大雨で川が瞬く間に増水。さてどう対応するか?

このところの天候不順は全く油断も隙もありません。異常な暑さの夏が終わったかどうかという間に、今度は雨ばかりが降ってくるのです。しかもかなりの大雨が。先日の台風16号は我が町の周辺でもあっという間に川が増水して、家の周りの道路に冠水。あたかも新しく川が出来たかのような様相を呈しました。30分ぐらいの間の出来事です。私が会長を務める自治会内でも、床下浸水で大騒ぎになる地域もありました▼ある隣保では大雨が降るたびにこういう事態が起こるので、該当の住民の皆さんは気が気ではありません。特にこの度の増水ぶりは短い時間で異常な量だったので、もはや一時も待てないと、私のところに対応を迫られる電話がありました。地元市議にも連絡し、担当と思しき下水道課や危機管理室に電話をして、対策をただしました。そこで分かったことは、市役所の危機管理室では1m以下の増水は危機だとの認識がないということでした▼ただ川が増水して氾濫したからといって騒いでいては身が持たないということでしょうか。姫路でいえば、市川級の大きな川への対応には常に目を光らせていても、零細河川にはあまり関心がないといってもよさそうです。それが証拠に危機管理室作成のチラシにもそうした浅い浸水については何も書いてありません。それでは実際に川が氾濫してドンドン水かさが増えてきてもどうしたらいいかわからないということになってしまいます▼先日、地元の要請を受けて市の担当者たちが来ましたが、市には大きな災害の対応マニュアルはあっても、そこまでにはいたらない段階での対応の仕方は用意されていないのです。それに災害の危機を感じて、緊急避難をするという場合、大雨で道路が歩けない状態でどうして避難場所まで行くのでしょうか。実際、目と鼻の先に小学校の体育館があっても、ボートでもない限りいけません。せめて柵でもあれば川と道路の区別がつくのですが、それもない現状です。避難所に行けなければ、二階に上がるなり、平屋は二階のあるうちに行けということでしょうが、お年寄りにはそれさえ大変だといいます。ともあれ、高をくくっているといついかなる危機が押し寄せてくるかもしれません。今のうちにしっかりと対応策を皆で考えておかねば、と思った次第です。(2016.9・30)

イラク戦争をめぐる私的検証➅-「米国」と正面から向き合う意味

公明党がやったイラク戦争の検証は、結果として私が党機関誌のインタビューに答えるなかで反省するという体裁をとっただけであった。残念ながら、政党としてオフィシャルな形をとったものとは認められないだろう。公明党だけではなく、これまで責任ある政党はどの党も総括めいたことを満足な形ではやっていない。誤りを一度認めてしまうと、政党として以後際限なく疑念を集めてしまうので、避けたいということだろうか。また、長いスパンで見ると、ある時期の誤れる選択も、後々には良いものをもたらしたというケースもままあるから、早急な判断は避けた方が得策だということかもしれない▼しかし、「論語」にあるように、過ちを改めるのに憚る(はばかる)ことなかれ、である。むしろ、失敗は潔く認めた方が一般的には好感をもたれる。タイミングもあろう。安保法制の議論の最中に、私はイラク戦争についての総括と引き換えに、自民党との交渉を進めてはどうかと提案した(一般紙の紙上で)が、無駄なことであった。良い機会だと思ったのだが。公明党と自民党の集団的自衛権についての姿勢は微妙に食い違っており、結局は最後までというか、今日現在に至るまで玉虫色の決着のままだ。ここは集団的自衛権のいわゆる国際標準の規定に合せて、公明党が折れて、その代りにイラク戦争の検証をお互いにしてみせるというということがあっても良かったのではないか▼20世紀の後半に青春を生きた我々世代はヴェトナム戦争の影響を強く受けた。ドミノ理論を持ち出して、反共の旗印を掲げることの無意味さを結果として思い知らされた。空爆を始めとする米軍の猛攻撃をしりぞけ、執拗なジャングルでの戦いで、遂に巨大な米国に勝った小国ヴェトナム。その後の国家としての佇まいの在り様は、もう一つの「20世紀の奇跡」と言ってもいいかもしれない。評論家の立花隆氏は、米映画『地獄の黙示録』について、「誰もコッポラ(監督)のメッセージがわかっていない」と、ヴェトナム戦争の深い闇をキリスト教的見地から説いてみせた。この戦争の悲惨さは、赤裸々に描かれた数多の映画を観るまでもなく分かる▼イラク戦争やアフガン戦争、そしてシリアでの戦闘やイスラム国をめぐる現在の国際平和を脅かす戦いに、我が日本では反対の声を上げ続ける若者や平和勢力が少ないとの指摘がある。確かに、安保法制に「戦争法」とのお門違いの批判をする向きは多いのに。内向き過ぎる”一国平和主義”のなせる業だろうか。ヴェトナム戦争の教訓は、何も米国だけに向けられているものではない。その敗北の教訓を今に生かせていない米国は、中東での一連の紛争に砂漠のなかで血まみれになってのたうち回っている。この姿は、米映画『アメリカン・スナイパー』一作で十分すぎるほど伝わってくる。個人も政党も国家も、イラク戦争の検証をすることで、米国なるものと真正面から向き合い、新たなる「平和」への生き方を自身に迫ることができるのではないか。(この項終わり 2016・9・20)

