姫路から神戸へ。城西小学校2年の12月に、神戸市垂水区塩屋町に引っ越しました。父が神戸銀行本店勤務になり、通勤が大変になったからです。昭和28年のことでした。ジェームス山と呼ばれる小高い丘の上にある新しい家は、瀬戸内海が見下ろせる環境抜群の良い場所にありました。塩屋小学校に転入、新しい友たちとの交流が始まったのです。
当時のジェームズ山は、私の家より上には北欧風の家が立ち並ぶ異国情緒たっぷりの町並みでした。外資系企業の従事者たちのために開発された地域で、今は随分と様変わりしてしまっていますが、部分的には往時を偲ばせる建物が散在しています。私の家のすぐ北はフランス人の住居でしたが、南側とを隔つ外壁が随分と高いうえに、横に伸びており、あらゆる意味で区別されていました。
昭和28年暮から昭和30年代いっぱいをこの地で暮らしたのですが、この期間は日本の占領期から一転して、高度経済成長に向かう助走期に当たります。みなと・神戸の最西部といっても垂水区は厳密に言うと、播磨最東部です。五国地域で構成されている兵庫県にあって、どこまでも私は「播磨人」と言える環境に育ったといえましょう。
塩屋小学校の4年間で最も思い出深いのは、駅前にあった貸本屋さんです。畳屋に併設されたここには子供向けのものを中心に多くの本が置いてありました。ここで私の読書生活の口火が切られたのですが、シャーロック・ホームズの一連の推理小説を(といってももちろん子供版ですが)、借りまくって読みました。ハトロン紙で包まれた表紙の手触りが懐かしく思い出されます。併せて、『野球少年』や『冒険王』といった月刊の少年雑誌の発売日を首を長くしながら待って、読んだものです。
姫路の時と違って、近所にあまり同世代がいないこともあって、畳の上で自分で編み出した野球ゲームや外壁のデコボコを利用したボール投げをやりました。つまり、ひとりでなにかと工夫して遊んだものです。〝三つ子の魂〟の喩え通り、今に至るまで、自己考案のゲーム化でひとり楽しむ癖が私には身についているようです。このホームページもその流れと言えましょうか。
小学校卒業直前に、母の勧めで無謀にも天下の私立灘中を受験しました。これは教育ママのなせる技というより、西部君という友人が受験するから一緒にという、バカ丸出しのおついで受験でした。見事に不合格。のちのち大学、就職、選挙とことごとく最初は失敗し続ける私の人生の軌跡の先鞭をつけるものとなりました。
※この頃の詳細は塩屋小学校同期の親友・三野 哲治君(住友ゴム相談役)と語り合ったキンドル版電子本『運は天から招くもの』に譲ります。
【昭和29年12月に、5期続いた吉田内閣から、鳩山一郎内閣が誕生。昭和30年(1955年)は政治的には、保守合同の時代でいわゆる55年体制(自民党1に対して日本社会党が2分の1の勢力)がスタート。翌31年には日ソ共同宣言。国連加盟。12月には石橋湛山内閣。3ヶ月だけ。翌32年2月には岸信介内閣が誕生】