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新築か改築か増築か。それとも庭にプレハブか……「改憲と加憲のあいだ」➄

現役時代の憲法議論で忘れられないもう一つのテーマがある。それは増補型改正(アメンズメント)という問題である。これは今ある憲法はどの部分も一切削除しないで、必要な部分を足していくという改正のやり方である。つまり、1946年憲法は手つかずでそのまま残しておき、新たに付加した部分で、20XX年憲法として成立させるというものである。加憲と似てはいるが、原型を留めたままにしておくというところがいささか違う。これは家の建築に例えていうと分かりやすい。新たな憲法を作るー例えば、昭和憲法のようにーのが新築だとすれば、改憲は改築、加憲は増築といえ、この増補型改正というのは今ある家の庭に小さなプレハブのようなものを作るケースといえようか。古い家も使いながらこのプレハブへも行き来するといった使い方だ▼この改正方式については、法政大学の江橋崇教授を招いての勉強会の場でご本人から直接聴いた。今ではこれはすっかり忘れられているが、憲法制定当時は話題にのぼったという。建国直後の雰囲気を今に伝えるアメリカ合衆国憲法は、その方式を採用しているし、フランスの人権宣言も200年前を彷彿とさせる。またイギリスでは1215年のマグナカルタや1689年の権利章典がついこの間まで、この国の現行法の一部であったことも明記する必要がある。そういう各国と同様に、世界に冠たる「平和憲法」をそのまま残しておき、それに新たな条項を付け加えていこうというものだ。加憲が今ある憲法の中に書き加えていくのと違って、新たに補っていくものである▼実はこの辺りのことについては今からちょうど10年前の2007年3月22日の憲法調査特別委員会公聴会の場で、公述人として招かれた江橋崇さんに私があれこれと訊いている。その二人のやりとりのポイントは、江橋さんが加憲と増補型改正はあまり違わないといってるのに対して、私が二つは結構違うのではないかと主張しているところだ。ここで面白いのは、江橋さんが「日本は、法律を改正したりすると、それまであったすべての法律を新しい法律の中に吸収合併したものにしなければいけないという思いが強く」て、なかなか立法作業が追いつかないと言ってる。つまりそういった整合性を求めるために官僚主導の作業になってしまうのが日本の特徴だというわけだ▼アメリカやイギリスは前のものと後のものの矛盾など気にしない。「まあ、何とかなるだろう。その辺のいい加減さがあるから議員立法で行ける」という。江橋さんは「加憲でも増補型改憲でも、官僚主導の立法というものに対する風穴があくことになるかな」と述べ、あまり細かなことを気にせず政治主導でやって見ろとけしかけていたかのように思われる。結局は官僚主導に取り込まれてなんとも思わず、がんじがらめにされた日本の政治の姿ではないか。10年一日のごとくどころか、70年一日のごとく憲法の呪縛に陥ってるのは、官僚に負けている日本の政治家の惨状だと彼は言いたかったのだろう。引退して4年経った今頃になって、私はそれが一段と身に染みて分かる思いがしてくるのだから、悲劇を通り越してお笑いだといえよう。(2017・2・17)

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9条に新たな規定を書き加えるとー「改憲と加憲のあいだ」➃