イラク戦争をめぐる私的検証➄-罪深い屁理屈の展開

少し前に遡るが、私がイラク戦争肯定論を機関紙に寄稿した背景には、当時のフセイン・イラク大統領の横暴な専制君主ぶりがあり、同国北部のクルド人虐殺などの動きもあって、これを懲らしめるべく米国が立ち上るのは当然との見方があった。座して平和を待つだけではなく、軍事行動をとった米軍を支持することも許されるという公明党の立場を、どう有権者、読者に伝え、理解をして貰うか。必死でギリギリと考えたものだった▼イラクのクウェート侵略に国際社会が怒りを持っていた事実は重く、「無法なならず者イラク」への非難の眼差しは覆いがたいものがあった。そんな中で、私の湾岸戦争から13年越しのイラク戦争という捉え方が生まれた。つまり、湾岸戦争は一旦終わっていて、連続していないなかでの新たな戦争なら、米軍の先制攻撃は批判されて当然である。しかし、イラクの侵略が始まっていらい、両者間で幾度かの戦闘がほぼ間断なく続いていたとみるなら、話は変わってくる。不正行為を撃つということで、米軍のイラク攻撃は”先制”ではなくなってくるわけだ。こうした論理を可能にするために「13年戦争論」は、必要な前提事項だったのである▼開戦当時、大量破壊兵器のあるなしが大きな注目を集めていた。しかし、その後の戦争の進展の中でも発見されなかった。ゆえに、様々な批判が巻き起こった。しかし、私はくじけなかった。小型の化学・生物兵器であっても大量に人を殺戮できるし、今発見できていないのは、開戦の特殊な戦闘状況の中で、消失してしまったのかもしれない。あるいは誰かがどこかに持ち去ったということも考え得るとといった屁理屈を盛んに喧伝したものである。日米同盟の絆を確信してのことではあったのだが、今となってはいささか肩入れしすぎの感は否めない▼そうしたことを経て、やがて大量破壊兵器がそもそもなかったことを認める情報が、当事者たる米英双方から発信されたのである。まさに二階に上がって梯子を外されるというのはこの事だとの思いは強かった。「それ見たことか。せめて仏独のように、アメリカに注文を付けておくべきであった。誤れる情報を唯々諾々と受け入れ、従属しきった姿勢をとったのは、日本外交の大失態だ」との見方が世の中に定着していった。誤った見方を得々として提示した私の罪も少なくない。機関紙上で提起した情報分析の誤りは、せめて機関誌上で反省しておきたいというのが私の最低限の矜持というものであった。(2016・9・19)

