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【23】未曾有の金融危機の中、小渕氏が首相にー平成10年(1998年)❶

予算委で初の対首相質問

金融危機の真っ只中に、大蔵省の不祥事が続発しました。このことは庶民感情として全く許せないことでした。そうした空気を背景に、私は衆議院予算委員会で首相に質疑をすることになります。議員生活5年にして初の経験でした。テレビ中継もあり、緊張すると共に大いに気合を入れて準備したものです。1998年2月5日のことです。

質疑ではまず、バブル崩壊の過程の中で、政府の経済失策、そして大蔵省の護送船団方式の失敗をあげていきました。更には、金融機関の経営の失敗などのツケが全部弱い年金生活者にしわ寄せされているといった現状を述べました。また、30兆円もの公的資金の投入をするための法案の成立を図ろうとしていることについての問題点を追及しました。金融機関が自らの失敗を覆い隠すために、政府自民党と結託して不良債権の穴埋めに必死となっているではないか。金融業界からの「政治献金」を自民党が受け取っていることはおかしいではないかと、攻め立てたのです。

しかし、橋本さんは「首相」と「自民党総裁」という二つの立場の違いを使い分け、のらりくらりの答弁を繰り返すばかり。こちらは、政官財の癒着の実態を具体例をあげて追及したのですが、金融業界からの政治献金の使途については、経理区分した上で自粛することを強調するにとどまりました。十分に資料を集め、市川先輩のアドバイスを受けつつ質問への準備は、進めたのです。ですが、結果は空振り三振とは言えぬまでも、いい当たりのファウルを繰り返したのち、平凡な内野ゴロに仕留められた感じでした。この後、大蔵委員会でも松永光蔵相に対して大蔵省の不祥事を追及(4月28日)しました。このような政治不正、腐敗追及が出来たことは、野党ならではの貴重な議員経験といえましょう。やせ我慢めいて聞こえるかもしれませんが、正直そう思います。

自民党過半数割れの責任とり橋本氏辞任へ

橋本首相は生真面目な人で、群れるのを嫌う一匹狼的側面がありました。一般的には、能吏みたいで、お役所の課長よりも実務に詳しいと、揶揄されたものです。慶應義塾大学法学部出身の戦後最初の首相(吉田茂は中退、戦前は犬養毅ひとり)ということもあり、後輩にあたる私は大いに関心を持ち、正直期待もしました。だが、何かにつけて巡り合わせが悪かったといえるように思えます。行政改革の面では、今に至るまで影響を及ぼしている「官庁再編」を実施し、それなりの業績をあげました。ただ、経済対策については、 中々効果的な施策が打てず、結果的に海外からも「ツーリトル、ツーレイト(小さすぎて、遅すぎる)」と批判される政策を小出し、後出しにしたに過ぎませんでした。平成における「失われた10年」を決定づける「政策不況」を拡大させただけだったのです。また、ある中国人女性との間での機密漏えい問題についても、一部メディアで騒がれました。ハニートラップ(女性スパイによる色仕掛け諜報活動)に引っかかった典型例として、その著作に取り上げる著名な外交評論家もいます。失意のうちに2006年に67歳の若さで亡くなられたのは残念なことでした。

こうした背景もあって、98年7月に行われた参議院選挙では、自民党は改選議席61に対して45議席しか獲得出来ず、非改選議席と合わせても103議席という大敗を喫しました。過半数の126議席には遠く及ばなかったのです。尤も、このひと月前の6月1日に、自社さ連立政権は解消されていました。というのも、離党議員の復党などで、自民党はようやく衆議院における単独過半数の回復に漕ぎ着けていたからです。ただし、橋本首相は選挙大敗の責任をとって辞任。代わって小渕恵三氏が新首相に指名されました。7月30日のことです。

長銀救済をめぐり〝火の消し方〟を火事場で議論

小渕恵三氏といえば、平成の幕開けの際に、その命名の発信人として知られています。竹下政権の官房長官としての役回りでした。それいらい10年を経て、同じ派閥から橋本氏の後を継いで首相となりました。と、書けば簡単になったように思われますが、実は大変でした。参議院で、過半数議席に足らない自民党は、103票の小渕恵三氏よりも、野党民主党の菅直人代表が142票も獲得し、首相指名されるのです。衆参で違った結果が出たのですが、衆議院の指名を優先させる憲法の規定に則って小渕氏が首相になりました。田中角栄元首相の流れを組む、竹下登氏譲りの気配り、調整型の政治家との評価が専らでした。小渕氏の登場は、実に長銀の株価が額面割れに陥るという未曾有の金融危機の中でのことでした。蔵相に宮澤喜一元首相を登用するなど、必死の構えを見せて立ち向かおうとしたのです。

7月末から10月まで開催された臨時国会は、長銀救済をどうするかのテーマで、「金融国会」と呼ばれます。宮澤蔵相を中心に、公的資金の導入をしてまで長銀を延命させたいとする流れと、破綻させ国有化に持って行きたいとする野党民主党との間でせめぎ合いになりました。この争いで、特徴的だったのは、自民党の若手グループがベテラングループと対立し、民主党と組む動きを見せたことです。この連中は「政策新人類」と呼ばれるようになります。このあたりのことは、金融危機で燃え盛っている現場で、あたかもどう火を消せばいいかを議論しているようなものでした。この後、更に一段と、大蔵省の機能不全状態が鮮明になっていくのです。 (2020-3-22 公開=つづく)

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【22】新進党の分裂で「新党平和」へー平成9年(1997年)❷

小沢氏の急進的手法が災いし、新進党分裂へ

さて、新進党党首の小沢一郎氏は結成時点こそ海部俊樹元首相に党首の座を譲りますが、その後は羽田孜、鹿野道彦両氏らと闘って、いずれも破っています。そのくせ、党内求心力はその都度衰えを増し、弱体化が顕著になっていきます。この人は自民党という政党のど真ん中で政治家として大きくなりながら、その在り様に我慢できなかったようです。政治における官僚支配を許し続けてきた自民党政治がその不満の最大のものだったと思われます。

外から自民党を見続け、「55年体制打破」を志向した公明党にとって、その理念部分は小沢氏と共有できました。彼と力を合わせることで、古い自民党を壊すことが出来ると確信出来たのです。しかし、その手法が急進的過ぎることから、やがて人が離れていくことは避けられませんでした。公明党も平成9年(1997年)11月に、それまで新進党との合流が棚上げ状態であった、参議院議員(一部)と地方議員が正式に袂を別つ決断をします。翌年夏の参議院選挙では独自の闘いをすることになったのです。

