今回の衆議院総選挙の結果で、公明党が6議席減らして29議席になったことをどう見るか。与党として3分の2を得るために、引き続き大事な位置を占めるのだから、一喜一憂することはないとの捉え方が専らであろう。一方で、この10数年の総選挙における比例区票が伸び悩んでいることは座視できない。この際に、長きに渡る連立政権の在り様を、点検する良い機会ではないか。このままで良いのか、正すべき歪みがあるならそれを正して新たな出発をすべきだというのは正論だと思われる▼選挙戦の度に聞こえてくるのは小選挙区比例代表並立制における選挙協力の難しさである。大阪で4選挙区、兵庫で2選挙区にあって、公明党の候補が自民党の支援を受けている。それ以外のほぼすべての選挙区(北海道、東京、神奈川の3区を除く)では、公明党が自民党の候補を応援しているが、それらの地域では自前の候補を擁立するのがより厳しいために、歳月の推移と共に自民党支援が定着してきたと言えよう。勿論、私の元の選挙区(中選挙区時代)たる西播磨地域(兵庫11区、同12区)のように、つい先ごろまで旧民主党の幹部であった二人の大物が、自民党にスルリと鞍替えしてきたために、俄かに支援をしてほしいと言われても感情的に収まり難いところも否定できない。それぞれに元自民党代議士で勇退者の家族や支援者の存在も無視できないからだ。小選挙区は自民党に投じる代りに比例区は公明党に、ということは中々簡単ではない。▼逆に公明党の支援を受ける自民党の側ではどうか。兵庫の2小選挙区(2区と8区)では、20年を過ぎて自前の候補を出せない神戸市や尼崎の市議団や県議団から焦りの声が出ては消え、消えてはまた表面化するというのが実情である。戦って負けたのなら諦めもつくが、戦わずして不戦敗を強いられるというのは一体どういうことかとの不満の声が引きも切らない。組織の弱体化は覆いようもないとのうめき声である。昨年の参議院選挙では、24年ぶりに公明党が兵庫選挙区に候補者を出したものだからなおいけなかった。それまで我慢していたものが一気に爆発寸前までいった。その矛先は公明党にではなく、自民党中央に向けられているのだからご了解をとの自民党県連幹部からの弁明が私のところにも寄せられた▶今回の総選挙でも、私が大阪5区に支援に行った際に切実な話を聞いた。古くからの自民党の党員であるという税理士さんだった。彼曰く「前の公明党代議士から今の方に至るまで、支援する流れが20年この方ずっと続いており、もはや諦めてはいるが、そういう我々の”悲哀”を分って欲しい」との切なる声であった。真摯な姿勢の主張に多くのものを感じざるを得なかったのである。(2017・10・31/11・6に一部修正)
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自公選挙協力の実態ー総選挙結果から連立政権のこれからに迫る➀
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「自公圧勝」報道に偽りあり、公明議席減の意味を探る
嵐の中での衆議院総選挙が終わって早くも三日が経つ。私が議員を辞めてからもうすぐ5年だが、支援して頂く側から、する側に回って3回目の選挙だった。選挙にあって候補者を当選させるための司令塔役はまことに大変だが、純粋に支援をお願いすることだけに絞ると実に楽しいことが多い。高校卒業から50余年になる私は、福岡と横浜に住む二人の同級生と初めて連絡が出来て、半世紀ぶりの出会いを近くすることになった。心弾む。また1年半前に顧問先が主催する工業デザインにまつわる会合で知り合った多摩美術大学の女子学生たちに電話をした。その結果、来月3日から始まる大学祭に行くことになった。これまた心弾むことだ。更に、不義理をしていた歯科医を演説会に誘い関係を戻したり、同じく足が遠ざかっていた鰻屋に実に久方ぶりに行き、美味くて安い鰻丼に舌鼓をうったりもした。そのきっかけは大阪の公明候補者の選挙事務所が鰻屋の二階にあったから(行きたくても高そうだったし、場所柄もあって行けなかった)というのも、我ながら笑ってしまう。食い物続きでいえば、支援依頼先の社長に紹介してもらった鮨屋では、偶々出くわしたお客を交えその店の大将や女将と政治談義が盛り上がったことも痛快だった▶楽しい語らいを織り込んでの激しい闘いの結果、選挙結果でも勝利すれば言うことなしなのだが、そうはいかない。今回の選挙では「自公圧勝」と報じられたように、確かに自民党は解散前と全く同じの284議席を獲得して、選挙戦当初の予想を覆す大勝利だった。しかし、現状維持を信じていた(少なくとも私は)公明党は35議席から6議席減(小選挙区1、比例区5)に終わったのである。「自公圧勝」報道に偽りありだ。比例区で落選したのはいずれも前回初当選組だった。前回勝ち取った尊い議席を失った意味をどう考えるか。これからの慎重な分析を待たねばならないが、敢えて私的な捉え方を述べれば、自公政権対希望・維新対立憲・共産という三極対立の中で、公明党の立ち位置が埋没してしまったということに尽きよう。希望の党が負けたということに世間の関心は集中しているが、それでも50議席を獲っている。「立憲民主」が3倍増になったことや、「希望」への当初の期待値が大きかったことなどからして、一方的に批判されがちだが、ここは安易な決めつけはよした方がいいと考える▶今回の民主党の3分裂騒ぎについて、ひたすら小池東京都知事の「排除」発言を始めとする責任論(ご本人が認めているものの)に目が行きがちだが、私はそうは思わない。確かに野党結集を殺いでしまった彼女の罪はあるが、その「分断」的行為は、日本の政治を分りやすいものにして余りある。ご本人の思いとは別に(本心ははかり知らぬが)日本政治史上の功績は大きいと言わねばならない。結果的に立憲民主党が得をした風に見えるが、旧民主党内の勝負はこれからだろう。参議院に残る民主党の行方を含め、これから第二陣の争いが始まる。