【昭和46年 4月 大阪府で革新系知事誕生。8月 米、ドルと金の交換停止(各国、変動相場制へ) 9月 天皇と皇后、初の訪欧。10月 国連総会、中国招請、台湾追放案可決。12月 10カ国蔵相会議で円の大幅切り上げ 1ドル308円に】
昭和46年(1971年)は日本と中国の間における国交回復を願う空気が大きく高まってきていました。私は大学時代に中嶋嶺雄、永井陽之助両講師から現代中国論や現代政治学の講義を受ける一方、池田先生の昭和43年(1968年)における学生部総会での「中国問題」をめぐる講演を聞いて、中国や米国への関心を強く持つに至っていました。国際政治の動向について解説する本を片っ端から読み漁り、国会における外交・安保論戦にも注目する日々が続いていたのです。
そんななか、公明党の訪中団が中国に行き、周恩来総理と日中関係で議論を重ねる場面がありました。野党外交の先駆的展開として注目を集めましたが、団員の一人として参加された市川雄一主幹から直接、「訪問談」を聞く機会がありました。夏のある夜のこと。党本部から少し東に離れたところに公園があったのですが、そこに市川主幹と私と新田健吉さんの3人で行きました。初めて訪れた中国という国について、市川さんはあれこれ語ってくれたのです。
中国文化大革命を礼賛する気運が強かった当時の日本で、批判の論陣をほぼ一人で張っておられた中嶋嶺雄先生の影響をモロに受けていた私は、生意気にも「対中懐疑論」とでもいうべきものを受け売りしてしまいました。市川さんはそれはそれで聴いてくれながらも、あらゆる意味で〝大きい中国〟をつぶさに丁寧に描いて見せてくれました。今となっては、その中身の詳細は忘却の彼方ですが、飲まず食わずで立ったままの3人での会話。公園の電灯の明かりのもとでのシルエットがくっきりと浮き上がってきます。気がついたら白々と夜が明けようとしていました。20代の若者の書生論にトコトン付き合ってくれた大先輩の熱い思いが蘇ってきます。この時を契機に私は市川さんを一段と尊敬するようになりました。
その後、政治部から日曜版編集部に移動しました。文化欄を担当し、学者・文化人に原稿を依頼する機会が増えました。「公明党の機関紙?そんなところに書かないよ」とのっけから断られたり、頼んだ原稿を取りに伺うと、「ん?公明新聞?神戸新聞かと思っていた」と、某大学教授の〝恐るべき反応〟に驚愕したことも。勿論快く引き受けてくれた人が大半ですが、誰にどういうテーマで書いてもらうか、で散々悩みました。画家に絵でなく、文章を書いて貰う連続企画は成功談のケースです。失敗談では、頂いた原稿を紛失するという恥ずべきこともやってしまいました。現在の電子化の時代では考えられないことですが、その時ばかりは身も心も凍えました。