12月の新進党の党首選挙では私たちは鹿野道彦氏を応援することを決めました。同氏とは個人的に懇意でもあり、発奮したものです。ただし、結果は敗退でした。小沢氏は勝利したものの、深刻な党内事情から、純化路線へと転進を決め、年の暮れも押し詰まった27日の両院議員総会の場で、新進党の分党と、自由党の結成を自ら宣言します。この結果、新進党は6つのグループに分かれることなり、私たち旧公明党衆議院議員グループは「新党平和」(参議院議員グループは「黎明クラブ」に)を結成することになります。この時点で、旧公明党から権藤恒夫、二見伸明、東祥三、久保哲司、石垣一夫氏らは小沢氏率いる自由党への参加を決め、分裂の試練を味わうことになりました。政治家・小沢一郎氏はなかなか魅力溢れる人物です。この時から20有余年。様々の毀誉褒貶を経て、今なお、打倒自民党に向けて野党結集の影の仕掛け人たろうとしています。驚嘆するしかありません。

新井将敬氏からの「公明」離脱の勧め

この頃のことで今になお印象深いエピソードを披露しましょう。とっておきは、今は亡き新井将敬氏(元衆議院議員)との会話です。新井氏は大蔵省出身の政治的センス溢れる風雲児。当時の政局の中で、自民党から新進党に転身、私とも親しくなりました。ある時、彼から話があるので、自分の議員会館の部屋に来てくれないかとの呼び出しを受けました。何事やらんと駆けつけたところ、彼はおもむろに「赤松さん、貴方は『新党平和』になんかにいないで、この際離党して、我々の党に来ないか」というのです。いやはや、いかに私が飛び跳ねていたとはいえ、公明グループからの離脱を勧められるなんて。そんな風に自分はみられているのかと、内心大いに慌てました。

勿論、そういう素ぶりは見せずに、やんわりとお断りしましたが。当時の新井氏は、柿沢弘治、太田誠一氏らと共に新たな党を起こそうと、画策している最中だったため、私に誘い水を持ちかけたものと見られます。柿沢氏とは、門前仲町の自宅にもお邪魔したり、太田氏とは同年齢でもあってそれなりに懇意にしていましたから、彼らの間で私のことを話題にしたものと思われます。新井氏は、その後しばらくしてあの大蔵省をめぐる汚職事件に巻き込まれ、結果的に自死されてしまったことはまことに残念なことでした。

金融破綻が一段と鮮明に

一方、平成9年(1997年)4月に、橋本政権は次々と国民への負担増を求めるようになります。まず、消費税率を3%から5%に引き上げたことが特筆されます。そして医療費の本人自己負担を1割から2割へ、さらには2兆円の特別減税の廃止など、合計9兆円の負担増です。その結果、景気が大きく失速する羽目になってしまいました。加えて、そこにタイの通貨危機(7月)が起こって、インドネシア、韓国に波及して、アジア通貨危機にまで拡大してしまうのです。更に、ロシアの財政危機がまたも顕在化。日本の製造業にとって命綱とも見られたアジア地域への輸出に黄信号が点滅することになり、不況が一段と深刻化してしまいます。

そこへ、三洋証券の倒産、北海道拓殖銀行の経営破綻、更には、山一証券の自主廃業などが連鎖的に起こり、日本は未曾有の金融危機を迎えてしまいます。このうち、山一証券の野澤社長の「社員らは悪くありませんから。みんな私たちが悪いんです。お願いします。再就職できるようにお願いします」との涙の記者会見は、とりわけ印象深いものがありました。このように、いわゆるバブル崩壊から5年余りが経ち、当時の無謀な投資や融資が不良債権となって、一連の経営破綻の引き金となっていきました。ここから、日本長期信用銀行、日本債権信用銀行の一時国有化へと、事態は一段と深刻になっていくのです。(2020-3-18 公開=つづく)

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【21】日本経済を襲う嵐の前の静けさー平成9年(1997年)❶

政治風刺漫画にまで登場

1997年の幕開けは、新進党の混迷を世間に印象づける形で始まりました。基本政策構想が全議員会議の場で小沢一郎党首から示され、すったもんだのやりとりが行われたのです。朝日新聞がその概略を1月15日付けで報じており、面白い内容になっていました。いわゆる右も左も混じり合った政党ですから、みんな勝手なことを言ってることがよく分かります。とくに安全保障基本法を制定するかどうかで、意見が分かれました。岡田克也、野田毅、細川護熙、小池百合子氏らの発言に交じって、私も「安全保障基本法案は憲法改正にかかわる問題で、時期尚早だ。沖縄の米軍基地撤去に向けた議論をした方が現実的ではないか。創価学会のメンバーは強い関心を持っている。用心してほしい」などと偉そうに聞こえる発言しているのです。今から振り返ると、小池氏の「行革だとか、株価が上がったり、下がったりしているときに、新進党は安全保障論議ばかりやっているとなると、『違うんじゃないの』という受け止め方しかされない」との指摘がぐっと刺さってきます。彼女の政治感覚の鋭さはここでも出色です。

それで、翌日の朝日新聞の針すなおさんの政治漫画に、なんと私とおぼしき四角い顔の男が描かれているのです。小沢一郎党首が「基本政策構想」と上書きされた箱からマスクを配っている場面。ゴホゴホとせきをしながら、「多国籍軍参加反対」と言いつつ、それを受け取っている描写なのです。てまえに細川護熙元首相も「ゴホゴホ、反対」と。添え書きには「マスクつければ多酷せき問題が鎮まるとは思えないが」と。なんだかよくわからない漫画ですが、後にも先にも私が政治風刺漫画に登場したのはこの時だけ。それなりに、公明党を代表しての反対が針さんには印象的に映ったに違いありません。

脳死問題で独自の行動

1997年の国会で浮上した課題は、脳死を人の死と認めるかどうかという大きなテーマでした。臓器移植の是非を巡って紛糾したのです。他人の臓器を必要とする人にとって、脳死状態の人から提供を受けることは、蘇生に繋がるために、本人は勿論家族も喉から手が出る出るほど欲しがられることは十分に理解できます。しかし、それは見方を変えると、人の死を待望することになります。幾ら客観的な基準を設けるとはいえ、勇み足的判断も引き起こさないとは限りません。人それぞれが持つ「生死観」によって考え方は分かれました。

党議拘束のもとに政党としての縛りをかけることには無理があったのです。それゆえ、個人ごとの判断に委ねられました。悩んだ末最終的に私は、臓器移植そのものに反対する態度を選択しました。人間の持つ宿業は、その臓器にも及ぶものであり、違う個体の中では馴染み得ないのではないか、との判断を優先させたのです。これは正しかったかどうか。生命倫理の根幹にかかわる問題だけに、今なお後味の悪さは引きずっています。大勢に赴かず、自身の独自のものの見方に固執しがちな私の特徴が見事なまでに出た態度でした。

