●高松市で知った「小泉初訪朝」の驚き
小泉首相の北朝鮮訪問のニュース(2002-9-17)を私が知った場所は、香川県高松市でした。公明党が当時「列島縦断フォーラム」と銘打ち、地域の各種団体、商工会議所の代表、各地方自治体の首長、そして党員や支持者の代表の皆さんらと意見交換をする企画のために訪れていたのです。浜四津敏子代表代行をキャップとするグループの一員でした。その日の日程を終えて、何人かと夕食をするために大衆食堂に入った時にテレビを通じて見たのです。小泉首相の果敢な外交・行動力に驚き、深い敬意の思いがこみ上げてきました。ただ、訪朝全体についての評価は、一週間後の私の国会リポートを見ますと、今後の拉致問題の推移を見ないと定まらない、と述べています。以下、中核部分を抜粋してみます。
「最後の最後まで拉致被害者についての事実を隠してきた挙句、小泉首相ら日本側の強い抗議に対して、一転従来の態度を翻し、謝罪をしました。また、いわゆる不審船を含め、日本国民の安全に不安を与えている行為について、過去に一部の者がやったことだとして、あっさり認めるに至ったといいます」「ですが、これは返って不自然で、むしろ、次のように言ってくれた方が理解しやすいと思われます」と続けています。
「日本と北朝鮮は今なお戦争状態が水面下で続いており、日本を倒すために、工作員の侵入が必要であり、そのために日本語の習得始め工作に必要な能力を培うべく日本人を拉致した。工作船はその行為のために必要であった。しかし、これらを続けることは、もはや経済状況の悪化、慢性的食糧不足による飢餓のため、困難になった。したがって、戦争を仕掛け、危機的状況を日本にもたらすことを断念せざるをえない。国家指導者として自らの責任を痛感する」ーこう言ってくれたら分かりやすいのに、と。あの時の私の正直な気分です。
さらに、「しかし、そうではなく、皆他人事のようにいわれると、いかにも信じがたい」と述べるとともに、「実際に日朝交渉を再開するにあたって、拉致問題について誠心誠意の対応がなされるかどうかが鍵を握っています。日本の過去について謝罪が表明されているのに、北朝鮮の現在についての謝罪がないという平壌宣言の不釣合いがもたらす疑惑を解消するには、拉致被害者が生きて帰ってくることです。それがないのに、しゃにむに国交正常化に向かうことは、さらなる禍根を残すだけ」と結論付けています。この小泉訪朝での「平壌宣言」からもうすぐ20年。結局は拉致問題について曖昧な状況が今なお続いていることは無念というほかありません。
●イージス艦派遣での私の〝賛成論〟が日経社説に
11月に、政府はテロ対策特別措置法に基づく海上自衛隊のインド洋での活動を半年間延長することをきめました。アル・カイーダの壊滅がなされず、ドイツなど21カ国がアフガニスタンに展開する国際治安支援部隊の活動も続いており、戦いは終わっていないのです。そういう状況にあって、イージス艦を派遣することの是非が政治課題として浮上していました。新聞記者の皆さんから、公明党の見解をよく訊かれました。私は、11月11日付けの国会リポートで、自分の考え方をこう述べています。
「公明党の神崎代表が先週の記者会見で慎重論を表明したため、今回のテロ特措法の期限延長に伴って、イージス艦の派遣をすることは見送りの公算が高いものと見られています。私などは、この一年の経験を踏まえて、隊員が不安を感じるといい、イージス艦の派遣でそれが収まるというなら、出すことに反対ではありません。日本のイージス艦によって、より高度な情報収集能力が自前で完結するからです。(中略)日本は集団的自衛権はいかなる場合でも行使しないと、政策判断で決めているとの意思ははっきりしており、イージス艦を送る送らないは関係がないと思います」
これに日経新聞が飛びつき、20日付の社説に書きました。「公明党の赤松正雄衆議院議員は、ホームページ上で、イージス艦派遣に反対でないと書き、公明党内の慎重論の理由を『自民党幹部の中にも根強い慎重論があるなかで、公明党が先走るわけにいかない』と説明する」と。新聞が社説に一政治家の名前まで挙げて解説するということは稀れです。これを書いたのは同紙で外交・防衛分野を一手に引き受けて書いていた伊奈久喜記者でした。同社説は、「結局だれも表立って反対しないにもかかわらず、派遣が決まらない」と続け、「いったん政治問題化した以上、決着させるのは政治の意思である。それが発揮されなかった」と嘆いていました。伊奈さんは蝶ネクタイが似合うお洒落な着こなしの記者で、時々意見を交わす仲でしたが、4年前の2016年に急逝してしまったのはまことに残念なことでした。遺作となった『修羅場の外交交渉術』は読み応えのあるいい本で、もっと生きて沢山の本を書いて欲しかったと思います。
●『外交フォーラム』に私の〝見立て〟が掲載
この頃、『外交フォーラム』なる外交専門誌(田中明彦氏監修 現在は廃刊)の11月1日発行分の『「新しい戦争」時代の安全保障』という特集号の中に、私のことが紹介されました。「9-11の衝撃ーそのとき、官邸は、外務省は」というタイトルの無署名論考です。
「有事法案に至る一連の流れのなかで公明党は、ブレーキ役を果たしてきた。それに変化の兆しがある。公明党衆議院議員・赤松正雄は、有事法案にテロ、不審船などの新たな事態が含まれていないと党内で不満を述べた。党執行部は、有事法案の内容は限定的にすべきだと考えており対立を生じた。しかし、公明党の歴史を見れば、安保政策の現実化の流れは明らかではある。赤松によれば、公明党の歴史は次の三期に分かれる。
第一期は1964年から93年までの長かった野党時代である。反自民の小野党時代である。第二期は93年から99年までの非自民の新進党時代、93年から一年足らず細川・羽田政権で、与党にいた時期を除けば、いわば大野党時代である。第三期が99年以降であり、親自民・小与党時代である。公明党が与党に入ったのは、ガイドライン法と呼ばれた周辺事態法を成立させるためだった。2001年には時限法にしたものの、テロ特措法を成立させた。したがって有事法案など今後の安全保障関係の法制整備に当たっても公明党は大筋で現実的な対応をしていく。赤松はそう見る」ー誰が書いたか知らないけれど、私の見立てをほぼ忠実に再現してくれています。この見方は先年の安保法制の成立に至るまで、ずっと続いていくのです。(2020-5-14公開 つづく)