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【63】WHO事務局長の選挙支援でNZへー平成18年(2006年)❼

●心に残る「ハンセン病」との触れ合い

厚労副大臣時代にはありとあらゆる難病やら、厳しい病に苦しめられてきている皆さんやその家族との出会いがありました。ここでは最も印象に残っているハンセン病患者の皆さんとの関わりについて触れてみます。

一つは毎年行われているハンセン病問題対策協議会の座長を務めたことです。8月23日に18年度の協議会が東京・平河町の都道府県会館で開かれ、厚労省の担当者たちと、全国から集われた患者の代表約180人とが話し合いました。冒頭の挨拶で、私は「着任してから9ヶ月、前任の西博義副大臣から極めて重要な仕事がこの場面であることを聞かされており、本日は緊張して臨んでいます」と述べました。これに対して全原協・國本事務局長が「遠く沖縄からも入所者、退所者が沢山来ておられます。先程、副大臣にお会いしましたが、熱心に質問され、感動しました」と述べられました。

もう一つは、青森市の国立療養所松丘保養園で8月25日に行われた同園に保存されていた胎児二体を供養する慰霊祭に参加したことです。同療養所において強制堕胎された胎児や新生児のホルマリン漬けが保管されていたのですが、二日前の23日に火葬されていました。川崎二郎厚労相が6月に供養する方針を表明、全国で初めて慰霊祭が行われたのです。

私は「(胎児の)両親、家族、園の入所者に多大な苦痛を与え、心からお詫びを申し上げます」との哀悼の辞を代読して遺骨に献花をしました。全国の国立療養所6カ所に計115体が保管されていると聞き、そうした行為を強制され続けてきた関係者の無念の思いを心底から感じざるを得ませんでした。

ハンセン病については、2001年5月11日に、熊本地裁がハンセン病訴訟(らい予防法違憲国家賠償訴訟)で、原告全面勝訴の判決を下し、元患者らに賠償金を支払うように命じ、国が敗訴しました。国家賠償訴訟で国が敗訴しますと、国は控訴するのが一般的でした。この時もその意向が強かったのですが、それに対して公明党と坂口力厚生労働相が両面から待ったをかけたのです。控訴断念を強く主張するこの動きに、小泉首相もついに呼応することになりました。

この問題では、こうした公明党と大先輩の大奮闘のお陰で大きく前進した路線のあとを、私は歩んだに過ぎませんでした。

●東京新聞夕刊『心の語録』に登場

東京新聞の夕刊に、この頃『心の語録』というコラムがありました。各界の識者が登場して、自分の心に残っている言葉を披露していました。私に書けとの依頼が舞い込み、何にするか、大いに悩みました。あれこれと考えた挙句、かつて父親に言われた素朴ではあるが、グサリと刺さった言葉にしたのです。

【金がないのは首がないのと同じー二十歳のころ、今は亡き父に『お金より心の豊かさを大事にする人生を送りたい』と言ったら、すかさず返ってきた言葉。理想ばかりを追い、現実から目をそむけがちだった私に痛烈な一撃となった】

これだけの短い文章ですが、2006年9月12日の夕刊一面の左肩に細長く掲載されました。親父が生きてたらどう思うかを考えました。確かに、お金さえあれば大概のことは乗り越えられる、そこからゆとりも生まれ、心の豊かさも伴ってくるとは思います。勿論、それだけではありませんが。そしてしみじみと、お金がないために夢が叶えられない不幸な人々に手を差し伸ばせたら、どんなに素晴らしいかと考えます。

これからの残された人生にあって、もし可能であれば、恵まれない青少年のための基金を作りたいと思っていますが、見果てぬ夢に終わりそうです。しかし、抱き続けてこそ夢は叶うもの、と確信しています。

●ニュージーランドへの出張を最後に

厚生労働副大臣としての海外出張の最後の行き先は、ニュージーランドになりました。WHOの西太平洋地域の年一回の地域総会が9月18-19日にキャンベラで行われることになっており、それに出席するためです。前年に事務局長が急逝したことから、後任を選ぶ選挙が11月に迫っていました。各国から候補が名乗りを挙げていましたが、日本は当時西太平洋地域の事務局長だった尾身茂氏を推薦して、必勝を期していました。このため、この地域総会に集まった各国のうち態度未決定の国に対して、支持を求める活動をすることが目的でした。中国の候補者であるマーガレット・チャン氏(香港出身、WHO事務局長補)と争う流れとなっていました。

元厚生労働省の初代健康局長でOBの篠崎英夫氏(当時、国立保健医療科学院長)を主軸にして、チームを組み、私も重し役で一緒に行くことになりました。18日の総会では型通りの挨拶をしただけですが、終了後や19日のランチのポスト役を日本が担当したため、その準備の合間を縫って各国の代表と交流し、尾身氏支持を訴えました。こんな経験は初めてのことでもあり、手応えはあるようなないような今一しっくりこないところは否めませんでした。

結果は、残念ながら中国のチャン氏が当選。尾身氏は及びませんでした。中国はこのチャン氏の当選が国連の機関のトップを手中に納めた最初のポストということになったのです。以後チャン氏は、現在話題のテドロス事務局長(エチオピア出身)と、2017年に交代するまで約10年間務めていました。尾身茂氏が今回の新型コロナウイルスの問題で専門家会議を代表して八面六臂の活躍をされているのを目にするにつけ、感慨ひとしおのものがあります。

●がん対策基本法が制定

公明党はがん対策に一貫して取り組んできましたが、私が厚労副大臣時代に大きな果実を得ることができました。2004年の1月に神崎代表が、9月に浜四津代表代行がそれぞれがん対策を国家戦略として推進するように提唱。06年1月には、「がん対策法」の制定を提唱していました。それらを受けて、3月には、「がん対策の推進に関する法律要綱骨子」を発表するに至っていました。そしてついに6月16日に、「がん対策基本法」が全会一致で制定されたのです。

そうした事態を背景に、「週刊がん もっといい日」の編集部から緊急インタビューを受け、Vol20に掲載されました。前半は、米国のMDアンダーソンがんセンターに視察に行った話、後半はがん対策についての発言です。

がん対策基本法について、来年4月施行に向けて具体的にどう進めていくのかと聞かれて次のようにこたえています。

【まず、推進協議会の設置や基本計画の立案、そして予算面の充実です。平成18年度の当初概算要求は、200億円でしたが、結局は161億円に削減されましたので、来年度には200億円に持っていきたい。同時に重要なポイントは、がんにならないようにする第一次予防、そして早期発見、早期治療という第二次予防をしなければなりません。一に運動、二に食事、そしてしっかり禁煙する。こうしたことに、企業のご協力は必要ですし、がん検診の推進も重要です。企業戦士ががんにならないようにするには、一次予防、二次予防に対する認識をいかに持つかが大事ですが、また、再発や転移の予防のために、第三次予防も大事です】

がんについて公明党は、放射線治療の第一人者である東大の中川恵一先生のお力を借りて様々な対応を展開してきました。その一番初期の段階を私は担当したことになります。(2020-7-)

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【62】独英へ憲法・安保事情調査に。愛蘭にも足伸ばすー平成18年(2006年)❻

●与党欧州憲法・安保事情調査団に参加ードイツの場合

平成18年(2006年)の後半。防衛庁の省昇格問題が、安保関係議員の間では大きな懸案となってきていました。2001年の橋本行政改革にあっても、防衛庁は防衛省とならぬままに据え置かれていたのです。自公首脳の間で、決断するために様々な角度から調査を進めようということになったようです。 与党欧州憲法・安保事情調査団と名付けられ、7月24日から30日までドイツ、英国に行くことになりました。石破茂、新藤義孝、佐藤茂樹さんらと共に、私が参加することになったのです。ヨーロッパの二大軍事大国における軍事と軍関係者のありようを、つぶさに調査することが目的です。

ドイツには、24日から25日まで滞在。国防省を訪れました。第二次大戦後における欧州事情の要請もあって、ドイツは再軍備に踏み切りました。ただ、ナチスのホロコーストにみる残虐非道ぶりへの反省から、軍人への徹底した内面教育や軍の民主化が進められてきています。そうした教育の影響がもろに反映した結果でしょうか。ドイツ軍という存在は過去のイメージとは程遠いものとして定着しているようです。軍人たちは「制服を着た市民」としての位置づけが強調されているとのこと。国民の基本的人権の保障を目的とする内面教育の実態について、微に入り細にわたって、詳しい説明を受けました。

