【46】熊はなぜ町中に現れ人間を襲うようになったのか?/10-30

 10月26日に埼玉県秩父郡東秩父村の「和紙の里」で、日本熊森協会埼玉県支部主催の『熊森イン秩父』のイベントが行われました。これに室谷悠子会長と共に同会顧問の私も参加して来ました。同県下を始め東京など周辺地域から多数の市民の皆さんが集まって、熱心に同会長の講演を聞き、懇談会に参加されていました(写真)。同協会は、クマの生態動向は、「森林崩壊の予兆である」との警告を、創立いらい28年ほど一貫して訴えてきています。実は、この日の催しに先立って、前日25日午後に飯能市、当日午前中に小川町の2地域で、いま進んでいるメガソーラー建設の現場周辺を見て来ました。そうしたリアルな現地の実態を踏まえて、なぜクマがいま奥山から降りてきて里山から町中にまで出て人間を襲うようになっているのかについて考えてみます。

 ⚫︎長い年月で徐々に追い詰められた〝クマたちの逆襲〟

   このところ連日にわたって、クマによる人身事故が報じられています。28日には秋田県の鈴木健太知事が、クマ対策のために自衛隊の派遣を求める要望書を小泉進次郎防衛大臣に手渡すといった事態にまで発展しました。国家、国民を守る役目を担う防衛省、自衛隊がついにクマから人間の生命を守るために出動する可能性が高まっていることに、クマと人間の関係について深い悲しみと哀れを抱かざるをえません。

 本来は奥山にひっそりと暮らしてきたクマにとって、森林は生息の質を決定づける住環境です。それが第二次世界大戦後の経済需要から木材の速成供給の道としてスギ、ヒノキなど針葉樹の大量造林に繋がりました。それに比例してブナやナラなど広葉樹林の消滅へと傾斜していったのです。豊かな陽光を想起させる天然広葉樹林から、陽が差し込まず下草さえ貧弱な人工針葉樹林へ━━林業を取り巻くこの政策転換が、大地の保水力を弱める一方、クマの住環境を決定的に破壊したのです。その結果は、川の氾濫を容易にし、クマの里山への出没を促しました。また、クマの食生活に欠かせぬどんぐりの不作が一段と拍車をかけたといえます。何も好きでクマは山を降りたのではなくやむを得ず、なのです。

 ただでさえクマが住みづらくなった奥山に決定的な影響を与えたのがメガソーラーや風力発電などの再生可能エネルギーへの需要です。あの福島原発を襲った東日本大震災以降、急速に高まった代替エネルギーへの期待。これに群がった関連開発企業群は瞬く間に全国各地に広がり、森林を襲う開発にせいをだしたのです。これらの動きがクマの住環境に決定的な打撃をあげたことにこそ我々人間が思いを致す必要があります。今目の前に展開している事態は、この30年ほどの間に追い詰められた「クマたちの逆襲」なのかもしれません。

 ⚫︎奥山の生態系を壊し尽くす新エネルギーの乱開発

  ウクライナやガザを始め世界各地で人間同士が殺し殺される場面が日常的に映像として流される日々に、日本ではクマに怯え慄く姿が報道されています。この事態を見て多くの人々は「クマは恐ろしい動物だ。可哀想だけどクマは駆除しないといけない」と思っています。しかし、熊森協会のある幹部は「本来クマはベジタリアンだったのに、放置されたままの、人間が殺した鹿や猪などの肉や、様々な異種の食べ物を漁っているうちに食習慣が変わったのかもしれない。気候変動の影響で冬眠のタイミングも狂うなど異常な状況が起きて来ている」と嘆くのです。

 メガソーラーの林立する飯能の山奥にある市有地(写真)を見に行った際に、緑滴る森林に最も相応しくない風景に心曇る思いがしました。各地で市民による反対運動が起こっていますが、その反対の理由に、森林の乱伐は景観を損なうというものは上がっていても、クマとの因果関係に気づかせるメデイアの主張は殆ど目に留まりません。同時に、クマに殺された人間を悼む記事やニュースの中に、なぜクマが最近街中に出てくるようになったのかの背景に、メガソーラーや風力発電建設に伴って棲む地を追われたクマたちの身の上を慮る考察は殆ど見当たらないのです。

 クマを恐れ、被害を嘆き、自衛隊の出動にまで踏み切ろうとすることは、所詮対処療法であり、その場しのぎにしか思えません。モグラ叩きならぬ〝クマ叩き(殺し)〟が日常的になっても事態の根本的解決には繋がらないのです。県境を越えた各地のクマたちがまるでお互いにメールで連絡を取り合って人間を襲撃しているかのように見える現状は示唆的です。〝俺たちの住まいを元に戻せ〟と言っているかのように思われてなりません。この現状を打破するには、国民全体がことの本質を見抜き、中途半端な「人間中心主義」ではなく、「生きとし生けるもの主義」に立脚する必要があると強く思わざるを得ないのです。(2025-10-30)