さらに、香港が中国に返還されたのもこの年です。これによって自由・香港が、共産化する懸念が問題視されました。一方で、中国の香港化が期待できるとの見方も出るなど、かなり錯綜していました。あれから20年余。香港における自由を求める学生たちの暴動騒ぎが世界を震撼させました。同時に区議選における民主勢力の圧勝もあり、「一国二制度」なるものの不安定さが際立ってきています。これは即台湾にも影響を及ぼすことは必至(総統選挙での民進党勝利)で、固唾を飲んで対岸から見ることになったものと思われます。

財政金融特委から2週間の米英独旅行へ

この年の夏。7月9日から2週間の日程で、財政金融特別委の米欧州旅行が実施され、私も委員の一人として参加しました。団長は自民党の原田昇左右氏(故人)。団員には、伊吹文明、村上誠一郎、大出俊(旧社会党=故人)らの面々。自民党筋からは、うるさい連中ばかりだと、煙たがられる向きがありました。だが、私にとっては、気の合う素晴らしき先輩・仲間たちでした。現に今もなお、伊吹、村上両氏とはしっかり繋がっています。この旅の目的は「金融ビッグバン」を現地に見るというもので、米、英、独の三カ国に足を運びました。

英、独には生まれて初めての訪問。見るもの聞くもの珍しく、興奮の連続でした。旅の最後は、それぞれ自由にということになり、私は学生時代からの付き合いが続くドイツに長く住む友人のところに立ち寄りました。南ドイツのワイン畑やらヨーロッパ史の秘密が刻印された地・バーデンバーデンにも連れて行って貰い、得難い経験を積んだものです。

とりわけ、戦後半世紀が経つにもかかわらず、ドイツが先の大戦で蹂躙したポーランドやチェコとの間で、共通の歴史認識を持つべく歴史学者が集まって討論しているという事実には強い感動を覚えました。また、私が歩きながらヒトラー云々と口にすると、友人から声が大きいとたしなめられたことには、未だその傷跡の大きさを思わずにはいられませんでした。(2020-3-15公開=つづく)

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小選挙区比例代表制のもとで初の総選挙ー平成8年(1996年)❷【20】

堂々たる朝寝坊

大前研一さんといえば、「平成維新」を掲げての政治活動で有名でしたが、当時は既にそれも頓挫してしまっていました。周りに集まっていた政治家たちも潮の引くように姿を消してしまっていたのです。そんな折に全く違った角度から市川雄一さんとの〝出会い〟がありました。あるテレビの討論番組で同席した両氏。そこで、大前さんを市川さんが厳しく嗜める場面があったのです。断定的な物言いが特徴的な大前氏ですが、少しばかり突出した発言を市川さんは聞き逃しませんでした。観ていてハラハラする一方、ある種溜飲を下げた思いがしました。大前さんは、その直後に国会の議員会館の市川部屋に挨拶に来られました。隣の部屋の住人として、大いに気になりました。同席したわけではないのですが、清々しい出会いとなって市川さんは満足しておられた風が伺えました。大前さんは、公然と自身の非を指摘されながら、むしろそれをきっかけに相手の存在を認めようとされたものと思われます。大前さんはこのように中々度量の大きな人でした。

そういう繋がりを基に始まった関係だけに、先に述べた海外経済事情調査は魅惑的なものとなりました。その旅の行程の最終盤。宿泊先はゴールドコースト。明日は帰国という夜のこと。市川さんから明朝は早い出発になるので、起こしてくれないかと依頼されました。著名な海岸を見ながら早朝にランニングを、と期していた私は二つ返事で引き受けたのです。ところが、なんということか。翌朝、大幅に寝坊をしてしまいました。出発の時間が近づいているのに、起きてこない私を気にしながら、自前で起きていた市川、大前のお二人はあれこれと話の花を咲かせていました。冷や汗100斗もので、恥ずかしさで消え入りたくなりながら、「申し訳ありません」と言うほかありませんでした。「君は本当に元秘書だったの?寝坊するなんて」と大前さんに呆れられたものでした。普段は何かにつけ厳しい市川さんでしたが、この失敗には敢えて拘泥されなかったことが、かえってずっしりと重く迫ってきました。若かったというべきか、能天気なのか。大失敗の巻でした。

比例名簿4位の座り心地

平成8年10月。衆議院が解散、小選挙区比例代表並立制での初の衆議院選挙となりました。私にとっては初当選から三年余が経っていました。残念なことに、小選挙区ではいかに新進党からといえども出馬は叶わず、他党出身の後輩にその座を譲りました。姫路市内の兵庫11区からは五島たけし氏。相生、赤穂、龍野市など兵庫12区からは山口つよし氏の二人です。私の近畿比例区名簿の順番は公示日当日に発表され、4位でした。正直、発表と同時に当選が決まったようなもので、嬉しいような信じられないような感じでした。足掛け5年もかかった過去二回の総選挙での死闘を思うにつけ、まるで狐につままれたような気がしました。贅沢言うわけではありませんが、こんなことで当選していいのかとのある種のモラルハザードを実感した次第でした。

この総選挙では、❶加藤自民党幹事長の不正献金疑惑❷消費税率5%アップの不当性ーこの二つが主な焦点となりました。結果は残念ながら新進党は解散時の議席を上回ることさえ出来ませんでした。政権を自民党中心の政権に再び委ねることになります。政治改革の嵐の中で誕生した新進党ー自民党に対抗するもう一つの政権交代可能な政党でしたが、あえなく潰えさりました。

「橋本行革」がスタートへ

11月7日召集の特別国会で第二次橋本内閣が成立しました。橋本首相はここから先、省庁改革に取り組むことになります。「橋本行革」の名で呼ばれる省庁再編は、それまでの1府22省庁を1府12省庁にするもので、2001年1月から施行されました。中央省庁等改革基本法のもとに、省庁のスリム化、公務員の削減、予算の節減を目指し、大蔵省の財務省、金融庁の分割が最大のポイントです。当時の腐敗しきった大蔵省への国民の怨嗟の声が背景にありました。