憲法9条をめぐっては長きにわたって正反対の立場からのぶつかり合いがある。ごく簡単に言えば、現実との大きな乖離があるから、現実に合わせて条文を変えていくのか、条文はあるべき理想を示しているのだからそれは触らずに、現実を一歩でも近づけていくべきだ、という改憲論と護憲論の二つだ。それに加えてもう一つの主張がある。それが9条にも新たな項目を加えていこうという加憲論だ。1項と2項はなにはともあれ日本社会に深く定着しているのだから、あえてそれは変えたりせずに、現実との乖離をそれなりに埋めるべく、足らざるを補おうという考え方である。公明党内の憲法調査会で、私もそういう提案をしたことがある▼これは、国際社会におけるPKO(国連平和維持活動)など、すでに多くの実績を残している国際貢献活動の根拠となる規定を設けることが具体例として挙げられる。もう10年近い歳月が経っているが、党内で主張した当時は寄ってたかって反対されたり、無視されたとの記憶がある。3項にわざわざ付け加えずとも、今ある法律の解釈で済むし、それで追いつかぬなら、新たに法律を作って対応すればいいとの考え方が支配的であった。だが、それでは私は満足できなかった。外交安全保障分野の責任者としての私の脳裏には、防衛研究所での「政党研修」の際に自衛隊中堅幹部から質問された場面が思い浮かんだからである。「憲法における自衛隊の位置づけを一日も早くしてほしい」との切なる要求だ。それをせぬまま新たな任務を課すことは更なる矛盾を追加することに思えた▼昨年実現した「安保法制」において「駆けつけ警護」という活動が新たに付与された。私が在職していたほぼ20年間というもの封印されてきていたPKOの本来任務のひとつが遂に陽の目を見たものである。これには忘れがたい思い出がある。中嶋嶺雄先生(東京外語大元学長、秋田国際教養大学元学長)が、かつて「赤松君、日本の参加するPKOには、駆けつけ警護の任務を付与させるべきだよ。でないと国際社会の一員として恥ずかしい」と懇願するようにいわれたものだった。もはや鬼籍に入っておられるので詮無いことだが、生きておられたらどんなに喜ばれたことか。これなど解釈改憲だとの批判があったが、私たちはそうは思わない。駆けつけ警護に伴って発生する「戦闘」は、憲法が禁ずるものとは異質のものだとの認識である▼いま安保法制論議を経て、憲法9条を加憲の対象にすべきかどうかがあらためて注目されている。公明党の現在の担当者は、議論の対象とすることはやぶさかではないとのニュアンスの発言をしている。これには、端からやる気がないのに様子見をしているだけとの見方が専らである。他方、9条に3項を加えるなどという矛盾の上に矛盾を上塗りするのは全く無駄だとの本質的な批判もある。そういう意味では、むしろ3項に「自衛のために自衛隊を保持する」などの規定をおき、それを受けて4項に国際貢献などの任務を書き加えるということも考えられる。これなら、自衛隊員の長年の念願も解決する。だが現実的には9条加憲は9条護憲と9条改憲の間を彷徨うだけかもしれない。ただ、この問題提起は打ち続く「不毛の対立」の壁を乗り越える糸口になる可能性は少なくないものと思われる。(2017・2・9)

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公明党の折り合いのつけ方の上手さを褒められて

先日、仲間内で「カジノ」をめぐってあれこれと話す機会がありました。この際に淡路島なんかに誘致してははどうかと積極的に賛同するひと、いやそれは御免蒙る、絶対反対だというひとの間で論争になりました。結局は日本にあってもいいが、兵庫よりも大阪辺りが相応しいのではないかというところに大筋落ち着きました。昨年夏にシンガポールに行った際にカジノの現場を見てきた私としては、どちらかといえばカジノ賛成の立場です。ですが、ギャンブル依存症などへの十分な対応が用意されることが必要だろうと思っています。既にパチンコを筆頭に「ギャンブル大国」と言われる日本ですが、その陰で人生の破綻を経験し、悪戦苦闘しているひとが多いことは決して見逃せません▼先の国会ではカジノ導入をめぐる法案の採決で一波乱ありました。とりわけ、公明党が採決にあたって党議拘束を外して議員個人の自主的判断に任せたことが話題になりました。口の悪い向きは、政党として一つのまとまった決断を下せないのはおかしい、政党の体をなしていないとまで言う向きもありました。一方、こういう風に公明党を追い込んだのは自民党政権で、公明党は精一杯抵抗姿勢を示したともいえ、立派だったとの考えもありました。私自身は、後者に近い意見でしたが、もう少し自民党に文句を云ってもよかったのではないかとの思いも否定できませんでした▼ところが、そういう状況の直後の世論調査(共同通信)では面白い結果がでていました。政党支持率において公明党だけが支持率を伸ばしたのです。なぜでしょうか。親しい記者と意見交換をした結果、世論は公明党がひとつにまとまらず、議員個人の自主判断にゆだねたことに新鮮さを感じたのではないか。賛否のバランスがほぼ二対一で賛成派が多く、しかも、山口、井上のツートップが反対したことにも意外性があって、評価する向きが多かったのではないかとの見立てで一致しました。後輩の衆議院議員に訊くと、あらかじめ打合せもせずああいう結果が出たことには党内もみな驚いていたといいます▼この間私の親友が姫路に来て久しぶりに懇談をしました。談たまたま政治の今に話題が及びましたところ、何かとうるさい彼が「俺は創価学会員でも、公明党員でもないけれど、近ごろの公明党は素晴らしい。それは政治課題についての折り合いのつけ方が実に上手いからだ」というのです。つまり妥協の仕方がいいというのです。彼は哲学者の永井均氏の『倫理学』なる著書の一節にある「中庸とは何か」とのくだりを引用してまで、公明党代表の山口氏が中庸の本義をみごとなまで実践している、と力説するのです。公明党が時々の政治課題に対して上手く折り合いをつける手法は、何も今に始まったわけじゃあないと言いたかったのですが、折角褒めてくれるのだからと、有難くお褒めの言葉をおし戴いた次第です。(2017・1・29)

