【1946年(昭和21年)1月には国連総会開かれるも、次第に世界は米ソ対決の色濃くなる。1950年(昭和25年)には朝鮮戦争が勃発。特需景気。緊縮生活とスト頻発続く】
昭和27年4月私は城西小学校に進みました。父は出征したものの直ぐに終戦となり事なきを得ましたが、叔父たちは戦争の影響をモロに受けたのです。中でも3番目の父の弟(叔父)がフィリピンの戦闘で片腕を失くして帰ってきました。陸軍少年航空兵を志願した叔父は剛毅な若者でした。傷痍軍人として帰ってきた、かわいい弟を父は大変に心配したようです。戦後の混乱期に彼は鉄鋼のクズを扱う商売に岩端町で着手しましたが、それが朝鮮戦争特需で大いに当たりました。小学校1-2年の頃に、叔父の店の庭先には鉄鋼クズが山のように積まれ、活気を呈していました。かぎ型の金属製の片手を縦横無尽につかう叔父の姿が強く印象に残っています。
銀行員だった父は、仕事についての叔父へのアドバイスが功を奏したことの喜びと、サラリーマンでは到底味わえない叔父の稼ぎへの驚きの双方があったようです。叔父の姿を通して、小さな私の心に戦争の怖さと戦争特需なるものの実態がほの見えました。
この頃、母は「お前がお腹にいた頃は、お母さんは大豆ばかり食べてたよ」、お前の元気なのは大豆のおかげ、とよくいっていました。大豆に加え当時最大の栄養源は鶏の卵。生卵に穴を空けてチューチューと吸ったものです。特に、運動会の日や遠足の日など、〝晴れの日〟には、元気の源だと言って食べるのに大喜びしました。今では毎朝、納豆に半熟卵を載せて食べるのが日課になっていますが、その都度これが自分の体を形成してきた根源だなあ、と思い起こしています。
祖母に連れられて夢前町の伯母の家に行った時に、祖母が急死しました。これは幼心に今も残っている一大事件でした。思えば、のちに母の死にも立ち会えず、父の臨終にも間に合わなかった私にとって、今までの人生で肉親の最期に居合わせたたった一回の経験です。大人たち3人ほどが祖母を布団に移動させる際に、お尻あたりから一本の糸のような水滴が流れ落ちました。つい先ほどまで元気そうにしていた肉親が、あっという間に、物言わぬ冷たい存在になってしまうという経験は、冷厳な事実として今に印象深く残っています。(2019-1-17)