ペルー日本大使館の人質事件、病原菌O157騒ぎなどや広島原爆ドームの世界遺産認定などが話題となったこの年の暮れ。

押し詰まった12月26日の日経新聞の「あの人 この人 消息」欄に、「走り続けた一年間」というタイトルで私のことがコラム記事に取り上げられました。書き出しは、一年前の定期健康診断の結果、主治医から運動不足を指摘され、元日から走り始めた、とあります。国会で忙殺される時は、議員会館隣に併設されたトレーニングジムで汗を流す一方、皇居周辺5キロを約30分で走った(地元では姫路城周辺2キロ半を2周した)。その甲斐あって、体重が一年で5キロ落ち、「出ていたお腹も引っ込んだ。走る前の憂鬱さと走り終えた後の爽快さの〝落差〟がたまらない」と嬉しそうに語っています。51歳の冬のことでした。(2020-3-11公開=つづく)

小選挙区比例代表制のもとで初の総選挙ー平成8年(1996年)❷【20】 はコメントを受け付けていません

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「住専」抗議で予算委室前に座り込むー平成8年( 1996年)❶【19】

村山・奇策政権から橋本・本格政権の誕生へ

平成8年は新年早々の村山首相の退陣表明から始まりました。驚天動地の自社さ政権がやっと終わる、との安堵感とともに、よくぞここまで持ったなあとの思いが錯綜したものです。

38年間続いた自民党単独政権が細川連立政権の誕生(平成5年)で崩れ、自民党は野党に転がり落ちました。この時に同等幹部が骨の髄まで身にしみて痛感したに違いないと思われたことが二つあります。一つは、ことここに至る原因を作った小沢一郎氏への恨みであり、もう一つはそれを支える公明党、創価学会への辛みです。その自民党が何が何でも政権への復帰を果たそうと画策した手立ては何だったか。いわゆる「55年体制」下(昭和30年=1955年に出来上がった日本統治の枠組みの俗称)にあって、不倶戴天の敵であったはずの社会党と手を組むという奇策でした。そして、その奇策に乗って担ぎ上げられたのが村山氏でした。朝起きた時に空を見て辞めようと思ったとか。奇妙なセリフを吐いて退陣の決意をした首相の姿を見て、私は心底から快哉を叫びました。変わって登場したのが橋本龍太郎氏です。必ずしも自民党内で圧倒的な支持があったわけではありませんが、満を持しての実力派への首相交代劇でした。

予算委員室前で座り込みながらの議員交流

橋本内閣は誕生と同時に厳しい試練に直面します。「住専」(住宅金融専門会社)の経営失敗に6850億円もの税金を充てることにしたことから、新進党など野党の激しい反発を招きました。自社さ政権与党への世論の批判を背景に、抗議の座り込み活動を衆議院予算委員室前でやることになりました。国会内の実力行使に疑問を感じないわけにはいきませんでしたが、「みんなでやれば怖くない」との下世話な勢いがあったことを告白します。

当選一回の新人にとって、この機会は色んな意味で鮮烈なインパクトを受けることになりました。記憶に残っているのは、審議するために予算委員室に入ろうとする橋本首相の姿です。座り込んでいる私たち野党議員の前に現れた同首相は怒号の中に一瞬怯んだようにように見えました。当然ながら入れずに引き返すわけですが、衛視たちの後ろに、同僚議員たちの背中の合間から見えた同首相の困惑そのものの表情は今になお忘れられません。

また、この頃の座り込み仲間で印象深かったのは、小池百合子さんです。ご存知、今をときめく東京都知事ですが、当時は参議院から鞍替えしたばかりの新顔代議士でした。彼女とは選挙区が同じ兵庫県ということもあって面識があり、選挙区のことやら、経済動向など、あれこれと隣り合わせに座って話したこんだことを思い起こします。とりわけモバイル通信に彼女は関心を強く持っていて、電話機能の飛躍的拡大を当時から予測していたのは流石に慧眼だったと感心します。

なお、この「住専国会」をどう打開するかを巡って、読売新聞が衆参20人の議員に緊急インタビューを(3-8付け)展開しました。その際に私は新進党の一人として、細川元首相や同僚だった石破茂氏らと共に登場したものです。「追加措置は税金投入への批判をごまかすトリックだ。6850億円を予算案から削除し、法的手続きに委ねるべきだ。金融システム崩壊論は脅迫に過ぎず、政治システム崩壊を恐れるべきだ。加藤自民党幹事長のヤミ献金疑惑解明しか打開の糸口はない」と、「べきだ」「べきだ」と繰り返し、偉そうに語っています。

また、薬害エイズ問題では、後に民主党政権で首相になる菅直人氏が厚生大臣として奔放な活躍をします。尤も、ないといってきた資料が突然発見されたり、和解が成立したと思ったら、直後にまた違う資料が出て来るなど、大臣と官僚のミスマッチは目を覆うばかり。特に、今に続く官僚の杜撰さは酷いものでした。かつてこの問題の渦中にいた厚生省の元課長が、のちに東大教授に栄進していたことには驚いたものです。

安保委質疑が船橋洋一氏の著作に引用

新進党小沢一郎党首の誕生と共に、党内の態勢が一新され、私は副幹事長から明日の内閣の安全保障分野の副担当になりました。当時、クリントン米大統領の訪日もあって、「日米安保」の再定義が課題として浮上。有事対応や集団的自衛権行使問題が改めて喧しい議論を引き起こしていました。そうした空気を背景に、4月9日の衆議院本会議で私は質問に立ち、橋本首相に対して、憲法の明文改正でしか集団的自衛権の行使は出来ないことを改めて確認しました。つまり、拡大解釈は許されないことを再確認したのです。この私の本会議初質問は、のちに、「日経」「毎日」「選択」など新聞や雑誌に報じられ、一定の波紋を呼びました。

また、4月11日には衆議院安全保障委員会で、外務省の情報操作問題を取り上げました。作家・麻生幾氏の『情報官邸に達せず』を引用しながら、それなりの工夫を凝らした内容でした。この質問は、翌年11月に岩波書店から発刊された船橋洋一氏の『同盟漂流』という大河ノンフィクションで言及されることになります。重要なテーマなのに、突っ込んだ議論が殆どなかったなかで、「情報官邸に達せず」の実例を示したとして、評価をくだしてくれました。名だたるジャーナリストの著作に明記され、満更でもない思いになったことはいうまでもありません。