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「死に姿で生き方が分る」ことの大事さー「生死の研究」(2)

「死期を悟って、死を受け入れたと思える人の遺体は、みな枯れ木のようで、そして柔らかな笑顔をしています」-映画「おくりびと」の基になった「納棺夫日記」の著者である青木新門さんの「死を語る」(読売新聞1・22付け)は非常に読み応えがありました。いつの頃かぶよぶよした遺体が増えており、それが延命治療を受けてきた人に多く、それは「死を受け入れず、自然に逆らった結果のようにも感じられます」と述べた後に、冒頭の言葉が続くのです。そして「体や心が死ぬ時を知り、食べ物や水分を取らなくなり、そして死ぬ。それが自然な姿なのではないか」と続けています▼志村勝之氏も彼の母上の延命治療が極めて不本意だったことを述べていて印象深いものがあります。ご本人がそれを望まなかったにも関わらず、結局は最後の段階でそうなってしまったことを悔いているのです。私の親しかった従姉は70代半ばで倒れて、もう意識不明のまま3年近く病床に横たわっています。これはもうむごいとしか言いようがありません。本を読むことが大好きで、あれこれと本の読後感を交わしていた彼女が今のような事態になるなんて。しかし、延命治療を放棄せよなどとはとても言えません。ひたすら耐えるしかないのです。青木さんのいうような死に方をしたくても出来ない。辛いことです▼生きてきたようにしか死ねない、っていいます。しかし、これも残酷な云い方です。意識不明のままで寝たきり状態が続くという、死への道程を誰が元気な時に想像できるでしょうか。私の従姉の生き方にどんな咎があったというのでしょうか。この状態を目の当たりにし、じっと看病を続ける夫の義従兄を思う時に、本当に辛いのは本人ではなく彼だなと思います。そういう老妻を持ち、悩み苦しむ宿命を実感するということで。仏法では「宿命を使命に変える」、と教えています。「悩むより挑む」のだとも。愛するひとが死もままならぬ事態にじっと堪えて寄り添う姿に、多くのひとが感銘すると捉えるしかないと思っています▼私は小学校へ入学する少し前、5歳くらいの時に、祖母と一緒に叔母(祖母にとっては娘)の家に行き、そこで祖母の死に直面した経験があります。初めてひとの死を目の当たりにしました。いらい65年余り。あの時にみた祖母の遺体から流れ落ちた一筋の液体が目に焼き付いて離れません。今私には6歳と3歳の孫がいますが、この子たちに感動を与えるような死に方をしなければ、と思います。勿論、どのように生きてきたかを知ってもらいたいとは思いますが、それを直接分からせるのは、今の歳では無理だろうから、取りあえずは死に方を通じてでしかない、と決意しています。(2017・1・25)

