本物に触れた長田高校での三年間 (7)

戦争の年に生まれて15年あまり。昭和36年4月に神戸市長田区池田にある長田高校に入学しました。小学校を卒業する頃に私立灘中受験に失敗、後年、大学も次々と落ちて浪人を余儀なくされた私が唯一すんなりと合格出来たのが高校受験だったのです。この3年間は、日本の高度経済成長の上昇期と符合しており、大いに青春前期を満喫しました。とはいえ、根が真面目に出来てる私ゆえ、別に羽目を外したわけではありません。ジェームス山の家から山陽電車に乗って東へ。西代駅から高校への通学路を往復しただけの日々でした。

今何を思い出すかと問われると、第一に一流の講師陣による講演に接したことです。恐らく企画を決断したと思われる厳格そのもののお顔をされた岩佐修理校長とともに、猪木正道(京大教授)、大森実(毎日新聞記者)、五十嵐喜芳(オペラ歌手)、平岡養一(木琴演奏者)氏らの話や演奏に直接触れたことは後の私の人生に強い影響を及ぼしました。特に猪木さんの「米ソ冷戦構造」にまつわる解説は、国際政治への強い関心を持たせましたし、母校の先輩(旧神戸三中出身)大森さんの「ベトナム戦争」を巡る報道についての講演は、私に新聞記者になりたいとの希望を募らせました。若き日に本物に触れることのかけがえのなさだと思います。

第二に、生徒会活動です。私は書記をやったに過ぎませんが、仲間たちとワイワイ言いながら、フォークダンスの企画等に興じたことが思い出されます。当時の担当教諭だった林歳明先生が猛烈な愛煙家で、お箸で短くなった煙草をつまみながら吸っておられたことが印象的でした。第三に、英語部(ESS)に所属して、暗唱大会(兵庫高校との対抗戦)に参加、その時覚えたリンカーンのゲティスバーグ演説はいまだにほぼ全文口ずさめます。尤も、それは殆ど余興の領域のことなのは、お笑い草です。

修学旅行での九州までの瀬戸内海の船旅は生涯忘れられぬものして今に鮮明です。神戸港から別府港まで、夕焼け雲を追って小島を縫うように滑っていった船の旅は、我が人生の輝けるプレリュード(前奏曲)でした。別府の地獄めぐり、熊本・阿蘇山の草千里、宮崎・日南海岸、鹿児島・桜島を経て、西鹿児島駅からの列車旅、どれもこれもが懐かしい思い出です。

長田高校時代の我が勉学の所産は、理数系が苦手で、文系で辛うじて贖えることが出来る程度でした。三年生時に、優秀な女性連中と一緒のクラスに編入されたことは屈辱感を持って今に蘇ります。男子で理数系の良くできる連中との差別化は、教師陣への恨み心をもたらせました。立派な先生たちだったことを後年知るにつけ、我が身の不甲斐なさを思い知ったものです。

※高校時代の様々な思い出は、同期の高柳和江(笑い塾塾長、元日本医大准教授)と飯村六十四(内科医)両氏との鼎談・電子書籍『笑いが命を洗います』(キンドル版)に譲ります。それなりに面白い内容だと自負しています。

【昭和35年7月の岸内閣総辞職を受けて成立した池田勇人内閣は以後、39年10月まで続く。この間、経済的成長の影で、公害問題と住民運動が勢いを増す。世界的には、キューバ危機(1962年)で震撼】

 

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