イラク戦争をめぐる私的検証➃-公明党内総括の顛末

一方、山崎正和氏も、イラク戦争について米国の姿勢を肯定的に捉え、擁護する論陣を張られた。衆議院の外務委員会か、イラクに関する特別委員会だったかに、参考人として出席され、その信ずるところを述べられた。私は質問に立ち、その考えられるところを直接問うた。その時の山崎氏の発言は、イラクはそうした「成敗」を受けても仕方がない存在であり、米国の決断を支持した日本の選択はやむを得ないというものだったと記憶する▼山崎氏は後になって、当時のイラク戦争についての自身の発言の非を認められ、今後の戒めとする旨の論考を公表された。この人には『歴史の真実と政治の正義』や『柔らかい個人主義の誕生』など、歴史への深い洞察に根差す著作が数多く、熱烈な信奉者も多い。かくいう私もその一人だった。文明評論の名手をもってしても、現実の国際政治の動向は時に判断を誤らせるもののようである。だが、素直に謝られた姿勢はすがすがしいものとして私の目には写ったものだ▼こうしたなかで、政党としてもその選択の当否が問われた。公明党の場合は、衆議院総選挙の敗北(2009年8月)を総括する形で、自らに問うた。2009年10月に党内に社会保障と安全保障の両分野の検証チームを立ち上げて、これらの分野における政策展開の是非をめぐる議論を行ったのである。前者は坂口力元労働相が、後者は私が責任者となった。負けた原因を探る作業を行うことは元気が出るものではない。まして国際政治の動向への判断の過ちをどう考えるかは、政党として極めて難しい課題である▼日本の選択は間違っていたとの結論を党として出すのは早過ぎないか。よほど慎重にすべきだ。後世の歴史家に判断をゆだねるべきではないのかーなどの党内意見は根強かった。結局は最終的に総括する文章を残すことは見送られることになった。しかし、せっかく党内にチームを作り、検証する議論をしたのだから、その軌跡は残したいという意向を私は貫いた。最終的には、私へのインタビューという形ではあったが、党理論誌『公明』に掲載することで陽の目をみたのである。そこでは、「誤れる情報に踊らされたと言わざるをえない」し、「確たる裏付けがないにもかかわらず、一方的な情報に与したことは反省しなければなりません」との反省の弁を述べたうえで、「公明党が結果として(イラク戦争を)容認したのは不適切であった」と明確に誤りを認めたのである。(2016・9・18)

イラク戦争をめぐる私的検証➂ー見通しを誤った評論家たち

イラク戦争についての経緯を思い起こすにつけて、忘れられないのは、二人の著名な評論家のことだ。一人は元外交官の故岡崎久彦氏。もう一人は劇作家であり、文明評論家の山崎正和氏である。二人とも私にとって仰ぎ見る存在であるが、幸いなことに親しくさせて頂いた。ご両人とも、私の学問上の師・中嶋嶺雄先生のお引き合わせがあってお出会いした。岡崎さんは、集団的自衛権行使を早く認めよとの議論を論壇などで盛んにされたことや、安倍晋三総理と深い関係があったことで知られる。私とは「新学而会」という学者・文化人、政治家の私的勉強会でご一緒した。イラク戦争については、米軍を中心とする攻撃で、世界中が右往左往していた頃、必ずや近い将来には、中東に自由で民主的な新しい国家が誕生するのだから、心配する必要はないという意味合いの極めて歯切れのいい論考を発表されていた▼これについては、後年になって、外務省の後輩である孫崎享氏との「論争」が私的には注目された。孫崎さんは、『戦後史の正体』などの著作で知られるが、その外交感覚の不明さで問われ続けている鳩山由紀夫元総理を真面目に持ち上げたことでもわかるようにユニークな評論家だ。真正保守の「守り神的存在」の岡崎氏に比べると、奇をてらった形で論壇への殴り込みをかけがちな孫崎さんは、失礼ながらあたかも「疫病神的存在」かも知れない。中央公論誌上での「岡崎・孫崎対談」は興味津々であったが、どちらかと言えば、孫崎氏の方に軍配を挙げたくなる内容だった▼国際社会での出来事をナイーブな感性で観ることは往々にして事の本質を見誤ることになる。したたかな図太い理性で見ていかないといけないということは分かる。しかし、イラクについての岡崎さんの見立ては明らかに間違っていたというしかない。今なお混迷の度を加え、民主国家の誕生どころではない、かの地の事態には、ご本人に間違った情勢判断だったと言って欲しかった。しかし、最後の出版となった『国際情勢判断半世紀』という回顧録にも、イラク戦争をめぐる記述は皆無だった。残念なことだ▼ただし、一か所だけ気になるところがある。台湾をめぐる情勢判断について、1993年頃に九州での国際会議で、「(10年後の台湾について)独立志向が強く、多分今の情勢でいくと、事実上独立国になっているだろう」と発言されたことに触れておられるくだりだ。中国の代表が「台湾問題は我々が決める問題だから」と抗議してきたことを明らかにされたうえで、こう述べている。「客観的見通しを話しているだけで、もしそうなっていなかったら、私の判断が間違ってるだけの話だ」と。イラク戦争についても、せめて「私の判断が間違っただけの話だ」とぐらいは言って欲しかった。(2016・9・15)

