【46】市川元書記長引退と心に残る言葉ー平成15年(2003年)❹

●後輩たちを前にした市川雄一元書記長の引退の発言

市川雄一公明党常任顧問(当時=元書記長)が政界を引退するにあたって、各メディアに取材を受け、発言をしました。それを紹介しつつ、私の思いをも合わせて記してみます。時系列的には、まず公明新聞9月27日付けのものが最初です。これは公明党の現職議員たちを前に引退の挨拶をされた際の発言が基になっています。

市川さんは、公明党書記長になって、まず公明党としての歴史観をどう持つのかを考えざるを得なかったと述べたうえで、「明治維新以来の近現代史、戦後史、東京裁判、憲法などをどう見るのか。あるいは、国家をどう見るのかという国家観、一国平和主義をどう乗り越えるのか、また公明党の平和観をどう作るのか」といったことについて、「絶えず自分の頭で考えて、本を読み、友人と語り、自分の思索を深めて、考え続け」たと強調。聞いている後輩たちに、「そういう骨太の政治家を目指していただきたい」と訴えました。私は常にこうしたことを直接聞いていながら、結局は本を読むという行為は続けたものの、自分の思索を深め、自分の頭で考えることは弱かったと認めざるを得ません。

また、市川さんは、当選した時に、尊敬する先輩から「議員であり続けることを目的にしてはいけない。議員は手段だ。議員という立場を使って何をやるのか、絶えず考えなさい」と激励されたことを引用し、「政党も同じで、存続することが目的ではなく、政党が理想とする政治をどう実現するのかという、手段としての存在が政党だ」と続けました。これを聞いていて、私は「常に何になるかを考えるのではなく、何をするかを考えろ」と市川さんから言われたことを思い起こします。そして、富士山を見て、人に仰ぎ見られる存在に自分もなろうと思うんだ、と激励を受けたことも。

最後に、自民党が長期低落傾向に陥っている原因について、「長年、政権与党で、自民党イコール政府、自民党イコール国家」だったのが、「冷戦が崩壊して、大競争の時代になったのに、政権与党でありさえすればいいと」思い続けたところにある、と強調。「今なんとかそれを改革しようとという小泉総理の真剣さに敬意を表しています」と結びました。小泉首相を就任当初はあまり評価していなかった市川さんでしたが、引退するに当たって、きちっと評価をし直されたことに、さすがだと思った次第です。

●4つの印象に残る仕事について語る

引退に際して、共同通信(10月9日)、讀賣新聞(10月10日)、東京新聞(10月10日)のインタビューに答えて以下のように発言しています。

ー公明党の果たした役割について、どう考えるか?

市川)国連平和維持活動(PKO)協力法は公明党という軸がなければ廃案だった。PKO法が周辺事態法、テロ特措法などにつながった。公明党の力が大きな道筋を与えた。(共同通信)

二大政党は、極端から極端に振れる。公明党が公明党であれば、埋没しない。国民は極端な右、左だけではない。対立軸も必要だが、合意形成の推進力は公明党に期待されている。(讀賣)

→市川さんは議員時代の自分の経験で印象深いのは、PKO 国会の他に、その前年1991年の湾岸戦争における多国籍軍への90億ドル支援と、細川政権、新進党の4つを挙げています。とりわけ、前二者の経験では、日本の命運そのものを自分が背負ったような極めて重い責任を感じたと言っていました。その当時、党内が真っ二つに賛否が割れて、衆参両院の議員が一日に幾たびも議論を繰り返し、ようやく党内の大勢が90億ドル支援に傾いたことを最も重要な思い出に挙げていました。

ー細川政権誕生の意味をどう捉えるか?

市川)自民党の単独支配を崩し、連立時代の幕を開けたことだ。それまで、ロッキード事件などカネのスキャンダルが相次いだが、自民党政権は変わらなかった。細川政権の誕生に尽力したのは、そこに何とか競争原理を導入し、政治腐敗をなくしたいとの思いからだ。(東京)

政権を取る準備をして(細川政権は)できたわけではない。そのもろさが崩壊、短命につながった。政治改革にエネルギーを全部吸い取られた感じだな。(新進党の失敗は)一つの政党になったが、そう簡単に融和できない。政権がとれなかった喪失感が求心力を失わせた。政党は選挙に勝てなきゃあだめだ。(讀賣)

→政治の活性化、腐敗防止を図るために、政党の組み合わせによる競争の原理が必要であり、それこそが小選挙区の導入に至る原因となったと、市川さんは言われた。現実に政治とカネの問題は改善したのかと、記者から聞かれて、「政治家個人への企業献金も禁止され、選挙制度改革がじわじわと効いてきた」と述べています。確かにその側面はあり、いっときよりも政治腐敗は姿を潜めたかに見えます。しかし、派閥はなくなり、かつての自民党内競争の原理が後衛に退いた感がします。しかし、その分、今度は権力の一極化による弊害が出てきていることは残念という他ありません。

●これからの政治への適切な助言

新聞社の要請を受けて、引退の弁を書いたのが朝日新聞(10月10日付)と、日経新聞(10月15日付)に掲載されました。

公明党はいま、改革のための「政治の安定」を与えている。小泉首相が立派な改革を唱えても数の安定がなければ、ガタガタする。政治への「空気」みたいな貢献なんですね。政治の安定は目に見えませんから。野党なら評論家でいいが、与党はそうはいかない。妥協もあるし、「公明党らしさがなくなった」とおしかりを受ける。だが、長い目でみれば、与党としての力量を持った政党に脱皮しつつあると思っている。(朝日)

創価学会と公明党との関係を言えば、結果責任は党にある。学会は支持団体として助言をするが、聞き入れるか聞き入れないか、という主体性は党にあるわけだ。だからその時々の執行部の力量、政党のかじ取りが非常に大事だと思う。今は憲法の議論をやった方がいい。日本人の頭で考え、書いた憲法を作る。作る過程の議論で日本の国家像が生まれてくるのではないか。結果は今の憲法とほぼ同じでも、やる価値がある。議論で政党も政治家も鍛えられ、選挙で裁かれていく、そういう時代が直前に来ている。(日経)

→「改革のための安定」を公明党が自民党に与えていると市川さんはここで述べています。この発言から17年ほどが経った今、安倍自民党はこのことの持つ意味を拳拳服膺してもらいたいものです。いつまでも続くと思うな、「親とカネ」ならぬ、〝公明党のバックアップ〟でしょう。また、憲法についての市川さんの指摘は、公明党の山口代表を始めとする後輩の皆さんにぜひ熟読玩味してもらいたいものです。例えば、動かない衆参の憲法審査会に対してあの手この手で動かす議論をするべきです。どこの政党がやらずとも公明党だけでも、と思います。(2020-5-26 公開 つづく)

 

 

 

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