この国では、連邦議会内に、軍内部での注文や苦情を軍人から聞き入れる「防衛監察制度」さえあります。どうして自分が昇進しないのか、ということまで聞くといった仕組みも取り入れられています。かつての非民主的な軍のあり方はどこへやら。羹に懲りてなますをふくかのような、痛々しいまでの対応を知って、いささか驚きました。

●英国の場合

26日から27日まで滞在した英国では、ロンドンにある王立統合防衛安全保障研究所(RUSI)を訪問。リチャード・コボルド所長らに会い種々の懇談をしました。そこでは、私はドイツ軍の動きについての風評が気になっていたので、訊いてみました。アフガニスタンでのドイツ派遣軍の動きが鈍くて、あまり見えないというものです。あくまで噂ですが、ドイツ兵は存在しているものの危ない橋は渡ろうとしない、したがって、いざという時に役に立たないのではないかというものでした。

ドイツは「9-11」以降、約3000人の兵力をアフガンに投入して、治安維持に貢献。イラク開戦にはフランスと共に反対していましたが、アフガンの安定には、ドイツは積極的な役割を果たしているとの見方を持っていた私にとって、この風評はいささか気になりました。そこで、真偽を確かめるべく、コボルド所長に訊いてみたのです。同所長は「(平和)教育が行き届いているからねえ」と答え、否定はしませんでした。併せて、イラクのサマワなどと違って、ドイツが駐在するアフガン地域は、治安状態が良くないことも勘案する必要があるとも、付け加えました。

こんな訪問を終えたのちに、私は自身の国会リポートに「世界でも特異な地位にある日本の自衛隊は、自国防衛と同様に、これからますます海外における平和維持活動での貢献を求められる。その際に、先の大戦における戦争責任の所在について、アイデンティティ(自己同一性)の過度なまでの分裂を日本社会がいつまでも引き摺ることは避けたい。これこそ、自衛隊員の内面教育を考える前に、なされるべきことではないかー欧州での調査の旅の最中にしきりに頭の中に浮かんできた」と書いています。

この旅の後、しばらくたって、防衛庁は名称を防衛省へと、変えました。この変化が実現するまで、左翼勢力は日本の軍事大国化に繋がるとの批判が専らでした。しかし、現実には「災害大国日本」にあって活躍する自衛隊の存在が目立っているだけで、彼らが騒いだことは杞憂に終わったのです。

●アイルランドへー司馬遼太郎さんとゆかりの女性との出会い

英国での日程を終えて、石破茂さんたちは皆27日には日本へ帰って行きました。私はそこから単身、アイルランドの首都・ダブリンを目指しました。そこでの目的は、同地での医療事情調査と町村外相の代理役でした。ダブリン在住の日本人で、長きにわたってアイルランドと日本の友好に尽くしてこられた方を、日本政府として表彰することになり、たまたま私が訪問した27日に大使公邸で、式典が行われる予定だったのです。外相名の表彰状を厚生労働副大臣の私が渡すわけです。役不足とはいえ、わざわざ日本から来たということで、関係者の方々は喜んでくださいました。

それもこれも林景一大使の温かい配慮です。条約局長当時から大変懇意にしていた同大使は、私が英国・ロンドンまで来る機会に、是非ともアイルランド・ダブリンへと、誘ってくれました。医療事情のブリーフィングと共に、ダブリン在住の日本人の皆さんと親しく懇談する機会を持つことが出来たのです。実はその場で、偶然ながら嬉しい出会いがありました。早稲田大学文学部の岡室美奈子教授がその式典に同席されていたのです。この人は、実は作家・司馬遼太郎の『街道を行く アイルランド紀行』の中に登場してきます。ダブリンに彼女が留学していた若き日に、司馬遼太郎さんと初めて出会う場面があります。

私はこの旅に実は司馬さんのこの本を旅行鞄にしのばせ、飛行機中、ホテルでずっと読んでいました。で、司馬・岡室ご両人のご対面のシーンも読んだばかりでした。司馬さんが当時早稲田大学の女学生だった岡室さんに大いなる好感を抱いていたと睨んでいました。そんな女性がいきなりダブリンの大使公邸で私の目の前に出てくるのですから驚きました。なるほど、さもありなんというチャーミングな女性でした。彼女は、日本におけるサミュエル・ベケット研究の第一人者(『ゴドーを待ちながら』の翻訳などで有名)で、今は早稲田大学・「坪内逍遥記念演劇博物館」の館長を兼務され、テレビに関する評論にも取り組まれています。

また、林景一大使はこののち、英国大使へと転進され、退官後の現在は最高裁判事をされています。時に応じて、林夫妻と岡室先生と私の4人で懇談の機会を持ち、交流を深めています。それもこれも、ダブリンのこの時の出会いが発端です。先日も岡室先生にメールをして、ベケットの『モロイ』を巡って、その難解な本の読み取り方のヒントを教えて貰いました。(2020-7-3 公開 つづく)

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【61】BSE、ガン治療の視察でアメリカへー平成18年(2006年)❺

●BSEの検査でアメリカ・コロラド州デンバーに出張

ベトナムに続く、私の海外出張第二弾は、7月2日から7日までの一週間の米国行きでした。目的は二つです。一つは、米国産牛肉の安全を試す調査に、日本の政治家として参加し、農水、厚労省の専門官と合流するというもの。もう一つは、米国最先端の医療施設を視察するというものでした。同行はもちろん宮崎淳文秘書官です。気苦労は多かったものの、見るもの聞くもの初物ばかりで、エキサイティングな旅となりました。

米国産の牛肉がおかしいーBSE(牛海綿状脳症)の症状を持つ牛の肉は健康に害を及ぼすのではないか?この年の初めから半年というもの、日本国内で大騒ぎとなり、同国産牛肉の輸入がストップとなりました。ようやく米国側から再発防止に向けて最善を尽くした、との報告があり、35の食肉施設を事前に再調査することになったのです。そのうち、私が今回調査に赴いたのは、コロラド州デンバーにある食肉処理場でした。

日本でも既に東京・芝にある食肉処理場を見学していました。屠殺現場を見るのは初体験。引かれゆく牛に哀れを催し、引き裂かれる場面ではそれなりに心揺らぎました。今回は日本人の食生活に直接繋がるものだけに、万が一にも再び危険な部位が入っていることがあると、一体何を調査してきたのか、とお叱りを全国民から受けるだけに、極めて緊張したものです。

米国側はランバート農務次官代理(マーケティング・規制担当)とマン農務副次官(食品安全担当)、カーペンター検査官らがワシントンからやってきました。私は、「いい加減な会社の施設は切り離し、まじめに取り組むもののみで対日輸出をしたいのが本音ではないか?」「作業従事者が危険部位を除去することを知らなかったとは驚く。こんなことがまかり通っていたことをどう思うか?」などとかなり突っ込んで質問してみました。米側からは「良い会社、悪い会社と区別するのではなく、米国の食肉生産企業全ての問題として全体のレベルアップに取り組む」「二度とこういうことが起こらぬように、幾重にも研修を繰り返し、技術を高める努力をする」との答えが返ってきました。

作業中の従業員に「我々は日本人だが、何をしに来たか知ってるか?」と訊いてみました。「新聞を読んで知っている。実際に見てもらえるのは嬉しい」との返事。上司なり現場指導者の指示があったというのではなく、「新聞を読んで」というのが気になりましたが、それ以上は追及しませんでした。ともあれ、あれから15年ほどが経ち、その後は類似の事件は起きていないはず。現場的にはきちっと仕事が行われてきていると信じたいものと思います。

●医療事情調査のためテキサス州ヒューストンへ

「せっかく米国にまで行くのだから、医療事情をぜひ見てきたらどうですか」ー川崎大臣の温かいお言葉をいただき、私たちはコロラド州から足をテキサス州ヒューストンにまで伸ばして、「テキサス大学M.D.アンダーソンがんセンター」を訪れることにしました。時あたかも日本では、がん対策基本法が公明党の強い後押しもあってようやく成立した直後でもあり、がんに対する国民的関心が一気に強まっていました。今こそがん診療の先進国の知恵に学びたい、そう勢いこんで精力的に視察をし、関係者との懇談にも臨みました。

