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EU本部訪問から帰ってー日独政治動向を比較する

ドイツの生んだ偉大な文豪・ゲーテの作品といえば、私は『イタリア紀行』を思い起こす。齧った程度で読み終えてはいないが、テレビで遥か以前に観たドイツ文学者・池内紀さんと女流版画家・山本容子さんの二人がゲーテの足取りを追った番組がとても印象的だったからである。だが、彼にはもう一つ『ライン紀行』という紀行集がある。過去に何回かドイツに行く機会があったが、残念ながらライン川下りはしたことがなかった。今回、ライン川沿いの古くからの町ビンゲンに住む、尊敬する先輩ご夫妻(ご夫人はドイツ国籍を取得)のお誘いを受けて束の間の旅をしたのだが、その一つの楽しみがこの川下りへの挑戦だった。ゲーテは「つらなるラインの丘へ 恵み豊けき広き畑 水に映りし河中の島 めでたきぶどうの満つる国へ こころの翼うちひろげ いざ 来ませ この書を親しき伴となして」と、この本の冒頭に記している。リューデスハイムから船で2時間足らず、サント・ゴアまでのライン川沿いの風景は、まさにゲーテの描いたような、得も言われぬ素晴らしき流れの連続であった▼今回、ドイツへの旅(フランス、ベルギーにも)に重い腰をあげたのはほかでもない。ビンゲンの元市長(女性)で今はヨーロッパ議会(EU議会)の議員を勤めるコーリン=ランゲンさんが、その地に永年住み同元市長と深い交友関係にある私の先輩ご夫妻に伴われて一昨年秋に来日。その途次に姫路に来てくれたのだ。その際に是非次はビンゲンにと、お招きを受けていたからである。ちょうどその日は米国の大統領にトランプ氏が当選したとき。「こんな人物が世界をリードするなんて。とても危険だ」と、彼女は深い憂慮を湛えつつ呟いたものだった。中東を襲うテロの嵐は欧州にも荒れ狂い、ドイツにフランスにベルギーに、そして英国、スペインにとまさに波状的に起こっている。ポピュリズムの暴風もまた各地を襲う。どこもかしこも「分断」の空気で一杯だ。尤も、EUを支える一方の旗頭・フランスでは、極右政党・国民戦線(FN)の党首ルペンを押さえ、EU支持派のマクロン氏が勝って一息ついてはいる。今回の旅の期間はちょうどドイツ総選挙と重なった。メルケル首相の4選がかかった重要な選挙だった。これは、欧州の中核・ドイツのこれからの政治的行方を占ううえで大事な機会だった。あたかも日本との政治動向を比較し俯瞰する機会を持つことができたのである▼投票日当日の24日に彼女とその夫君(法律家)と会ったのだが、その結果はメルケル首相率いるキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)が第一党の立場を維持したものの大きく議席を減らした。CDUに属しメルケル首相に近い彼女にとって好ましからざるものであった。その表情たるやあまり冴えなかった。敗因は、移民問題をめぐるメルケル氏のブレが響いたようだ。EUからの離脱と、難民受け入れ反対を掲げた新興極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD) が初めての議席を獲得したことがそれを裏書きしている。そのあおりで対立政党の社会民主党(SPD) も歴史的な敗北をした。吉田徹北海道大大学院教授はこの結果を「戦後ドイツが歩んできた民主主義の歴史の大きな転換点」(公明新聞9月30日付け)だと読む。日本とは違って街頭演説などが見られない分、表面上静かな風景の中の選挙戦だったが、ドイツ政治史上の分岐点となるかもしれない日に立ち合えたことは、私にとって少なからぬ喜びであった▼コーリン=ランゲン議員は、ビンゲンに居を構えながら、列車で6時間ほど離れたベルギーの首都ブリュッセルで議会活動をしている。EU本部にお邪魔した翌日(25日)には地元のマインツから来ていた10数人の支持者たちの応対に汗を流していた。自らの使命を果たすべく全精力を傾ける彼女の姿勢には改めて感銘を受けた。忙しい彼女に代わって、若い女性秘書にくまなくEU本部内を案内してもらい、その仕組みの概略を聴いた。アジアにもEUのような全域を横断する国際機構が出来れば、との夢を持つ私にとって少なからず参考になった。コーリン=ランゲンさんとのやりとりの中で、私は、EU がギリシャ危機やら、英国の離脱、トルコ加入問題など、設立当初の勢いに陰りが見えており、今や存亡の淵に立っているのではないかと、悲観的な角度から問いかけてみた。しかし、彼女は「そんなことはない、一段と欧州統合の絆は堅い」と意気軒高であった。この辺りは今後引き続き注視していきたい▼私が欧州を訪問している間に、日本は解散総選挙に安倍首相が踏み切るというハプニングが起こっていた。解散は早くても来年春ぐらいと踏んでいただけに、驚きは禁じ得ない。ただ、よく考えれば、民進党(もはや分裂して無惨な姿になっているが)はじめ野党の体たらくをみていれば、この隙を突かないのはよほどのお人よしだろう。「大義なき解散」とか、「疑惑隠し」という非難は、選挙という「現代の陣取り合戦」に能天気な、政治センスなき輩の戯言だ。選挙に勝たずして政治家の理想は果たしえない。ここは、いささかの問題点なしとはしないものの、鮮やかに野党の虚を突いた安倍首相の早業に軍配を挙げたい。それにつけても、今回の総選挙をめぐる動きは目まぐるしい。焦点である小池都知事による「希望の党」設立の真意は、日本政治の中軸からの社民主義的勢力の残滓排除にある。大阪を中心とした「日本維新の党」との連携は、日本政治の新たな展開にとって少なからぬ期待はできる。つまり、保守二党による政権交代は好ましからざるものではないからだ。世界観を異にするひとが一政党の中に混在した状態は、結局は民進党のような支離滅裂状態を招く。小池氏によって選別された人々は「立憲民主党」という名の政党結成に動いた。リベラル派の結集とはいうものの、内実は旧社会党的傾向を持つ勢力が果たしてこれからの日本に馴染むだろうか。先に見たSPDの凋落というドイツ政治の動向とも関連して、覚束ないと見ざるを得ない。AfDとはくらぶべくもないが、「維新」や「希望」の背後には、「日本ファースト」を待望するムードはなきにしもあらずといえよう。勿論「橋下維新党」(橋下氏はやがて再び表舞台に出て来るはず)と「小池希望党」も大樹と育つかどうかには、大いになる疑問符がつく。そんななか公明党はどこまでも大衆のための中道主義の党として大道を歩む。今は保守の老舗・自民党と組んでいるが、これは決してゴールではなく、あくまで手段だと肝に銘じて。真の意味での日本政治の安定に向けて、たくまざるバランサーの役割を果たすことを期待したい。(2017・10.5)

