様々な文化人たちとのあつい交流続く(40)

この頃(昭和50年代後半)の私は、仕事の上で知り合った作家、芸術家らとの交流を強めていました。小説家で、最も早くにお付き合いしたのは、源氏鶏太さんでした。それは古く昭和48年(1973年)のことです。直接の担当は、先輩の山本昭さんで、私は補佐役でした。売れっ子の直木賞作家ということで、何かと神経を使ったものです。公明新聞に掲載される連載小説は今に至るまで人気を集めるものが多いのですが、源氏さんがこの時に書かれたのは『時計台の文字盤』というタイトルのもので、この人らしいサラリーマン小説でした。

連載終了の時点で打ち上げをやろうということになって、源氏、山本のご両人と私の3人で銀座のクラブに行った時のことです。自慢ではありませんが、後にも先にもそういうところに行ったのはこの時だけ。源氏さんは着いて暫くすると、「僕は疲れてるので、ここでちょっと横になるよ。あとはおふたりで宜しくね」と言ったきり、少し離れたソファで休まれることに。残った二人は3-4人のホステス相手に悪戦苦闘。ナイスガイ・山本先輩は世慣れた人でしたから、うまく立ち振舞っていたようですが、私といえば‥‥もう。ご想像にお任せします。

作家の石川好さんとの出会いは、彼が処女作『カリフォルニアストーリー』(昭和58年=1983年)を書いてデビューした直後の頃です。新聞紙上で、欧米各国の余暇(レジャー)観を比較するとの企画を私は思い立ちました。対象国はアメリカ、イギリス、ドイツ、スペインだったと思います。石川さんにはアメリカについて書いて貰うことにしました。彼は、高校を出てカリフォルニア州に4年間住みます。いちご農園で働きながらハイスクールカレッジで学び、のちに日本に帰って、慶大の法学部政治学科を卒業するのですが、その在米体験を、二作目の『ストロベリーロード』としてまとめました。これが大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したり、映画化されるなど大当たりします。

実は彼がブレイクする前に、私は彼にアタックし、友達になったため、後々まで親しい関係になるのです。主たる研究テーマをアメリカから中国に移したり、参院選に出馬(「さきがけ」から)して落ちたり、秋田美術工芸短期大学学長になったり、民主党政権の顧問やら「北前船フォーラム」代表になるなど、あれこれと派手に活動を展開されました。その都度、それなりに連携を取り合いました。とくに、参院選には出るべきでないなどと、差し出がましいことを言ってしまいましたが、のちに、あんたが言った通りだったと呟いていました。民主党よりも公明党から出た方が良かったとは思いましたが、そうは問屋がおろさなかったのは当然です。

イギリスについては、毎日新聞のロンドン総局にいた黒岩徹さん、スペインについては、『カディスの赤い星』で有名な作家の逢坂剛さんに書いてもらいました。この人たちとはそんなに深い関係にはなりませんでしたが、彼らの著作はほぼ読破するなど、仕事を通じて知り合った人の著作を読む習慣が身についていったものです。明治時代の作家・黒岩涙香は黒岩さんの祖父だとのちになってから知って驚きました。逢坂さんが次々とヒット作を飛ばして喜んだりもしました。自分が目をつけた人たちが活躍されるのは大変に嬉しいものです。

一方、直木賞作家というと、忘れられないのが中村正軌さん。受賞作『元首の謀叛』に嵌ってしまった私は、市川さんと一緒に、公明新聞に連載小説を書いて貰おうと交渉に行くことになりました。その時に聞いた彼の受賞に至る秘話めいた話は実に刺激的でした。日本航空・欧州駐在員の頃からの着想を日本に帰った後の通勤の満員電車の中で思い起こし、それを文章にしていったというのです。電車に座れていたら恐らく寝てしまって、書くに至ってなかったろう、と述懐していました。まとめたものは押入れに放置していたといいます。しばらくして、知り合いの編集者にその辺りのことを喋ったところ、読みたいと言われ、取り出す羽目になったようです。それが、これは面白い、いけるとなり出版の運びになり、結局は受賞の陽の目をみたんだ、と言われたのです。嘘のようなホントの話でした。

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