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奥深き国・タイのとば口に立ってみて……

先週明けの17日からタイのバンコクに三泊四日で行ってきました。今なぜタイなんでしょうか?これまでの人生で行く機会がなかったのでここらでなどというありきたりの理由やら、仕事絡みということもありました。しかし、行ってみると色々と考えさせられることが多く大変に貴重な旅となり、私が今行くべき必然性があったような気さえします。タイにしばしば趣味と実益を兼ねて行っている友人にあらかじめタイの印象を聞くと、「とっても優しいひとが多いけど、『暑い、汚い、臭い』ところだ」というのが答えでした。私としては、「爽やか、賑やか、したたか」な印象が率直なところです▼タイの一月は暑すぎることもなく、もちろん寒くもなく、ちょうどいい感じでした。亡くなられたプーミポン国の喪明けと重なり、どこもかしこも観光客と喪服姿の人々や旧正月を祝う地元民とでごった返していました。そしてツクツクという三輪車風の乗り物の若い運転手は、暴走族さながらで乗客の私たちの肝を冷やさせたうえ、ぼったくりの運賃請求をしてきたのです。タイ式マッサージ師の女性の豪快そのものの揉み方と共に、優しさよりもしたたかさが上回る印象は否めませんでした。建設ラッシュで超高層ビルが林立、真新しいビルには欧米の専門店が軒並みオープンしており、よほど注意していないと、ここがアジアの一角だということを見紛いかねないぐらいです▼今回のタイ訪問での私の密かな狙いは、西欧風民主主義の黄昏に直面して、仏教の哲人政治の伝統を持つタイから学ぶことがあるのかという問題意識でした。軍政と市民政治をクーデターを挟んで交互に繰り返すこの国の政治の歴史的伝統は、単なる民主主義の遅れということだけで切り捨ててはならないとの指摘があります。故岡崎久彦氏が駐タイ大使時代に書いた著作で力説しているところです。また、大乗仏教の王たる法華経を身の内に取り入れて50年の私としては、三島由紀夫が自決の直前に書いた豊饒の海第三巻『暁の寺』における輪廻転生の生死観は長い間の判じ物的課題でもありました。小説の中に描かれた寺院とメナム川(チャオプラヤ川)の風景に身を置いて、その辺りのことをじっくり考えてみたいと思ったのです▼かの地では、佐渡島志郎大使と大使公邸で2時間足らず、ランチを頂きながら歓談した際に意見交換しました。また帰国直後に偶々姫路にやってきた外交評論家の宮家邦彦氏と、夕食を食べながら2時間余り話し込みました。共に濃度の差はあれ、私が現職時代にお世話になった間柄の外交官です。ひとの身体のことは医師に訊いたら分かるように、国と国の間のことについては外交官に訊くと疑問が解けることが多い。専門家らしいいい意見を聞くことが出来ました。これらは追々明らかにしていきたいと思いますが、結論はそう簡単には出ません。当然でしょう。言えることはただ一つ。タイは奥深いということでしょうか。(2017・1・22)

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好きな生き方50年。そろそろ死に方をー「生死の研究」(1)