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淡路島出身の松本・関経連新会長の就任を祝う会で

関西経済連合会の新しい会長になられた松本正義・住友電工会長の就任を祝う祝賀会が、先週の土曜日に淡路島・洲本市のホテル・ニュー淡路で行われ、私もお招きを受け出席させていただきました。実は松本さんは淡路島の生まれで洲本高校出身。この数年淡路島の観光振興に取り組む私は、松本さんとは親しくさせて頂いてきたのです。「瀬戸内海島めぐり協会」の専務理事の私が、松本さんに郷土出身の大物経済人としてひと肌脱いでほしいと依頼に行ったことがきっかけです。この人は昭和19年生まれで、私より一つ年上。住友電工のトップだけではなく、一橋大の同窓会・如水会の会長でもあったことから、話題は共通の友人をめぐって盛り上がったものです。後に、私と同年齢で親密な井戸敏三兵庫県知事も交えて、淡路島の振興について大いに語り合いました▼その井戸知事を筆頭に、この日のお祝いの席には、同じく淡路島生まれの山田京都府知事やら淡路市、洲本市、南あわじ市の3市長、商工会議所会頭、観光協会の会長ら島中の著名人ら240人ほどが出席して賑やかな集いになりました。挨拶の中で、松本さんは、就職先に住友電工を選んだのは距離的近さだったが、若い時に海外赴任が多かったお蔭で、違うカルチャアを持つ多くの人々と交流できたと切り出された。13年もの長きにわたり電工の社長をしたのだが、ある時に後継者がいないことに気付いて、目をつけた後輩にその意を伝えたら、翌日から休まれてしまった、とユーモアたっぷりに、聴きごたえある話を展開されました。これは関経連の会長職を受けることに、いかにご自身が悩んだかという話にも連動して大いに笑いを誘っていました。かつて日本経済の20%は関西が占めていたのに、今や凋落の一途をたどっているとの現状を率直に披露。将来的課題として➀万博誘致➁IR(インテグレイテッド・リゾート=総合保養地)としてのカジノ誘致➂リニアモーターカーの大阪誘引➃ワールドマスターズゲーム開催(2021)などに精力的に取り組みたいと、決意を述べていました。「東京一極集中」という云い方を、我々関西はせずに「繁栄の多極化」と呼ぶと共に、リソースがある関西について、全国に「ルックウエスト」と呼びかけたいと結んでいました▼淡路島の観光振興をめぐっては、ちょうど前日の8日に兵庫県の県民局主催で「戦略会議」が開かれたばかり。年初からの課題論議がいよいよ煮詰まり、5年計画の策定に向けてヤマ場にさしかかってきています。私どもはかねて地域振興は官中心ではなく民間の力を積極的に活用すべしとして様々な提案をしてきました。尤も、未だ決定打に値する具体策は形を見せていません。この日も会場での色々な方々との意見交換の中で模索を続けました。淡路島の観光で、唯一希望の光は、(株)ジェノバラインが7月に新たに開設したばかりの「淡路関空ライン」という関西国際空港と洲本港を直接結ぶ航路です。長きにわたって休眠していたこの航路を、当初の赤字は折り込んで復活させた親会社(株)ジェノバの吉村静穂会長の心意気たるや壮大なものがあります。これに応えてインバウンドにしっかりと成果を挙げようとの声はあちこちで上がっていました▼インバウンドは今や日本中にうねりを見せています。関西の観光は長きにわたり「京都一極集中」でしたが、このところようやく大阪が盛り返しており、少し追いつきつつあります。しかし、兵庫は殆どその恩恵に浴していません。辛うじて、姫路城が気を吐いていますし、城崎温泉や丹波篠山も独自の闘いで人気を挙げてきてはいます。だが、残念ながら淡路島は全くといっていいほど伸び悩み、観光コースレースでは後塵を拝しています。というわけで、先日大阪で開かれた、DMOをめぐる官民一体となった講演会に参加し、活路を開くヒントを探してきました。様々なプレゼンテーションを聞く中で、最も面白くて参考になったと思われるのは、青森県弘前市からやってきた、「たびすけ」代表の西谷雷佐さんの吉本はだしのような話でした。東北訛りで「あるもの活かし」の魅力をたっぷりと聞かせてくれました。これを要するに、「どん欲に今そばにあるものを売り出せば必ず受ける」という確信でした。「雪かき」を南国の旅人目当てに商品化したり、自殺率最高位の青森県を逆手にとって、健康に良くないことをあえてさせるツアー(例えば、ラーメンの汁を最後の一滴まで飲み干すこと)など笑ってしまう企画ばかりでした。これを聞いていて、なんだか力が沸いてきたのは不思議でした。別れ際に本人に「あなたの話は最高に面白かったよ」というと、「関西人に笑いで受けるとは、私も大したもんですね」ときたもんだから、なかなかのつわものと見ました。(2017・9・15)