注目したい。その際の視点は、日本に二大政党は育つかどうかに絞られる。旧社会党のような世界観において与党とは真逆のものを持つ政党が野党第一党に位置し続けることはご免蒙りたい。少なくとも安全保障分野での合意をベースにした政党同士の争いでないと、かつての55年体制下のように再び不毛の対立となってしまう。今回の小池氏主導のもとの希望の党の設立も、細野氏らの言動を聴いている限り、安保法制に反対するひとたちとは組めないということになる。そうした意味では立憲民主党がこれからかつての社会党のようにならないかどうかを見極める必要があろう▶自民党はかねて自社対立時代に身につけた知恵として幅広い政策選択をほしいままにしてきたことが指摘される。富裕層の側に立つ政党だとの批判を受けるなかで、少しづつ社会的弱者の視点も取り入れてきたのである。これは自公政権になって公明党に気を配る中でさらに一層定着してきた。選挙が終わった直後のテレビ朝日系の討論番組では、自民党はリベラル政党の側面が強いとの指摘が専らだったが、これなど公明党がじっくりと吟味する必要がある。かつて社会党から学んだ自民党は今や公明党から学んでいると言えなくもない。このあたりをしっかり受け止め、もっともっと宣揚する必要がある。尤も公明党は安全保障分野で自民党の安定かつ責任性を学んできているのだからお互い様ではあるが。この辺りはあまり注目されないというか、報じられることがない。公明党は東京都政や大阪府政での行動と国政での振る舞いが相違しているのが分かり辛いとされたり、「憲法改正」をめぐる主張が今いち曖昧だとされてきている。不本意なことだ。これこそ自公政権下における是々非々の対応で、注目されるべき極めて大事なスタンスなのだが、一般的に受け入れられるには苦労している。比例議席減もこの辺りと無縁とは言えないだろう。どう公明党の立場・主張を説明し、独自性をアピールするか、等身大の政党の在り様がこれから問われてこよう。(2017・10・25)
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「分断」選挙での一騎打ちに問われる共闘力
郵便ポストに「しんぶん赤旗」の号外なるチラシが入っていた。自治会長の看板と公明党のイメージポスターを掲げている我が家に堂々とポスティングして頂くとは……。オモテ面では安倍政権批判、ウラ面には希望の党批判などが掲載されているものを見ながら、変わらざるこの党のしたたかさと共に、違った側面にも思いをはせた。これまでの衆議院総選挙と趣きを変え、この党は全ての選挙区に自前の候補者を立てているわけではない(67選挙区で候補者を下ろしている)。野党共闘のために、去年の参議院選挙と同様にわが身を捨てているのだ。今回の総選挙は、いうまでもなく三極がぶつかり合う構図となっている。自公の与党組と、維新、希望という東西の両知事に率いられた新興グループと、立憲民主、共産の新たな左翼勢力の三つである。公明党はこのなかで捨て身の共産党の底力を思い知らされている。最終盤の選挙戦での世論調査では、公明党の小選挙区の当選予測は7議席。2選挙区で大苦戦を知られており、このいづれもが背後に共産党が支援する立憲民主党候補者との一騎打ちなのだ。▶9つの小選挙区では自民党はもとより、希望の党や日本維新の党が公明党との勝負を避けて候補者を立てていないことから、かえって票が分散せずに厳しい状況を生み出している。共産党と立憲民主党それぞれの表裏の役回りがうまくいっているところは、先に挙げた2選挙区だけでなく、きわめて厳しい情勢となっている。こうした闘いにあって我々は、ややもすると、共産党を旧態依然とした視点から攻撃しがちだ。例えば、「実績横取りのハイエナ政党」だとか、「オウムと同じく公安調査庁の調査対象だ」などといった観点である。そうした十年一日のごとき観点で批判していると、間違ってはいなくても、相手にとってはあまり痛みを感じないばかりか、いわゆる無党派層が公明党から引いてしまう可能性がある。立憲民主党に対しても共産党との類似性をあげつらうことはあまり効果的な批判になっていないように思われる▼今月発売の『文藝春秋』11月号で作家の橘玲(たちばな・あきら)氏が、巻頭で面白い論文を発表している。そこでは保守、リベラル、中道といった政治的立場の腑分けが世代的にかなり違うことを論じていて興味深い。それによると、20代、30代の若い年齢層では公明も共産も保守であり、自民がリベラルだというのである。ここでいう保守、リベラルは、恐らくは伝統的な価値観を踏襲するのが保守で、新たな価値を創造しゆくのがリベラルだということであろう。今の若い世代から見ると、宗教的価値やイデオロギー的価値にとらわれている政党は保守と見え、次々と新しいことに挑戦するかに見える自民党はリベラルということなのかもしれない。つまり、これまでの常識があまり通用していないのである。ここではその論考が正しいかどうかということではなく、我々が常識だと思い込んでいることは意外に的外れかもしれないことに気づくべきだろう。ちなみに旧民主党的な立ち位置は中道という位置付けのようだが、公明=中道を揺るがぬ信念として持つ私など、若者からすれば古めかしい人間として要注意の存在に違いない▼今回の選挙では、世界的な「分断」の傾向が日本にも見られるといえなくもない。欧米では移民政策をめぐって国家の在り様が分断され、かつての統合の影は薄い。日本の場合はテーマは安保政策(安保法制への賛否)であり、憲法9条をめぐる立ち位置だ。言い換えれば、自国第一(日米同盟優先)か、国際協調優先かの選択でもあろう。小池氏が意図的か不用意であったかは別にして、旧民主党のメンバーの希望の党への合流に際して、この二つへのスタンスを「踏み絵」に使ったとされるのはその表れだと思われる。選挙が終わってからの混乱を避けるべく事前にこれを行ったために、その勢いが削がれてしまったことを一部メディアは嘆く。しかし、結論はまだ出ていない。我々が立憲民主党が選挙前に急拵えでできた政党だなどと舐めてかかるととんでもないことになりかねない。共産党が裏に回ったときの力は侮れない。一方、公明党が表に出ている場合に、自民党や非立共グループ(希望、維新)の支持者たちがどう動くかが注目されるし、公明党の支持者自身が自民党との一体化をどうとらえているかも微妙な影響をもたらしかねない。すなわち、公明党だけの力ではなく、友好勢力との共闘力が問われていることを明記する必要がある。(2017・10・19)