昨年10月と11月の二か月にわたって、私の友人で”浪花のカリスマ・臨床心理士”志村勝之氏のブログ『こんな死に方がしてみたい!』を通しての感想めいたものを『忙中本あり』で取り上げて、12回ほど書いた。12月は休んでしまったので、新年からは舞台を『後の祭り回想記』(これも回走記ではなく、回想記に改める)に移して、再挑戦してみたい。どうしてかくも彼のブログにこだわるかというと、いかに忙しくても生死にまつわることは避けて通ってはならず、真正面から向き合っておかないと後悔するとの強迫観念めいたものがある。加えて、約60年もの長きにわたって友人関係を持つ男の思索の道あとが気になってならないからだ▼タイトルも改めて『生死の研究』とでも仮にしておく。体裁としては、やはり志村氏の一昨年から昨年にかけて延々と続いたブログを下敷きにして、私の捉え方を述べていきたい。ご興味のある向きは、彼のブログにぜひアクセスされることをお勧めする。かれは私の見るところ当代随一の心理学徒であり、彼の書いたものは実にためになるからだ。今月は彼の続き物のうち、三回目の「死の物語」から。14回にも及ぶブログで志村氏は田沼靖一『ヒトはどうして老いるのか』、品川嘉也、松田裕之『死の科学』などからの引用を繰り返しながら「死」を考えていく。彼の「死」についての捉え方は、つづめて言うと、「好き勝手」に死にたいということに尽きる。今の時代は「自分の死の基準」及び「死生観」が求められており、自分自身の「死の物語」が要求されてくる時代が必ず訪れるとしたうえで、そう結論づける▼これはいうまでもなく彼は「好き勝手」に生きてきたから、死ぬ時も「好き勝手」にしたいということに他ならない。そこには、巨大な宗教集団に所属し、その組織の枠の中で生きることを「義務付けられ」てきた、私などの生き方を「嫌い」だと言っていることからもはっきりしている。中学時代からほぼ60年の時間の推移をものともせず、二人の間のこの自由さと不自由さの平行線は、表面上全く縮まらない。私は若き日より、先達の生き方をまずは学び、死に方もそこから学ぼうとし続けてきて、未だに学びきっていない。彼のように、自分の考えを突き詰めたあげく「自由に好き勝手に生き、そして死ぬ」というものとは対極にあるのだ▼私の場合、若き日の直観で、これしかないと決めた日蓮仏教、創価思想の道筋を懸命に学んできた。その途次で窮屈さを感じなかったといえば嘘くさくなるが、実際には気づいたらこの歳になっていたというのが正直なところである。「日蓮」、「池田大作」という巨大な存在が放つものを、必死に受け止めることの知的面白さ、感性的愉快さを上回るものなどなかったからこそ、この道一筋で、きた。しかもその方法論で、誤解を恐れずにいえば私も結構「好き勝手」に生きてきた。「好きこそものの上手なれ」という。だれが嫌いなものに取り込まれたりしようか。(2017・1・16)

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本を読むよりも異業種との語り合いを、との提案

新年明けましておめでとうございます。正月三が日が過ぎようとしています。箱根駅伝をテレビで観たり、年賀状の返事を書いているうちに、です。それにしても青山学院大は強かったですね。そして創価大学も。常連の中に新規参入してきた大学として、二年ぶり二回目で12位というのは見事という他ない。シード校入りは来年のためにとっておこうということでしょう。私にとって印象に残るのは、創価大の主将が追い抜くときにポンと背を叩いた場面です。余裕があるというか。古い世代としては、いささか驚きでした▼箱根駅伝を観るとき、いつも思うのは、関西にも大学駅伝があればいいなあ、ということです。大阪をスタートして六甲山・有馬温泉まで走るというコースは考えられないのかどうか。関係者の皆さんに考えてほしいものです。今に実現していないのですから、やはり高さやら距離的に問題があるのだろうなあ、と思うのですが。ともあれ、世はランニングブームです。尤も、私は姫路城周辺ジョギングがやっとということになってしまいました。つい3年ほど前は塩田温泉まで15キロほどを走ったものですが▼この三日の新聞各紙を全部読んでみて(実際は二日分)、あまり読み応えがあるものはなかったというのが結論ですが、それでも光ったものは僅かながらありました。特に三日付けの産経新聞の正論『年頭にあたり』の外山滋比古さんの「若い世代に求めたい新しい知性」は面白かったです。外山さんのいう「本を読むより、違ったことをしている仲間たちと語り合う方がどれくらいためになるか。今の個人主義者、孤立派には分かっていないようだが、ひとりで考えることには限界がある。ほかの人と雑談をすると、ひとりでは思いつかないようなことが飛び出してくる」っていうのは、同感です▼知的会話のクラブをつくることを提案されているが、面白いと思いますね。私など戦後世代の先頭の人間ですが、どうしても古い先輩世代の物まねばかりをしてきた傾向が否めない。最近は異業種交流会と称して毎月の集いを開催しているものの、ワインに没入しがち。今年はひとつとことん語り合う機会にと思ったりもします。それにしても外山さんは若いですね。考えることが。(2017・1・3)