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参加するなら新しい原則が必要ー転機を迎えたPKO⑤

PKOをめぐってオランダが激しい議論をしているとのNHK総合テレビの報道が強く印象に残っている。この国はかつて西アフリカのマリへのPKOに最大700人もの要員を派遣しており、130人も死者を出した。こんなに犠牲を払ってまで派遣を続ける価値があるのかとの意見と、悲惨な状態のままのマリを見捨てていいのか、国際社会におけるオランダの責任をどうするのかとの主張のぶつかり合いだ。当時の世論調査を見ると、賛成派が25%、反対派13% 、どちらでもない46%と、曖昧な結果であった。オランダがPKOについて侃侃諤諤の議論を続けるのには理由がある。ユーゴスラヴィア紛争でのスレブレニッツの虐殺(1995年)における、オランダが担当していた国連部隊の行為である。武力で勝るセルビア人武装勢力に従う形で、軽装備だったオランダ部隊は、およそ8000人にも及ぶ住民を、みすみす引き渡してしまった。多数の死者を横目に、部隊撤収をしてしまったことへの国際社会の非難の眼差しは大変なものであった。事実をドキュメントで公開したりするなど、今もなお議論は続けられているという。我々はこうした報道を対岸の火事として放置していいのだろうか▼冒頭で述べた、南スーダンにおける各国のPKO部隊宿営地を巻き込んでの政府軍と反政府軍の交戦ぶりは、中国のPKO部隊を始めとして少なからぬ犠牲者を出した。日本の自衛隊が無傷だったのはまさに僥倖であった。仮にここで日本の自衛隊員に犠牲者がでていたら、どうなったか。あるいは、多国のPKO要員に多数の犠牲者が出ていたら、その後の推移はどうなっていたか。当然日本はPKO法に則って撤退するという選択が、悲劇の起こった時点でとられようとしたに違いない。しかし、同時になにゆえに犠牲者が出たのか、そうならぬ様にうまく回避することはできなかったのか。いや、相手の攻撃を待つまで自らは何もできなかったのだから、やむをえないとか、多数の民間人の犠牲者をただ見ていただけなのか、などといった議論が百出し、事態は困窮を極めることになったに違いない▼今、北朝鮮のミサイルが日本の上空を飛び越えて太平洋上に落下するという異常極まりない事態が起こっていても、国民世論は不思議なほど静かだ。朝鮮半島情勢に詳しい古田博司筑波大教授は「日本人には嫌なものから目をそらす癖がある。北朝鮮からミサイルが飛んできてもきっと落ちないだろうと目をそらし」、「どうしても無傷を想定してしまう」と見抜く。国家そのものへの白昼堂々たる露骨な挑発にさえ、冷静な日本人。これが遠く離れたアフリカにおけるPKO活動とあってみれば、自ずと関心はゼロに近い。PKO部隊の自衛隊員に犠牲が出るといった緊急事態でもない限り、恐らく真剣な議論は起きないものとみられる。むしろそうなったほうが事態は一気に進むから、と悲劇を密かに待望する向きさえあるかもしれない。しかし、転ばぬさきの杖で、最悪の事態の起きる前に徹底した議論が必要不可欠ではないか▼PKOについては、先進各国が参加に二の足を踏み始めている。どちらかといえば、低開発国が国連による参加費稼ぎもあって熱心だとの見方もある。その是非を改めて問う必要が日本にも起きてきている。25年前頃のように、紛争後のインフラ整備に貢献するのではなく、PKOは紛争そのものに介入し、今そこにある危機の拡大を防ぐ役割を求められてきている。それなら憲法9条の硬直的解釈に留まって、参加を見合わせるのか。それとも憲法前文や9条の柔軟的解釈で、国権の発動としての集団的自衛権の行使と、PKO部隊の活動は自ずと違うとして、今まで通り5原則の範囲で参加を続けるのか。この辺り、やはり憲法9条を含む大議論が避けて通れない。私自身は、憲法9条3項に自衛隊の存在を明記し、国際貢献などの任務を謳うとともに、PKOを含む海外での紛争予防活動への参加に向けて、新たな原則を設けるべきだと思う。そのためには5原則を落とし込んだ現行PKO法の、改正が求められる。曖昧なままで、国連への格好をつけるためだけのPKO参加は、もはや慎まなければいけない。でなければ、あたかも手足の自由を縛られて、危険な地に赴かされる自衛隊員が哀れである。(この項終わり=2017・9・11)

