小沢氏の急進的手法が災いし、新進党分裂へ
さて、新進党党首の小沢一郎氏は結成時点こそ海部俊樹元首相に党首の座を譲りますが、その後は羽田孜、鹿野道彦両氏らと闘って、いずれも破っています。そのくせ、党内求心力はその都度衰えを増し、弱体化が顕著になっていきます。この人は自民党という政党のど真ん中で政治家として大きくなりながら、その在り様に我慢できなかったようです。政治における官僚支配を許し続けてきた自民党政治がその不満の最大のものだったと思われます。
外から自民党を見続け、「55年体制打破」を志向した公明党にとって、その理念部分は小沢氏と共有できました。彼と力を合わせることで、古い自民党を壊すことが出来ると確信出来たのです。しかし、その手法が急進的過ぎることから、やがて人が離れていくことは避けられませんでした。公明党も平成9年(1997年)11月に、それまで新進党との合流が棚上げ状態であった、参議院議員(一部)と地方議員が正式に袂を別つ決断をします。翌年夏の参議院選挙では独自の闘いをすることになったのです。
12月の新進党の党首選挙では私たちは鹿野道彦氏を応援することを決めました。同氏とは個人的に懇意でもあり、発奮したものです。ただし、結果は敗退でした。小沢氏は勝利したものの、深刻な党内事情から、純化路線へと転進を決め、年の暮れも押し詰まった27日の両院議員総会の場で、新進党の分党と、自由党の結成を自ら宣言します。この結果、新進党は6つのグループに分かれることなり、私たち旧公明党衆議院議員グループは「新党平和」(参議院議員グループは「黎明クラブ」に)を結成することになります。この時点で、旧公明党から権藤恒夫、二見伸明、東祥三、久保哲司、石垣一夫氏らは小沢氏率いる自由党への参加を決め、分裂の試練を味わうことになりました。政治家・小沢一郎氏はなかなか魅力溢れる人物です。この時から20有余年。様々の毀誉褒貶を経て、今なお、打倒自民党に向けて野党結集の影の仕掛け人たろうとしています。驚嘆するしかありません。
新井将敬氏からの「公明」離脱の勧め
この頃のことで今になお印象深いエピソードを披露しましょう。とっておきは、今は亡き新井将敬氏(元衆議院議員)との会話です。新井氏は大蔵省出身の政治的センス溢れる風雲児。当時の政局の中で、自民党から新進党に転身、私とも親しくなりました。ある時、彼から話があるので、自分の議員会館の部屋に来てくれないかとの呼び出しを受けました。何事やらんと駆けつけたところ、彼はおもむろに「赤松さん、貴方は『新党平和』になんかにいないで、この際離党して、我々の党に来ないか」というのです。いやはや、いかに私が飛び跳ねていたとはいえ、公明グループからの離脱を勧められるなんて。そんな風に自分はみられているのかと、内心大いに慌てました。
勿論、そういう素ぶりは見せずに、やんわりとお断りしましたが。当時の新井氏は、柿沢弘治、太田誠一氏らと共に新たな党を起こそうと、画策している最中だったため、私に誘い水を持ちかけたものと見られます。柿沢氏とは、門前仲町の自宅にもお邪魔したり、太田氏とは同年齢でもあってそれなりに懇意にしていましたから、彼らの間で私のことを話題にしたものと思われます。新井氏は、その後しばらくしてあの大蔵省をめぐる汚職事件に巻き込まれ、結果的に自死されてしまったことはまことに残念なことでした。
金融破綻が一段と鮮明に
一方、平成9年(1997年)4月に、橋本政権は次々と国民への負担増を求めるようになります。まず、消費税率を3%から5%に引き上げたことが特筆されます。そして医療費の本人自己負担を1割から2割へ、さらには2兆円の特別減税の廃止など、合計9兆円の負担増です。その結果、景気が大きく失速する羽目になってしまいました。加えて、そこにタイの通貨危機(7月)が起こって、インドネシア、韓国に波及して、アジア通貨危機にまで拡大してしまうのです。更に、ロシアの財政危機がまたも顕在化。日本の製造業にとって命綱とも見られたアジア地域への輸出に黄信号が点滅することになり、不況が一段と深刻化してしまいます。
そこへ、三洋証券の倒産、北海道拓殖銀行の経営破綻、更には、山一証券の自主廃業などが連鎖的に起こり、日本は未曾有の金融危機を迎えてしまいます。このうち、山一証券の野澤社長の「社員らは悪くありませんから。みんな私たちが悪いんです。お願いします。再就職できるようにお願いします」との涙の記者会見は、とりわけ印象深いものがありました。このように、いわゆるバブル崩壊から5年余りが経ち、当時の無謀な投資や融資が不良債権となって、一連の経営破綻の引き金となっていきました。ここから、日本長期信用銀行、日本債権信用銀行の一時国有化へと、事態は一段と深刻になっていくのです。(2020-3-18 公開=つづく)