イラク戦争をめぐる私的検証➁ー”13年戦争”との独自の見立て

ここに二枚の古い新聞記事がある。2004年2月2日と3日付けの二回にわたって、公明新聞2面に「イラクへの自衛隊派遣と公明党の平和主義」と題して赤松正雄外交安保部会長の名のもとに寄稿されたものである。(上)では、「問題の本質は”13年戦争”」「目的は人道支援、軍事分野を排除」との見出しが目に入る。ここでは、公明党が平和主義を捨てたのではないか、との当時の批判に対して、的外れだと断じたうえで、その背景に「三つの勘違いと一つの思い込み」があると述べているのだ▼当時の支配的な空気は「現在のテロが頻発する事態は米国の武力攻撃がもたらしたもので、しかもあると言っていた大量破壊兵器がいまだに発見されないのでは、そもそも戦争の大義がない」というものだった。この点について、私は、「イラクのクウェート侵略に端を発した湾岸戦争とイラク戦争とを全く別のものと見るという、勘違いを起こしている」としている。つまり、私の見立てでは、この戦争は実は13年に及ぶ、本質的には一つの戦争であるというものだ。戦争の大義は、大量破壊兵器のあるなしではなく、イラクの国際法無視を諫めることにあるとの論法だ。二つ目には、ドイツやフランスのように、国連における合意取り付け努力を最後までせずに、日米同盟を優先させたのは国連軽視だとの空気があった。それについては、独仏のイラクとの特殊な関係に目を覆ってしまっているし、隣国に秩序破壊国家・北朝鮮を持つ事情を弁えないことがもたらす勘違いだとしているのである▼(下)では、「あくまで憲法の枠内で判断」「テロ許さぬ”行動する平和主義”」と見出しにある。三つ目には、当時、戦闘状態の再発が懸念される地に自衛隊を出すことは、憲法の禁じる武力行使に追い込まれる可能性があるとの批判があった。これについては、武力行使と護身目的・正当防衛のための武器使用とを混同することからくる勘違いだとしている。最後に私があげる「一つの思い込み」とは、国際貢献は、PKO (国連平和維持活動)までで、それ以上は踏み込みすぎだとしていることである。ようやくPKOの存在が市民権を得た頃であったから当然といえば当然の反応だった。だが、私はへっぴり腰の国際貢献ではないものを目指そうとする公明党の意気込みの現れを表現しようとしたのだ。最後に5原則型のPKOを超えて、多少危ないところでも秩序破壊の国際テロは断じて許さないとの決意を表明。公明党は、人道的見地からイラク復興へと貢献することを、平和主義と決して矛盾しないと捉えている、と結んでいる▼「イラク戦争=13年戦争論」というのは私の独自の見解だが、あとは当時の公明党の原則的な捉え方を逸脱したりしていない。この記事を寄稿するきっかけは、支持団体の婦人たちの間で、イラク戦争について公明党が支持する理由を分かり易く書いてほしいという広範囲な要望があると、女性同僚議員から聴いたことによる。掲載直後には、「行動する国際平和主義」の面目躍如たる内容のものが書けたと、自画自賛していたことが懐かしく思い出されてくる。しかし、ことはそう甘くなかった。事態は暗転する。(2016・9・9)

イラク戦争をめぐる私的検証➀ー英国がやってのけたこと

この7月に英国で起こったことが気になっている。イラク戦争を検証するための「チルコット委員会」という調査委員会が報告書を公表したのだ。これは、09年に当時のブラウン英首相が政府とは独立した機関として設置したものだが、実に7年かけて結論を出したその中身は、我々日本人にとっても見逃せない。ここには、英国が米国のブッシュ政権に根拠なく追従した経緯が詳細に記載され、さしたる外交努力をせずに無為に開戦に至らしめたことへの批判がなされているからだ▼米国の同盟国の一員としての日本は、イラク戦争について、何らかの検証をしてきただろうか。1993年から約20年間にわたって、日本の政治とりわけ外交・安全保障分野に関わってきた身として、このことに頬かむりは出来ない。まして開戦当時に、ブッシュ大統領を支持した小泉首相を陰に陽にサポートしてきた公明党の一員としてはなおさらだ。しかも私は当時独自の論調を機関紙公明新聞紙上に掲載した。であるがゆえに、後にそれこそささやかではあるが反省の意味を込めた検証を党の責任者として試みた。それは同時に機関誌『公明』誌上に公表されたのである。それらの行為は幸か不幸か全くと言っていいほど世の中に注目されてこなかった。それはひとえに私の非力さが起因していよう。だが、これを忘却の彼方に消え去るままにしておくのは惜しい。そのため、ここに個人の責任において、私的な総括を試みておきたい▼そう決断するに至った背景には、イラクの今なお荒涼たる風景がある。IS(イスラム国)の横暴をほしいままに許し、依然として無法の地であり続けているかに見えるイラク。かの戦争が起こった当時、著名な外交評論家が、「今はどうあれ、必ずや近い将来には、民主的な国家としてイラクは生まれ変わり、中東に新たな世界が幕を開く」と強調し、今一人の現代日本を代表する文明評論家も、かの戦争をやむをえざるものとして積極的に肯定する論陣を張った。これらに影響を少なからず受けたものとして、十数年が経った今なお、苦々しく思い起こす▼今ここで改めて経緯を振り返るに当たり、ただあれは間違っていたと、反省し批判するだけでは能がなさすぎる。それでは、あの選択は止むを得ざるものであり、最終的には歴史の審判を待つしかないとの反論ならぬ言い訳に、まっとうな意味で対峙することは出来ないと思うからだ。「安保法制」をめぐる議論があたかも国論を二分し、かつての自社対決下の不毛の安保論争に逆戻りするかのような様相を呈しているだけに、ここでより一層きちっと振り返っておきたい。イラク戦争を総括しない限り、真実の意味での現代の「平和」は見えてこないと、私には思われてならない。(2016・9・5)