大前、市川氏らと共に3カ国訪問

この年の5-27から6-1までの一週間、大前研一、市川雄一両氏らと共に、シンガポール、マレーシア、オーストラリアの三カ国を訪問しました。かねて市川氏の呼びかけで、大前氏を講師に、金融・財政問題の勉強会を新進党有志でやってきましたが、この旅はその勉強会の延長として、アジア・太平洋地域で発展著しいこれらの国に実際に足を運ぼうということになったものです。特に大前氏は、シンガポール、マレーシアの政府顧問的役割を担っていた人物だけに、 様々な意味で印象深い旅になりました。特に情報立国ともいうべき新たな国づくりに取り組むマレーシアの活気溢れる姿には驚きました。マハティール首相と会談した際には、70歳を超えてパソコンに取り組んだという老宰相の心意気に圧倒(つい先日まで90歳を超えて現役でした)されました。オーストラリアには大前氏のコンドミニアムがあり、そこに宿泊させていただきました。そこで、生涯忘れ得ぬ失敗をしてしまい、大前さんを驚かせてしまいます。その辺りは次回に。(2020-3-8公開 つづく)

 

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「宗教法人法改正」への不可解な動きー平成7年(1995年)【18】

発端はオウム真理教への対策

平成7年という年は社会的に極めて不穏な一年でした。年明け早々の阪神淡路の大震災に続き、オウム真理教の地下鉄サリン事件が起きたのです。巨大自然災害と超極悪犯罪。前者は一瞬にして兵庫県を中心に未曾有の大災害をもたらしました。後者は、人工的に首都機能を中心に地上世界を壊滅的に破壊しようとしたテロだったのです。我々の日常を根本から覆すこれらの動きに、為政者、多くの政治家はただただ戸惑い、為すすべを知らなかったというのが率直な印象でした。この二つの出来事がもたらした〝負の世情〟を背景に、政治的には奇妙な動きが蠢動します。「自社さ」という野合そのものの組合せの政権が、もう一つの政権勢力を目指した新進党の中核をなす公明党・創価学会を潰そうとしたのです。

それが顕著に現れたのが「宗教法人法の改正」という問題でした。これはあくまで表向きはオウム真理教による地下鉄サリン事件の再発を防止することが狙いでした。宗教者の仮面を被ったテロリスト集団を封じ込めるにはどうすればいいかが問われた法改正の発端でした。

宗教法人法改正の動きの背景

もともと宗教法人法という法律は、宗教法人に法人格を付与することを唯一の目的とする法律です。宗教法人が財産を取得したり、契約を結ぶなどといった法律行為を行う能力を得るためのものに限定したものです。端的に言ってみれば、団体にとっての出生届、戸籍登録に匹的するもので、それ以上でも以下でもないのです。宗教法人の宗教活動を規制したり、監督するためのものではありません。しかし、オウム真理教という集団が宗教法人の名を冠した存在であることから、一気にこうしたものを規制し、監督しようとする狙いが浮上してきたのでした。

政府が出してきた改正法案の骨子は、❶複数の都道府県で活動する宗教法人の所轄庁を都道府県知事から文部省に移す❷所轄庁への書類提出を義務化する❸信者、そのほか利害関係人から請求があった時には情報開示をする❹所轄庁に対して、報告聴取と質問権を付与するーなどというものでした。明らかに法の運用次第では「信教の自由」を侵すものでした。同法の基本的な性格を変えてしまい、宗教法人を監督、管理するために「宗教法人管理法」「宗教法人統制法」的なものへと質的に変更するものと見られたのです。まさにこれは羹に懲りて膾を吹くの例えそのもの、といえましょう。

拙速極まりない審議と露骨な公明党攻撃

当然のこととして宗教団体、関係者から一斉に反対の声が上がりました。しかし、自社さ政権の性急で強引な国会運営によって、10月31日の衆議院での審議開始から、わずか6日間で11月10日には衆議院宗教法人特別委員会で強行可決。同13日には与党・自社さ三党と共産党の賛成で衆議院本会議での可決となったのです。強行可決となった委員会審議の最終場面での新進党草川昭三氏(公明党・国民会議出身)の質問は、実に印象的なものでした。島村文部相の「(法案成立後には)創価学会を徹底的に身体検査してやる」との暴言を巡る追及でした。草川さんは、公明党の中でも際立って追及ものが旨い議員でしたが、とんでもない大臣発言を徹底的に暴き、聴くものの溜飲を一気に下げさせたのです。

参議院に舞台が移り、一段と政権側の姿勢は露骨になります。参考人質疑を要求してきたのです。最終的に秋谷栄之助創価学会会長(当時)が呼ばれることになり、12月4日の参議院宗教特委に他の5人と共に出席しました。この場で、秋谷会長は、「今回の法『改正』の背景にあるのは次期総選挙対策であり、対立政党の支援団体を攻撃しようという党利党略である」と強く批判した上で、この法案には「宗教団体の国家管理を狙う意図が隠されて」おり、「『信教の自由』を脅かしかねない性格である以上、絶対に許してはならない」と強調。財務関係書類の提出義務や所轄庁の「質問権」などが、政教分離原則に違反するものだとの認識を示しました。

さらに、秋谷会長は宗教が政治に関与する際の前提として❶国家権力を使って布教しない❷国家からの特別の保護や特権を求めない❸支持する政党や候補者が政治的に中立であることを求めるーとの三項目を挙げ、これまで一貫した姿勢であることを明確化するとともに、創価学会としてこれまで政党に対する献金は一切なかったことを改めて表明したのです。

この参考人質疑では、自民、共産党の委員は持ち時間のすべてを使って、秋谷会長のみに質問を集中、あたかも創価学会の選挙支援活動が違法であるかのように描き出すことに躍起となりました。しかし、会長はこれらの質問一つひとつに明快に答え、政教一致批判の誤りを明快に論破していく陳述をきちっと行っていきました。秋谷会長は普段から落ち着いた物腰の方ですが、この時ほど堂々たる姿を私自身は見たことはなく、心底から頼もしく思えました。(2020-3-4公開=つづく)

 

 

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新進党の醍醐味を満喫ー平成7年(1995年)【17】

姫路市長選挙燃える

1995年は、地方統一選挙と参議院選挙が一緒にぶつかる年でした。姫路の場合はそれに市長選挙も重なりました。1983年から3期務めた戸谷松司氏が退任するため、その跡を狙って、警察官僚で海部俊樹元総理の秘書官も務めたことのある堀川和洋氏と県議会議員だった五島たけし氏(93年の衆議院選挙には新生党から立候補し落選中)が名乗りを挙げます。この結果、保守層を二分する戦いになるわけです。ちょうど新進党が結党された直後でもあり、自民党から新生党旗揚げに参加した五島氏は新進党に鞍替えしていました。堀川氏は新進党の党首・海部元総理の息がかかっており、ある意味で新進党同士の選挙の様相を呈したのです。自民党王国だった姫路市に新しい風が吹いたことになります。当時の私は新進党に所属しており、個人的に親しかった五島氏の支援に回ります。地方政党・公明は首長選挙には中立自主投票が基本ですが、五島氏の心意気に応えようとしました。この人は、淳心学院から早稲田大出身で、演説上手の人でした。結果は堀川氏の勝利に終わり、五島氏は涙を飲むことになります。

