兵庫県庁記者会見の場で
平成元年2月17日。兵庫県庁記者クラブでのことです。私は来るべき衆議院総選挙に先輩の新井彬之さん(当時55歳=故人)の後を受けて衆議院兵庫4区(旧中選挙区)から出馬することになり、記者会見に挑みました。実は、その場所に県庁職員として私の高校同期のM君が報道機関担当者としていたのには驚くと同時に心和む思いがしました。一通りのやりとりのあと、最後になって後方に座っていたある記者が突然手を挙げてこう言ったのです。
「あんたのことはよう知らんけど、応援したるわ。姫路で電器店を営んでる親父と弟の店で、電気製品を色々と買うてくれたみたいやから。お返しせんとなあ」
記者会見場がどっと笑いに包まれたのはいうまでもありません。この記者こそのちに神戸新聞の社会部長になった中野景介氏です。NHKの今をときめく堂元光副会長と県立山崎高校で同期の強者ですが、当時は知る由もありません。いきなりこんな有難い言葉を投げてくれるなんて、嬉しい限りです。無事に兵庫県庁に詰める記者たちとの出会いが終わってホッとしました。
姫路の住まいをどこにするか。悩んだ末に新井さんの家のすぐそばにあった戸建ての建売住宅を購入することに。亡父の遺してくれたお金を当てました。城北新町です。姫路競馬場の南西に位置した静かな住宅街です。新井先輩ご自身もかつて神戸市議から衆議院議員に転身(昭和44年初当選後6期)。二度の落選を経験されるなど、大変な苦労をされました。俳優・池部良風の2枚目で一世風靡の活躍を約20年間されたのですが、体調が思わしくなく引退を余儀なくされたのです。まさに燃え尽きたとの印象でした。ご自分の体験をあれこれと教えて頂きました。そばに住むことにしたのも先輩の政治的遺産を引き継ぐ上で好都合との判断からでした。
家族は一人娘・峰子の小学校卒業の3月を待って転居してくることに。3月20日に私も上京して、昭和47年から18年近く住んだ家の引越し作業をやりました。家内は40年、義母は60年あまり住み慣れた東京中野区白鷺の家とおさらばした(後は借家として活用)わけです。その心中たるや察して余りありましたが、当時の私はひたすら自分の初挑戦・当選しか念頭にありません。生まれて初めての地・姫路の新居に移り、二週間後に広峰中学校に入学をすることになった娘や妻の心境はそれはそれは大変だったと思いますが…。
ご挨拶回りの会話を全てメモに
新天地での私の戦いは、ひたすらご挨拶回りです。地域の創価学会の会員の皆さんのお宅を一軒一軒回る一方、大きな会合での幕間のご挨拶から、少人数での語る会での懇談やら会社訪問に至るまで、まさに疾風怒濤の日々が始まりました。最初の頃は、ただ闇雲にご案内頂いたところに行ってご挨拶するだけでしたが、やがて私は一軒ごとに回った先のお宅の特徴、相手と交わした会話をメモにして、帰宅後深夜にそれを整理していきました。一つひとつ覚えていったのです。次に会った時に、話す材料にするためです。やがて、メモを取らずテープに吹き込みもしました。なかなか大変な労苦でしたが、これがのちに大きく花開くはずと思えば楽しくもありました。
もう一つ忘れられないことは、実は私はそれまで、自転車に乗ったことがありませんでした。小学校2年の時に、小高い丘の上の家に住んだだため、その必要がなかったのです。選挙に出るとなると、当然ながら自転車を乗り回さざるを得ません。いい歳をして自転車の練習を始めることになりました。家の前の空き地でゴトゴトやってると、二階の窓から中学生の娘が「お父さ〜ん。背筋をもっと伸ばして〜。傾いてるわよ〜」と大きな声で注告してくれるのです。恥ずかしいやら、みっともないやらでした。一度だけ転びましたが、無事に〝免許を取得〟できたときの喜びは、恥ずかしながらとても大きいものがありました。(続く)