日米の医療現場の差異は、「チーム医療」とされます。米国では腫瘍内科医、腫瘍外科医、放射線治療医、放射線技師、看護師、薬剤師らがチームを組んで治療にあたります。主治医の個人的力量に左右されがちな日本との大きな差だと思われます。テキサス州立大学のコックス博士、同夫人の小牧律子教授のお二人にご案内役をしていただきました。お二人から「米国での放射線治療は、治療医と患者との間で、治療をどう組み立てるかとの戦略を立てるスタッフの存在が決定的に大きい。治療医がなんでもかんでも抱え込む傾向にある日本はどうしても負担が大きくなる」と指摘されました。

加えて日本の場合、とても看護師や薬剤師までが医師と同列の立場で治療にあたるとは考えづらいし、患者の存在が脇に追いやられるとの印象も拭い難いものがあります。現場で説明を聞きつつ、私は米国のチーム医療の図式イメージは円であると直感しました。円の中心は患者と一体になった治療医。周りをぐるりと各種のスタッフが囲むというものです。それに比して、日本の場合は、主治医を頂点とする三角形と言えましょうか。そして患者は円の外にある、といったものなのです。

米国におけるがん克服戦略は、国家あげてのもので、その成果は着実に功を奏していますが、同時に患者にとってバラ色かといえば、そうでもありません。当然のことながら、治療には高額の費用がかかります。日本と違って国民皆保険制度の仕組みがなく、圧倒的多数の貧困層にとっては、このセンターも高嶺の花の存在なのです。とはいうものの、同センターにおける患者ががんに勝つためのさまざまな仕組みが凝らされているのは驚きでした。例えば、偶々私たちが訪れた時に、「乳がんが骨にまで達している」という母親と、パソコン画面を覗く娘さんという二人連れに出会いました。日本の場合はどうしても医者任せの傾向が強く、自分で病状を把握して積極的に克服への道を探るということは少ないように思われるだけに、かなり違うなとの実感を持ちました。

●深いインパクトを受けた能勢之彦さんとの出会い

この地の医療に30数年にわたって取り組む能勢之彦さん(ベイラー医科大学教授)との出会いは強烈なインパクトを受けました。彼はこの年の春に某総合雑誌が組んだ特集「世界に輝く日本人20」のなかに取り上げられており、人工臓器開発の第一人者として知られていました。「チーム医療に感銘を受けました」という私に対して、現地で共に働くスタッフ(ご本人は家来と言っていましたが)を横にしながら「チーム医療といっても、最後は中心になる治療医の強い一念であり、断じて治すとの責任感ですよ」と強調されました。そして、「米国から学ぶべきことは多いが、日本が太刀打ちできないかというと、そう悲観することもないですよ」と言われたことも印象的でした。

普段から私なども色んな場面で使う「中心者の一念」ということで、まさに「お株を奪われた」感を強くしました。合わせて「医療にあっても大事なのは武士道なのです」と胸を張られてしまいました。「頼もしきサムライ、米国にあり」との思いを痛感したものです。能勢さんとそのスタッフとの出会いは、あたかも明治維新直後の遣米使節団の生き残りに出会ったかのようで、この旅での大きな収穫となりました。

ぜひ、後日、日本で再会をと思いましたが、この出会いから5年後の2011年10月に79歳でお亡くなりになられてしまったことはまことに残念でした。もう10年近く経ちますが、お元気でおられたら、今回のコロナ禍をめぐる米国の医療の対応などについて、ぜひご意見を聞きたいところではありました。

なお、この米国での調査を踏まえて、副大臣を辞任してから衆議院予算委員会で後日質問に立ちましたことも付言しておきます。(2020-7-1公開 つづく)

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【60】さい帯血バンクの活動支援に関与ー平成18年(2006年)❹

●腰痛とのたたかいー階段とカイロと

5月に入って厚労省の一階エレベーターホールにポスターが貼り出されました。「始めてますか?階段利用」というポスターです。エレベーターを使わず、階段を使って歩くことで生活習慣病を予防しようという狙いが込められていました。

私も厚労省に通うようになって、10階の副大臣室まで歩くことを心がけました。云うは簡単ですが実行するのは大変でした。この頃、私は若き日に痛めた腰がよくなく、身体にいいからとジョギングを暫くしても、すぐに腰痛を併発する有様でした。丁度そんな時に、遠山清彦代議士の紹介で、日本カイロプラクターズ協会の村上佳弘事務局長が副大臣室にやってきました。「カイロは欧米や豪州、アジア各国で正式な医療に位置づけられ、大学医学部の教科にも組み入れられているのに、日本ではそう扱われていない。このため豪州の大学の分校という形をとっている。何とか日本でもカイロが市民権を得られるようにして欲しい」ーこれが要望内容でした。

私はそれまで、腰痛が起こると、鍼灸、整体、整骨院などのお世話になっていましたが、カイロについては全く無知でした。そこで、まずはものは試しに、と村上さんの治療を個人的に受けるようになりました。60歳を迎える年のことです。いらい、多少の紆余曲折を経たものの、腰痛は完治しました。のちに、予算委員会分科会で質問に立ってカイロの効用を説くまでになり、やがて、村上さんと一緒に『腰痛にはカイロが一番』という電子版小冊子まで出版するようになったのです。

●さい帯血バンクの諸活動を支援

さい帯血バンクに関する動きを支援したのも副大臣時代の仕事の一つです。兵庫県には有田美智世さんという永年にわたってこの問題に取り組んできたリーダーが在住しています。彼女は当時、NPO法人兵庫さい帯血バンク(理事長=芦田長司元県副知事)の副理事長でもあり、様々な運動を展開し、公明党が最も支援してくれているとの率直な発信をしてくれていました。

私も搬送ボランティアの皆さんたちと一緒に、採取病院(久保みずきレディースクリニック=神戸市)から、兵庫臍さい帯血バンク(西宮市)まで搬送を体験したうえで、同バンクの視察に行ったりしました。この体験談めいたものを、同バンクの機関紙に寄稿していますので、以下に掲載してみます。

【さい帯血の搬送にボランティアの方々と同行して、三つの感動をした。一つは、生まれたばかりの赤ちゃん7人と会えたこと。みずみずしい生命に無限の活力感じた。二つ目は、雨の日も風の日もたゆまず続けてこられたボランティアの女性たちの努力。持続は力を実感した。三つは、何もないところから今日までに、さい帯血バンクの運動を盛り上げてきた有田さんの努力。当初から知っているが、そのエネルギーには感服した。

搬送に同行させて貰った後、NPO法人兵庫さい帯血バンク理事長芦田長司氏の要望を受け、東京さい帯血バンク理事長の青木氏から保険適用に向けての具体的提案などを聴く一方、厚生労働省の臓器移植対策室長からさい帯血の現状を聞くとともに、さい帯血バンクの運営状況などの報告を受けた。11のバンクの収支状況は、人件費が多大のウエイトを占めていることや、保険適用をめぐる問題の所在が理解できた。引き続き多方面から問題の所在を探っていきたい。】

この運動は、その後10年(2014年に終了)に渡って続けられました。山本香苗、古屋範子、高木美智代さんら公明党出身の女性の厚生労働副大臣たちが先頭に立って、私が関わった仕事を受け継いでくれて確実に実績を残してくれていることは大きな誇りです。

実は、有田さんは「へその緒通信」なるコラムを雑誌『灯台』に連載していました。この年の10月号に、微に入り細にわたって、私のことを書いてくれました。これは、さい帯血事業をめぐっての私に対する厚生労働省の担当官の説明がずさん(同事業は全てうまくいっているという捉え方)であることを見抜き、的確な対応をアドバイスしてくれたことがベースになっています。このあたりについて、以下のように書いています。

【私は公明党の現場第一主義の強みは、現場の人間と直接対話をしているからこそ、官僚にごまかされないということを実感しました。赤松さんにとって、さい帯血の問題は、山のようにある厚生労働省の仕事のほんの一部分でしょう。でもそうした仕事に対しても、正しい情報を手に入れ、素早く矛盾点を糾し、的確な行動をしようという姿勢を貫いてくれています。私は、こうしたフットワークの軽さが公明党の議員の身上だと思うのです。】

有田さんのいうがままに動いた結果に過ぎず、私がボーオッとしていて、危うく騙されそうになったところを彼女に助けられた(見出しは、「現場第一主義であれば官僚にだまされない」となっていました)に過ぎません。恥ずかしい限りの顛末でもありますが、ここは素直に喜ぼうと思いました。

