「安保」騒ぎに胸躍らせた中学生時代 (6)

【昭和33年日米安保条約改定に向けて第一回の日米協議。警職法改正で混乱。昭和34年11月全学連と労組員ら国会乱入事件。昭和35年1月新日米安保条約調印。同年6月に成立。この間、反対運動が空前の規模で。東大生・樺美智子さんの死。一方、U2型機スパイ飛行機事件。米ソ対決の空気高まる。同年7月に岸内閣退陣、池田勇人内閣へ。】

昭和33年4月に神戸市立垂水中学校に入学。入学式の日に満開だった校庭周辺の桜は忘れられないほど見事なものでした。塩屋駅から電車に乗ること10分、垂水駅を降りてから高台にある学校まで歩いて30分ほど、家から小1時間の通学は初めての体験。帰校時に垂水銀座の商店街にあった小さな書店に立ち寄ることが楽しみでした。若い夫婦二人が初めて出店されたもので、その熱心な仕事ぶりが子供心に印象深いものでした。後年、歳とった店主と思い出を語り合ったものです。

学校生活では、昭和35年に生徒会長に選ばれました。最大の思い出は、隣接する朝鮮人学校生とのトラブルを解消するために両校生同士で協議会を持ったこと。新聞に報道されるなど、チョッピリ話題になりました。昭和34年の伊勢湾台風を巡って校内弁論大会で二位に(優勝は女性徒)なったことも。また校庭隅に土俵が併設されたことを記念して、大相撲の立浪部屋一行が来校、記念校内対抗相撲大会が開かれました。取り組み中にある友人のマワシが外れ、大事なものが露出したことが忘れられない出来事です。瞬時、初恋の女性に自分のを見られた気がしたのは、切なくも面白い思い出です。

初めての英語の勉強に胸ときめかせ、必死に取り組み、親に録音機を買ってもらい勉強したものです。三宮のYMCAに行って学んだことも。おかげで発音には自信がつきました。一年時の担任が音楽、二年時が英語、三年時が社会を専門とする教諭でしたが、音楽だけが三年間を通じて評価が5にならず、悔しい思いをしました。しかし、卒業寸前に遂にオール5になったことは忘れられません。これはもう音楽の隅田先生のお情けだったと確信しています。

英語と数学は垂水におられた他校の先生のお家に行き、「家庭教師」をしてもらいました。特に数学は苦手な科目でしたが、清土和夫先生の人間味溢れる抜群の教え方で、そこそこ力がつきました。私含め4人の生徒(うち2人はすでに他界。勿論先生も)が到着する前に、机の上に鉛筆が綺麗に削って並べてあったことが鮮やかに蘇ります。

この頃テレビが我が家にも。それまで隣家の竹中恒夫邸(後に参議院議員=2期=になった日本歯科医師会長)に大相撲など見せて貰いにいっていましたが、それが自宅で見られる喜びたるや大変なものでした。また、我が家に泥棒が入る騒ぎがあり、母が縛られ幾ばくかのお金が取られました。勿論、新聞沙汰でしたが、危害はなく無事で安堵しました。更に父が伝染病に罹り入院するなど多事多難の時代でした。

昭和35年ー15歳となる中学校三年の頃は、日本中が「安保改定」で大騒ぎでした。当時反権力の象徴だった『朝日ジャーナル』を買って、読む真似をしてみたり、旺文社の大学受験講座のラジオ講座に耳を傾けもしました。昨今、作家・佐藤優さんが書いて話題を集めている『十五の夏』には遥かに及ばない私のかわいい背伸びの季節です。私の夏は家で海水パンツに着替えて、ジェームス山の家から一目散に塩屋の海岸に駆けつけて飛び込んだことぐらいです。

※中学校時代のことについては、畏友・志村勝之君との対談電子本『この世はすべて心理戦』(キンドル版)の中に、ちょっぴり書いていますので。

 

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