翌日24日は、東京に2日ぶりに舞い戻った。鴻巣駅から乗車したのだが、この場所が「こうのとり有縁の地」であることに、兵庫県人として大いに感じ入った。ただし、宿泊先のホテルのフロントの2人の女性も、お世話になった我が友人夫妻も、「豊岡のこうのとり」については全く知らず、ちょっぴり残念だった。午後は、前ポーランド大使の宮島昭夫さんと会った。現役時からお付き合い頂いた懐かしい人だ。なお、少し前にポーランドを訪れていた参議院公明党の谷合正明会長にも同席してもらった。宮島さんからは、ウクライナからの避難民受け入れに奮闘した彼の国の実態をつぶさに聞くことが出来た。明年春に開戦3年目を迎えるウクライナ戦争について、同氏から避難民受け入れ、定住支援について、継続して支援をしてほしい旨の要望があり、谷合氏からは必ず対応するとの回答がなされた。私はその際にウクライナ問題に詳しい岡部芳彦神戸学院大教授との連携を強調し、直ちに電話をして関係を強化できた。宮島さんは、7年ぶりに帰国した感想として「活気漲るポーランドに比べて、日本はあまり元気がない」と話されたのが印象的だった。私は「77年の興亡」に起因する持論に触れて、日本の立ち位置を説明した◆夕刻には、人形町のホテルで、元英国大使の林景一さんと、サミュエル・ベケット研究の第一人者である岡室美奈子早稲田大教授の3人でひさしぶりに会った。この3人は私がアイルランド訪問をした2005年以来のご縁で、時に応じて集まり懇談する仲間だ。この日は先年亡くなられた林夫人を悼む目的もあり、遺影を囲んでの集いにもなった。この日の話題は、林さんが退官後に最高裁判事を経験されたため、その期間の思い出を聞くことから始まった。最も彼が関心を寄せたのは「袴田事件」だと言われたことから、種々議論が展開された。テレビドラマ研究でも著名な岡室さんは、女性初の弁護士、裁判官としても活躍した三淵嘉子さんをモデルにしたNHKの朝ドラ『虎に翼』について、とてもよくできた見応えのある中身だったと述べられた。また、脚本を書いたのが教え子ということから、部分的にはこなれていないくだりを指摘されたことなど、面白いドラマ論議になった。また、女性の社会進出について未だ未だ日本が遅れていることについての問題指摘が興味深かった。私からは、姫路でのベケット小説家の諸井学氏の出版祝いの模様について触れて、岡室さんにぜひベケットにまつわる本を書いて欲しいと頼んだ。何とか書きたいと考えているところだとの返答があったことは、嬉しい限りだ◆25日は、お昼に創価学会SGI副理事長の寺崎広嗣さんと会った。彼は中野区在住でかねて私とは昵懇の間柄。「核廃絶の問題」で世界を駆け巡っての活躍ぶりはまさに目を見張るばかり。この日も話題は世界の核問題から国内政治の現況まで、大きく深く広がった。私からは、先の衆院選の最中に日本記者クラブでの各党党首の合同会見で、来年3月の核兵器禁止条約会合に、日本のオブザーバー参加について、記者から意見を求められながら、今一歩積極的発言をしなかった公明党代表について不満を述べた。あの場面は、石破首相の方に身を向けて「総理ぜひ参加しましょうよ」と述べる一大チャンスだったのに、と。その後、中野桃園町から西新宿へと、昔からの中野区の仲間2組と、明年の都議選に向けての対応などを種々話し合った。夜は、溜池山王の料理屋で私が厚労副大臣時代の宮崎淳文秘書官が総括審議官に就任したことに伴うお祝いの会を、かつての仲間たちと一緒に持った。それぞれ成長を如実に物語る話に聞き入りながら、歳月の持つ意味を強く感じた◆翌26日は、今回の上京の目的である公明党大光会の全国県代表世話人会が正午から開かれ、出席した。冒頭、斎藤鉄夫新代表から、これからの党再建に向けての決意が述べられた。彼とは「核」や「原発」問題で激論を交わした仲だけに、党内議論を積極的に起こし、この党を大きく変える役割に貢献してもらいたいと切に望みたい。夕方5時からは、西麻布の霞会館で、在京姫路出身者有志による「姫人会」に出席した。この会は有難いことに私の上京時に合わせて7-8人が集まってくださる。この日は私が衆院選の時に知り合った電力総連政治部の俊英と、私のいとこの長男である農水省の役人という40歳台の若い2人と、総合商社丸紅出身の70歳台の熟練の先輩が初参加してくれた。話題は、未熟児出産問題の権威である福岡秀興医学博士の現状報告に始まり、私の兵庫県知事選挙の経緯説明に至るまで、広範囲に広がった。このように、4泊5日の闘いを終えて新幹線のぞみに乗って、西明石に着いたのは深夜11時40分。79歳の誕生日はこうして暮れた。(2024-11-28)