地では大名で洗礼を受け、信者になるものも多くいました。イエズス会士ヴァリニャーノが日本における布教をさらに進めるために、この4人(伊東のほか、原マルチノ、中浦ジュリアン、千々石ミゲル)ーいずれもキリシタン大名有縁の若者だったわけですがーが選ばれました。彼らが行った頃と違い、帰ってきた頃にはキリスト教をめぐる事情は違っており、まさに”行きはよいよい帰りは怖い”でした。その後の彼らの人生は迫害の連続で、殉教の道をたどります▼私は西洋の絵画を観るときは、どうしても寓意を探る癖があります。だからといってなにもかもその角度から観てるわけではありません。ですが、単なる肖像画や風景画では物足りず、絵画の中に何気なくはめ込まれた動物や人間の表情を通して作者が何を意図しようとしたのかを考えさせる絵に興味を持ってしまうのです。この日の作品でも、例えば、「息子アンテロスをユピテルに示すヴィーナスとメルクリウス」という作品の中に描かれたワシに注目しました。これは私が気づいたのではなく、そんなことをあれこれと話しながら会場を歩いてるときに、一緒に行った私の友人が指摘してくれて気づいたものです。尤も、これとて正直どういう意味合いがあるのかはにわかには判じることは出来ぬまま通り過ごしましたが▼その友人は、成川愼吉君といい、ハリマ化成を定年後に学芸員になったり、気象予報士の資格をとってあれこれと研究するという豊かな才能に恵まれた変わり種です。研究対象は神戸の生んだ画家「金山平三」について。彼は気象予報士としての知見をもとに画家が描いた当時の天候と絵との関係を追うというのです。彼は今まで3回もフランスに渡り、観光の傍らパリ時代の金山平三の足跡を追っています。つい先日も4回目の訪問をして、彼の描いたある絵の制作当日の気象状況を調べに行きました。実はそれに関する資料があるのではないかと、パリの日本大使館に聴いてほしいというので、旧知の木寺昌人大使を紹介したものです。同大使も彼の熱心な研究姿勢や博学ぶりに驚いていたようです。こういうマニアックな趣味を持つ友人の解説付きの鑑賞は、何時にもまして贅沢で充実したものになりました。(2917・6・18)

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「がん難民はどうするか」との坂口力先輩の講演を聴いて

「がん難民はどうするか」-最初、「がん難民をどうするか」の間違いではないかと思いました。坂口力元厚生労働大臣が元議員の会合で講演された際のタイトルです。冒頭、ご本人から、がん難民の取り扱いをどうするかよりも、がん難民自身としての対応をどうするかとの観点からの話をしたいとの講演趣旨が披露され、納得しました。さすが、坂口先輩らしい視点で、体験を織り交ぜての聴きごたえある中身でした。同氏は今から8年前に大腸がんを患われ、小腸と大腸をあわせて30センチ切られたとのこと。余命3年と言われたそうです。昭和9年のお生まれだから、御年83歳。年齢相応の雰囲気を漂わせられてはいるものの、演壇での講演ぶりは現役時代と全く変わりません。ご自分で作成されたと思われる映像を縦横無尽に駆使ししての展開は、お見事という他ありませんでした▼お話では直接的には触れられませんでしたが、現在は東京医大特任教授をされており、「統合医療研究」に従事されているご様子。ご自身の闘病にあっても抗がん剤を使わずに免疫療法を受けたとのこと。この日の講演でも随所に、代替医療をめぐる話題が顔をのぞかせていました。とりわけ興味深かったのは、アメリカでの代替医療の実態。年間1億ドルかけての研究が進められており、がん患者の45%が代替医療を取り入れているといいます。一人平均57000円もの出費との統計報告もあり、健康食品が主で主治医には相談しないというケースが専らのようです。しかし、日本では、➀三大標準医療(外科手術、抗がん剤、放射線)に取り組んでいる医師の多くは、代替医療を頭ごなしに否定することが多い➁三大標準医療でがんが完治しないから、代替医療へ患者は走る。しかしながら反対する医師がなぜか多い⓷代替医療について、知識のない医師も多く存在するーという状態が続いています。坂口氏は「アメリカは効果があって副作用がないものには柔軟だ」と指摘したうえで、日本も治療の幅を広げ、代替医療も含めて併用療法を認めるべきで、社会全体で相談する仕組みを作る必要を強調されたのが印象に残りました▼また、「がん難民はなくなるか」という課題については、ポイントとして「医師と患者は治療法を話し合うことになっても、医師は最後の決定権を手放せるか」と力説。坂口氏の場合、主治医が「抗がん剤をつかうかどうかは自分で決めよ」と言われた結果が、免疫療法を選んだことに結びついたことを明らかにしていました。さらに、優れた治療法を確立したひとが社会から法の名において排除されたケースが多数あるとのエピソードには、全く初耳だっただけに驚かされました。主題である「がん難民はどうするか」については➀医師はあなたの人生まで考えて治療をしてくれるわけではない➁自身や家族、社会における立場を考えて治療方法を決める必要があり、医師にいうべきことは明確に伝えるべきである⓷がん治療の選択肢は大幅に広がり、完治の希望が生まれてきたーとしたうえで、「人生は残された時間が重要である。それは諦めることではなく。残された人生に希望を見出すことである」と強調されていたのは胸にあつく響きました▼「がん難民をどうするか」をめぐっては、「患者の意見を充分に聞き、家庭環境、社会環境を考慮して、医師を含めた各分野の専門家が集まり、どのような治療が望ましいかについて協議し、決定する体制を作る」ことを提案されました。その理由として、「医療としての最善の方法が、患者の残された人生にとって、最善とは言い難い場合があるから」だ、と。なかなか現状では困難ではないかと思うものの重要な指摘だと言わざるを得ません。最後に、「がんは人間に考える時間を与えてくれる疾病である。自分の人生を生きがいのあるものにするための期間をがん患者は要求している」とする一方、「研究者に告ぐ」とことわったうえで「根治が難しくても、がんと共存の時間を延長する研究も、するべきではないか」と強調されました。まさに遺言であるかのごとく重く聴いたのは私だけだったでしょうか。政治家への信頼が薄れいくことが強調されがちな今日、まことに素晴らしい先輩を持ったと誇らしい思いに駆られたしだいです。                                      (2017・6・8)

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