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自民党小選挙区候補の演説会に参加し、この30年の政治を俯瞰する
姫路市の船場小での演説会(10・12)の冒頭にあいさつに立った連合自治会の幹部は、やおらタオルを広げて聴衆に見せた。そこには「祝就任 松本十郎防衛庁長官」と書かれてあった。松本十郎氏の長官就任は平成元年暮れのことだったかと記憶する。いきなり30年ほど前に引き戻された。平成2年(1990年)に私が初めて衆議院選挙の旧兵庫4区(中選挙区制)に立候補した直前のこと。戸井田三郎氏が初の厚生大臣になり、それに遅れまいとする松本氏が時の派閥の領袖や首相にねじ込んでその大臣の席を得た、と当時もっぱらの噂だった。河本敏夫元経企庁長官と併せ、自民党の3候補が大臣経験者の列に名を連ね、全くの新人候補である私をブロックする構えが明白となった。私がその後を継いだ新井彬之氏も、当時の社会党の候補だった後藤茂氏も含め、皆さん鬼籍入りしてしまったこともあり、今やそんな昔のことを覚えているひともごく少なかろう。しかし、私にとっては忘れようにも忘れられない。2年前に旧民主党を離党し、無所属を経てこのたび自民党の公認を得た十郎氏の息子・松本たけあき氏(元外相)の演説会に参加して、思いがけずに特別の感慨に浸る羽目になった▼中選挙区から小選挙区比例代表並立制の選挙制度になって約20年が経つ。その制度に様々な弊害が目立ってきてはいるが、その後の推移がもたらした政治的所産の是非は充分な検討を要する。元をただせば、中選挙区制は巨大政党・自民党内での熾烈な内輪の争いを防ぐ一方、穏健な二大政党制確立に導こうとする狙いがあった。長期にわたる自民党政権下の金権腐敗政治の根を断ち、一党独裁に終止符を打つことも目的とされた。今日までの流れで政治はどう変わったか。確かに自民党一党支配はなくなり、連立政権が常態になった。民主党政権が樹立した時には二大政党制が日本にも根付くかと思われた。しかし、その民主党政治は散々な結果をもたらした。今日のように、民進党に衣替えしたのちに、希望の党と立憲民主党、無所属などと三分裂する事態になろうとは、殆ど誰もが予測し得なかった。「安倍一強政治」とか言われるが、これは「権力批判」が生業であるメディアの本質がもたらすもので、ある程度は割引してみる必要があろう。確かに「森友・加計」問題に見られる首相自身の脇の甘さや傲岸さゆえの失政もあるが、一方で経済運営の包括的在り様や外交安全保障政策の堅実さなど評価できるものも少なくない。社会保障政策でも着実な前進は見られる。そうした実態の背景には、陰に陽に自民党政治を矯正してきた公明党の果たしてきた役割があるのではないか▶この日の演説会で、自民党に鞍替えをしたことをどういう風に松本氏が弁明をするかと注目していたが、「公認を頂いた」「これでやりたい仕事ができる」とさらりと言うにとどめていた。2年前の離党に際して、共産党との共闘を主張する岡田民主党にはついていけないという意味のことを口にしていた。今日の民進党の分裂騒ぎにあって「希望」との合流や立憲民主党の結党などを見るにつけ、その先見性を誇っていいものと思われる。かつて、公明党も新進党合流騒ぎがあった。衆議院サイドは合流し、参議院や地方議員は残留し、後に新進党が分裂した時に、公明党に戻らず小沢自由党に行く者もあった。こうしたことを思うにつけても、他党や他党に所属するひとたちの動きは同情こそすれ余計な批判をするつもりはない。大事なことは政党、政治家としての初心を忘れず、何のために政治を志したのかに立ち返ることだろう▼公明党は大衆のために政治を取り戻すということがその行動の原点にある。かつて自民党が経済的に恵まれた層の代表であることに固執し、共産、社会という左翼勢力がイデオロギーに偏重し、共に大衆から遊離していると見るしかなかった。それだからこそ公明党は立ち上がった。立党当初から20世紀の最後の辺りまでは、外からの自民党改革に執念を燃やした。この20年程は政権内部から、連立相手の自民党を内側から変える戦いに取り組んでいる。政権に入ることで、現実政治のプレイヤーとして働くことができ、庶民大衆の願望をたとえわずかではあっても手にすることができている。いくらきれいごとを言っても、何一つ具現化できぬ万年野党ではどうしようもない。また、巨大与党の欠陥部分について、観客席から幾ら詰ってみても詮無いことが多い。連立与党チーム内で、公明党は自民党の良きところを伸ばし、悪しきところを失くすといった役割がある。ただ、表面上を見ているだけで、大事なところを見落としてはならない。公明党の動きをじっと見るならその本質的行動に全くブレはない。どう動くことが庶民大衆の利益になるかが、どこまでも主たる関心事だと確信する。政治はあるべき理想に向けて、相対的によりましな選択を積み重ねていくしかないのである。(2017・10・14)
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EU本部訪問から帰ってー日独政治動向を比較する