●朝日新聞のコラム「政態拝見」に登場

当時、朝日新聞のオピニオン面に『政態拝見』なる大型コラムがありました。6月6日付けには、「ヤジと怒号」というタイトルのもとに、「『国家』を論じる作法とは」との見出しで、ヤジと怒号ばかりの若い自民党議員たちの態度を嘆き、嗜める一文を、根本清樹編集委員が書いていました。そのコラムの最後の部分に私のことがしっかりと書かれていました。以下にそのくだりを引用します。

【小泉政権最後の通常国会も、会期末が迫ってきた。耐震強度偽装やライブドア事件など「4点セット」が今国会の焦点だと言われていたころ、もう一つの重要な4点セットが存在すると力説していたのは公明党の赤松正雄氏だ。憲法改正国民投票法案であり、教育基本法の改正であり、防衛庁の「省」昇格法案である。

現在は厚生労働副大臣だが、憲法や安全保障を専門とする赤松氏らしい着眼だった。民主党の「偽メール」問題で、本来の4点セットは後景に退いた。赤松版4点セットも、軒並み先延ばしになりそうである。赤松氏はいま、「いずれも簡単に片付けていい話ではない。じっくり腰を落ち着けて議論すべきだ」と話す。

毎年の予算や、時々の政策課題を、政治は日常的に処理していかねばならない。しかし、憲法など「国家のありようそのものに関する問題」については、別途、「恒常的に議論していく場」が必要だという発想である。こうしたテーマを扱う場合には、少数政党の意見によく耳を傾けていくべきだとも言う。「この点、私は共産、社民びいきだ」そのような議論の進め方に、日本の政治が習熟しているとは言い難いが、赤松氏は「ここ数年にわたる憲法論議がひとつのトレーニングになった」と希望を語る。当選一回とおぼしきヤジ議員たちのトレーニングは、これからか。】

これを書いた根本編集委員は、その後政治部長を経て、天声人語子となり、論説委員長となっています。公明党担当、憲法担当として長く付き合いました。私が深く尊敬する言論人のひとりです。(2020-6-29公開 つづく)

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【59】ベトナムでの鳥インフルエンザ会議へー平成18年(2006年)❸

●ベトナムでの貴重な体験

鳥インフルエンザの問題で、ベトナムのダナンで国際会議が行われることになり、5月3日から四泊五日の予定で出張することになりました。10ヶ月の副大臣時代に四度も海外出張を経験することになったのですが、その皮切りがこのベトナムへの旅です。中島正治健康局長を始めとするメンバーと一緒でしたが、3日はハノイに入り、服部則夫・駐ベトナム大使と懇談することにしました。同大使は2002年から赴任。この年で既に4年経ておられ(最終的に5年半駐在)、日越関係の深い部分をあれこれと教えていただいたしだいです。

ハノイでは翌日、ホーチミン廟を見学したり、同国労働副大臣と会見した後、市内を見学。夜にダナンに移動して、翌日の会議の準備を皆で打ち合わせました。5日は終日ダナンでの会議に臨みました。翌6日は旧サイゴン(現在のホーチミン)に移動するなど、短い期間に同国の三大都市を全て見たことになります。駆け足の旅でしたが、随所で活力溢れる人々の動き、街並みの強かさに感じ入りました。鳥インフルエンザの対応を議論する会議の場でも、進行役から裏方を仕切りつつ、同国担当者は熱心な取り組み姿勢を示していたと記憶しています。今回のコロナへの対応も台湾などと並んでアジア、世界でも出色の見事な振る舞いをベトナムは見せたと認識しますが、むべなるかなとの思いです。

アメリカとの戦争に一歩も引かず、超大国を苦しめ抜き、ついには追い出すことに成功したり、巨大な隣人中国との間断なき中越紛争にも決して負けない強国ぶりを発揮してきたベトナム。まさに世界で最も強い国と言っても過言ではないかもしれません。空港に送ってくれた大使館勤務の現地人青年とあれこれ言葉を交わしましたが、極めて謙虚なうえ、自民族に対する深い誇りの念を感じることが出来、爽やかな印象を持つことができました。

この時のチームで一行の公式通訳を担当してくれたのが田中祥子さん。この人は著名な英語通訳者で、初めて会った瞬間からとても打ち解け、一気に親しくなって、この旅に貴重な彩りを添えてくれました。ロシア語通訳者で作家の米原万理さんと親友ということでした。かねて彼女の著作を殆ど総なめにしていた私は、大いに興味を持ち、「ぜひ一度お会いしたいですねぇ」「会わせますから」ということになったのです。楽しみにしていました。ところが、米原さんは私たちの帰国直後に大病を患われ、6月25日にあっという間に不帰の人になられてしまったのです。本当に残念なことでした。

●エイズキャンペーンでの新宿西口駅前でのできごと

私の副大臣時代の様々のできごとの中で、閑話休題的なエピソードで最たるものは、小泉首相を囲んでの初の副大臣懇談会があった時のこと。官邸の地下でお酒を飲みながらの場だったのですが、この席でまことに楽しいやりとりが私と小泉首相との間であったのです。その話には伏線、前提がありました。順序としては、それから触れないと、意味が分からないので、まずそれからお伝えします。

それはGW中のこと。キャンディーズのスーちゃんこと、田中好子さんと一緒に、エイズキャンペーンを街頭でするので、副大臣も一緒にお願いしますとの依頼を受けました。新宿駅西口の駅頭に1時間あまり立って、ビラや、コンドームを道ゆく人に配るというものでした。私は恥ずかしながら、スーちゃんが、かねてこの反エイズのイメージキャラクターとして有名だったことは知りませんでした。むしろ、このタレントが西播磨名産の揖保乃糸のイメージキャラクターであることは、東京駅などで見かけるポスターで知っていました。

そんなことから、当日、初めて会って、名刺交換した際に、「田中さん。私は、姫路、西播磨を選挙区としています。私と貴女は赤い糸ならぬ白い糸で結ばれていますよね」との軽口を叩いたのです。つまり、選挙区が揖保乃糸の名産地であることから、二人は〝白い糸〟で結ばれている、との洒落れです。彼女は一瞬怪訝な顔をしましたが、殆ど間髪入れず、ニッコリ。「いやあ、そうですねえ」と、嬉しそうに応えてくれました。

●副大臣懇談会での小泉首相とのやりとり

さて、ほぼ一ヶ月後の5月30日のこと。副大臣懇談会が行われました。その場に臨んだメンバーには官房長官だった安倍晋三をはじめ、総務副大臣・菅義偉(現官房長官)、法務副大臣・河野太郎(現防衛大臣)、外務副大臣・塩崎恭久(後の官房長官)ら錚々たる面子が顔を揃えていました。開口一番。小泉首相から「今日は、日頃のそれぞれの仕事で報告すべきことをしてくれるか」とありました。皆真面目に、きちっと話し始めました。私は本来天邪鬼的気質が強くありますので、こういう場面ではつい、悪戯心で面白い話をしたくなるのです。

私の番が回ってきました。いきなり、私は「総理。この間、エイズキャンペーンで、私はスーちゃんと一緒に新宿の西口でコンドームを配りましたよ」と言ったのです。すると、総理は、「ん?スーちゃんって誰だ」と聞き返してきました。それには私が答える前に、周りから、あれこれ口を挟む声があがり、キャンディーズという女性3人の歌手グループの一人だと説明してくれました。総理はすると、「なんで赤松がエイズキャンペーンでそのスーちゃんとやらと一緒にコンドームを配るのだ」ときました。そこで、私が「二人は赤い糸ならぬ白い糸・揖保乃糸で結ばれていまして。これって、直ぐに切れますけど」とやったのです。

首相は、今度は「揖保乃糸ってなんだ?」訊いてきます。驚きです。この有名な素麺の銘柄を総理はご存知なかったのです。私は即座に、「河本さん。総理に説明をして差し上げて」と、ふりました。河本三郎文科副大臣は龍野という揖保乃糸の本場出身だからです。そんなこんなのやりとりが繰り返されて一呼吸経ったとき、一転、小泉さんの逆襲が始まりました。「よし、分かった。じゃあこっちから聞くが、コンドームって何語だ?」ときたのです。皆口々に、英語に決まってるでしょ!ン?フランス語?いやスペイン語かな?って、ひとしきり飛び交いました。小泉さんは、ニヤリ笑いつつ「日本語だよ。今度産むっていうだろ」と。場内大笑いで、幕となりました。