新進党初の参議院選挙

この年7月の参議院選挙は新進党として初の戦いになり、全国で旋風が吹き荒れました。また、衆議院選挙も足音が高まってきており、準備に力が入ってきました。小沢一郎氏が幹事長を務め、市川雄一氏が総務会長に就ていた新進党は、参議院選挙で、重点地域に衆参の全議員を投入、総力戦を挑みます。特に愛知選挙区と佐賀選挙区には力が込められて、双方の選挙支援に私も出向きました。震災の2ヶ月後にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生、暗い世情でしたが、それを跳ね返すべく参議院選挙に打ち込みました。それは公明党単独のものと違って、新進党という全く新たな土台の元での選挙でした。いささか勝手が違ったものの、結党の息吹溢れる選挙でした。前年に誕生していた自社さの「野合」政権への審判を国民に迫るものとして、「新進党対自民党」という二大政党制に対する国民の判断が問われたのです。

その結果は改選議席126中、自民党46(改選議席33)、新進党40(同19)、社会党16(同41)、共産8(同5)、さきがけ3(同1)というようなものでした。自民党は前回の参議院選挙での獲得議席67を大幅に下回り、社会党に至っては、改選数の三分の一ほどにとどまる大惨敗だったのです。それに対して新進党は議席において自民党に肉薄しました。獲得投票数では選挙区、比例区共に自民党を上回る勢いでした。ただ、自社さ政権側としては、3党で改選議席の過半数64を1議席にせよ上回ったとして、村山首相の続投を強引に決めるに至りました。

この背景には、新進党における公明党、そしてその最大の支持母体である創価学会に対する恐れを抱く勢力の跋扈がありました。これは後々様々な意味で尾を引くのですが、この選挙戦が全てを包含していたと言えなくもありません。現代における戦争、陣地取りと言える壮絶な戦いの中で、ことの本質とは違った形で、恨みつらみが蓄積されていき、あらぬ方向に流れていくのですが、そのあたりについてはまた後ほど触れることにし、ここでは新進党初の参議院選挙がのちの禍根を生み出したとだけ記しておくことにします。

小選挙区に出られず比例区に回る

一方、来るべき衆議院選挙に向けて姫路では11区の候補に市長選挙で落ちた五島たけし氏が回り(12区には山口壮氏)、比例区で立つ私とジョイントした形での政談演説会が持たれました。残念ながら、私は小選挙区の候補足りえず、二回の中選挙区制度のもとでの選挙にでただけで、これ以後有権者に個人名を書いてもらう選挙には出られなくなってしまったのです。口惜しさはあったものの、党名で挑む比例区候補としての戦いに頭を切り替えました。7月29日姫路で開かれた講演会は大いに盛り上がったことはいうまでもありません。時の人である小沢一郎、市川雄一ツートップの揃い踏みだったのですから。後にも先にもこの二人に同時に応援演説をしてもらったのはこの時だけです。

中嶋嶺雄先生ら学者一行と台湾へ

この間に、新進党の衆参両院議員の会合に中嶋嶺雄先生(東京外語大学長、後の秋田国際教養大学学長)が来られる機会がありました。講演のなかで、先生が「この中に、私の高校同期生と大学での教え子がいます」と言われ、ビックリしました。先生と松本深志高校で同期というのは、のちに長野県知事や防災担当相や国家公安委員長になられた村井仁代議士です。教え子というのは慶応時代に東京外語大から講師で来ておられた際に教えてもらった私のことです。満場の中でわざわざのコメント。気恥ずかしいものがありましたが、誇らしいことでもありました。

実は中嶋先生はアジアオープンフォーラムを主宰されていました。これは一年ごとに台湾と日本で交互に開催地を変えて、両地域でそれぞれの学者、文化人が相互に交流をしていたものです。「一つの中国」を掲げる中国に対抗する台湾を支援するというのが目的です。台湾側の中心は李登輝総統。この年の夏(8-18から22まで)の開催地は台湾最南端の高雄。七回目です。日本側の代表は亀井正夫住友電工相談役。例の民間政治臨調の中心者です。主な日本側の参加メンバーは、中嶋先生の他に、金森久雄、高坂正堯、山崎正和、飯田経夫、日下公人、神谷不二、佐々淳行、大宅映子の皆さん。政治家は、椎名素夫氏ぐらいでしたが、この人も政治家というより、むしろ学者っぽい方でした。錚々たる皆さんの中に、私というちょっと異色の若造政治家が潜り込んでいたのです。李登輝総統とは、このフォーラムにおいて三たびお会いしましたが、知的能力と政治的決断力を併せ持つ指導者の風格がとても印象的な人でした。(2020-3-1公開 つづく)
※3月は、原則として、日曜、水曜ごとに公開する予定です。

 

 

 

 

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村山自社さ政権という悪夢の根源ー平成7年(1995年)【16】

村山首相を追い詰めた市川雄一質問の真骨頂

村山富市という人物が日本の首相の座に就いていたのは、平成6年の6月30日から、平成8年の1月11日まで。ほぼ一年半に及びます。平成7年の一年間はまるまる首相をしていたわけです。その年の1月17日に大震災に襲われたのですから、就任半年後に未曾有の大震災に見舞われ、それから一年間、〝迷走〟を続けたことになります。この迷走の本質は、55年体制の表裏をなしていた自社両党が、ちょうどひっくり返ったことにあります。つまり、それまで表にいた自民党が裏方に回り、裏にいた社会党が表に回る。ひょっとこの面を顔の後ろにまわしていたものをくるりと裏返して表に回したように、私たちの前に現れました。

権力の使い方という面では自民党が少し助け、いわゆる弱者救済的政策展開では社会党らしさがチョッピリ顔を出したとは云えます。しかし、社会党は所詮は万年野党。あっという間にお里が知れてしまいます。その最たるものは、安全保障政策における一夜漬け的転換です。かつて「非武装中立」というスタンスを臆面もなく掲げて恥なかった政党が、政権に就くや否やあっさりとその態度を変えてしまうなどということが許されていいのでしょうか。ここを完膚なきまでに追及して、叩き壊したのが市川書記長の1月27日の衆議院予算委員会の総括質疑でした。