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とっくに消えている「安全神話」ー転機を迎えたPKO④

我が国のPKO法のもとでは戦闘行為に自衛隊を参加させるのではなく、当該地の後方でのインフラ整備に従事するのが主な仕事だ。万が一紛争に巻き込まれるような事態が起きたら直ちに撤退する。ーこういうことを、誰しもが信じてきた。とりわけ”生みの親としての公明党”は、5原則の中にしっかりと書き込まれているのだから大丈夫だ、と内外に喧伝してきたものである。しかし、歳月が経つにつれてPKOを取り巻く環境は大きく変わってきた。いや、実際のところは、スタートしてあまり時間の経たない時点で、国連そのものが変化を余儀なくされてきていた。1999年にコフィー・アナン国連事務総長が「これからのPKOは、国際人道法を遵守せよ」と明言し、住民を保護するために、PKO自身が交戦主体になることを想定すべきだとの方向性を打ち出したのである。にもかかわらず、日本ではそういう変化に対してみて見ぬふりをしてきた傾向が強かったかのように思われる。何を隠そう、実は私自身も危ないところには行かなければいい、行く場所を選べば大丈夫だとの「PKO安全神話」ともいうべきものにしがみついていたことを告白する▼確かに、行く場所によってはさして危険が伴わないと思われるところもあった。例えば中米のハイチなどは主たる目的が地震後の復興支援でもあり、比較的安全だといえた。また、仮に危ないところでも、あくまでPKOは後方からの復興人道支援であるとの原理的思考に支配されており、大丈夫であるとの安全幻想が浸透しやすい背景があった。しかし、頑なな安全神話に日本がもたれかかってるうちに、現実には危険なPKO現場というものが次第に日常的なものになっていった。そうした状況下で、世界各国にも変化が起きてきたのである。欧米先進各国ではPKOに積極的な参加を見直す傾向が顕著になってきており、発展途上国の参加でようやくPKOは持っているという姿が浮かび上がってきているのだ。加えて2001年の「9・11」以後の対テロ戦争の激化は、自ずとPKOの在り方に変化を求めざざるを得なくなってきた。私が現役時代にも既にPKO法の5原則見直し問題は出ては消え、消えては出るという状況だったが、結局は「事なかれ主義」に支配され、決断は先送りされたというのが恥ずかしながら実情だったのである▼南スーダンへのPKO部隊の派遣の危険性についても、当初から懸念されていないわけではなかった。民主党政権の時に出された決定だったこともあり、国際貢献の拡大という一点で、現政権の側も目を瞑ったという側面があったようにも思われる。そんな折も折、PKO派遣を決める側の政治もさることながら、それをウオッチしている自衛隊関係者でさえ、あまり分かっていないのではないかと思われる興味深い記述を発見した。柳澤協二氏の『自衛隊の転機』(2015年発刊)の中でである。ここでの「鼎談・前線からの問題提起」における、伊勢崎賢治東京外大教授(元国連PKO幹部、アフガニスタン武装解除日本特別代表)と冨澤暉元陸幕長とのやり取りだ。伊勢崎氏が言う。「これから国連PKOのスタンダードになるのは住民保護ミッションが頻発するアフリカなのです。現在、国連のPKOだけで八つか九つあるでしょう。その最前線の一つが南スーダンなんですね。繰り返しますが、住民保護のために当事者である国家を差し置いて交戦主体になる今日のPKO では、先進国が部隊を送ることは期待されていないのです。そこに、自衛隊が行かされているわけです」と。これに対して、冨澤氏は、こう正直に応えている。「伊勢崎さんの話を聞いて、PKOもこの二十年間でずいぶん変わったのだと思いました。いまの政府や内局がそういうことをわかってるのでしょうか。私は伊勢崎さんの話を聞くまで知りませんでした」と▶このあと、柳澤さんが「いや、本当に政府はわかってるんでしょうかね」と意味深長な助け舟を出している。私は政府も内局も、中心のところは勿論危険であることをわかっていると思う。わかっていながら、引くに引けない流れにはまり込んでいるのではないか、と思われてならない。今回この連載の冒頭に述べたような、南スーダンのジュバの宿営地では、砲弾が乱れ飛び、現実に日本の自衛隊のすぐ隣にいた中国の部隊員からは犠牲者が出ている。本来は、5原則に則って、直ぐに撤収する場面だったが、現実にはそう簡単に帰りますとは言えない。ということで、任務終了まで少々の時間がかかった。しかも背景にそうした危ない事態があったことについて、「日報」の存在すらうやむやになるといった恐るべき体たらくを防衛省は示した。これが何を意味するか。国民の前に、PKOの現実は赤裸々なまでにその姿を露わにしたのである。幸いなことに、こうした危険が現実のかたちに見える犠牲者は出なかった。この僥倖に、日本はいつまで甘えているのだろうか。(2017・9・3)