他愛もない笑い話で、官邸の地下でこんな話が副大臣会議で出たというと、まずいと思いましたが、翌日のスポーツ紙にしっかり出ていました。誰かがリークしたのでしょう。尤も言い出しっぺの名前には触れられていず、ほっとしないでもなかったのですが、このことの責任はひとえに私にあります。(2020-6-27公開 つづく)

【59】ベトナムでの鳥インフルエンザ会議へー平成18年(2006年)❸ はコメントを受け付けていません

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【58】評判悪かった「後期高齢者」の名称ー平成18年(2006年)❷

●委員会での答弁から

厚労副大臣として、通常国会において、厚生労働委員会などでの答弁を担当する一方、各種の会合で挨拶をしたり、その合間に多くの陳情を受ける機会があり、当然のことながら大変に忙しい日々を過ごしました。

例えば、今は愛知県知事をしている大村秀章氏が質問にたち、後期高齢者医療制度の考え方を述べよと、訊いてきたことに対して以下のように答えています。

【急速な高齢化のなか、大胆な制度改革が求められています。従来の老人保健制度は、保険者間の共同事業として構成されているために、一つは運営主体が不明確であること、もう一つは、高齢世代と現役世代の費用負担が不明確であるとの問題点が指摘されています。そうした中で、負担のあり方について、国民の納得と理解が得られるようにするため、高齢世代と現役世代の負担を明確化し、わかりやすい制度にする必要があるのです。

また、財政運営の責任主体を明確化するとともに、高齢者の保険料と支え手である現役世代の負担の明確化・公平化を図ることを狙いとして、後期高齢者医療制度の創設を考えました。さらに、後期高齢者の心身の特性等に相応しい医療が提供できるよう、新たな診療報酬体系を構築したいと考えています】

短い発言の中に、明確、不明確という言葉が4箇所も出て来ますが、そのわりにはわかりにくいかもしれません。本格的なやりとりは大臣との間でこのあと行われており、私は概括的な説明役でした。

●健保連総会での挨拶から

2月17日には健保連総会が開かれましたが、そこに来賓として出席して、政府が考える「医療制度改革大綱」に基づいて提出された「健保法改正案」のポイントを三つに絞って説明しています。

第一は、生活習慣病対策の充実や、平均在院日数の短縮といった中長期的な医療費適正化対策を計画的に進めようとしていることです。その一環として、平成24年度までに、療養病床の再編成を進めていきたいと考えています。さらには、現役世代並みの所得のある高齢者の患者負担の引き上げなど、短期的な医療費適正化対策をも同時に進めることにしています。

第二は、世代間や保険者間の負担の公平化、明確化を図るため、安定的な高齢者医療制度を創設することにしています。ここで、75歳以上を後期高齢者と定め、そのひとたちの加入する医療制度については、保険料、現役世代からの支援及び公費を財源として、都道府県単位の広域連合が運営することにしています。また、前期高齢者の医療費については、保険者間で財政調整を行うことにしています。

第三は、この制度を進めるにあたっては、都道府県単位を軸とした保険者間の再編、統合を進めていきます。健康保険組合については、再編・統合の受け皿として地域型健康保険組合の制度化を盛り込んでいます。

これら一連の改革及び今回の診療報酬改定によって、健保組合全体で見れば財政負担の軽減が見込まれています。それぞれの健保組合にとって、過大な負担とならないように、個別の健保組合の状況に応じて、高齢者に係る納付金を軽減するなどの措置を合わせて講じる構えです。

●死に至る準備をする年齢として

この制度改革をめぐっては、まずなによりも「後期高齢者医療制度」というネーミングがいけないという批判が巻き起こりました。75歳以上を後期高齢者、65歳以上を前期高齢者とするのは、年寄りを差別し、線引きするもので、死に追いやるつもりかという風な感情論だったと思われます。

実はこの名称をめぐってはもちろん厚労省の中でも事前に議論がありました。特に、私は、辻哲夫事務次官との間で以下のような会話をしたものです。「自分自身の死を我が身の問題として捉えるという当たり前のことが昨今、忘れられていませんか」「あたかも無制限に生き続けるかのような錯覚がありますね」「やはり、人は一定の年齢になったら、皆死への準備をする必要があるよね」「その年齢としては75歳が相応しいね」といった会話をし、互いに共通の認識がありました。正直、当然のように、「後期高齢者医療制度」との名称はそのものズバリで問題なしとしていたのです。

ですが、法案審議が始まって、色んなところで、説明をしたりするにつけて、率直な反発を受けるに及んで、変更を余儀なくされていきました。問題は本質的なことではなく、むしろ名称にみる厚労省の高齢者への感性を疑うというようなことが強くあったようです。そんなことから、では「長寿医療制度」ではどうか、ということになり、別名併記となったように記憶しますが、ほとんど今では使われていないように思われます。

●介護保険制度をめぐって

今でこそ介護保険制度は定着していますが、スタートして5年余だった私の副大臣時代は未だよちよち歩きの状態でした。日本シニアリビング新聞という業界紙にインタビュー記事が掲載(4-20付け)されましたので、紹介します。

ー厚生行政の柱の一つが介護ですが、どのように見ていますか?

赤松)介護保険の総費用は、2004年度に3兆6000億円だったのが、06年度予算では7兆1000億円になっています。65歳以上の人は約2500万人。このうち、75歳以上は、約1100万人です。認知症の方は約170万人。介護サービスを利用している人は、00年に97万人だったのが、05年には251万人(在宅)にもなっています。改めてこういう数字を見ると、「この6年間で家族任せだった問題が社会全体の問題になったんだなあ」という印象を受けます。

ー介護保険制度は4月から大きく変わりました。

赤松)予防重視型システムへの転換です。これは重要だと思います。私は60歳になりましたが、週末に約10キロ走っています。最初は無理かなと思ったんですが、続けているうちに楽ではないけど走れるようになりました。介護予防も同じではないでしょうか。長寿はますます進みます。「平均寿命100歳時代になる」という人もいます。介護とは、「健康で長生きする」ためのものです。

ー具合が悪くなってからではなく、具合が悪くならないようにする、ということですか。

赤松)そうです。

ー「介護保険にはまだまだ問題がある」という指摘があります。第一号被保険者の保険料が高過ぎるという声はよく聞きます。

赤松)4月から全国平均で4090円です。確かにこのまま増え続けたら、大変なことになるかもしれません。

14年前のこのやりとりを今、後期高齢者寸前の私が読みますと、複雑な心境になります。つい先日住んでいる地域の市当局から、介護保険料の向こう一年の予定額が届きました。ずっしりと重い金額です。家族三人全員が70歳以上の高齢世帯ですが、今のところ払う一方の立場です。恩恵に浴しているものは95歳の義母を含めてゼロというのは、やはり喜ぶべきことなのでしょう。(2020-6-25公開 つづく)

 

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【57】手探りで厚労行政への出発ー平成18年(2006年)❶

●厚生労働省というお役所

厚生労働省の副大臣室は霞ヶ関の中央合同庁舎5号館の10階にあります。上層部分には環境省が入っていて、二つの役所が同居しています。私の上司たる大臣の席についたのは川崎二郎さん。三重県選出のベテランであの自転車事故で倒れた元財務相の谷垣禎一さんの片腕とも言われた大物です。同じ大学出身で、私の方が歳上。ただし、政治家歴ではずっと後塵を拝してきました。副大臣は二人いて、私は厚生業務担当。もう一人労働行政を担当する副大臣は中野清さん。埼玉県川越を地盤とする中堅代議士です。政務官は西川京子さんと岡田広さんでした。事務次官は、辻哲夫さん。歴代の次官の中でも特筆されるべき切れ者との評判の逸材でした。この人は、兵庫県出身で後々まで深い関係を結びます。そして、私を助けてくれた秘書団は宮崎淳文課長補佐(当時)を中心に全部で男女5人。他に専属の運転手も付いてくれました。ほぼ一年の間、このスタッフには本当にお世話になりました。〝チーム赤松〟は15年経った今も続き、これからも続くはずです。

