先生との出会いの後、病のことは当然ながら親には伝えました。医者から肺結核と言われたが、大したことはない。薬飲んでるし注射もしてる、大丈夫だ、と。母は驚き、涙声でただただ心配し、オロロするだけでした。父は、お前を東京に出すと、共産党か新興宗教に入るのではないかと懸念していたが、早々と創価学会にはいってしまい、今度は肺結核になったのか、と絶句しました。夏から秋へと猛然と題目をあげ、薬を飲みつつ、下宿界隈で食べられる一番の安い栄養源・トンカツを食べまくりました。
そんな中、9月下旬頃に慶應病院で診察を受けた結果、肺の影が消えている、もう治ってる、大丈夫、との診断を受けました。看護師さん曰く、凄いねえ、入院しなさいというのも聞かないで、自宅療養で治すなんて、よっぽどうちの薬が効いたのねえ、と。思わず笑いを嚙み殺しました。発病通告から約半年、1年入院の宣告を覆して治したのですから。お題目プラス医の力の勝利です。
ちょうどその頃、10月8日に2回目の大学会が開いていただけるとの連絡がありました。病気を治した上で、先生と再会出来る嬉しさはたとえようもありません。本当に感謝しました。同期の仲間たちと、卒業記念の信州旅行をしようとの話が持ち上がって、レンタカーを借りて二泊三日の、鬼押し出し、上高地、乗鞍岳方面の野宿旅に出たのもその頃のことです。なお、当時この仲間たちで世界の南北問題を研究し、リポートに何とかまとめたことは慧眼だったと自負しています。その仲間からのちの経済学の大学教授や外交官、政治家、テレビ記者らが誕生したことも。
10月8日、二度目の慶大会。会場は信濃町の学会の建物・女子寮。カレーをいただいたあとの懇談会でした。今回は、発言したい者が募られる方式でした。「希望者!」との声のもと、みんなが手をハイ、ハイと挙げます。なかなか指名してもらえず、焦っていると、突然先生が私の方を向かれて「オー、いい顔色してる、元気になったな」と声をかけてくださいました。「ありがとうございます。おかげさまで、治りました」と元気いっぱいに答えたものです。すかさず「おめでとう。よし、飲めよ」と、先生が手元に置いてあったジュースを差し出してくださいました。ぐーっと飲み干そうとすると、「全部飲んじゃあダメ」と、取り返されました。皆大笑いです。
この日を境に、就職活動を本格化させました。ただ、肺結核の病み上がりというので、どこもまともに取り扱ってはくれません。一転、今度は就職難の悩みに襲われました。父にコネを頼み、いくつか当たりましたが、やはりマッチングは出来ません。行き詰まって悶々とする日々が続きました。
そうした折に、同期の仲間の大曽根清君と福島和宏君の二人が下宿先の深澤宅まで来てくれたのです。肺結核が治ったんだから、先生に公明新聞に入れて下さいと改めてお願いすべきだと言うのです。私は一転、自分が厚かましくも就職を先生に頼んでいたことを恥ずかしく思うようになっていました。自分には資格がないと殊勝な気持ちになっていたのです。しかし、幾たびかの応酬の末、二人の熱い激励に負けました。公明新聞に君が入らないと、将来付き合えないぞ、とまで。持つべきは友、とこの時ほどしみじみ思ったことはありません。