整理部へ、印刷工場での新聞作り (25)

【昭和50年(1975年)  3月 山陽新幹線開通  4月  統一地方選、東京、神奈川、大阪で革新知事誕生  サイゴン政府崩壊、ベトナム戦争終結 8月 日本赤軍クアラルンプール米大使館等占拠  9月  天皇 皇后初の訪米】

昭和50年(1975年)。社内人事移動で整理部へ。浜松町にある東日印刷の工場に通うことになりました。国会の赤絨毯という華やかな場所ではなく、また学者・文化人と接触するのでもありません。新聞発刊の最終過程における重要だが地味な仕事をするのが整理部です。原稿を新聞に載せる上で誤りがないかどうかをチェックする校閲部と並んで、記事をどう配置するか、割り付けを考え、実際に活字を組み込む整理部は、サッカーにおけるゴールキーパーのようなものといえるかもしれません。

入社時の研修のくだりで触れたように、私は新聞を印刷するインクのにおいがとっても好きでした。加えて、決められた時間に向かって、必死になって単純な作業に汗を流すというのも妙にウマが合います。例えば子どものころにやったクレペリン検査なども好きだったのです。全ての工程を終えて、新聞の降版ギリギリの、あの緊張した瞬間。無事全て終えたあとの安堵感はなかなかのものでした。

新聞記者という職業に携わった中で、工場で過ごした時間は唯一と言っていいくらいの物作りの現場に立ち会った機会だったともいえます。貴重な経験でした。お世辞にも上手いとは言えなかった割り付けは、先輩の黒沢昭捷、立石清明さんらの電光石火の早業に見とれるばかり。結局はものにならないままでしたが‥‥。

この頃、仕事を終えた夜は、まっすぐ家に帰ることなく、ほぼ毎日、高等部活動や男子部活動に精を出していました。家族団欒の記憶はありません。高等部では、当時人材育成に集中的に取り組むため、藍青会(のちに御書研究会)というグループが結成されていました。一年目は東京、次の年は東北、そして更に翌年は北海道を私は担当し、月に一回、日蓮大聖人の御書講義をしながら、自分なりの激励に力を注いだものです。先生からお預かりした〝未来からの使者〟に精一杯接触することが大いなる喜びだったのです。

男女合わせてそれぞれ100人(東京)から30人(東北、北海道)のメンバー。その中から広宣流布に各地で汗を流す庶民のリーダーが次々と誕生しています。また、大新聞社の編集局長(東北)、衆議院議員(北海道)、大学教授、高級官僚、医師や弁護士(いずれも東京)など、各界で活躍する人材も。先生と彼や彼女らとの絆を強めるための補助線の役割を果たせたことは、私の青春の証であり密やかな誇りとなっています。

一方、男子部活動も、中野区北部・野方方面を主戦場として、真剣に熱心に取り組みました。野方地域は東北に哲学堂、南に新井薬師などといった名所旧跡を抱えた、下町と住宅街の混在したところです。当時、車の免許を取得してなかった私は、JRや西武線を乗り継いで歩いたり、後輩の運転する車で西に東に走りました。地方から出てきて、苦労しながら頑張る仲間たちを激励し続けました。

 

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