元々医療分野の厚生省と働く人々にまつわる分野の労働省と、大きく二つに分かれていたのが2001年の行政改革で合併されることとなりました。この時点で5年が経っていました。厚生行政は天皇家始め宮家との関係が深く、就任直後の挨拶回りは、普段は全くご縁のない高貴な場所に行くことから始まったことが印象に残っています。

●記者会見と就任の挨拶から

副大臣に就任した11月2日の夜、厚労省記者クラブで就任会見を行いました。その中では「厚生労働省としては、年金改革に一区切りがつき、障がい者自立支援法にも区切りをつけて、来年のテーマは、医療制度の改革であると認識しています。その課題解決に向かってしっかりと取り組んで参りたい」と述べています。

また、4日には、厚生労働省の職員を前にして、以下のような挨拶をしました。

【人間の安全保障ともいうべき分野に取り組んでいる皆さんと、このたび一緒に仕事をすることになりました。厚生労働省の仕事は、現実生活そのものに深く関わっています。これまで直接的には関わってきませんでしたが、今後の日本の政治の大きな軸である「福祉」には、非常に大きな関心を持っています。この分野は今、大きな転機を迎えているのではないでしょうか。厚生労働省の仕事にあまり習熟していない政治家の登場に対して、色々な想いが皆さんにあろうかと思いますが、私たちも大臣中心にチームを組んで精一杯取り組んでいきますので、よろしくお願い申し上げます】

なんだか意味不明ですが、よく読むと意味深長なくだりもあります。聞いていた職員の受け止め方は定かではありませんが、「変わった副大臣だなあ。まあ、俺たちは自分の仕事をすればいいので、あんた達もしっかり頑張ってよ」といったところだったのであろうと思います。

●佐藤製薬でイチロー、星野監督と出会う

就任後の様々な出会いで印象に残っているのがプロ野球・イチロー選手と星野仙一元監督との出会いです。どうしてって、思うでしょうね。佐藤製薬主催の会合に呼ばれたのですが、彼らは共に同社の販売する薬のイメージキャラクターでした。イチローさんはユンケル、星野監督はストナの担当です。主催者側の計らいで、催しの始まる前に、わざわざイチローさんとのツーショットの場面を作ってくれました。「ユンケルって効きますか」「もちろん。いつも飲んでますが、最高です」ーこんな他愛もないやりとりを交わす間にカシャ、カシャっとシャッターが切られました。色々聞く間も無く、後で待っている次の人と交替となってしまいました。

一方、星野監督とは懇親会の場面で同じテーブルを囲んであれこれ会話を交わしました。実は私と彼とは同じ時代を共有しています。星野さんは東京6大学リーグの明治で鳴らした有名選手。私は当時、神宮球場に通って主に早慶戦を見物したりするだけの平凡な学生。ただし、私はこの頃から有名だった谷沢健一、田淵幸一、山本浩二選手らのことをよく知っていました。特に、私のクラスには後にプロ野球選手になった藤原眞選手(兵庫県西脇市出身)がいましたので、そんなよもやま話ですっかり盛り上がってしまったのです。楽しいひと時でした。

●ついでに、大相撲・鶴竜とのご縁も

スポーツ関連の話題でいいますと、もう一つ、大相撲があります。私の地元姫路にあるゼネコンの平錦建設の前社長が私を大層可愛がってくれていました。本来は自民党びいきでしたが、公明党の私も随分と取り立ててくれました。毎年行われる傘下の企業従業員を一堂に集めての安全大会の来賓にも呼ばれ、挨拶の機会をくれていたのです。実は、この企業、大相撲との関連が深く、そもそも企業名の「平錦」は明治時代に活躍した姫路出身の元大関の四股名です。引退後起こしたのが前身の会社といいます。元関脇・逆鉾率いる井筒部屋一行のタニマチとして毎年春場所が開かれるときに、姫路商工会議所で懇親会を開いて、同部屋所属の力士や行司や呼び出しら関係者を激励していました。その場に私も呼んでくれたのです。この部屋には当時・新入幕(同年11月)直前の鶴竜関(現在は横綱)がいました。副大臣として初めてあった時はまだ十両でした。力士は総勢10人にも満たない小部屋でしたから、聳え立った存在で、将来が嘱望されていました。

逆鉾親方は、技能力士の元関脇・鶴ヶ嶺の次男(弟は現在は錣山親方の寺尾)です。私の世代がこよなく愛した昭和30年代の大相撲を巡っていつも話題はつきませんでした。同親方はアルコールは殆ど口にされず、常に2リットル入りのお水のペットボトルを持ち歩いていました。残念ながら先年亡くなられてしまいましたが、愛弟子鶴竜の横綱の晴れ姿を見てからだったのがせめてもの慰めです。また、平錦建設の社長もほどなく後を追われたのは残念なことでした。

肝心の鶴竜関は極めて寡黙でこちらが話しかけても、ニッコリするだけで、全くと言っていいほど話にのってきません。辛うじて父親がモンゴルでも著名な学者であることは聞き出せましたが、それ以外はあまり分からずじまい。後で調べると母親も超エリートで、本人も4カ国語が堪能とか。おっとりした性格で、今となっては、鶴竜後援会の端っこにいたということが誇らしく感じられます。

厚労副大臣就任直後の話がいきなり閑話休題めいたものになりました。人間の健康を取り扱うお役所の仕事を始めるということで、スポーツ関係の話題となったこと、ご容赦頂ければ幸いです。(2020-6-23公開 つづく)

 

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【56】第三次小泉改造内閣の厚生労働副大臣に就任ー平成17年(2005年)❹

●幻に消えた安全保障担当副大臣

衆議院総選挙が終わって暫く経ってから、冬柴鐵三幹事長の部屋に呼ばれました。何事やらんと駆けつけたところ、改造内閣で厚生労働副大臣に推薦したいということでした。率直に言って、私は副大臣にしていただけるのなら、防衛庁か外務省にお願いしたいと言いました。これまで殆ど取り組んだことのない厚生労働行政に、当選5回もの人間が行くのは、いささか戸惑いがあったからです。同じやるなら、安全保障分野で、と。慣れぬ分野で、一から勉強するというのでは、適材適所と言えず、迷惑をかけたくないとの思いがありました。

当選3-4回の人間が副大臣の適齢期でしたから、いかにも遅咲きといえます。冬柴さんは逡巡された挙句、「分かった。うまくいくかどうかわからんが、自民党に掛け合ってみる」と言われました。結果はノー。自民党筋は、国家の根幹に関わるポストは公明党に渡せないというのです。あまり納得いく説明ではなかったのですが、ごねるのも大人気ないと判断して、受けることにしました。結果的に、この時公明党に回ってきた副大臣ポストはひと枠多く回ってきました。私の要求は受け入れられなかったものの、私のことを取引材料にして、公明党は得をしたのかもしれません。

既に小泉首相も就任から4年以上経っており、恐らくこれが最後の組閣と思われました。初当選以来12年、ついに政府の側に立って仕事をすることになったのです。これまで、野党精神旺盛な私だけに、与党の一員とはいえ、結構批判的スタンスを強く持っていたので、緊張する日々がこのあと続くことになります。同時に憲法に関する特別委員会などは離れることになりました。10月31日に天皇陛下から認証を受けて、政治家としての新しい出発となりました。

●大前研一さんを姫路に呼ぼうと講演会を企画

この頃、経済評論家の大前研一さんを講師に呼んで、姫路で講演会兼パーティーをやろうと計画していました。既に書いたように、大前さんとは一緒に勉強会をしたり、オーストラリア、シンガポール、マレーシアと旅行も一緒にしていました。是非、これからの日本経済の展望を喋って欲しいと頼んだところ、すぐにオッケーしてくれました。副大臣になったことでもあり、地元の皆さんに喜んで貰える良い機会になると思ったのです。

ところが、当初、40分話して貰うつもりだったのですが、あれこれ検討するうちに、難しくなってしまい、半分の20分になってしまったのです。ご本人に恐る恐るそれでいいかと訊ねると、即座にノー。「そんなんなら行かない。だから政治家主催の講演会はダメなんだ。私に20分しか喋らせないとは、とんでもない」と取り付く島もありませんでした。さあ、困った。既に地元には大前さんが来るとの触れ込みで、パーティー券も各方面に無理をして購入して貰っていたのに。代わりを探さねばとんでもないことになる、と焦りました。