ドイツの生んだ偉大な文豪・ゲーテの作品といえば、私は『イタリア紀行』を思い起こす。齧った程度で読み終えてはいないが、テレビで遥か以前に観たドイツ文学者・池内紀さんと女流版画家・山本容子さんの二人がゲーテの足取りを追った番組がとても印象的だったからである。だが、彼にはもう一つ『ライン紀行』という紀行集がある。過去に何回かドイツに行く機会があったが、残念ながらライン川下りはしたことがなかった。今回、ライン川沿いの古くからの町ビンゲンに住む、尊敬する先輩ご夫妻(ご夫人はドイツ国籍を取得)のお誘いを受けて束の間の旅をしたのだが、その一つの楽しみがこの川下りへの挑戦だった。ゲーテは「つらなるラインの丘へ 恵み豊けき広き畑 水に映りし河中の島 めでたきぶどうの満つる国へ こころの翼うちひろげ いざ 来ませ この書を親しき伴となして」と、この本の冒頭に記している。リューデスハイムから船で2時間足らず、サント・ゴアまでのライン川沿いの風景は、まさにゲーテの描いたような、得も言われぬ素晴らしき流れの連続であった▼今回、ドイツへの旅(フランス、ベルギーにも)に重い腰をあげたのはほかでもない。ビンゲンの元市長(女性)で今はヨーロッパ議会(EU議会)の議員を勤めるコーリン=ランゲンさんが、その地に永年住み同元市長と深い交友関係にある私の先輩ご夫妻に伴われて一昨年秋に来日。その途次に姫路に来てくれたのだ。その際に是非次はビンゲンにと、お招きを受けていたからである。ちょうどその日は米国の大統領にトランプ氏が当選したとき。「こんな人物が世界をリードするなんて。とても危険だ」と、彼女は深い憂慮を湛えつつ呟いたものだった。中東を襲うテロの嵐は欧州にも荒れ狂い、ドイツにフランスにベルギーに、そして英国、スペインにとまさに波状的に起こっている。ポピュリズムの暴風もまた各地を襲う。どこもかしこも「分断」の空気で一杯だ。尤も、EUを支える一方の旗頭・フランスでは、極右政党・国民戦線(FN)の党首ルペンを押さえ、EU支持派のマクロン氏が勝って一息ついてはいる。今回の旅の期間はちょうどドイツ総選挙と重なった。メルケル首相の4選がかかった重要な選挙だった。これは、欧州の中核・ドイツのこれからの政治的行方を占ううえで大事な機会だった。あたかも日本との政治動向を比較し俯瞰する機会を持つことができたのである▼投票日当日の24日に彼女とその夫君(法律家)と会ったのだが、その結果はメルケル首相率いるキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)が第一党の立場を維持したものの大きく議席を減らした。CDUに属しメルケル首相に近い彼女にとって好ましからざるものであった。その表情たるやあまり冴えなかった。敗因は、移民問題をめぐるメルケル氏のブレが響いたようだ。EUからの離脱と、難民受け入れ反対を掲げた新興極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD) が初めての議席を獲得したことがそれを裏書きしている。そのあおりで対立政党の社会民主党(SPD) も歴史的な敗北をした。吉田徹北海道大大学院教授はこの結果を「戦後ドイツが歩んできた民主主義の歴史の大きな転換点」(公明新聞9月30日付け)だと読む。日本とは違って街頭演説などが見られない分、表面上静かな風景の中の選挙戦だったが、ドイツ政治史上の分岐点となるかもしれない日に立ち合えたことは、私にとって少なからぬ喜びであった▼コーリン=ランゲン議員は、ビンゲンに居を構えながら、列車で6時間ほど離れたベルギーの首都ブリュッセルで議会活動をしている。EU本部にお邪魔した翌日(25日)には地元のマインツから来ていた10数人の支持者たちの応対に汗を流していた。自らの使命を果たすべく全精力を傾ける彼女の姿勢には改めて感銘を受けた。忙しい彼女に代わって、若い女性秘書にくまなくEU本部内を案内してもらい、その仕組みの概略を聴いた。アジアにもEUのような全域を横断する国際機構が出来れば、との夢を持つ私にとって少なからず参考になった。コーリン=ランゲンさんとのやりとりの中で、私は、EU がギリシャ危機やら、英国の離脱、トルコ加入問題など、設立当初の勢いに陰りが見えており、今や存亡の淵に立っているのではないかと、悲観的な角度から問いかけてみた。しかし、彼女は「そんなことはない、一段と欧州統合の絆は堅い」と意気軒高であった。この辺りは今後引き続き注視していきたい▼私が欧州を訪問している間に、日本は解散総選挙に安倍首相が踏み切るというハプニングが起こっていた。解散は早くても来年春ぐらいと踏んでいただけに、驚きは禁じ得ない。ただ、よく考えれば、民進党(もはや分裂して無惨な姿になっているが)はじめ野党の体たらくをみていれば、この隙を突かないのはよほどのお人よしだろう。「大義なき解散」とか、「疑惑隠し」という非難は、選挙という「現代の陣取り合戦」に能天気な、政治センスなき輩の戯言だ。選挙に勝たずして政治家の理想は果たしえない。ここは、いささかの問題点なしとはしないものの、鮮やかに野党の虚を突いた安倍首相の早業に軍配を挙げたい。それにつけても、今回の総選挙をめぐる動きは目まぐるしい。焦点である小池都知事による「希望の党」設立の真意は、日本政治の中軸からの社民主義的勢力の残滓排除にある。大阪を中心とした「日本維新の党」との連携は、日本政治の新たな展開にとって少なからぬ期待はできる。つまり、保守二党による政権交代は好ましからざるものではないからだ。世界観を異にするひとが一政党の中に混在した状態は、結局は民進党のような支離滅裂状態を招く。小池氏によって選別された人々は「立憲民主党」という名の政党結成に動いた。リベラル派の結集とはいうものの、内実は旧社会党的傾向を持つ勢力が果たしてこれからの日本に馴染むだろうか。先に見たSPDの凋落というドイツ政治の動向とも関連して、覚束ないと見ざるを得ない。AfDとはくらぶべくもないが、「維新」や「希望」の背後には、「日本ファースト」を待望するムードはなきにしもあらずといえよう。勿論「橋下維新党」(橋下氏はやがて再び表舞台に出て来るはず)と「小池希望党」も大樹と育つかどうかには、大いになる疑問符がつく。そんななか公明党はどこまでも大衆のための中道主義の党として大道を歩む。今は保守の老舗・自民党と組んでいるが、これは決してゴールではなく、あくまで手段だと肝に銘じて。真の意味での日本政治の安定に向けて、たくまざるバランサーの役割を果たすことを期待したい。(2017・10.5)
