湾岸戦争の余波と騒動のてん末
イラクのクウェート侵攻が発端となって起こった湾岸戦争。それが引き起こした国際社会の混乱。各国にそれぞれ波紋をもたらしましたが、とりわけ日本への影響は大きいものがありました。第二次大戦から45年ほどが経って、吉田茂の軽武装・経済至上主義のもとでの〝国のわがまま〟が通用しなくなったことがはっきりしたからです。気がついたら世界第2位の経済大国。そのくせ、軍事的には自立国家とは程遠く、全てが米国任せ。そんなことでいいのか、との問いかけが内外から高まったのです。
前回までに見た様に、日本は「ヒト・モノ・カネ」での対応を迫られた結果、まず「90億ドル支援」という格好で、カネの面でのその場しのぎをしましたが、ヒトの面では、慌てて作った「国連平和協力法」では到底国内での合意が得られなかったのです。その代わりに、国連のもとに存在していたPKO(国連平和維持活動)に着眼しました。この経緯を追うと中道主義・公明党の真価が発揮された最適のケースだったことが明瞭になります。私は当時は直接参画できる立場ではありませんでしたが、後々繰り返し当時の責任者だった市川書記長から聞くことになりました。
5原則導入の見事な闘い
この問題は、発端となった「90億ドル追加支援」から、「PKO法成立」のゴールまで2年かかったのですが、まとめ役として自公民三党の幹事長、書記長がその任にあたりました。ですが、本来中心となるべき自民党の幹事長が、小沢一郎から小渕恵三、綿貫民輔氏と次々と変わっていったため、自ずから公明党の市川書記長が主導することになりました。90年11月8日の自公民三党合意覚書から、91年5月7日の確認を経て、具体的な法制化作業が進められたのですが、一貫して市川書記長がこだわったのは、「PKO参加5原則」を法律そのものに明記し、盛り込ませることでした。つまり、❶紛争当事国が停戦で合意し、停戦協定を結ぶ❷紛争当事国が、国連のPKO 部隊の受け入れを合意する❸国連のPKO 部隊の活動は中立を厳守する❹上記の原則が満たされなかった時は、PKO 部隊の活動を中断、もしくは撤収できる❺武器使用は要員の護身に限る、というものです。
この5原則を法律に盛り込んだことこそ、時の政府の恣意的もくろみや逸脱行為から活動そのものを厳しくブロックすることになりました。反対し続けた社共両党は、PKOを「自衛隊の海外派兵」だとさけび、海外で武力行使に巻き込まれ、やがて戦争に加担することになると国民の不安を煽り立てていました。それに対して、断固として不安を取り除くために固執した結果がこの5原則でした。
全党挙げて展開した大議論
公明党は、この経緯の中で衆参全国会議員が参加する国会対策委員会を頻繁に開き、徹底して党内議論を進めたのです。これがいかに凄まじいものであったか。外交、安保、内閣の三部会合同討議や全員国対委員会の他に、ありとあらゆる機関を使い全てのレベルで党内論議を重ねました。その場に参加できなかった私は、兵庫県選出の先輩議員たちの報告を聞くだけでした。ただし、自分の頭で自らの意見を述べることに徹頭徹尾こだわる市川さんの手法を知っているだけに、手に取るように想像できました。のちに幹事長になる冬柴鐵三さんも当初はPKO派遣に慎重だったようですが、市川さんの前では無残にも論破されました。忙しい折にも関わらず時々激励の電話をいただき、その際に先輩や仲間たちの発言の様子を伺い知ったしだいです。
この党内議論で鍛えられたからこそ、その後の公明党を率いることになる山口那津男、井上義久両氏らの存在に繋がったと言えると思います。逆に言えばその議論を知らない私のようなものは、自ずと党を担う本格的な資格に欠けたという他ないのかも知れません。この間の具体的な成り行きは、『公明党50年の歩み』の第11章に詳しいので、譲ります。これは多くのみなさんに読んで欲しいと思います。というのはPKOを巡っての経緯は、殆どのメディア、論者が上っ面しか見ていず、正しい評価をし得ていないからです。市川さんは後々のメディアでの論評について、ほぼ全てのものに対して「全く分かっていない。デタラメを書いている」と吐いて捨てるように言っていたことを思い出します。丹波實国連局長や有馬龍夫内閣外政審議室長ら、当時法案作成に直接当たった人たちのみが市川書記長の振る舞いぶりを正当に評価していると云えました。また、PKO研究の第一人者の香西茂京大教授や国際法の専門家たる大沼保昭東大教授(当時=故人)らごく少数の学者、研究者たちだけがその価値を知って後々まで宣揚してくれたことは記憶にとどめたいものです。(続く)