反公明党・反創価学会の動き
村山自社さ政権の誕生と表裏一体の関係にあったのが四月会の存在です。これは同政権の成立直前の6月23日に設立総会が持たれたもので、評論家の俵孝太郎氏を代表幹事とする反創価学会の宗教団体、学者、文化人、ジャーナリストらの集まりとされます。河野洋平、村山富市、武村正義の自社さ三党の党首も揃って出席し、創価学会への誹謗、中傷発言を展開しました。このことから、この政権は、反公明党・反創価学会の旗色を鮮明にした「四月会内閣」だと別称されます。その急先鋒が、亀井静香運輸相でした。彼は、白川勝彦、島村宜伸氏らと共に、反創価学会の議員集団「憲法20条を考える会」を作り、民間団体である「四月会」と歩調を合わせて、国会内外での反公明党、創価学会の動きを強めていくのです。
亀井氏は、初入閣後の週刊誌インタビューで「これまで公明党と創価学会に対して、政府も手加減していたが、これからは違います」と、一宗教団体に対して、政治権力が介入し圧迫を加えようとする露骨な意思表明をするなど、「信教の自由」をうたい、「政教分離原則」を掲げる現憲法に真っ向から抵触する攻撃を仕掛けてきました。ことここに至るまでの国会では、細川政権誕生からーつまり自民党が野党に転落してからー一年2ヶ月ほどの間に、なんと延べ19人にも及ぶ自民党議員や2人の共産党議員らが執拗に公明党と創価学会との関係を取り上げる国会の委員会質問をしてきていたのです。
これらはいずれも憲法の規定を勝手に捻じ曲げ、自己流に解釈したものや、憲法の原則とは無関係のエセ政教分離論などが殆どでした。こうした誤った俗論・迷論を糺すべく機会を窺っていた公明党執行部は、憲法の政教分離原則とは何かを改めて国会の場で明らかにするべく立ち上がったのです。
政教分離原則を明確にさせた冬柴質問
平成6年(1994年)10月12日の衆議院予算委員会での公明党の冬柴鐡三氏の質問は、❶憲法20条で規定する「政教分離」原則とは、国家と宗教の分離、つまり国家権力と宗教の分離ということで、規制の対象はあくまで国家であって、政党や宗教団体を縛るものではない❷宗教団体が選挙支援を含む政治活動を行うことに何ら問題はなく、「集会、結社、表現の自由」(憲法21条)の上からも当然認められている権利である❸宗教団体がその活動の一環として政治活動を行うことができる以上、自らの施設の会館などを利用することも憲法上問題ない❹宗教団体が支援・支持する政党・政治家の政権参加も憲法上全く問題ないーといった従来からの国会論議で決着がついていることを、改めて大出峻郎内閣法制局長官とのやりとりを通じて明らかにさせました。冬柴氏はそのうえで、自社さ政権の三党首がこの憲法解釈を遵守するかどうか、を迫ったのです。3人は心ならずもかどうかは別にして、国会の場では遵守することを約束したのです。
矢野元党首の恐るべき発言
こうした四月会の蠢動がある一方、公明党の矢野絢也前委員長のとんでもない動きがありました。彼は政界引退直後に雑誌『文藝春秋』に手記を書いていた(1993年10月)のですが、そこに「政教一致とも言われても致し方ない面がある」などと、あたかも公明党と創価学会に問題が存在するかのように記していたのです。これを自民党などが見逃すはずがありません。下稲葉耕吉参議院議員ら自民党・共産党6人が計八回にわたってこの〝矢野手記〟を振りかざして追及してきたのです。
実はこの矢野元委員長との間に、私にとって生涯忘れ得ぬ出来事があります。初めて当選した平成5年7月の直後に関西出身の議員が集まる機会がありました。この時の選挙で、矢野氏は私と共に当選していた久保哲司氏(故人)と交替し、政界を引退しました。この会は、新旧の議員が集まってお互いの労をねぎらい、新出発を祝う会でした。その重要な場面での、休憩のひととき。椅子に座っていた彼は通りかかった私を呼び止めて「おい、お前が赤松か。お前は市川の子分やな。お前なんか落としたろうと思っとったのに、くそ、通りくさって」というのです。瞬間我が耳を疑いました。関西、いや全国の同志の皆さんが渾身の力を込めて応援していただいたのに、当の公明党・元委員長の、この言い草はありません。私は『文藝春秋』に不可解な手記を書いていたこの人物に、どうしてあんなものを書いたのですか、と問いただし、胸ぐらでも掴みたい思いがありました。しかし、ぐっと抑えて、「私は市川の秘書です。いやそれ以前に池田先生の弟子です。余計なこと言うんじゃないですよ」と言うがはやいか、彼の手を掴んでグイッと前に引っ張りました。彼は椅子から転げ落ちそうになりました。それを周りの先輩議員たちが支えました。これはその場にいた皆が知っていることです。ただ、この場のことだけに終わり、問題になることはありませんでした。これは一重に、もっと議員を続けたかったのに、市川書記長によって、引退に追い込まれたとの悔しさが彼にはあったのでしょう。坊主憎けりゃ何とかとのことわざ通り、前市川秘書である私に難癖をつけて本心を露わにしたのです。(つづく)