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淡路島出身の松本・関経連新会長の就任を祝う会で
関西経済連合会の新しい会長になられた松本正義・住友電工会長の就任を祝う祝賀会が、先週の土曜日に淡路島・洲本市のホテル・ニュー淡路で行われ、私もお招きを受け出席させていただきました。実は松本さんは淡路島の生まれで洲本高校出身。この数年淡路島の観光振興に取り組む私は、松本さんとは親しくさせて頂いてきたのです。「瀬戸内海島めぐり協会」の専務理事の私が、松本さんに郷土出身の大物経済人としてひと肌脱いでほしいと依頼に行ったことがきっかけです。この人は昭和19年生まれで、私より一つ年上。住友電工のトップだけではなく、一橋大の同窓会・如水会の会長でもあったことから、話題は共通の友人をめぐって盛り上がったものです。後に、私と同年齢で親密な井戸敏三兵庫県知事も交えて、淡路島の振興について大いに語り合いました▼その井戸知事を筆頭に、この日のお祝いの席には、同じく淡路島生まれの山田京都府知事やら淡路市、洲本市、南あわじ市の3市長、商工会議所会頭、観光協会の会長ら島中の著名人ら240人ほどが出席して賑やかな集いになりました。挨拶の中で、松本さんは、就職先に住友電工を選んだのは距離的近さだったが、若い時に海外赴任が多かったお蔭で、違うカルチャアを持つ多くの人々と交流できたと切り出された。13年もの長きにわたり電工の社長をしたのだが、ある時に後継者がいないことに気付いて、目をつけた後輩にその意を伝えたら、翌日から休まれてしまった、とユーモアたっぷりに、聴きごたえある話を展開されました。これは関経連の会長職を受けることに、いかにご自身が悩んだかという話にも連動して大いに笑いを誘っていました。かつて日本経済の20%は関西が占めていたのに、今や凋落の一途をたどっているとの現状を率直に披露。将来的課題として➀万博誘致➁IR(インテグレイテッド・リゾート=総合保養地)としてのカジノ誘致➂リニアモーターカーの大阪誘引➃ワールドマスターズゲーム開催(2021)などに精力的に取り組みたいと、決意を述べていました。「東京一極集中」という云い方を、我々関西はせずに「繁栄の多極化」と呼ぶと共に、リソースがある関西について、全国に「ルックウエスト」と呼びかけたいと結んでいました▼淡路島の観光振興をめぐっては、ちょうど前日の8日に兵庫県の県民局主催で「戦略会議」が開かれたばかり。年初からの課題論議がいよいよ煮詰まり、5年計画の策定に向けてヤマ場にさしかかってきています。私どもはかねて地域振興は官中心ではなく民間の力を積極的に活用すべしとして様々な提案をしてきました。尤も、未だ決定打に値する具体策は形を見せていません。この日も会場での色々な方々との意見交換の中で模索を続けました。淡路島の観光で、唯一希望の光は、(株)ジェノバラインが7月に新たに開設したばかりの「淡路関空ライン」という関西国際空港と洲本港を直接結ぶ航路です。長きにわたって休眠していたこの航路を、当初の赤字は折り込んで復活させた親会社(株)ジェノバの吉村静穂会長の心意気たるや壮大なものがあります。これに応えてインバウンドにしっかりと成果を挙げようとの声はあちこちで上がっていました▼インバウンドは今や日本中にうねりを見せています。関西の観光は長きにわたり「京都一極集中」でしたが、このところようやく大阪が盛り返しており、少し追いつきつつあります。しかし、兵庫は殆どその恩恵に浴していません。辛うじて、姫路城が気を吐いていますし、城崎温泉や丹波篠山も独自の闘いで人気を挙げてきてはいます。だが、残念ながら淡路島は全くといっていいほど伸び悩み、観光コースレースでは後塵を拝しています。というわけで、先日大阪で開かれた、DMOをめぐる官民一体となった講演会に参加し、活路を開くヒントを探してきました。様々なプレゼンテーションを聞く中で、最も面白くて参考になったと思われるのは、青森県弘前市からやってきた、「たびすけ」代表の西谷雷佐さんの吉本はだしのような話でした。東北訛りで「あるもの活かし」の魅力をたっぷりと聞かせてくれました。これを要するに、「どん欲に今そばにあるものを売り出せば必ず受ける」という確信でした。「雪かき」を南国の旅人目当てに商品化したり、自殺率最高位の青森県を逆手にとって、健康に良くないことをあえてさせるツアー(例えば、ラーメンの汁を最後の一滴まで飲み干すこと)など笑ってしまう企画ばかりでした。これを聞いていて、なんだか力が沸いてきたのは不思議でした。別れ際に本人に「あなたの話は最高に面白かったよ」というと、「関西人に笑いで受けるとは、私も大したもんですね」ときたもんだから、なかなかのつわものと見ました。(2017・9・15)
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参加するなら新しい原則が必要ー転機を迎えたPKO⑤
