●夢前町と白鷺地域ー縁多き地と人と
2015年の新年元旦は、創価学会の新年勤行会への出席(姫路西文化会館)で幕が開きました。私の父母が生まれ育った夢前町地域の皆さんを中心としたメンバーが多数集まって来られ、懐かしい面々との出会いをすることに。この地域は近年富に、市内中心部や南部からも移住する人たちも増えて、活気を呈しています。初めて選挙に出た頃には、地元出身の候補者だということで並々ならぬご支援を頂いたことが忘れられません。
午後からは現在住んでいる地域の担当をさせていただきました。ここは白鷺城に因んで、白鷺本部という名がつけられています。私が姫路に帰ってくる前に東京中野区白鷺に住んでいましたから、「白鷺から白鷺へ」と移り住んだことになり、ご縁を感じたものです。新年早々から各地の座談会に飛び回りました。8日は播磨高岡、10日は網干、11日は夢前町の沖塩という風に。元議員特有の生命の濁りのようなものが中々消えず、自戒を強める日々ですが、座談会に参加するたびに、皆さんの純粋で真心溢れるパワーに命洗われる思いになります。
● 「桃栗三年柿八年」と追悼の辞
議員引退直後から、元公明新聞記者時代の後輩で大阪市議だったK氏の紹介で、大阪華僑のトップであり、幅広く事業を営む段為梁会長とお付き合いをさせていただくようになっていました。平成27年も新年早々1月14日にお会いしています。段会長の盟友である新堂衛専務も一緒でした。この人は元大阪市消防局長。危機管理に習熟している人で、まさに冷静沈着な古武士の佇まい。兵庫でも屈指のザ・サイプレスゴルフ場の支配人をされ、高速道路のサービエリアの経営にまで関わっておられました。私は憧れのゴルフ場の〝特別顧問〟という肩書きを頂き、友人たちを羨ませがらせたものです。尤も一度もここでプレーしたことがないというのは「お笑い」草ですが。
段会長は昨・令和2年に亡くなってしまわれた(享年84歳)のですが、奥様始め、二人の息子さんや娘さんたち(全部で四人)も含め家族ぐるみで八年もの間、親しくしていただき、私にとって第二の親父のような存在でした。お世話になった皆さんと一緒に「追想集」に思い出を寄せさせていただきました。以下に転載(抜粋)します。
段会長と私が初めてお会いしたのは平成24年(2012年)に公明党の衆議院議員を定年退職してからしばらく経ってのことでした。それから八年。引退の現実に気後れしがちな私を、会長は、ある時はおだてあげ、またある時は叱咤しまくって、励ましてくれました。お陰で、党への〝ご意見番と後輩育て役〟を果たせました。これからが本番。ご恩返しの闘いを、と思っていた矢先に訃報に接しました。残念です。心底から無念さで一杯です。
「世に桃栗三年、柿八年」と言います。議員を辞して八年が経ち、柿ならそろそろ実がなるころとなりました。もし、会長との出会いがなく、無為に過ごしてきていたなら、〝枯れ木の惨〟を晒しているに違いありません。もっともっと「鍛えの言葉」を頂きたかったとしきりに思います。
日本と中国ー両国の歴史と伝統を時に讃え、また謗りあいました。「共産中国」の現在とこれからに強い懸念を語り合いもしました。論争の中で、御自身の信念を一歩たりとも曲げられなかった会長の強い矜持が深く私の脳裏に刻まれ、生き続けています。
●懐かしい思い出の数々ー沖縄行きと大相撲観戦
段会長は沖縄うるま市で琉球温熱療法院を営まれる屋比久勝子さんの「温熱治療」のことをしばしば推奨されていました。あまりに言われるので、私も感化を受け、沖縄へ行って直接診療を受けたこともあります。屋比久さんは参議院公明党の秋野公造議員との交流もありました。彼は長崎大医学部出身の医師。元厚生労働省の医官も経験、私が厚労副大臣時代に束の間一緒に仕事をしたこともあります。医療のプロの後輩議員との関わりを知って一段と関心を深めたものです。
また、同会長は大相撲ファンで、大阪府立体育館(エディオンアリーナ大阪)で行われる春場所に、毎年招待をしてくれました。私はその都度、大相撲を未だ直接見たことのない友人たちに声をかけて枡席に出かけたものです。4人までは同席可能なのですが、通常は3人くらいがせいぜい。毎年、友人夫婦や家族連れを誘い、大いに喜ばれたものです。特に、大学同級のM君は東京に住む娘さんが大の鶴竜ファンと聞いていたので、「家族3人でどう?」と誘うと、浜松から一緒にやってきました。恐らく皆さん大相撲観戦の機会はそうざらにはないはず。合計8組ほどの友人たちに「感動」を差し上げることが出来ました。昨年からはコロナ禍でストップしてしまったのはとても残念なことです。(2021-4-17)