大阪府下や兵庫県中を走り回った一年間 (35)

支局記者の仕事で担当したのは京阪沿線地域。守口、寝屋川、門真、枚方、四條畷、大東市といった地域を中心に。時に応じ、大阪府議会なども取材しました。また、学会活動的には、兵庫県を中心に、時に滋賀県などにも足を伸ばして、多くの仲間たちを激励する機会を得ました。

兵庫県姫路市で生まれ、神戸で育ったといっても、20歳代からはずっと東京でしたから、関西に土地勘は殆どありません。人との繋がりも皆無でした。そんな時に一気に多くの兵庫や大阪の強者たちを知ることになります。兵庫では松本義宏、 溝渕弘志、渡部登志尋君といった身体もでかいし、振る舞いもなかなか大きい、ユニークな連中でした。特に兵庫青年部のリーダーの松本君は、長田高校の2年後輩ということもあり、それなりの親近感を抱いたものです。神戸大卒で兵庫県庁職員。既成概念に捉われぬ自由な発想でグイグイ後輩たちを引っ張っていました。彼の「自分の頭と心で感じることが大事や。人の言うことを鵜呑みにするな」との指摘は一見当たり前のことですが、その実、信仰の世界でも結構難しい。既成の権威をものともしない、オンリーマイウエイの彼の生き方はなかなかの迫力がありました。

関西支局に勤務している間に、私は少なくとも兵庫県のすべての市町村を訪れ、そこに住む後輩たちに会おうと、密かに決意しました。夜も土日の日中も、せっせと各地に足を運んで男子部員と懇談会を持ち、広宣流布へのお互いの思いをぶつけ合いました。神戸市内で、懇談のあとに、部長のM君から「子どもに恵まれないのですが」との質問を受けたことがありました。私自身の体験を通して丁寧で具体的なアドバイスをしました。しばらく経って彼から喜びの声で「出来ました」との報告が入ります。実は1-2年後に、彼はさらに二人目の子も授かり、一人娘しかいない私を追い抜いたものです。「そりゃあ君、出来過ぎや」と電話で返したものですが、今も嬉しい笑い話となっています。

一方、心に残る悲しい出来事もありました。大西正人さんの義母と義弟が火事に見舞われ、焼死されたのです。亡くなられたお義母さんは、大阪・梅田界隈でよく知られたお店の女将で、とても面倒見のいい人ということもあり、多くの方から慕われていたといいます。その突然の悲劇に皆茫然としていました。通夜が始まる前に、大西さんを激励する白木義一郎大先輩(元参議院議員)の姿が忘れられません。「あれだけ頑張った人がなあ。こんなことになるなんて‥‥。きっと深い意味があるんやで‥‥」「きっとそうだと思います」ー二人は視線を合わせず、お互いに違う方向を見ていました。信頼し合う先輩と後輩の悲しい無念の出来事に際しての、印象的な語らいをそばで見てしまいました。私には凛とした一幅の名画を見るような厳かな思いが伝わってきたのです。

また、勿論楽しいことも。関西支局の仲間たちが一度私の神戸・塩屋の家に来てくれたことがあります。皆で近くの海岸で魚釣りをして、それを料理上手な車両部の岩本さんが鮮やかな包丁さばきを披露してくれました。我が家でワイワイがやがやと食べたことは忘れられません。いらい、彼はことあるごとに支局の中で食べるものを用意してくれることになりました。それはいいのですが、ある時、くさやの干物を焼いた時には、あまりのその匂いの強烈さに辟易してしまいました。さらに、写真部の梅本カメラマンは豪放磊落そのものの人で、運転する車のガソリンの残量を気にせずに高速道を走るのです。私が載せてもらった丁度その時に、途中でガス欠で動かなくなったのには往生しました。これこそホンマの〝立ち往生〟でした。

そんな折に、またまたとっても嬉しいニュースが飛び込んできて、私は文字通り舞い上がる状態になりました。

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