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与野党、そして世論との戦いー転機を迎えたPKO③

PKO法案が可決、成立した(参議院で修正議決のうえ、衆議院に回付された末に)のは、1992年6月15日のこと。この時点で戦後の日本が国際社会の中において、全く新しい生き方を選択したことを意味した。同時にこれは、国内政治において自民党単独政権の終焉をもたらす契機となり、連立政権の時代へと連動していった。実は昨年の参院選で、兵庫県では24年ぶりに選挙区選挙に公明党独自の候補を擁立し、大勝利を博することができた。その選挙戦で、新人女性候補の事務長を務めた私は、事務所開きの演説(6月22日)で、過去24年間が実はPKO法の成立から展開と、自公選挙協力の展開と重なり合うことを感慨深く語ったものである。同法の成立前夜は、社会党が総辞職するなどと、できもしないことを大仰に言ってみたり、牛歩戦術をとったりするなど国会内外は騒然としていた。メディアも朝日新聞を先頭に戦争への参加だとの反対論を展開、世論は大きく揺れていた。今から振り返れば、国際社会の中で、一国平和主義から国際協調主義へと新たな足跡を踏み出す大きな一歩となったのである▼この法案は、成立に至る過程のなかで、幾たびか廃案の憂き目をみる流れに遭遇した。公明党の闘いをリードしてきた市川書記長は、当時を振り返る論考『中道政治とは何か 下』(公明新聞2016年10月4日付け)において、法案をめぐる攻防の最終段階で、党内において事態を分析した結果、4つの課題があったことを明らかにしており、興味深い。一つは、自社なれあいの強行採決が反対の世論に火をつけたこと。二つ目は、民社党が「事前承認論」が反映されていないとして反対姿勢に寝返ったこと。三つ目は、マスメディアがでこのことを当時のPKF(平和維持隊)の危険性を煽り過ぎたこと。四つは、自公民三党間に情報の共有に基づく判断の共有がなかったことである。以上のうち、前二者は時間の経緯の中で比較的早くに決着を見た。すなわち、強行採決は自社両党の演出によるもだったことが明白になり、公明党への誤解が消え、却って自社両党への批判が強まった。また、民社の勝手な思い込みによる反対論も消滅し、PKO与党3党という元の鞘に収まったのである▼一方、残る二つは難航しながらも、粘り強い市川氏の闘いで決着を見た。例えば、情報の共有のために、自公民三党のPKOに限定した衆参にまたがる司令塔的協議体を作った。これは衆議院常任委員長室で幾たびも開かれ、判断の共有に繋がった。PKF については党内においてさえ、参加を見合わせるべく法案から削除すべしとの強硬な意見があった。しかし、それは画竜点睛を欠くため、「一時凍結」という形にして、法律で縛り、時期を見て法律で解除するという手段を取ることにした。市川氏は、予算委で当時の渡辺美智雄外相に「当分の間の凍結」との形で提案をしたのだが、同外相は即答を避けた。後日、これは受け入れられ、自公民三党の合意となり、やがて法修正となっていった。この背景について、当時の渡辺氏の側近だった伊吹文明氏(元衆議院議長)は私をも含む懇談の席で、市川氏の粘り強い闘いの結果だと述懐されていたことは印象深く耳朶に残っている▼こうした経緯について、市川氏は国民世論の疑念を払拭するためにいかに苦労したかをしばしば語ったものであり、また様々な論考にも明らかにしている。中道政治とは一言でいえば、「『国民の常識に適った政治の決定』を行うことを基本にする考え方」という捉え方は、平凡な表現に見えて実に鋭い。より具体的には、日本の政治の座標軸たることを目指し「➀政治の左右への揺れや偏ぱを防ぎ、政治の安定に寄与する➁賛成と反対の不毛な対決を避け、国民的な合意形成に貢献する⓷新しい課題に対しては、創造的な解決策を提案する」と述べている。実に分かりやすい方向性の規定づけだ。文字通りその実践を地でいったのがこのPKO法案の闘いだったといえよう。日本における中道主義の具体的実践例として燦然と輝いていることを多くの人に伝えていきたい。と同時に当然ながら今も進行する政治状況の中で、こうした中道主義が実践されているかどうか見守っていきたい。今25年が経って、市川氏が残した遺産をただ食い潰してきただけにしか過ぎない、我が政治家生活に思いを致すときに、内心忸怩たる思いは禁じ得ない。だが、それだけにかつての同僚や後輩たちの闘いには大いに期待したいのである。(2017・8・24)

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25年前に誕生した背景に潜む真実ー転機を迎えたPKO➁

PKOに日本が参画したのは1992年。今年は25周年の節目に当たる。私が衆議院議員に初当選した年が1993年だから、その後今に至るまでの歳月は「PKO の興亡」とほぼ重なり合う。当時、カンボジアPKOへの参加をめぐって、世はまさに大騒ぎになっていた。議員生活を党の内部規定による定年で終えて5年が経つ今、しみじみとPKO と共に歩んだ政治家生活だったことには感慨深いものがある。それは何よりも政治家として身近な大先輩であった市川雄一公明党書記長(当時)のすさまじいまでの闘いぶりをつぶさに見てきたことが大きい。法律そのものの中に、PKO5原則を書き入れて「自制」を義務付けた市川氏の仕事こそが、この25年もの間に亘り自衛隊を、日本を守ってきたのである。しかし、もはやそれも限界に達したという他ない。というほど危うい事態が前回に見たように、今では起きている。だが、その前に、ことがここに至るまでの歴史的経緯を正確に追っておきたい▼PKO誕生の背景には、言うまでもなく湾岸戦争での日本の対応にあった。米国から、日本もイラク攻撃の陣列に加われとの矢のような催促がなされ、自民党政府も対応に大露わとなっていた。それは、一つは、90億ドル支援(約1兆7千億円。1ドル130円換算)要請、つまり「戦費協力」である。もう一つは、「軍事的的貢献」を受け入れさせようとする「国際平和協力法案」の制定だった。時の自民党政府は、二つながら受け入れるべく懸命に動いていた。米軍のイラクへの「憲法順守」から大幅に逸脱する路線には到底賛同できない公明党は、「国際平和協力法案」は廃棄すべく全力を挙げると共に、最終的に「戦費協力」には使途を武器弾薬には使用しないという条件を始めとする4つの条件を付けた。市川氏は衆議院予算委員会で海部首相に、条件を提起する一方、アマコスト米大使を通じてブッシュ大統領への要請を行った。様々な経緯を経て、最終的には、「90億ドル支援」は「4条件付き」で陽の目を見たのだが、これが「おカネで、血を流すことを避けた」との誤解に基づく批判を国際社会から受けることになる。湾岸戦争後にクウエートが日本への感謝の意思を大っぴらには示さなかったこともあり、少なからぬ波紋を呼んだ。尤も、これが機縁になり、国際社会において他国と出来るだけ足並みをそろえること、日本に「人的貢献」で何ができるかなどが鋭く問われる事態を引き起こしたのである▼公明党はこの憲法と真っ向から反する「国際平和協力法案」を廃案にしつつ、武器、弾薬には使わせないとする条件付きで「戦費協力」をするなど現実的対応に総力を挙げた後、今度はPKO法成立に力を尽くしていった。これはPKOの目的が、国家間の戦闘に介入するのではなく、紛争が終わった後に、平和な社会を作ることに貢献することにあったからだ。つまり、憲法9条により、日本は国家間の戦争を推進するための武力行使を禁じられている。が同時に憲法前文において、国際貢献を求められている。この二つを同時に満たす、日本にとって最も適切でふさわしい活動がPKOだと改めて気づいたのである。それまでの日本は公明党も含め、PKOの存在は知りながらも活用をしてきていなかった。それに着目し、自衛隊を参加させる決断をしたのである。それは、左右両翼からの批判を跳ね除けつつ、同時にその要求をも最低限満たす、文字通り中道主義の公明党に相応しい選択肢でもあった▼当初は、自衛隊を海外に派遣することは、何はともあれ許されないとする強固な反対意見があった。また、自衛隊とは別組織にすべき、との意見も内外に根強かった。しかし、9条を含む憲法解釈には、公明党は市川氏のもとに、共産党との憲法論争で見せたように折り目正しい論陣を張ってきた。それだけに、その正当性に深い確信を持っていた。ゆえに、内外の強弱、硬軟取り混ぜた異論、反論を一つひとつ排除し、最終的に一つにまとめていったのである。党内での激論。野党間の異論、反論に基づく相克。朝日新聞などメディアの強烈な反対の論陣。その辺りを市川氏は一野党の人間でありながら、特筆すべきリーダーシップぶりで、当時の自民党執行部と呼吸を合わせ〈自公民三党による協議の場を設け、司令塔役を果たした)ながら乗り切っていった。これらの展開については、今日真っ当な形で、一般庶民の目に供するには至っていない。これは誠に残念至極だ。身近で一部始終を見てきたものとして、真実を残したい、より多くの人々に伝えたいと強く感じる。そのためにこそ繰り返し発信する義務と使命があると、深く自覚している。(2017・8・22)