PKOをめぐってオランダが激しい議論をしているとのNHK総合テレビの報道が強く印象に残っている。この国はかつて西アフリカのマリへのPKOに最大700人もの要員を派遣しており、130人も死者を出した。こんなに犠牲を払ってまで派遣を続ける価値があるのかとの意見と、悲惨な状態のままのマリを見捨てていいのか、国際社会におけるオランダの責任をどうするのかとの主張のぶつかり合いだ。当時の世論調査を見ると、賛成派が25%、反対派13% 、どちらでもない46%と、曖昧な結果であった。オランダがPKOについて侃侃諤諤の議論を続けるのには理由がある。ユーゴスラヴィア紛争でのスレブレニッツの虐殺(1995年)における、オランダが担当していた国連部隊の行為である。武力で勝るセルビア人武装勢力に従う形で、軽装備だったオランダ部隊は、およそ8000人にも及ぶ住民を、みすみす引き渡してしまった。多数の死者を横目に、部隊撤収をしてしまったことへの国際社会の非難の眼差しは大変なものであった。事実をドキュメントで公開したりするなど、今もなお議論は続けられているという。我々はこうした報道を対岸の火事として放置していいのだろうか▼冒頭で述べた、南スーダンにおける各国のPKO部隊宿営地を巻き込んでの政府軍と反政府軍の交戦ぶりは、中国のPKO部隊を始めとして少なからぬ犠牲者を出した。日本の自衛隊が無傷だったのはまさに僥倖であった。仮にここで日本の自衛隊員に犠牲者がでていたら、どうなったか。あるいは、多国のPKO要員に多数の犠牲者が出ていたら、その後の推移はどうなっていたか。当然日本はPKO法に則って撤退するという選択が、悲劇の起こった時点でとられようとしたに違いない。しかし、同時になにゆえに犠牲者が出たのか、そうならぬ様にうまく回避することはできなかったのか。いや、相手の攻撃を待つまで自らは何もできなかったのだから、やむをえないとか、多数の民間人の犠牲者をただ見ていただけなのか、などといった議論が百出し、事態は困窮を極めることになったに違いない▼今、北朝鮮のミサイルが日本の上空を飛び越えて太平洋上に落下するという異常極まりない事態が起こっていても、国民世論は不思議なほど静かだ。朝鮮半島情勢に詳しい古田博司筑波大教授は「日本人には嫌なものから目をそらす癖がある。北朝鮮からミサイルが飛んできてもきっと落ちないだろうと目をそらし」、「どうしても無傷を想定してしまう」と見抜く。国家そのものへの白昼堂々たる露骨な挑発にさえ、冷静な日本人。これが遠く離れたアフリカにおけるPKO活動とあってみれば、自ずと関心はゼロに近い。PKO部隊の自衛隊員に犠牲が出るといった緊急事態でもない限り、恐らく真剣な議論は起きないものとみられる。むしろそうなったほうが事態は一気に進むから、と悲劇を密かに待望する向きさえあるかもしれない。しかし、転ばぬさきの杖で、最悪の事態の起きる前に徹底した議論が必要不可欠ではないか▼PKOについては、先進各国が参加に二の足を踏み始めている。どちらかといえば、低開発国が国連による参加費稼ぎもあって熱心だとの見方もある。その是非を改めて問う必要が日本にも起きてきている。25年前頃のように、紛争後のインフラ整備に貢献するのではなく、PKOは紛争そのものに介入し、今そこにある危機の拡大を防ぐ役割を求められてきている。それなら憲法9条の硬直的解釈に留まって、参加を見合わせるのか。それとも憲法前文や9条の柔軟的解釈で、国権の発動としての集団的自衛権の行使と、PKO部隊の活動は自ずと違うとして、今まで通り5原則の範囲で参加を続けるのか。この辺り、やはり憲法9条を含む大議論が避けて通れない。私自身は、憲法9条3項に自衛隊の存在を明記し、国際貢献などの任務を謳うとともに、PKOを含む海外での紛争予防活動への参加に向けて、新たな原則を設けるべきだと思う。そのためには5原則を落とし込んだ現行PKO法の、改正が求められる。曖昧なままで、国連への格好をつけるためだけのPKO参加は、もはや慎まなければいけない。でなければ、あたかも手足の自由を縛られて、危険な地に赴かされる自衛隊員が哀れである。(この項終わり=2017・9・11)
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とっくに消えている「安全神話」ー転機を迎えたPKO④
我が国のPKO法のもとでは戦闘行為に自衛隊を参加させるのではなく、当該地の後方でのインフラ整備に従事するのが主な仕事だ。万が一紛争に巻き込まれるような事態が起きたら直ちに撤退する。ーこういうことを、誰しもが信じてきた。とりわけ”生みの親としての公明党”は、5原則の中にしっかりと書き込まれているのだから大丈夫だ、と内外に喧伝してきたものである。しかし、歳月が経つにつれてPKOを取り巻く環境は大きく変わってきた。いや、実際のところは、スタートしてあまり時間の経たない時点で、国連そのものが変化を余儀なくされてきていた。1999年にコフィー・アナン国連事務総長が「これからのPKOは、国際人道法を遵守せよ」と明言し、住民を保護するために、PKO自身が交戦主体になることを想定すべきだとの方向性を打ち出したのである。にもかかわらず、日本ではそういう変化に対してみて見ぬふりをしてきた傾向が強かったかのように思われる。何を隠そう、実は私自身も危ないところには行かなければいい、行く場所を選べば大丈夫だとの「PKO安全神話」ともいうべきものにしがみついていたことを告白する▼確かに、行く場所によってはさして危険が伴わないと思われるところもあった。例えば中米のハイチなどは主たる目的が地震後の復興支援でもあり、比較的安全だといえた。また、仮に危ないところでも、あくまでPKOは後方からの復興人道支援であるとの原理的思考に支配されており、大丈夫であるとの安全幻想が浸透しやすい背景があった。しかし、頑なな安全神話に日本がもたれかかってるうちに、現実には危険なPKO現場というものが次第に日常的なものになっていった。そうした状況下で、世界各国にも変化が起きてきたのである。欧米先進各国ではPKOに積極的な参加を見直す傾向が顕著になってきており、発展途上国の参加でようやくPKOは持っているという姿が浮かび上がってきているのだ。加えて2001年の「9・11」以後の対テロ戦争の激化は、自ずとPKOの在り方に変化を求めざざるを得なくなってきた。