●サイバー研究所の所長に中学、高校同期の友人が
この7月19日には格別に嬉しい催しがありました。垂水中、長田高校同期の木戸出正継君が京都府と京都情報大学院大学の包括協定のもと、新たに作られた、ドメイン.kyotoの事業展開をするサイバー京都研究所の初代所長になったのです。それを記念するための「ファーゴとチェロの調べ」と題した演奏会が夕刻に京都コンピュータ学院駅前校で開かれ、出席しました。これには、世界的に著名な演奏家のエーデルマン夫妻が、モーツアルトや日本の様々な美しい曲を演奏してくれたのです。その後のパーティーで出会ったのは、日頃あまり付き合いがない分野の専門家ばかり。いささか戸惑いもあったものの、新たな出会いと繋がりの拡大で充実した夕べとなりました。
彼は、京都大学修士課程を終えた後、大手電気メーカーの研究所に入り、そこで博士号を取得し、最終的には奈良先端科学技術大学の教授となった科学者です。少年期の心をいつまでも失わぬ、科学技術の先端を切り開く男に、私は畏敬の念を抱いてきました。サイバー研究所長を3年務めた後、幾つかの仕事を経て現在は、大所高所からハイテク技術の動向を見つめつつ、週末のテニスを楽しむ健康ライフを過ごしているようです。
●熊本への旅と災害の襲来
中学、高校同期でいうと、もう一人忘れられない男が越智壮君。同志社から大和ハウス工業に入り、樋口武男氏(現最高顧問)のもとで薫陶を受け、ダイワロイヤルホテルのトップになりました。西郷隆盛を小型にしたような風貌と気風の良さ、カラオケのうまさは他の追随を許しません。縁あって熊本に住んでおり、私も幾たびか訪れました。そこでも、また神戸や姫路でも彼の唄を聴いたものですが、ホントにうまい。歌う西郷隆盛ーイメージは湧いてこないと思いますが、じつに惚れ惚れする、ゼネコンの営業で鍛えた声色、節回しです。
この年の夏8月23日は一泊二日で、彼の誘いを受けて妻と共に熊本を訪れました。熊本市内から阿蘇へと足を運ぶなど、それなりに楽しい旅だったのですが、帰りに台風の直撃を受けてしまい、駅で足止めを食らったのには閉口しました。あれ以降、熊本は地震やら風雨災害などに度々襲われています。
●一般社団法人「瀬戸内海島めぐり協会」の専務理事に
明石港と淡路島の岩屋港の間を、約15分ほどで結ぶ船会社ジェノバライン。議員引退後に、私はこの会社の顧問になったことは既に述べました。その後、2年の間に、小豆島、直島、犬島などにクルーズ船を運航させることや、淡路島一周の船旅を企画、運営してきました。この間に当初からの夢が膨らんでいったのです。
その夢は、関西国際空港にインバウンドしてくる外国人観光客を淡路島に引き込み、更に瀬戸内海の各島々を巡る旅に誘おうという構想へと発展していったのです。瀬戸内海の東の入り口に位置する淡路島は、〝国生みの島〟と呼び習わされ、「伊弉諾(いざなぎ)神宮」を抱える、万葉集ゆかりの地でもあります。この島を起点にして瀬戸内の島々を縫うが如く滑る船の上で、日本の起源を語り、万葉集の世界に酔うーこんな構想を形にしたいと思ったのです。
この考えが出てくる背景には、ジェノバラインのトップと旧知の関係にあった国文学者の中西進先生及びヨットで太平洋を横断した冒険家の堀江謙一さんの存在がありました。お二人ともご高齢ではありますが、一般社団法人「瀬戸内海島めぐり協会」の会長、副会長を、青年の心意気で引き受けてくれたのです。私もその勢いに感化され専務理事を引き受け、9月22日に設立総会をウエスティンホテルの国際会議場で迎えるまでに漕ぎ着けました。
あの日、中西先生とは宿泊先の「海若の宿(わたつみのやど)」に移動する車の中でもご一緒し、色々とお話をしましたが、テーマは主に日本の防衛と公明党の態度について。平和を強く希求される先生の〝自公政権への危惧〟がビンビン迫ってきました。思い過ごしです、とついつい反論するうちに、「瀬戸内海と万葉集」は程遠くなってしまったのです。懐かしい思い出です。(2021-5-5)