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戦闘は一目瞭然ー転機を迎えた国連平和維持活動(PKO)➀

さる5月28日に放映されたNHKスペシャル「変貌するPKO 現場からの報告」は衝撃的だった。南スーダンに派遣された日本の自衛隊PKOが一触即発の危機にあったことが一目瞭然で分る中身だった。これを見たひとは誰しも、よくぞ無事だったと胸をなでおろす一方、日本のPKO部隊が戦闘そのものに直面していたことに疑いを持つはずがないといえよう。2016年7月8日から10日にかけて自衛隊の宿営地はまさに戦場のさなかにあった。政府軍と反政府軍が各国PKOの宿営地を挟んで、砲弾を打ち合う状況下にあったことを、この番組は見事に捉えていた。これまで、世界各地での紛争を映像で見ることはあっても、日本の自衛隊をその場に発見することは皆無であった。あのイラクやアフガンでも戦場からは遠く離れていたからである。それが今度ばかりは違った▶2016年6月にジュバに派遣された第10次隊は、いきなり厳しい局面に遭遇した。テレビ取材に防衛省が応じたわけではない。この日の放映は、隊員が自らのスマホで撮った映像や、匿名を条件に音声も換え、顔も見せずに帰国後の取材に応じた姿をもとに報じていた。道路敷設工事などを始めとするインフラ整備に従事するために、彼の地に赴いたのであって、およそ武器を使用するような場面にはぶつからないはずとの発言もなされていた。しかし、実際は違った。監視塔に銃弾が直撃し、砲弾が頭上を飛び交う事態に直面した。宿営地は文字通りパニックに陥り、死を覚悟した隊員もいた。「今日が私の命日になるかもしれない。これも運命でしょう」と書置きさえも綴っていたことが紹介されていた。こうした隊員の行為の是非や真偽については敢えてここでは問うまい▶こうした出来事が日々の現地での部隊の日報に記されることは当然のはず。ところが、後にその記録をめぐって大騒ぎになったこと(今も続行中)は周知のとおりだ。自衛隊員がいる場所で、戦闘が起こったとなると、そこから外れなければならない。日本のPKO5原則は、紛争に巻き込まれることを認めてはいないからだ。直ちに撤収する必要がある。「戦闘ではなく、衝突であった」というような、言葉遊びに近い稲田防衛相(当時)の発言があったり、日報そのものが破棄されて存在しない、というような不可思議極まることが次つぎと報じられた。「政治」によって現場の自衛隊員の直面した事実が消されようとしたのである▼日報問題の顛末を追っていると、日本の自衛隊の位置づけの不自然さが際立つ。そもそも本来は「軍隊」でありながら、「戦闘」をすることは憲法のうえから認められていない。「国際貢献」を旗印に、海外に派遣されたPKO部隊において、隊員は身の危険が迫り、撃たねばわが身がやられるという時には、武器の使用は認められる。身近なところで仲間が危機に瀕していても、見て見ぬふりを余儀なくされてきたが、ようやく「駆けつけ警護」の名のもとに、助ける行為が可能になった。二重三重に縛りを受ける特殊な「軍隊」である自衛隊。万が一の際にはどうすればいいかは、まさに高度な対応力が求められる。その格好のケースが起きた。尤も、映像を見ている限りでは、自衛隊の宿営地を「砲弾」が襲ったのであって、個別の隊員が身を護るために、発砲を余儀なくされる場面であったわけではないように見えた。つまりひたすら身を隠し、砲弾の通り過ぎるのを避けていればよかった。その点、「戦闘か、衝突か」といった事態認定に曖昧さが入るゆとりが、幸か不幸かあったと言えるかもしれない。だが、そうした事実そのものを隠蔽しようとした自衛隊幹部、防衛省中枢の罪は極めて大きいと言わざるを得ない。結果、認めたくない「戦闘」があったことを証拠づけたようなものだからである。(2017・8・13)