私が現役時代にも既にPKO法の5原則見直し問題は出ては消え、消えては出るという状況だったが、結局は「事なかれ主義」に支配され、決断は先送りされたというのが恥ずかしながら実情だったのである▼南スーダンへのPKO部隊の派遣の危険性についても、当初から懸念されていないわけではなかった。民主党政権の時に出された決定だったこともあり、国際貢献の拡大という一点で、現政権の側も目を瞑ったという側面があったようにも思われる。そんな折も折、PKO派遣を決める側の政治もさることながら、それをウオッチしている自衛隊関係者でさえ、あまり分かっていないのではないかと思われる興味深い記述を発見した。柳澤協二氏の『自衛隊の転機』(2015年発刊)の中でである。ここでの「鼎談・前線からの問題提起」における、伊勢崎賢治東京外大教授(元国連PKO幹部、アフガニスタン武装解除日本特別代表)と冨澤暉元陸幕長とのやり取りだ。伊勢崎氏が言う。「これから国連PKOのスタンダードになるのは住民保護ミッションが頻発するアフリカなのです。現在、国連のPKOだけで八つか九つあるでしょう。その最前線の一つが南スーダンなんですね。繰り返しますが、住民保護のために当事者である国家を差し置いて交戦主体になる今日のPKO では、先進国が部隊を送ることは期待されていないのです。そこに、自衛隊が行かされているわけです」と。これに対して、冨澤氏は、こう正直に応えている。「伊勢崎さんの話を聞いて、PKOもこの二十年間でずいぶん変わったのだと思いました。いまの政府や内局がそういうことをわかってるのでしょうか。私は伊勢崎さんの話を聞くまで知りませんでした」と▶このあと、柳澤さんが「いや、本当に政府はわかってるんでしょうかね」と意味深長な助け舟を出している。私は政府も内局も、中心のところは勿論危険であることをわかっていると思う。わかっていながら、引くに引けない流れにはまり込んでいるのではないか、と思われてならない。今回この連載の冒頭に述べたような、南スーダンのジュバの宿営地では、砲弾が乱れ飛び、現実に日本の自衛隊のすぐ隣にいた中国の部隊員からは犠牲者が出ている。本来は、5原則に則って、直ぐに撤収する場面だったが、現実にはそう簡単に帰りますとは言えない。ということで、任務終了まで少々の時間がかかった。しかも背景にそうした危ない事態があったことについて、「日報」の存在すらうやむやになるといった恐るべき体たらくを防衛省は示した。これが何を意味するか。国民の前に、PKOの現実は赤裸々なまでにその姿を露わにしたのである。幸いなことに、こうした危険が現実のかたちに見える犠牲者は出なかった。この僥倖に、日本はいつまで甘えているのだろうか。(2017・9・3)
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与野党、そして世論との戦いー転機を迎えたPKO③
PKO法案が可決、成立した(参議院で修正議決のうえ、衆議院に回付された末に)のは、1992年6月15日のこと。この時点で戦後の日本が国際社会の中において、全く新しい生き方を選択したことを意味した。同時にこれは、国内政治において自民党単独政権の終焉をもたらす契機となり、連立政権の時代へと連動していった。実は昨年の参院選で、兵庫県では24年ぶりに選挙区選挙に公明党独自の候補を擁立し、大勝利を博することができた。その選挙戦で、新人女性候補の事務長を務めた私は、事務所開きの演説(6月22日)で、過去24年間が実はPKO法の成立から展開と、自公選挙協力の展開と重なり合うことを感慨深く語ったものである。同法の成立前夜は、社会党が総辞職するなどと、できもしないことを大仰に言ってみたり、牛歩戦術をとったりするなど国会内外は騒然としていた。メディアも朝日新聞を先頭に戦争への参加だとの反対論を展開、世論は大きく揺れていた。今から振り返れば、国際社会の中で、一国平和主義から国際協調主義へと新たな足跡を踏み出す大きな一歩となったのである▼この法案は、成立に至る過程のなかで、幾たびか廃案の憂き目をみる流れに遭遇した。公明党の闘いをリードしてきた市川書記長は、当時を振り返る論考『中道政治とは何か 下』(公明新聞2016年10月4日付け)において、法案をめぐる攻防の最終段階で、党内において事態を分析した結果、4つの課題があったことを明らかにしており、興味深い。一つは、自社なれあいの強行採決が反対の世論に火をつけたこと。二つ目は、民社党が「事前承認論」が反映されていないとして反対姿勢に寝返ったこと。三つ目は、マスメディアがでこのことを当時のPKF(平和維持隊)の危険性を煽り過ぎたこと。四つは、自公民三党間に情報の共有に基づく判断の共有がなかったことである。以上のうち、前二者は時間の経緯の中で比較的早くに決着を見た。すなわち、強行採決は自社両党の演出によるもだったことが明白になり、公明党への誤解が消え、却って自社両党への批判が強まった。また、民社の勝手な思い込みによる反対論も消滅し、PKO与党3党という元の鞘に収まったのである▼一方、残る二つは難航しながらも、粘り強い市川氏の闘いで決着を見た。例えば、情報の共有のために、自公民三党のPKOに限定した衆参にまたがる司令塔的協議体を作った。これは衆議院常任委員長室で幾たびも開かれ、判断の共有に繋がった。PKF については党内においてさえ、参加を見合わせるべく法案から削除すべしとの強硬な意見があった。しかし、それは画竜点睛を欠くため、「一時凍結」という形にして、法律で縛り、時期を見て法律で解除するという手段を取ることにした。市川氏は、予算委で当時の渡辺美智雄外相に「当分の間の凍結」との形で提案をしたのだが、同外相は即答を避けた。後日、これは受け入れられ、自公民三党の合意となり、やがて法修正となっていった。この背景について、当時の渡辺氏の側近だった伊吹文明氏(元衆議院議長)は私をも含む懇談の席で、市川氏の粘り強い闘いの結果だと述懐されていたことは印象深く耳朶に残っている▼こうした経緯について、市川氏は国民世論の疑念を払拭するためにいかに苦労したかをしばしば語ったものであり、また様々な論考にも明らかにしている。