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健康なまちづくりには予防歯科をー香川県の歯科医を訪ねて

人間の出会いって面白いものです。代議士を引退して普通の人間に戻ってこの暮れでちょうど4年。様々な出会いが今年もありました。中でも年末近くになって知り合った大和泰隆氏は底知れぬパワーを秘めた人物と私には思われます。彼は大阪大工学部建築工学科を40年程前に出た後、家業の建設請負業を経て、様々なコンサルタントとして活躍してきたひとです。この1年大手建設コンサルタント業界に身を置くようになった私と接点が出来ました。しかもその共通点は歯科医院をめぐる経営というのですから、我ながら笑ってしまいます▼私のブログをご覧いただいている方は、既にご存じのように、私は歯科医とのご縁が少なからずあります。国会でも歯と骨粗鬆症との関係を取り上げ、懸命に両者の改善に取り組む高石佳知歯科医師の闘いを紹介したり、昨年末には、姫路の河田克之歯科医との対談本『ニッポンの歯の常識は?だらけ』を出版したりもしました。そこへ新たな歯科医師を、大和氏からに教えていただくことになったのです。このひとは高橋伸治さんといい、香川県高松市で歯科医院(しん治歯科医院)を開業しています。早速に淡路島を経て四国路を車で飛ばして、その経営の一端を見学に行ってきました。勿論診察していただくことも兼ねて▼その気になったのはどうしてでしょうか。それは、ひとえにその経営の在り方が徹底した予防治療に貫かれており、地域住民と深い信頼関係で結ばれていることにあります。高橋伸治編著『「いいかげん」が好い加減ーヘルスプロモーション型予防歯科の楽しさを伝える』という変な題名の本をよんでひらめいたこともありますが、惹きつけられたのは、ネットで見た歯科医師8人、歯科衛生士12人というスタッフの充実ぶりと年間1万人近くもの人が定期健診に訪れるということでした。そして患者さんたちの素晴らしい笑顔にも。百聞は一見に如かずです。まことに綺麗で広々とした医院。待合室がこれまで私が関わった歯科医院の診察室ぐらいあります。受付に待機するロボットに始まり、4か月先までの予約がぎっしりと詰まった一覧表にいたるまで、IT機器が駆使されていることで解りました▼蛇足ながら、人間らしさに貫かれた治療の実態は、歯の磨き方指導(いゃあ、気持ちが良かった)に代表される歯科衛生士さんの優しい人となりにあります。そして院長の懇切丁寧なパソコン画面を使っての患者の歯の病状説明にも。院長とは診て頂いたあと、場所を移して長い時間をかけてありとあらゆる口腔医療のこれまでとこれからを語り合いました。その中身はおいおい紹介しますが、従来の歯科治療との発想の違いを痛烈に感じました。これからの健康都市構想(私の目下最大の関心事です)の基盤には、こういったヘルスプロモーション型予防歯科が据えられる必要があると強く確信したしだいです。                         (2016.12.29)

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死の宣告、地獄の沙汰から蘇った二人の友人

肝臓がんのステージ4の宣告を医師よりされた友人が死の底から蘇りました。また、もう一人の友人は、奇病や事故でこの一年半ほど、歩くこともままならぬ状態から見事に回復しました。その体験を聴く機会がありましたのでかいつまんで報告します。前者の友人は毎日新聞大阪本社記者を経て、大阪毎日ビル社長を最後にリタイアしたN氏。私とは大学で4年間同クラスでした。彼は先年暮れに大阪駅で転倒して後頭部を強打、北野病院に担ぎ込まれ一か月余り意識不明の状態が続きました。しかし、主治医の名治療の甲斐あって命冥加な彼は蘇りました。ところが、喜びもつかの間、今度は冒頭に記したような末期がんが発見されたのです▼肝臓の三分の一ほどが腫瘍に冒されている状態、その事態の深刻さを医師から告げられ、流石に剛毅な彼も驚き、覚悟をしたといいます。しばらくして身辺の整理をしました。本を片付け、おカネの出入りを仕切ったり、遺言も当然ながら書いた、と。ところが、医師から兵庫県の西播磨科学公園都市での陽子線治療を受けてみたらどうだ、といわれ、一縷の希望を抱いて入院加療に踏み切りました。巨額の費用(500万円ほど)が掛かったものの、ピンポイントで陽子線をあてる手術は成功、死の淵より蘇ったのです▼転移もなくてすっかり元通りの体に戻った彼は、もう一人の友人O氏と一緒に私と三人で先日、奈良へ元気にハイキングに行くまでになりました。実際に元気な姿を目の当たりにして心底から感激しました。巨額の費用もこのところの株価の上昇で、なんら痛手とならずにあてがうことが出来たといいます。まったく「地獄の沙汰も金次第」とはこのことかとばかりに、大笑いしたものです。おカネがなく工面できずに命を諦めるひとのことが思いやられました▼加えてO氏もこのところ、病に次々と冒されたり、思わぬ事故の連続で、大変だったのが見事に立ち直ることが出来たといいます。前立腺がんに始まり、心臓病で苦しみ、女性化乳房肥大症という奇病に悩まされたといいます。なにしろ男なのにおっぱいが大きくなり、乳房が痛むというのだから笑うにも笑えません。おまけに高いところから飛び降りた際に着地に失敗して、足首を複雑骨折してしまったのです。猛烈な痛みが手術のおかげでなくなった後も、一年余りも腫れあがった状態が引かず、松葉杖生活が続いたようです。複数の病気の上に、まともに歩けぬ不便さたるや言語に絶する苦労があったといいます。その彼もようやく治って、無事普通に歩けるようになり、3人で久方ぶりに会うことが出来ました。私も無傷、無病息災とは言えませんが、二人に比べれば未だしもましです。お互いに健康であることの大切さを痛切に感じた年の暮れでした。(2016・12・23)

