●〝コーチ付き〟で姫路市内をランニング
様々な起業家との出会いの中で、変わり種と思われたのが坂本日出明さん(70)です。積極的に時間を見つけて各地のマラソン大会に出るのが趣味といいます。本職は名刺印刷業でしたが、8年前に出会った時は自転車駐輪場に新たな仕組みを導入するプロジェクトに参画して奔走していました。60歳の時に、福知山マラソンで3時間27分の日本陸連公式記録を作ったのが誇りの人でした。彼に触発され、私は引退後一年目の平成25年は実によく走ったものです。
若い時には私も、職場近くの神宮絵画館前のコースを走ったり、国会議員時代も早朝に皇居一周ランニングに挑戦していたのです。地元に戻って様々な制約から自由になったものですから、朝起きて晴れ渡った空を見上げると、ウズウズしてきます。両足の太腿が走ろうと呼びかけてくるのです。日常的には早朝に姫路城周辺5キロほどを1時間かけてランニングしました。大阪に住んでいる坂本氏が休日にわざわざ姫路に来てコーチしてくれたことがしばしばありました。
一緒に、家から夢前町の入り口辺りまで10キロほどを伴走して貰ったり、赤穂の市民マラソンに出場しようとしたり(彼は参加。私はドタキャン)もしました。数えきれないランニングの思い出の一つが、夢乃井温泉郷を目指して走ったこと。家から約20キロほど、ひたすら温泉に浸かることだけを念頭に走ったのです。結果は、ヨレヨレ。ゴールインはしたものの、風呂場の浴槽脇で倒れ込んでしまいました。その後どうなったか。ご想像にお任せします。
●参院選での民主党の大惨敗
一方、本もよく読みました。議員時代は年間100冊前後が平均でしたが、退職後のこの年は、136冊ほど読んでいます。読書メモを繰って見ると、相も変わらず軽い本ばかりを読んでいたことが一目瞭然です。「晴耕雨読」ならぬ〝晴耕雨雲読〟だったといえるのかもしれません。
ただ、本を読んで走っていただけではもちろんありません。この年、参院選が予定されており、懸命に支援の戦いに取り組みました。前年の衆議院選挙の結果、自公政権が復活、再び両党は政権に返り咲いていましたが、参議院は民主党が優位に立っていて、ねじれ現象が生じていました。これが解消されるかどうかが注目されていたのです。埼玉、神奈川に支援のために幾たびか足を運びました。
結果は、自民党が65議席を獲得するも、非改選50議席と合わせて115議席。参議院の過半数122議席に7議席及ばなかったのです。公明党は埼玉、東京、神奈川、大阪の4選挙区で完勝、比例区の7人と共に11議席獲得、非改選と合わせて、20議席となりました。この結果、自公両党で135議席になり、安定多数を占めることになりました。再び公明党が文字通り〝連立の要〟となったのです。一方、民主党は、55人の候補を立てながらも、当選は僅かに17議席、非改選と合わせても59議席で、公示前よりも27議席減となってしまいました。
前年の東京都議選、衆議院選に続き民主党は三連敗で、名実共に政権党の座を転げ落ちたのです。3年前のこの党の高揚感は、自らの身から出た錆ならぬ失政続きで、完全に地に堕ちてしまいました。
●中嶋嶺雄先生ご逝去の悲しい知らせ
この参議院選のすこし前に悲しい知らせが舞い込んできました。大学卒業以来、ありとあらゆる面でお世話になった学恩深い中嶋嶺雄先生が逝去されたのです。最後にお会いした際にお顔色がいつもとかなり違っていたので、懸念していたことが的中してしまいました。東京外語大学長を辞されたあと、秋田国際教養大学の創立に関わられ、理事長兼学長として八面六臂の活躍をされていました。「中国研究」の分野で一世風靡の名声を博される一方、大学教育の改革を自ら現場に飛び込んで成し遂げられたのは実に見事でした。
同先生とは、議員になる前から、アジア・オープンフォーラムのメンバーに入れて貰って、台湾と日本の各地を一緒に回らせていただきました。当選後は、私の『忙中本あり』出版記念会の代表世話人になっていただいたり、先生の主宰された「新学而会」の場で、錚々たる専門家から隔月に一回教えを頂くチャンスも得ました。東京外大のキャンパスに市川公明党書記長と共にお招き頂いたり、3人で一緒に懇談、お酒を酌み交わしたことも例えようもないほど、嬉しく懐かしい思い出です。
晩年、しばしば、「赤松君も国会の場で、『教育改革』に取り組んで欲しいね。これからの日本を考える上で、一番大事だよ」と言われたものです。残念ながらその助言を実らせぬままお別れしてしまったことは悔いが残ります。(2021-3-2)