今夏の観光から➂-シンガポール、香港で淡路島と神戸を想う


現役引退後三年半あまり、残念ながら海外には行く機会がありませんでした。インバウンドを推し進めるものにとっては、アウトバウンドも経験しておかなくてはなりません。密かに機会をうかがっておりましたら、遂にやってきました(いささか大袈裟かな)。今一緒に観光の仕事を進めている仲間には、実に多彩な人材がいますが、そのうちのひとりであるJKHジャパン(株)の社長・竹田義信氏からシンガポール、香港への旅の誘いを受けたのです。偶々このほどシンガポールに赴任したばかりの篠田浩次大使は旧知の間柄でもあるし、香港には和僑の雄で友人のホープウィル(株)社長の堀昭則氏がいます。彼とも久しぶりに会いたいので、二つ返事で快諾しました▼シンガポールには10数年前に経済評論家の大前研一氏や市川雄一公明党元書記長らと行ったことがあります。マレーシア、オーストラリアへも足を伸ばした忘れがたい旅です。何しろ大前氏はリー・クワンユー氏やマハティール氏らと昵懇で、それぞれの国の政府アドバイザーを務めていましたから。今回はそれ以来です。躍進するこの国の現状を大使との対話で実感してから、街なかに乗り出しました。何しろ淡路島と同国はほぼ同じ面積。そこに兵庫県全体に近い550万人ほどの人々が住んでいるのです。大使からは同国と淡路島との交流推進やら、今年50年になる両国関係を寿ぐ記念の会への協力を求められました。願ってもないことです。竹田社長もその場で出店する企業を探す努力を約束。私も尽力する旨伝えました。竹田氏の仕事は、飲食店の経営や運営に関するコンサルティングが主なもので、これまでカンボジア、タイ、上海、台湾、香港、シンガポールなどに進出して数々の実績を上げています▼香港では、現地生まれの同社社員のエドウイン氏に通訳を兼ねての案内をしてもらいました。和僑の第一人者・堀社長は兵庫県たつの市出身で広島大を卒業した後、40代半ばの今日までずっと香港で仕事をしている強者です。ホープウイル社は香港に拠点を置き、アジア一帯の情報を幅広く発信している企業。昨今はイスラムの人々の情報を日本に向けて送り込んでいます。淡路島へのインバウンドについては、様々な意味で不透明さを漂わす中国よりも香港、台湾、韓国の人々を優先させて取り組むべきだと助言してくれました▼かねて大学生時代に師事した故中嶋嶺雄先生が書かれた『香港』を読んでいらい、この地には憧れてきました。1980年代初頭に、10日を超えた中国への旅を公明新聞記者として果した時、出国時の場所が急きょ香港から上海に変更になってしまったのは残念なことでした。堀さんの「山と海の双方から香港を眺めるといい」との勧めに従って、ビクトリア・ピークから巨大ビル群を見下ろし、スターフェリーに乗船して海から街を眺めました。神戸の六甲から観る夜景が100万ドルの夜景と信じてきましたが、その100倍もスケールの大きい香港を観て、ただ驚嘆するばかりでした。また渡し船さながらに香港の街中を結ぶ船は、明石海峡を渡る船を持つ淡路のジェノバライン(株)にとっても、大いに参考になるものでした。これからインバウンドに取り組み、瀬戸内海観光をブレイクさせたいとの望みを持つ身として、限りないヒントに満ちた「2016夏のアジア旅」でした。(2016・9.1)