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最新ロボット考ー科学の進歩で未来の文化はどうなるか

淡路島                     awajisima2

毎夏恒例の「アジア太平洋フォーラム・淡路会議」の18回目の会合が8月4日に淡路市のウエスティンホテルで開かれました。これに3年連続で私も参加。一昨年は福田康夫元総理の対中関係についての講演、去年は林芳正衆議院議員(現文科相)のTPPに関する話などに触発されてきました。今年は政治家抜き。「テクノロジー、カルチュア-、フューチュアー」というテーマで、未来社会への展望をめぐってそれぞれの道の第一人者が登場しました。参加した感想は、「ウーン、刺激的だったなあ」の一言です▼この日の圧巻は、自分と同じに見えるアンドロイド(人造人間)を製作し、今”二人して活躍中”のロボット工学者の石黒浩大阪大学教授のお話でした。エピソードめいたものだけに絞って紹介すると、ご本人よりもアンドロイド君だけの講演出席の方が何かと都合がいいとのこと。それは交通費がかなり安く上がるということーなぜなら本人が行くと、飛行機ならビジネスクラスだが、アンドロイド君ならエコノミー席で済むからといいます。秘書氏が身体を分解してバックに詰め込んだものを持ち運び、現地で組み立てるから、と。聴衆の皆さんもアンドロイド君の方を面白がるので、人気は遠隔操作する本人よりもぐっと高いと語る口調は、自嘲気味に聞こえました。バッグにいれた頭首部分を荷物検査で明けた時の係員の驚いた姿は見ものだったとは、いささか趣味が悪いことかも▼また、ファミリーレストランでの話も面白かったです。家族4-5人が同じテーブルで食事する際に、最初から最後まで全員が会話をせずにスマホをいじって食事をするとのケースも多いといいます。このため、ロボットをファミレスに置くようにしたら、それをきっかけに家族が和んで、あれこれ会話が弾んだというのです。ロボットの現代社会での役割はこういう次元だけにはとどまりません。スマホやパソコンなどテクノロジーの最先端を行く電子機器もある種のロボットといえましょう。ITの指図通りに対応しなければ、にっちもサッチもいかない現代人は、もはや十分にロボットに支配されていると言えるかもしれないのです▼「初音ミク」ってだれか、と同窓会で訊くと全員知らなかったが、大学で教え子たちに訊くと、知らないものはゼロだったという阿部茂行同志社大教授の話も聴きごたえがありました。バーチャルな作曲家といえるこのロボットの存在を、実は私も全く知らなかった。最初は珍しい名前の人だなと思ったのですから、お恥ずかしいしだいで、自ら笑ってしまいました。この日、私は淡路島から神戸へ取って返し、友人の高柳和江さん(笑医塾塾長)と懇談しました。兵庫県各地で毎年展開している講座を、今年は尼崎で実施するための来神の機会をとらえてのものでした。早速この日の話題にロボットを持ち出してみました。笑医の代役を高柳さんのアンドロイドを作ってやらせてみたら、と。今すぐは無理でもその内、可能になるかもしれないということで意見は一致。さてさて科学の長足の進歩を前に、どう一個の人間としての存在感を示すか。考えることを置き去りにしていると、ロボットに笑われるかも、とは究極のブラックユーモアといえましょう。(2017・8・6)

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夢かうつつか「琉球独立」論のゆくえー「沖縄の今」を考える⑤

数多ある沖縄をめぐる小説の中で、私としては池上永一の『テンペスト』に最も心惹かれた。仲間由紀恵の主演でテレビ映画化もされたゆえ、ご存知の方も少なくないものと思われる。男と女の二役という現実離れした役まわりなど、奇想天外な物語もさることながら、琉球の中国と日本を相手にした見事なまでの外交展開の筋立てに感じ入ったのである。佐藤優氏はこれを「エンタテイメント小説の体裁をとった政治と外交の実用書なのである」(『功利主義者の読書術』)とまで、礼賛している。私も今の現実政治の中に適応させたい誘惑に駆られる。何も小国・日本が大国・中国や米国のはざまで苦労する姿に投影させたいだけではない。文字通り沖縄が中国と日本を両天秤にかけることと二重写しに見える。前回、加藤朗氏や柳澤協二氏らの議論を追った際に、中国支配に東アジアがなびく流れが現実のものになるのでは、という仮説に触れた。この本を読みつつ考えを深めれば、決してあり得ぬとして切って捨てられない重みを持つ▼琉球が日本民族の中で異彩を放つのは、隣県鹿児島よりも台湾に近いという地理的位置だけではない。歴史的にも文化的観点からもあらゆる意味で、大陸中国や台湾の影響が影を落としている。『琉球独立論』は、単に沖縄が日米関係の中で、顧みられないから自立するとの次元からのものだけではない。沖縄が中国と接近するという意図を持つとどうなるか、との問題設定は決して荒唐無稽なものではないのである。世界を見渡せば、少数民族が自立の方向を目指すという流れは東に西に、今や枚挙にいとまがない。沖縄が日本に対して「三下り半」を叩きつけるということはあながち夢物語とは言えないかもしれないのである▼かつて、私は衆議院本会議で、「沖縄を准国家的扱いにせよ」との主張を展開したことがある(平成23年3月31日)。これは何も小説の読み過ぎで、それでなくとも飛びがちの私の思考回路が緩んだせいではない。本気で沖縄の人々の心に向き合わないと、沖縄の日本離反が起こりかねないと思ったから警鐘を鳴らしたつもりである。それは日本政府が対米忖度を強めるばかりで、一向に沖縄の側に寄り添わないないという県民の苛立ちが大きなうねりになるとの危惧を抱いたからでもあった。せめて対米交渉の場に、沖縄県の代表も常に同席させ、日米地位協定の改定に向けて実質的な交渉を進めるなどの諸提案を様々な場で展開したこともあるのだが、遅々として進まぬのはこれまで見てきたとおりである▼日米関係の成り行き、特に軍事的側面は大きく変わりつつあるという。このことを、日米関係の現実の中で自衛隊員の姿を追ってきた杉山隆男氏が最新刊の『兵士に聞け 最終章』で迫っていて興味深い。彼は、読売新聞記者出身のジャーナリストだが、この10年間というもの陸海空の自衛隊を追い続けてきた。いわゆる「兵士シリーズ」はこの7作目で終わるのだが、なぜかといえば、「取材環境が激変した」のでもう書けない、というのがその最大の理由である。ありのままの姿を追ってきた彼に、このところ様々な制約をかけてきた自衛隊当局。自衛隊が明らかに変質しようとしていると彼は睨む。それは今まで通り日本を半独立国家のままに置きたい米国と、それでいいとしてきた日本の関係に根本的な変化が起きようとしているからだろうか。表面上はとてもそんな風には見えない。深層部では何が変わりつつあるのか。「沖縄の独立」を口にする前に、日本の真の独立がなければならないと私はかねて考え主張し続けてきたが、その兆しすらうかがえず、ますます日米の同化は進んでいるというのが正直なところだ。米国に抑え込まれた日本、そしてその下で不遇をかこつ沖縄。この三者のゆがんだ関係を見て見ぬふりをし続けることは最早許されないのだが。(2017・7・27=この項終わり)