従来の社会党が自衛隊を違憲とした根拠は、憲法の何条のどの条文によるものなのか、また村山首相が衆議院本会議の答弁で自衛隊を合憲としたのは、憲法何条のどの条文なのかーこれだけのことを明らかにすべく約一時間をかけて市川書記長は追及したのです。村山首相はこれに対して、いったい何と答えたのか。答えは驚くべきことに、ひたすら「憲法ぜんぶんです」のみ。耳から聞こえてくるぜんぶんとは、果たして、前文なのか、それとも全文なのか。これををはっきりさせようとしても、村山氏は一切いわない。社会党が発行してきた文書によれば、憲法9条を根拠にして自衛隊を違憲としてきたことは明らかです。それを明確に云わせようとしたのですが、曖昧模糊とした「憲法ぜんぶん」を繰り返すばかり。前代未聞の珍答弁でした。一国の首相たるものが、自衛隊の違憲、合憲の判断基準を示し得ず、逃げまくったのです。ここに、この自社さ政権の悲劇の根源がありました。

朝日新聞の連載記事に登場

市川書記長から、常日頃「国会、とくに予算委員会の質問というのは、演説の場ではない。ショートクエッション、ショートアンサーで、相手の矛盾を浮き彫りにするんだ」と、聞いていました。まさにその通りのお手本のような質問の仕方に、こちらは感嘆するばかりでした。ただ、村山首相は蛙の面に何とやらだったのでしょうか。全く意にも介さず、今に至るまで弁明すら聞いたことがないのは、本当に不思議なことです。

目の覚めるような質問の一週間後、朝日新聞のコラム「主役 わき役」欄に上下二回にわたって私が登場することになります。一回目の見出しは「市川氏の強打浴びる『壁』」。「政務会長(市川氏のこと)は、構想の一端を私に話し、反応を見て考えを整理する。テニスの壁打ちなら、私は壁の役割。政務会長はボールをどこに飛ばすかわからない壁の方を好む」ーこう私は語っています。文末には「『まだ人を補佐する力はない。短期間で育てたいので、きつく当たることもある』と市川氏。強打を浴びて『壁』は時々へこまされる」と担当してくれた西前輝夫記者は書いています。二回目の見出しは「一本立ちしたい『元秘書』」と。それから25星霜。強打の主はもういません。今では、へこんだままの壁が残ってるだけです。

この頃、自民党の二階俊博衆議院議員(現同党幹事長)から電話があり、「山本集という画家が日刊スポーツ紙上で『ザ 政治家 日本を担ぐ50人』とのタイトルのもと、連載を書く。君のことも紹介しておいたから、宜しく」とのこと。この画家は知る人ぞ知る元ヤクザにして、智弁学園の初代野球部監督。「赤富士」を始め強烈な印象を与える絵を描くーそんなことは後で知りました。ともかく取材してくれるというなら拒まずとばかりに、当時は、片っ端からメディアに登場しようとしていた私です。二つ返事で引き受けました。「異色画家・山本集 永田町を往く」との上下二回にわたる連載(見出しは「復興への責任感じてます」「国会の古い仕組み変革を」)でした。文末に、山本集の「独白」として、「一年生議員とは思えぬ自信と雄々しさあふれる人や。持ち前の温かみで、兵庫選出の議員として、復興に向けて国会で頑張ってくれはると信じている。なかなか味のある政治家や」とありました。まるっきりお世辞だとは分かっていても、嬉しい思いがしました。(つづく)

 

 

 

 

 

村山自社さ政権という悪夢の根源ー平成7年(1995年)【16】 はコメントを受け付けていません

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阪神淡路大震災の直撃で大わらわ【15】ー平成7年(1995年)

新進党が結成。公明党国会議員は合流へ

平成6年の暮れ(12-10)に横浜で新進党の結成大会が開かれました。平成6年は、細川、羽田、村山と3人もの首相が入れ替わり、その年の暮れに衆参合わせて214人をも擁する一大政党が誕生したのです。党首は海部俊樹、幹事長が小沢一郎とかつての自民党の看板の二人ですが、旧公明党からは、副党首に石田幸四郎、政務会長に市川雄一、国会運営委員長に神崎武法、参議院議員代表に黒柳明の各氏が就きました。この時の高揚感は内外ともに極めて大きいものがありました。何しろこれだけの規模で自民党に対抗する勢力が築かれたことは大変な期待があったわけです。同じ日に私の大学のクラス会が東京・田町の三田キャンパスで開かれたのですが、集まった20人ほどの級友たちから大いにもてはやされたものです。

ただ、公明党は新進党に参加した他の政党と違って、地方議員を3千人も抱えており、600人の党職員や日刊紙を発行するなど圧倒的に所帯が大きい。このため、一気に合流するわけにはいかず、地方議員主体の「公明」と国会議員(衆議院議員は全員、参議院議員は95年改選組)による「新進党」とに分かれざるをえませんでした。私は、新進党に参画しましたが、地方議員の仲間たちは藤井富雄都議会議員が代表となった「公明」と、大きく二つに分かれることになったのです。「分党・二段階方式」とのことでしたが、正直こんなことでいいのか、将来はどうなるのか。色々と不安でした。ですが、そういうものを押し流す時の勢いとしての〝もう一つの政権勢力必要論〟があったのです。

我が郷土を襲った大震災

翌平成7年。1月17日ー午前5時47分。強烈な揺れが突然姫路市中央部にあった私の借家にも襲ってきました。神戸市の私立高校に通っていた娘がちょうど朝風呂に入っており、「湯舟が揺れてる〜」、と悲鳴をあげるやら、妻が這いながら家中の火を消すやら大騒ぎでした。一瞬家がこのまま倒壊するのでは、との危惧がよぎりました。直後にテレビを付けても何も分からず、暫く経ってから、神戸市内の火災状況が映し出されたのを見て、ようやくことの重大さが分かってきました。垂水に住む弟や東灘区の赤羽一嘉代議士に電話をしました。弟はたまたま仕事が休みで、遠出をしようと出掛けるところ、東の空に異様な閃光のようなものを見たといいます。赤羽氏は家の中はめちゃくちゃ、付近の殆どの家は崩壊、近所の人を瓦礫の中から助け出してきたばかりだという。これは一大事、さあ、神戸に救援に行こうと車に乗ったものの、大混雑でにっちもさっちも行きません。知ってるところに電話をしようにも今度はかからない。で、姫路の仲間に呼びかけて、布団や毛布やらを集めて救援活動をと、急拵えの宣伝車で向かったのですが、加古川までがやっと。結局、その日は神戸まではたどり着けませんでした。翌日になって、心あるみなさんによる救援物資を積んで、加西市から三木市を経て、新六甲トンネルルートで三宮に向かいました。「トンネルをくぐればそこは戦場だった」という表現がピッタリするような惨状でした。トンネルの前の神戸市北区一帯は以前と同じのどかな風景でしたが、その対比が実に鮮やかだったのです。市川さんが後になって電話をくれ、「神戸はまるでミサイルでも撃ち込まれたみたいだな。不足しているものがあれば、送る。何でも言ってくれ。大変だろうが頑張れよ」と激励をいただきました。

