中野兄弟会に頂いた先生の激励で、中野区男子部も意気天を衝く勢いでした。この頃の中野区の中心者は村井康一さん。文字通り「荒れた原野に道を切り拓く人」(富岡勇吉元潮出版社社長の言)でした。会合の進め方も、皆の士気を鼓舞せんと、演台の机の上にあがって学会歌の指揮を取ったり、円形で中心に立って語る態勢をとるなど変幻自在。何かと型破りの人でした。この人には師弟の道のありよう、信仰の基本への挑み方など色々なことを教えて頂きました。
昭和50年12月20日。中野兄弟会第四回総会が創価大学体育館で開かれ、先生が再び出席してくださいました。この時の「必死の一人は万人万軍に通ずる」との指導を聞き、何事にも真剣に取り組むことの大事さを痛感しました。結成からやがて満3年を迎える前年に、創価大学に呼んで頂いたのは本当に嬉しいことでした。既に全国各地に移転する仲間もいましたが、この日ばかりは勇んで先生の元に駆けつけてきたのです。このように中野兄弟会が信頼されるものとなり得てきたのは、ひとえに藤井達也、藤井壮介の二人の兄弟に代表される裏方に徹する仲間たちのおかげです。まさに中野兄弟会の象徴(シンボル)ともいえる二人です。
明けて昭和51年(1976年)2月。米国多国籍企業小委員会で、ロッキード航空機会社の対日売り込み30億円の工作費が発覚しました。ロッキード事件の嵐です。この事件の推移を克明に追い、見事なタッチで事の本質を暴いていった公明新聞記者が岩切隆司、加島幸路の二人でした。一年先輩の岩切さんと数年後輩の加島君のコンビは政党機関紙であってもここまで出来るという先駆の闘いを示してくれました。それまでも、公明新聞はイタイイタイ病を始めとする公害問題での追及で他党の追従を許さぬ闘いを示していました。先輩仲間たちもその報道で幾つものスクープを勝ち取っていましたが、いよいよ舞台は世界へ、との広がりを感じさせたものです。
この年の6月に河野洋平氏らが自民党を脱党し、新自由クラブを結成します。そして翌7月には田中角栄前首相が逮捕されることに。いわゆる〝55年体制〟のもと、強固さを誇ってきた自民党に、激震が走りました。一方、我々世代を長く悩ませたヴェトナム戦争は前年に終結し、この年の7月にはヴェトナム社会主義共和国が成立するに至っていました。そして、中国では、周恩来首相が1月に逝去した後を追うように、9月には毛沢東主席も亡くなりました。10月には晩年の毛主席の権威を傘に猛威を振るった「4人組」が失脚し、華国鋒首相が党主席に就任しました。
〝今太閤〟田中角栄氏を巻き込んだロッキード事件で荒れまくった年、昭和51年。小派閥から昇りつめた三木武夫首相は文字通りボロボロの様相を呈するに至っていました。そんな年の晩秋ー俄かに衆議院解散・総選挙の機運が高まっていきました。昭和42年に衆議院に公明党が初挑戦して25議席を得てから10年、4たび目の総選挙です。そして、その候補者のリストを見て、私はあっと驚いたのです。
【昭和51年(1976年) 2月 ロッキード事件発覚 6月 民法・戸籍法改正(離婚後の姓の自由等 )7月 田中角栄前首相逮捕 9月 ソ連戦闘機 強行着陸 12月第34回総選挙 自民惨敗 公明党29から56議席へ】