政治改革への産みの苦しみ
94年1月21日参議院本会議の採決では大波乱が起きました。自民党から5人の賛成者が出たものの、与党社会党から17人もの反対者が出て、結局法案は否決されてしまったのです。このため、連立与党側は衆議院から参議院に両院協議会の開催を求めましたが、自民党が当初難色を示し、混迷しました。26日になって、やっと自民党は設置を了承。初会合が開かれたのです。しかし、合意はならず、27日衆議院側協議会の議長だった与党側議長の市川公明党書記長は「協議は整わなかった」と協議打ち切りを宣言し、決裂に終わりました。
この協議会の決裂への過程は知る人ぞ知る、稀に見る鍔迫り合いならぬ乱闘寸前まで行ったと言われています。私は見ていたわけではありませんが、人づてで聴くと、与野党の大物同士の議員間(l衆議院議員とY参議院議員)で、売り言葉に買い言葉から、「なにい、表に出ろ」「なんだとぉ、その言い草は」となって、双方掴みかからんばかりとなったと云います。その際に、先輩l代議士を助けんと、机の上を走って駆け寄った議員(M衆議院議員)がいたとか。全く、国会って凄いところだと驚いたものです。
結局この問題の妥協は、土井衆議院議長の斡旋によって1月28日夜、細川首相と河野自民党総裁のトップ会談に委ねられます。その結果、細川首相の自民党への全面的譲歩で合意を見るに至りました。その内容は❶衆院小選挙区比例代表並立制の定数を小選挙区300、比例代表200とする❷比例代表の選出単位を11ブロックとする❸企業団体献金は政治家個人に政治資金管理団体一つとし、5年間に限って年間50万円を認めるーなどで1月29日 の衆参両院本会議で可決成立しました。これで、リクルート事件以来、国政の大きな対立点となっていた政治改革法案は、6年越しで遂に陽の目を見て成立することになったのです。
このことをどう見るか。既に四分の一世紀が経った今、政治改革法の功罪は相半ばしていると見られます。政権交代を促し、政治腐敗をなくすという意味では確かにプラス的側面が強いでしょう。ですが、比例区と小選挙区との甚だしい乖離、大衆迎合に陥りやすいマイナス面も指摘されます。当初想定された二大政党制は機能せず、むしろかつての55年体制の変形と見紛うばかりの自民党一強と、弱体化した野党の存在が目立ちます。尤も、公明党がこの20年連立与党を形成して、「政治の安定」に貢献していることは特筆されねばなりません。今後、安定から改革の進化へ、連立政治の質の向上が望まれます。
国民福祉税構想の挫折
政治改革法案が曲がりなりにも成立した直後、ホットするいとまもなく政権与党八会派にとって激震が走ることが起きてしまいました。消費税率を上げざるを得ないと判断した細川護熙首相が思わぬフライングをしてしまうのです。同首相は消費税を「国民福祉税」とネーミング(公明党の提案)したまでは良かったのですが、平成9年4月1日から3%を7%に税率を上げるとの記者会見での発表(2月3日未明)に際して、記者から、その根拠を問われて「腰だめの数字」だと述べてしまったのです。これは皆色をなしました。幾ら何でもそれはないだろう、との反応です。結局は、翌日の与党代表者会議で白紙撤回になってしまいますます。
この顛末の背景については、公明党的には色々と思いがあります。市川書記長が個人的に昵懇だった経済学者の宮崎義一氏(京都大名誉教授)から、消費税の持つ逆進性の緩和にも役立つ完全な福祉目的税にしてはどうかとの助言を受けて、完全な福祉目的税化を提案していました。そこに至るまで、何度も何度も衆参の全国会議員による議論を重ねていたのです。実はこれと相前後してコメの部分開放問題も焦点となっていました。この時点を遡ること3年前、90年4月に党内大議論の末に、部分的にせよコメの輸入を認めざるを得ない方向性を打ち出していたのです。
党内大議論をアピールする役割
私が議員になる前のPKO(国連平和維持活動)論議の時ほどではなかったようですが、それに決して劣らない党内議論が、税やコメの問題で展開されていました。兎にも角にも議論また議論、石田委員長、市川書記長率いるところの公明党は党内議論をどこの党よりも激しく展開。それを記者にアピールする役割の広報局長の私も大忙しでした。
ただ、増税については党内支援者からの反発は強く、国会報告会での質疑応答の場面で、厳しく注文を受けました。あまりに唐突過ぎるとの声です。私はこれからの時代には、「働く人々の数が極端に少なくなるため、所得税という直接税中心ではどうしても行き詰まる」「仕組みの歪みを是正するしかない」と述べました。年金・医療・介護に膨大なお金が一層必要になるだけに、税制の抜本改革が避けられないとの現状を話すことで、多くの方々は理解を示して下さったことを思い起こします。(続く)