震災直後の国会で

1月20日に開幕した通常国会では、三日前の大震災への対応を中心に、社会党の党首が政権を担う事態への根本的な質疑が行われることになります。赤羽代議士が被災者の一人として、衆院予算委員会で「これは天災じゃない、人災だ」と後々まで語られ伝えられた追及を村山首相らにしました。25年経ってその彼が国土交通相に就任したことに深い感慨を覚えます。私は新進党の常任幹事、広報企画委員会副委員長に任命され、国会では安全保障委員会や消費者問題特別委員会の理事などに所属しました。2月7日には安保委で、14日には消費者問題特委で、それぞれ質問。震災発生時の自衛隊の対応、被災者の避難生活への対策などについて質問しました。しかし、初動の遅れを県知事の責任にしようとする防衛庁長官、現場の実態を殆ど知らない経企庁長官。いずれも責任の所在が曖昧な答弁ばかり。無責任極まりない村山首相と、誰も彼も似たり寄ったりの頼りない閣僚の姿に唖然とするばかりでした。(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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暗黒の政権運営と四月会の策謀【14】ー平成6年(1994年)

反公明党・反創価学会の動き

村山自社さ政権の誕生と表裏一体の関係にあったのが四月会の存在です。これは同政権の成立直前の6月23日に設立総会が持たれたもので、評論家の俵孝太郎氏を代表幹事とする反創価学会の宗教団体、学者、文化人、ジャーナリストらの集まりとされます。河野洋平、村山富市、武村正義の自社さ三党の党首も揃って出席し、創価学会への誹謗、中傷発言を展開しました。このことから、この政権は、反公明党・反創価学会の旗色を鮮明にした「四月会内閣」だと別称されます。その急先鋒が、亀井静香運輸相でした。彼は、白川勝彦、島村宜伸氏らと共に、反創価学会の議員集団「憲法20条を考える会」を作り、民間団体である「四月会」と歩調を合わせて、国会内外での反公明党、創価学会の動きを強めていくのです。

亀井氏は、初入閣後の週刊誌インタビューで「これまで公明党と創価学会に対して、政府も手加減していたが、これからは違います」と、一宗教団体に対して、政治権力が介入し圧迫を加えようとする露骨な意思表明をするなど、「信教の自由」をうたい、「政教分離原則」を掲げる現憲法に真っ向から抵触する攻撃を仕掛けてきました。ことここに至るまでの国会では、細川政権誕生からーつまり自民党が野党に転落してからー一年2ヶ月ほどの間に、なんと延べ19人にも及ぶ自民党議員や2人の共産党議員らが執拗に公明党と創価学会との関係を取り上げる国会の委員会質問をしてきていたのです。

これらはいずれも憲法の規定を勝手に捻じ曲げ、自己流に解釈したものや、憲法の原則とは無関係のエセ政教分離論などが殆どでした。こうした誤った俗論・迷論を糺すべく機会を窺っていた公明党執行部は、憲法の政教分離原則とは何かを改めて国会の場で明らかにするべく立ち上がったのです。

政教分離原則を明確にさせた冬柴質問

平成6年(1994年)10月12日の衆議院予算委員会での公明党の冬柴鐡三氏の質問は、❶憲法20条で規定する「政教分離」原則とは、国家と宗教の分離、つまり国家権力と宗教の分離ということで、規制の対象はあくまで国家であって、政党や宗教団体を縛るものではない❷宗教団体が選挙支援を含む政治活動を行うことに何ら問題はなく、「集会、結社、表現の自由」(憲法21条)の上からも当然認められている権利である❸宗教団体がその活動の一環として政治活動を行うことができる以上、自らの施設の会館などを利用することも憲法上問題ない❹宗教団体が支援・支持する政党・政治家の政権参加も憲法上全く問題ないーといった従来からの国会論議で決着がついていることを、改めて大出峻郎内閣法制局長官とのやりとりを通じて明らかにさせました。冬柴氏はそのうえで、自社さ政権の三党首がこの憲法解釈を遵守するかどうか、を迫ったのです。3人は心ならずもかどうかは別にして、国会の場では遵守することを約束したのです。

矢野元党首の恐るべき発言

こうした四月会の蠢動がある一方、公明党の矢野絢也前委員長のとんでもない動きがありました。彼は政界引退直後に雑誌『文藝春秋』に手記を書いていた(1993年10月)のですが、そこに「政教一致とも言われても致し方ない面がある」などと、あたかも公明党と創価学会に問題が存在するかのように記していたのです。これを自民党などが見逃すはずがありません。下稲葉耕吉参議院議員ら自民党・共産党6人が計八回にわたってこの〝矢野手記〟を振りかざして追及してきたのです。

実はこの矢野元委員長との間に、私にとって生涯忘れ得ぬ出来事があります。初めて当選した平成5年7月の直後に関西出身の議員が集まる機会がありました。この時の選挙で、矢野氏は私と共に当選していた久保哲司氏(故人)と交替し、政界を引退しました。この会は、新旧の議員が集まってお互いの労をねぎらい、新出発を祝う会でした。その重要な場面での、休憩のひととき。椅子に座っていた彼は通りかかった私を呼び止めて「おい、お前が赤松か。お前は市川の子分やな。お前なんか落としたろうと思っとったのに、くそ、通りくさって」というのです。瞬間我が耳を疑いました。関西、いや全国の同志の皆さんが渾身の力を込めて応援していただいたのに、当の公明党・元委員長の、この言い草はありません。私は『文藝春秋』に不可解な手記を書いていたこの人物に、どうしてあんなものを書いたのですか、と問いただし、胸ぐらでも掴みたい思いがありました。しかし、ぐっと抑えて、「私は市川の秘書です。いやそれ以前に池田先生の弟子です。余計なこと言うんじゃないですよ」と言うがはやいか、彼の手を掴んでグイッと前に引っ張りました。彼は椅子から転げ落ちそうになりました。それを周りの先輩議員たちが支えました。これはその場にいた皆が知っていることです。ただ、この場のことだけに終わり、問題になることはありませんでした。これは一重に、もっと議員を続けたかったのに、市川書記長によって、引退に追い込まれたとの悔しさが彼にはあったのでしょう。坊主憎けりゃ何とかとのことわざ通り、前市川秘書である私に難癖をつけて本心を露わにしたのです。(つづく)

 

 

 

 

 

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