あれこれ悩んだ挙句、思いついたのが福田康夫前官房長官。この人は官房長官を辞任されてから憲法調査会で幹事としてご一緒する機会があり、親しくさせていただいていました。公明党のおかげで連立内閣がうまくいっているという答弁もくれた人です。時間が切迫する中、なんとかきてもらえないかと頼むと、いいよと二つ返事で快諾してくれました。本当に、嬉しかった。大前さんもとびきり上玉の講師でしたが、経済通ではない、普通の市民にとっては、福田さんの方が有名で、インパクトは強いものがありました。

おまけに、大前さんは、日本人で一二を争う高額の講演料を海外でもとると聞いており、私如きのパーティーでもそれなりのものを払うつもりでした。それが結果的に要らなくなったということは助かりました。福田さんは政治家ですから、交通費も要らず、全くの友情出演で済ませていただいたのです。本当に感謝に絶えませんでした。

●姫路の戦没者慰霊塔に現れた福田康夫さん

さて、12月12日の月曜日の夕刻。会場で待っていると、福田さんは約束の時間ギリギリに登場されました。いつものあのクールで、政治家からしからぬ雰囲気をたたえて飄々と。で、「赤松さん、行ってきたよ。例のところに」と言われるのです。驚きました。ひょっとすると、とは思っていましたが、本当に行かれるとは。それは、姫路市手柄山にある全国戦没者慰霊塔(正式には太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔)にお参りに行かれて、その佇まいを視察されたというのです。嬉しいというか、ありがたいというか、心底から感謝の気持ちが起こってきました。

これには訳があります。戦後まもなくに姫路市長を5期務めた石見元秀さんは、大戦において全国各地の空爆で犠牲となった人々の御霊を慰めるための慰霊塔を作ることに尽力されました。昭和27年にこの地に建設されてから、毎年8月15日を記念して、全国から戦没者の遺族たちが集まっての式典が行われてきました。私は地元選出の議員として毎回参加するようにしてきましたが、気がかりだったのは、この施設はあまりメジャーの存在でなく、国も総務省、内閣府の関係者が参加する程度だったのです。そこで、あれこれと宣伝に務め、予算委員会分科会でも質問したりしました。福田前官房長官にも一度見てほしいと言った経緯があります。

靖国神社への公式参拝が話題になるたびに、脱宗教施設でそれに代わりうるものがあればいいのにとの思いが浮上してきました。千鳥ヶ淵の戦没者墓苑もそれなりに役割を果たしていますが、既に戦没者の慰霊を慰める施設として存在しているものを流用しない手はないと思いました。そこで、私は福田さんに密かに相談したのです。今回のパーティーにわざわざ姫路まで来ていただくのなら、是非違った目的も合わせ持ってほしい、と。ダメもとで投げていたのですが、きちっと覚えておいていただき、事前の時間を活用し、見てくださったのです。

最終的には、やはりここは様々な意味で私の狙うようなものに転身させることは難しいとの結論に至っているのですが、その流れの中で、この日の福田さんの訪問は、それなりに重要な役割を果たしていただいたのです。(2020-6-21公開 つづく)

 

 

 

【56】第三次小泉改造内閣の厚生労働副大臣に就任ー平成17年(2005年)❹ はコメントを受け付けていません

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【55】郵政解散の突風吹き荒れ、5期目当選ー平成17年(2005年)❸

●「やっぱり本屋が好き」ー『論座』に登場

朝日新聞の雑誌『論座』がこの年の8月号に「やっぱり本屋が好き」とのタイトルで、識者にアンケート調査をしたものを特集で掲載しました。「私が通いたい書店 理想の書店 115人に聞く」との見出しで、書店と書物をこよなく愛する各界の方々に思いをつづっていただいた、と前文には書いてありますが、巌谷國士(文学者)、堺屋太一(作家)、佐野眞一(ノンフィクション作家)、小山薫堂(放送作家)氏らと並んで、私の名前と文章が登場しています。好きな書店の名前と、書店への注文、不満。さらには、書店に対する提案を述べてほしいという注文でした。

私は、東京にいる時は、赤坂宿舎に入っていて(建て替え時は、河田町のマンションに転居)、夜な夜な3丁目にあった「文鳥堂」という書店に顔を出していました。偶々、そこの主人が大学の先輩だったこともあり、本の話に始まり世事万般に及ぶ話題を交わした楽しい思い出があります。元はといえば、大先輩・市川元書記長のお気に入りの書店で、二人して深夜ここを訪れることも少なくなかったのです。残念ながらすでにこの書店はなく、今では飲食店に替わってしまっています。この雑誌の問いかけに私は、「ここはいつも本の配置に気を使っていて、決して広くはない空間を精一杯使っていた」と褒めています。

すでに何度か触れてきたように、私は本好きの政治家で通っていました。さまざまな媒体で本に関することが取り上げられてきましたが、この企画のように、「ネット書店が盛んな時代に、書店でしか味わえないあの悦楽を知ってるのだ」(編集部)という触れ込みのもとに、名を連ねるのは珍しいことでした。昨今、アマゾンの進出で通販万能の時代となり、各地で個性的な小さな本屋が姿を消したり、苦戦を強いられているのは残念なことです。

●郵政民営化問題ですったもんだの大騒ぎ、衆議院解散へ

自民党は確実に潰れかけているー郵政民営化関連6法案が採決された7月5日の衆議院本会議場での私の実感です。自民党の議員が反対の青票を投じるたびに、民主党席がどっと湧き、拍手が高まる情景を見つつ、つくづくそう思いました。正直言って、ここまで反対票が多いとは思っていませんでした。最終的には小泉首相も修正に応じ、反対派も妥協を図るものと見ていた私の誤算でした。「自民党を変える。変えられなければ、自民党をぶっ潰す」こう公言して憚るところがなかった小泉首相。この法案審議の過程でも、その答弁の一人よがりぶりが際立っていました。衆議院では51人もの自民党議員が造反する中、五票差で辛うじて通過しましたが、参議院では否決されてしまい、首相は公言していた通り、衆議院解散総選挙の道を選択しました。

公明党は郵政民営化については、一貫して賛成の立場でした。中央から地方へ、官から民へ、といったことを主軸にした小泉構造改革は曲がりなりにも進んできており、郵政民営化はその欠かせない柱だったからです。郵政三事業はやがて経営が厳しくなるのは目に見えており。一日も早い民への経営主体の移行が望まれていて、27万人にも及ぶ公務員を民間雇用にすることや、郵貯、簡保への政府保証をなくすことによる経済への波及効果は大きいと見ていたのです。

この国会の最終盤では、55日間の会期延長がなされ、すったもんだの自民党の内輪揉めー自民党史上初めての総務会での全会一致が崩れ、多数決による決定ーが白昼の元に晒されました。8月8日に衆議院は解散され、8月30日公示、9月11日の投票となりました。真夏の総選挙となったのです。結果は自民党だけで296議席。公明党の31議席(3議席減)を加えると、与党全体で327議席となって、三分の二を軽く超えてしまいました。民主党は64議席も減らして113議席になり、野党勢力は大幅に後退しました。結局、小泉首相の派手なパフォーマンス(自民党内の〝刺客騒ぎ〟など)のみが際立ち、小泉劇場で聴衆が巻き込まれてしまうなか、他の政党は全部吹き飛ばされたというのが実情でした。私は近畿比例ブロックで前回に続き、名簿順位二番で当選しました。前回の総選挙から僅か2年足らず。これで5期目になったわけです。

●憲法改正のための「国民投票法」の審議がスタート

先に、憲法調査会は5年間の報告書がまとめられたことを区切りにして、終わりました。衆議院議員選挙を経て、新たな国会からは、憲法改正のための手続き法としての国民投票法を審議する特別委員会が設けられたのです。10月6日に開かれた第一回目の委員会でこれからの方向性を議論しました。いよいよ第二段階の始まりです。私は党を代表して、この日発言しました。

これまでの憲法調査会は、予め憲法改正を意図するものではなく、広範囲な観点から現行憲法の実施状況をつぶさに調査したものでした。その結果、幾つかの項目において憲法を変えた方が望ましいとの意見が多数を占めたことは事実です。このため、調査結果を踏まえてこれからどう具体化するかの議論の場が必要です。しかし、それは第三段階であって、その前の第二段階としては、これまで現行憲法が制定以来用意してこなかった改正のための手続きとして国会法改正やら、改正手続き法としての国民投票法についての取り決めをせねばなりません。新しくできた委員会はそれを議論する場ということでした。

