宮崎義一・市川雄一対談で軽井沢へ(44)

昭和58年の春4月に、一人娘の峰子は嬉しい事に東京創価小学校に入学していました。本人よりもどちらかと言えば、母親や祖母の熱心な願いがかなった形です。生まれた時に名付け親を池田先生にお願いして、つけていただいていました。おおらかで、明るい子に育っていました。住んでいたのが西武沿線の鷺宮ですから、学園までは一時間前後です。小学生にとっては、決して近いとは言えぬ距離でした。きちっと行けるかどうか不安でしたが、なんとか通い始めることになりました。

同期(8期生)には、私の先輩や同僚といった知人、友人の子供達が多く、私も珍しく出席した入学式ではなんだか妙な気分でした。池田先生が作られた学校に子供が通えることに、素直に親子共々喜び合ったものです。入学のための面接で、担当の先生から「毎朝、顔と歯を磨いてますか」と訊かれ、「ハイ」と微妙な嘘をついたのを、あとで母親から咎められ、「磨いてる時だって、あるじゃない」と開き直った子です。学校から家に帰って、カバンを玄関におき、そのまま遊びに行って、翌日、玄関に置いたカバンをそのまま持って登校するという離れ業を殆ど毎日やっていました。

昭和61年には、4年生になっていました。朝夕出会う鷺宮駅の駅員と親しくなったり、下校時に時々疲れてしまい、終点の西武新宿駅まで着いてしまって、また折り返すことがしばしばでしたが、最早そういうこともなくなってきていました。

この年の夏のこと、市川さんと私は連れ立って軽井沢に行きます。著名な経済学者で横浜国大や京都大教授を経て、当時東京経済大学教授をされていた宮崎義一先生の別荘を訪ねたのです。配属になったばかりの党の理論誌『公明』の仕事で、ご両人の対談を企画し、私が司会役ということで同道させていただきました。夏のこの地は最高です。清々しい空気を吸いながら白樺の生い茂った道を歩いて向かいました。

市川さんは初当選から10年。既に当選5回のベテラン。党の中央執行委員で副書記長、政調副会長、安保部会長などを兼務していました。事あるごとに、編集部の要請に応じて、『公明』誌上で識者との対談企画を引き受けてくれていました。この時は、宮崎さんが書いた『複合不況』という岩波新書を題材に、その背景などを語って貰おうということから実現したものです。わざわざ軽井沢まで行かずとも、東京か横浜で良かったのですが、そこはもう編集者としての気分です。折角だからと、避暑地を選ばせて頂きました。

編集部として、この宮崎さんの本を次のように紹介しています。
本書では、世界経済を①先進国②産油国③非産油途上国④共産圏の四グループに分けて、石油危機以降の現代経済の動向を分析している。構成は、❶ケインズ主義はなぜ新しい世界不況に有効性を失ったか❷発展途上国に供与された銀行ローンは貧困克服に寄与したか❸覇権国家の交替はあるか❹多国籍企業世界は地球の荒廃を救いうるかーの四テーマに答える形式になっている。随所に最新のデータがグラフや表として盛り込まれているうえ、ヒューマニスティックなタッチで危機的状況にあふ世界経済の抱える課題への処方箋が示されており、読むものの心を打たずにはおかない。

市川さんは、冒頭で「かつてマルクスが誰も資本主義を分析していないときにやったと同じように、この書では、世界資本主義の今日的分析を鋭くなさっており、まさに現代版「資本論」、久しぶりに知的興奮を覚え、大変な感銘をうけました。累積債務のくだりで、北が南を収奪する論理を明快に書かれているところは、とりわけ胸打たれました」などと過剰なくらい評価されています。宮崎さんも「そんなに言っていただいて感謝感激です」と受けていました。

まさに、今となっては〝遠い日の砲声〟ですが、学究肌の市川さんの面目躍如たるところが髣髴としています。あの日、二人の知性のぶつかり合いの現場を見た私は幸せ者でした。

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