●厚生労働省というお役所
厚生労働省の副大臣室は霞ヶ関の中央合同庁舎5号館の10階にあります。上層部分には環境省が入っていて、二つの役所が同居しています。私の上司たる大臣の席についたのは川崎二郎さん。三重県選出のベテランであの自転車事故で倒れた元財務相の谷垣禎一さんの片腕とも言われた大物です。同じ大学出身で、私の方が歳上。ただし、政治家歴ではずっと後塵を拝してきました。副大臣は二人いて、私は厚生業務担当。もう一人労働行政を担当する副大臣は中野清さん。埼玉県川越を地盤とする中堅代議士です。政務官は西川京子さんと岡田広さんでした。事務次官は、辻哲夫さん。歴代の次官の中でも特筆されるべき切れ者との評判の逸材でした。この人は、兵庫県出身で後々まで深い関係を結びます。そして、私を助けてくれた秘書団は宮崎淳文課長補佐(当時)を中心に全部で男女5人。他に専属の運転手も付いてくれました。ほぼ一年の間、このスタッフには本当にお世話になりました。〝チーム赤松〟は15年経った今も続き、これからも続くはずです。
元々医療分野の厚生省と働く人々にまつわる分野の労働省と、大きく二つに分かれていたのが2001年の行政改革で合併されることとなりました。この時点で5年が経っていました。厚生行政は天皇家始め宮家との関係が深く、就任直後の挨拶回りは、普段は全くご縁のない高貴な場所に行くことから始まったことが印象に残っています。
●記者会見と就任の挨拶から
副大臣に就任した11月2日の夜、厚労省記者クラブで就任会見を行いました。その中では「厚生労働省としては、年金改革に一区切りがつき、障がい者自立支援法にも区切りをつけて、来年のテーマは、医療制度の改革であると認識しています。その課題解決に向かってしっかりと取り組んで参りたい」と述べています。
また、4日には、厚生労働省の職員を前にして、以下のような挨拶をしました。
【人間の安全保障ともいうべき分野に取り組んでいる皆さんと、このたび一緒に仕事をすることになりました。厚生労働省の仕事は、現実生活そのものに深く関わっています。これまで直接的には関わってきませんでしたが、今後の日本の政治の大きな軸である「福祉」には、非常に大きな関心を持っています。この分野は今、大きな転機を迎えているのではないでしょうか。厚生労働省の仕事にあまり習熟していない政治家の登場に対して、色々な想いが皆さんにあろうかと思いますが、私たちも大臣中心にチームを組んで精一杯取り組んでいきますので、よろしくお願い申し上げます】
なんだか意味不明ですが、よく読むと意味深長なくだりもあります。聞いていた職員の受け止め方は定かではありませんが、「変わった副大臣だなあ。まあ、俺たちは自分の仕事をすればいいので、あんた達もしっかり頑張ってよ」といったところだったのであろうと思います。
●佐藤製薬でイチロー、星野監督と出会う
就任後の様々な出会いで印象に残っているのがプロ野球・イチロー選手と星野仙一元監督との出会いです。どうしてって、思うでしょうね。佐藤製薬主催の会合に呼ばれたのですが、彼らは共に同社の販売する薬のイメージキャラクターでした。イチローさんはユンケル、星野監督はストナの担当です。主催者側の計らいで、催しの始まる前に、わざわざイチローさんとのツーショットの場面を作ってくれました。「ユンケルって効きますか」「もちろん。いつも飲んでますが、最高です」ーこんな他愛もないやりとりを交わす間にカシャ、カシャっとシャッターが切られました。色々聞く間も無く、後で待っている次の人と交替となってしまいました。
一方、星野監督とは懇親会の場面で同じテーブルを囲んであれこれ会話を交わしました。実は私と彼とは同じ時代を共有しています。星野さんは東京6大学リーグの明治で鳴らした有名選手。私は当時、神宮球場に通って主に早慶戦を見物したりするだけの平凡な学生。ただし、私はこの頃から有名だった谷沢健一、田淵幸一、山本浩二選手らのことをよく知っていました。特に、私のクラスには後にプロ野球選手になった藤原眞選手(兵庫県西脇市出身)がいましたので、そんなよもやま話ですっかり盛り上がってしまったのです。楽しいひと時でした。
●ついでに、大相撲・鶴竜とのご縁も
スポーツ関連の話題でいいますと、もう一つ、大相撲があります。私の地元姫路にあるゼネコンの平錦建設の前社長が私を大層可愛がってくれていました。本来は自民党びいきでしたが、公明党の私も随分と取り立ててくれました。毎年行われる傘下の企業従業員を一堂に集めての安全大会の来賓にも呼ばれ、挨拶の機会をくれていたのです。実は、この企業、大相撲との関連が深く、そもそも企業名の「平錦」は明治時代に活躍した姫路出身の元大関の四股名です。引退後起こしたのが前身の会社といいます。元関脇・逆鉾率いる井筒部屋一行のタニマチとして毎年春場所が開かれるときに、姫路商工会議所で懇親会を開いて、同部屋所属の力士や行司や呼び出しら関係者を激励していました。その場に私も呼んでくれたのです。この部屋には当時・新入幕(同年11月)直前の鶴竜関(現在は横綱)がいました。副大臣として初めてあった時はまだ十両でした。力士は総勢10人にも満たない小部屋でしたから、聳え立った存在で、将来が嘱望されていました。
逆鉾親方は、技能力士の元関脇・鶴ヶ嶺の次男(弟は現在は錣山親方の寺尾)です。私の世代がこよなく愛した昭和30年代の大相撲を巡っていつも話題はつきませんでした。同親方はアルコールは殆ど口にされず、常に2リットル入りのお水のペットボトルを持ち歩いていました。残念ながら先年亡くなられてしまいましたが、愛弟子鶴竜の横綱の晴れ姿を見てからだったのがせめてもの慰めです。また、平錦建設の社長もほどなく後を追われたのは残念なことでした。
肝心の鶴竜関は極めて寡黙でこちらが話しかけても、ニッコリするだけで、全くと言っていいほど話にのってきません。辛うじて父親がモンゴルでも著名な学者であることは聞き出せましたが、それ以外はあまり分からずじまい。後で調べると母親も超エリートで、本人も4カ国語が堪能とか。おっとりした性格で、今となっては、鶴竜後援会の端っこにいたということが誇らしく感じられます。
厚労副大臣就任直後の話がいきなり閑話休題めいたものになりました。人間の健康を取り扱うお役所の仕事を始めるということで、スポーツ関係の話題となったこと、ご容赦頂ければ幸いです。(2020-6-23公開 つづく)