私は、最初の発言の中で、憲法の全面改正を国民有権者に問いかけるのは、煩雑さゆえに不可能に近いとの認識を示しました。このため、国民に直接改正を問いかける場合は、一括方式か、あるいは数点に絞り込んだ上での重点方式とならざるを得ない、と述べました。さらに、そうであるからこそ、公明党が主張しているように、数点に絞ったうえでの新たに加える方式としての加憲が好都合ではないか、と述べたのです。

この日を皮切りに国民投票法の議論が始まったのですが、最後までこの委員会に所属して、法案作成の作業をやり切るつもりだったのですが、そうはいかない事態が急にこのあと起こってきたのです。(2020-6-19 公開 つづく)

 

【55】郵政解散の突風吹き荒れ、5期目当選ー平成17年(2005年)❸ はコメントを受け付けていません

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【54】安保専門議員たちと訪米ー平成17年(2005年)❷

●交通機関の「安全神話」崩壊の悲劇

阪神淡路の大震災から10年が経ったこの年。今度は文字通りの巨大な人災事故が私の住む兵庫県で起こってしまいました。平成17年4月25日月曜日の午前9時過ぎ。JR福知山線の上り快速電車が塚口駅と尼崎駅の間で脱線事故を起こしてしまったのです。通勤時間でもあり、大勢の乗客が乗っており、107人の死者と562人の重軽傷者を出す大惨事になってしまいました。

実は前日の日曜日に私は同線のJR川西駅から乗車し尼崎駅まで移動していました。「ウイークエンド街頭演説会」と称してJR伊丹駅や阪急・川西能勢口駅の駅頭などで演説をしたあと、姫路での囲碁連合会の祝賀会に出席するべく動いていました。その翌日にこの事故が起こってしまい、直ちに県本部内に事故対策本部を立ち上げました。すぐに現場に駆けつけるのが当然だったのですが、残念ながら25日は東京・中目黒にある防衛研究所で幹部候補生への講演が予定されていました。このため、翌日の26日の朝、憲法調査会や安全保障委員会の参考人質疑を行ったあと、空路伊丹空港から尼崎へと向かいました。

同僚の赤羽一嘉代議士らと一緒に現場に向かい、一昼夜を跨いで続けられていた救出作業を確認したり、鉄道事故調査委員会のメンバーに声をかけたり、JR西日本の南谷昌二郎会長とも話を交わしていました。そのあと、伊丹市と川西市在住の犠牲者のご家庭に弔問に訪れました。震災や水害の事故死者の弔問もそうですが、列車事故死に遭われた皆さんの遺族への激励は胸塞がれる思いがします。伊丹市の犠牲者は27歳のOL。通勤途上でした。結婚を6月に控えておられたと云います。一方、川西市の死者は、54歳の主婦。偶々親の介護をするために、大阪へ行くところでした。ご主人の優しい物腰での対応ぶりには返って哀しさを募らせられました。

この日の動きを書いた当時の私のリポートには「かねて日本は交通や治安・警察の分野で日本ほど安全な地域はないとの『安全神話』が確立していましたが、残念ながら最近はそこに揺らぎが見られます」と懸念しています。冬柴鐵三幹事長の地元でもあるため、事後の救済活動に筆舌に尽くせぬご苦労をおかけしたご活躍も忘れえぬ思い出です。

●日米安保専門交流訪米団に参加して

一昨年に続きこの年(平成17年)のGW も、安全保障を専門にする議員団の一員として訪米しました。今回は12人の与野党議員と一緒でした。連日さまざまな日程をこなしましたが、私として強い印象に残っていることを取り上げてみます。まず第一に、ヘリテージ財団におけるシンポジウムに参加して発言をしたことです。今回は、自民党の額賀福志郎、久間章生の両氏に加え民主党の前原誠司氏の3人と一緒に出ました。私は日米関係における、直近の日本の防衛の仕組みをめぐる対応について述べました。加えて、自衛隊の平和的活用だけでなく、NGOといった民間パワーやODAとの組合せによる非軍事・経済・文化面での複合的な日本独自の貢献ーつまり「行動する平和主義」こそ日本の進むべき道であり、望まれる役割だと強調しました。

この時の訪問では、様々な米側要人と会いましたが、興味深かったのは、ドナルド・ラムズフェルド国防長官、ローレス国防次官補、リチャード・アーミテージ前国務次官、スタンレー・ロス前国務次官補らと懇談をしたことです。それぞれ短い時間でしたが、私らしくあれこれと話題を選び、対話を楽しみました。特に面白かったのは、ラムズフェルド氏に、当時日本で話題になっていたジェームズ・マンの『ウルカヌスの群像』を持ち出し、「貴方のことが書かれていましたね」と水をむけたのですが、全く通じなかったのです。通訳との間でしばし揉めた後、「OH! RISE of the Vulcans」と彼が叫びました。要するに、ウルカヌスとはラテン語。英語ではバルカンと云うと知って赤面しました。同長官は続けて、あっさり「あんまりよく読んでいないよ」と交わされてしまいました。

尤も、別な場面で、アーミテージ氏に同じ本のことに触れて、「群像に取り上げられている人々(パウエル、ウルフォウィッツら)は元気でやってるのか」と訊いてみました。すると、「個人でなくチームでやってるから大丈夫。心配ない」「パウエルは元気だ。そのうち日本にも行くはず。彼が再び米国の表舞台に登場したら、国中の皆んなが歓呼の声で迎えるに違いない」との答え。大いに満足したものです。

●防衛専門誌『セキュリタリアン』に登場

防衛専門誌『セキュリタリアン』の7月10日号の「わたしの目線」という欄に、「〝新しい言葉〟で時代を切り取る」との見出しで、わたしの日々の活動の中での想いが紹介されました。冒頭、編集者の「〝ゲストネーション・マナー〟〝忙中本あり〟これらの言葉は、赤松正雄・衆議院議員のオリジナルである。政治家にとって大きな力となる「言葉」。かつて新聞記者として活躍した経歴を持つ赤松氏は、その言葉に強いこだわりを持っているという」とのリードで書き出されています。

まず、政治の世界に身を置いて約12年、一貫して取り組んでいるテーマは外交・安全保障。この分野に取り組む理由はどこにあるのだろうか、との問いかけがあり、それに答えています。高校時代に講演会で聴いた国際政治学者の猪木正道京都大教授、毎日新聞の大森実記者の迫力あふれる話に感激したこと。そして、大学時代に聴いた中嶋嶺雄、永井陽之助といった二人の講師の講義に深い感銘を受けたことなどを熱っぽく語っているのです。この4人は私が青春期に触れた学問上の恩人でしたから。

この話の最後には「国会議員になったら外交・安全保障をやらない手はない。県会議員や市会議員の皆さんは、地方の問題で頑張っているけれども、外交・安全保障だけは国会議員の専任事項だと思うんですね。国会議員にさせて頂いたからには、外交・安全保障とか憲法をやらないともったいない」ーこれはズバリ本音です。こう思っていても中々担当できずにいたり、担当してもすぐに変えられたりするケースが少なくないのに、私はずっと居座り続けさせて貰いました。恐らく他に能力がなかったのでしょうが、ラッキーではありました。

GWの訪米で米高官に「ゲストネーション・マナーを守って欲しい」と強調したことについて、その意味するところを訊かれました。これは私の持論で、折りあるごとに国の内外で発信してきましたが、米国の地でローレス国防次官補という向こうの高官に述べたのは初めてです。

「その時印象的だったのは、ゲストネーション・マナーは私の造語なので、彼は分からなかったと見え、通訳にどういう意味だと聞き返していて‥‥(笑)。でもすぐ分かったようで、『大事な指摘をいただいた。我々としては十分に気をつけているんですけれどね』という答えが返ってきました」ゲスト・ネーションマナーという言葉は、国民からすれば、まさに「我が意を得たり」という気がするのだが、見事に一本、という感じだったのだろうか。「まあ、小手ぐらいですかね。めーん、というわけにはいかなかったかな(笑)」ーこんな風に綴られていました。

(2020-6-17公開 つづく)

【54】安保専門議員たちと訪米ー平成17年(2005年)❷ はコメントを受け付けていません

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