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「尖閣」が招く日米中衝突論争ー「沖縄の今」を考える④

国会議員時代に、尖閣諸島にも一度だけだが自衛隊機に乗って上空から見たことがある。その時抱いた感情は、はるけくもきたなあとのとの思いが一つ、もう一つはこの地域を海と空から常時警戒し監視を続けている自衛隊の皆さんへの感謝の一念であった。また、これまで幾たびか船に乗ってこの島々の傍まで行き、上陸しようとした日本人もいる。民主党政権時代にこの諸島の国有化を政府が宣言していらい、大っぴらに中国や台湾の漁船などが示威行動的に出没しだしていることは周知のとおりである。ある意味で一触即発の危機を常にはらむ海域であり、警戒を怠ってはならないことは言うまでもない。ただ、この海域の実態を思うにつけ、日本と中国との対応の異常なまでの差が気になる。つまり、日本の漁船は殆どと言っていいほど尖閣諸島海域に近寄らない。中国側は魚釣島は自分たちのものだと主張し、「日本の不法占有」だとの不当そのもののいいがかりをつけながら、その海域に姿を常日頃から見せていることと大きな違いがある▼私はこうした彼我の差において、日本の漁船の存在感がいたって弱いことにかねて不満を抱いていた。もっと尖閣諸島の傍まで漁に出なければ、我が国固有の領土だといいがたいのではないかとの思いが募って来るからだ。尖閣諸島に対する日本の領有権を主張するからには、もっともっと漁船の姿があっていいのではないかとの素朴な疑問だった。そのためには、尖閣諸島にはせめて漁船が立ち寄れるような船着き場があってもいい、と。このため、要望にこられた沖縄県の漁業者にそのあたりをぶつけてみたことがある。漁業者たちは、島周辺に行くには5時間以上かかるのだから、当然港が欲しい。だが、島に近づくのは海上保安庁が危険視して、一定のところからは進めない、何とかしてほしいとの要望を受けた。このため平成22年の外務委員会で、鈴木久泰海上保安庁長官(当時)に日本の実効支配の具体的手立てを講じるべきだと主張したものである(10・17)。その時の答弁は実態として日本の漁船の操業が少ないと認める一方、むしろ漁業者の側から安全操業のためにきちっと警備をしてほしいとの要望があるとの答弁がなされた。この辺りの実情は恐らく7年経った今も変わっていないと思われるのは残念というほかない▶尖閣諸島をめぐっては、仮にここに中国の海警局やら漁民を装った関係者の侵入や不法上陸を契機にして武力衝突が起こったらどう対応するかという課題が取り沙汰される。いきなり軍隊が出て来るということは想定しづらいので、通常は不法入国、犯罪取り締まりという形で警察権で対応することになろう。海上保安庁や警察で対応しきれないとなると、自衛隊が治安出動や海上警備行動で出る形となり、実力部隊同士の小競り合いから、やがては中国軍と米国軍がぶつかる可能性すらでてくるものと思われる。いわゆる抑止力が効かずに、米中戦争が始まるわけである。日本の国内における米軍基地を狙ってのミサイル攻撃から、際限のない報復攻撃が繰り返される恐れも想定される。そもそも米軍が尖閣諸島をめぐっての日中衝突に本格的にかかわってくるかどうかについても諸説入り乱れている。米国がトランプ大統領の登場で、従来とは一転して独自路線を歩みかねない姿勢が見え隠れする。日本の自前の防衛体制の構築が、日米同盟の強化と相俟って強調されるゆえんでもある▶こうした軍事的対応は揺るがせにできないものの、一方で平和的環境醸成も当然ながら待ち望まれる。この辺りについては、最近発売された『新・日米安保論』(柳澤協二・伊勢崎賢治・加藤朗)が大胆な分析を披露していて興味深い。日米同盟の論理矛盾を衝く議論から始まって、「ナショナリズムと平和主義」の問題提起など、三者三様あるいは三者二様といった議論が喧しい。まさに「三人寄れば安保の知恵」とでもいうような思考実験が続く。尤も、経済的には中国依存の現実があるがゆえに、政治的にも中国主導を周辺が容認すれば、東アジアの平和的安定がもたらされるとの加藤氏の主張には首をかしげざるを得ない。「中国を敵とした集団防衛体制と中国を取り込んだ集団安全保障体制の双方でどちらが作りやすいか」といえば、後者に現実性があるとする柳澤氏は「その時また一番ネックになるのが、大国を夢見る日本のパーセプションということになる」と厳しい。結論的に、加藤氏は「中国とアメリカがつくる体制の中に日本が入るかどうかというだけの話」だとし、柳澤氏はそういう動きになれば本当に歴史を変えることになる、と応じているのだが、現実性に欠けよう。平和を優先させるのか、中国に負けたくないということを第一にするのかとの議論は、果たして二者択一的課題なのかどうか。平和第一主義の党であり、中国との友好関係をどこの党よりもいち早く培ってきた公明党こそ、この議論を積極的にリードする役割があると確信する。このあたりの発信を強めなければと思う事しきりである。    (2017・7・23)

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