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逝きて3年余。中嶋嶺雄門下生が選集8巻を出版

中国問題の泰斗であり、大学改革の旗頭であった故中嶋嶺雄先生(元東京外国語大学長、元国際教養大学学長)が逝かれて3年余。お弟子さんたちがこのほど、力を合わせて先生の著作選集を完成され、全8巻が出版されました。その出版を記念する会がさる11月26日に東京四谷のホテルで開かれましたので、私も参加しました。若き日の同先生が慶応大学へ非常勤の講師として出向されていた時に、教えて頂いた者にとっても感慨深い集いでした▼出版元は桜美林大学北東アジア総合研究所。佐藤東洋士同大学長はじめ川西重忠北東アジア研究所長ら出版元関係者や、中嶋ゼミのOBたち、さらにはドストエフスキー研究で有名な亀山郁夫名古屋外国語大学学長、ロシア問題の権威の袴田茂樹氏など多彩な人々が集まってこられていました。記念の集会では、選集出版の編集に携わられた面々の苦労談やら、先生の思い出を語るシンポジウムで幕開け。責任者だった国際教養大の勝又美智雄名誉教授や拓殖大学の名越健郎教授、そして先生の次男で早稲田大の中嶋聖雄准教授らが次つぎとマイクを握り、秘話を披露してくれたのには十分満足できました▼中嶋先生の書かれたものはほぼ全て読んできたと自負している私だけど、そこはやはり直接のお弟子さんたちにはとてもかないません。「知的バイタリティーの凄さ」(曽根康雄氏)「透徹した人間観察に基づくリアリスト」(渡邊啓貴氏)「凄い筆力に圧倒されるばかり」(濱本良一氏)「偉大な国際教養人」(中嶋聖雄氏)といった、中嶋先生を賞賛される言葉もいたってすんなりと耳と心に飛び込んできました▼懇談の場では、先生ゆかりの方々がそれこそ滅多に聞けない話を紹介してくれ、大いに盛り上がりました。たとえば、先生の自動車の運転は非常に危なっかしいものだったとか、得意のヴァイオリンは音程が結構狂うことがあったとか、しばし場内に笑いの渦が起こりました。尤もそれは中嶋先生のヴァイオリンの師であった「鈴木メソッド」の後継者である豊田耕児さん(国際スズキ協会会長)のお話だっただけに、先生のお人柄を彷彿とさせこそすれ決して変な暴露談では全くありません。最後に登壇された奥様の洋子さんが「まるで私は怪物と一緒に暮らしていたみたい」と述べられたのには、大いなるユーモアを感じました。集合写真の撮影時に、先生のご長男黎雄さん(大阪大学准教授)が遠慮されて後方に立っておられたので、空席のままだった私のお隣の椅子にお誘いした次第です。(2016・12・7)

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