中道政治とは一言でいえば、「『国民の常識に適った政治の決定』を行うことを基本にする考え方」という捉え方は、平凡な表現に見えて実に鋭い。より具体的には、日本の政治の座標軸たることを目指し「➀政治の左右への揺れや偏ぱを防ぎ、政治の安定に寄与する➁賛成と反対の不毛な対決を避け、国民的な合意形成に貢献する⓷新しい課題に対しては、創造的な解決策を提案する」と述べている。実に分かりやすい方向性の規定づけだ。文字通りその実践を地でいったのがこのPKO法案の闘いだったといえよう。日本における中道主義の具体的実践例として燦然と輝いていることを多くの人に伝えていきたい。と同時に当然ながら今も進行する政治状況の中で、こうした中道主義が実践されているかどうか見守っていきたい。今25年が経って、市川氏が残した遺産をただ食い潰してきただけにしか過ぎない、我が政治家生活に思いを致すときに、内心忸怩たる思いは禁じ得ない。だが、それだけにかつての同僚や後輩たちの闘いには大いに期待したいのである。(2017・8・24)
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25年前に誕生した背景に潜む真実ー転機を迎えたPKO➁
PKOに日本が参画したのは1992年。今年は25周年の節目に当たる。私が衆議院議員に初当選した年が1993年だから、その後今に至るまでの歳月は「PKO の興亡」とほぼ重なり合う。当時、カンボジアPKOへの参加をめぐって、世はまさに大騒ぎになっていた。議員生活を党の内部規定による定年で終えて5年が経つ今、しみじみとPKO と共に歩んだ政治家生活だったことには感慨深いものがある。それは何よりも政治家として身近な大先輩であった市川雄一公明党書記長(当時)のすさまじいまでの闘いぶりをつぶさに見てきたことが大きい。法律そのものの中に、PKO5原則を書き入れて「自制」を義務付けた市川氏の仕事こそが、この25年もの間に亘り自衛隊を、日本を守ってきたのである。しかし、もはやそれも限界に達したという他ない。というほど危うい事態が前回に見たように、今では起きている。だが、その前に、ことがここに至るまでの歴史的経緯を正確に追っておきたい▼PKO誕生の背景には、言うまでもなく湾岸戦争での日本の対応にあった。米国から、日本もイラク攻撃の陣列に加われとの矢のような催促がなされ、自民党政府も対応に大露わとなっていた。それは、一つは、90億ドル支援(約1兆7千億円。1ドル130円換算)要請、つまり「戦費協力」である。もう一つは、「軍事的的貢献」を受け入れさせようとする「国際平和協力法案」の制定だった。時の自民党政府は、二つながら受け入れるべく懸命に動いていた。米軍のイラクへの「憲法順守」から大幅に逸脱する路線には到底賛同できない公明党は、「国際平和協力法案」は廃棄すべく全力を挙げると共に、最終的に「戦費協力」には使途を武器弾薬には使用しないという条件を始めとする4つの条件を付けた。市川氏は衆議院予算委員会で海部首相に、条件を提起する一方、アマコスト米大使を通じてブッシュ大統領への要請を行った。様々な経緯を経て、最終的には、「90億ドル支援」は「4条件付き」で陽の目を見たのだが、これが「おカネで、血を流すことを避けた」との誤解に基づく批判を国際社会から受けることになる。湾岸戦争後にクウエートが日本への感謝の意思を大っぴらには示さなかったこともあり、少なからぬ波紋を呼んだ。尤も、これが機縁になり、国際社会において他国と出来るだけ足並みをそろえること、日本に「人的貢献」で何ができるかなどが鋭く問われる事態を引き起こしたのである▼公明党はこの憲法と真っ向から反する「国際平和協力法案」を廃案にしつつ、武器、弾薬には使わせないとする条件付きで「戦費協力」をするなど現実的対応に総力を挙げた後、今度はPKO法成立に力を尽くしていった。これはPKOの目的が、国家間の戦闘に介入するのではなく、紛争が終わった後に、平和な社会を作ることに貢献することにあったからだ。つまり、憲法9条により、日本は国家間の戦争を推進するための武力行使を禁じられている。が同時に憲法前文において、国際貢献を求められている。この二つを同時に満たす、日本にとって最も適切でふさわしい活動がPKOだと改めて気づいたのである。それまでの日本は公明党も含め、PKOの存在は知りながらも活用をしてきていなかった。それに着目し、自衛隊を参加させる決断をしたのである。それは、左右両翼からの批判を跳ね除けつつ、同時にその要求をも最低限満たす、文字通り中道主義の公明党に相応しい選択肢でもあった▼当初は、自衛隊を海外に派遣することは、何はともあれ許されないとする強固な反対意見があった。また、自衛隊とは別組織にすべき、との意見も内外に根強かった。しかし、9条を含む憲法解釈には、公明党は市川氏のもとに、共産党との憲法論争で見せたように折り目正しい論陣を張ってきた。それだけに、その正当性に深い確信を持っていた。ゆえに、内外の強弱、硬軟取り混ぜた異論、反論を一つひとつ排除し、最終的に一つにまとめていったのである。党内での激論。野党間の異論、反論に基づく相克。朝日新聞などメディアの強烈な反対の論陣。その辺りを市川氏は一野党の人間でありながら、特筆すべきリーダーシップぶりで、当時の自民党執行部と呼吸を合わせ〈自公民三党による協議の場を設け、司令塔役を果たした)ながら乗り切っていった。これらの展開については、今日真っ当な形で、一般庶民の目に供するには至っていない。これは誠に残念至極だ。身近で一部始終を見てきたものとして、真実を残したい、より多くの人々に伝えたいと強く感じる。そのためにこそ繰り返し発信する義務と使命があると、深く自覚している。(2017・8・22)
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