 

 

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【45】悪戦奮闘の「自公選挙協力」の幻影━━兵庫県のケース/10-25

 公明党の連立離脱の余波は続く。その最大のものは、これまでの「自公選挙協力」はどうなるのかであり、それが野党との関係に何をもたらすかであろう。長年苦労して培ってきた人間関係が簡単に断ち切れるものかどうか。また逆に対野党とのケースも複雑だ。私の住む兵庫県では他県にない特殊な歴史的所産もあり、単純ではない。この例を通して全貌を推し量る一助としていただければ。

⚫︎公明党嫌いの自民党議員との選挙応援演説のエピソード

 「自公選挙協力」といっても当然のことながら参議院と衆議院とでは随分違う。兵庫県の場合、法改正で参議院の定数(改選選挙時)が1995年に1減の2になった。それ以後残念ながら不戦敗を余儀なくされた。だが、21年後の2016年に、また元の3になり今に続いている。9年前から今年までの3度の選挙では、公明党は自民党と、共に政権与党内候補として、文字通り組んずほぐれつの選挙戦を繰り返してきた。

 実はその狭間での定数2で公明党が候補をださなかった時代において、自公連立政権を組んでからというもの、公明党は自民党候補を応援することになった。この参議院選挙協力をめぐって私には忘れられないエピソードがある。今回の高市早苗首相誕生の隠然たる立役者が麻生太郎氏だったことから改めて思い出した。麻生氏といえば、鴻池祥肇(こうのいけよしただ)氏(兵庫選出の政治家=故人)。この2人はJC(青年商工会議所)幹部当時からの盟友。天下御免の兄弟分(麻生氏が一個歳上)として知られていた。

 2007年の参院選での三宮駅南での街頭演説でのことである。鴻池氏は自分の演説の際に聴衆に向かってこう切り出した。「皆さんの中で公明党の人、創価学会の会員の人おるか?あんたら、ワシのこと応援せんでええで。そんな応援してもらわんでもワシ通ったるから」。県公明党を代表して応援演説をするべく並んでいた私は、その発言は無視して、こう演説した。「皆さ〜ん。鴻池祥肇さんは、神戸一中(現神戸高校)出身、僕、赤松正雄は神戸三中(現長田高校)出身。鴻池氏、早稲田大学出身。赤松、慶應大学出身。鴻池さん、垂直思考、赤松、水平思考。鴻池さん何かと派手で目立つ。赤松はしぶくて地味。(大笑い)皆さ〜ん。我々2人は何もかもがこんなに対照的で食い違っています。しかし、一点だけ共通することがあります。それは何か。それは民主党(当時)や共産党候補には断じて負けたくない。この一点なんです(拍手)」こう大声でぶったものです。ところがこのあと、鴻池さんは2人だけになった時に「あんたのさっきの演説はなあ、大事なことが抜けとるで。あんたとワシとは憲法観が違うんじゃ」ときた。

 鴻池さんは、こんな例を出さずとも公明党の理念、成り立ちに対して反発され、嫌悪感をお持ちだった。これを変えさせることも叶わず、永遠の別れ(2018年逝去)をしてしまったのは悔やまれる。麻生さんも鴻池さんと同様に、公明党との連立は早く解消すべきだと思ってこられたことは想像に難くない。

⚫︎「小選挙区は自民、比例は公明」のまぼろし

 一方、衆院選挙での相互支援はもっと複雑だった。小選挙区比例代表並立制が導入されて、兵庫の場合は定数1の全12小選挙区のうち、2区と8区に公明党が候補を立て、それ以外の10選挙区は自民党だった。その10小選挙区の自民党候補を公明党が支援する代わりに、「比例区は公明党へ」と自民党陣営は応援してくれるというのが建前であった。この変型バーターは中々困難を極めた。全国でも、うまくいったケースや難しいケースなど様々であったと思われる。小選挙区候補者の人物にもよるものの、長年の自民党支持者が「公明党」と書くということに抵抗は大きかった。逆も同様なのはいうまでもない。

 兵庫の場合でも12小選挙区のうち、1選挙区の候補者が公然と相互支援を拒んだことがあり、ギクシャク感は濃淡の差はあれ付き纏い続けた。それでも20有余年の歴史の中で、公明党にそれなりのシンパシーを感じてくれる候補者も少しづつ増えてきていた。中には、引退してからも現役時代同様に自身の後援会名簿や関係者のリストをたくさん提供してくれる得難い人物もいることは特記する必要があろう。

 近未来に行われる総選挙では、公明党は小選挙区での選挙協力を人物本位で行うものと見られる。これまでの自民党との関係を御破算にして野党候補にスンナリ行くことは考えづらい。それぞれの地域ごとでの候補者個人の人となりや政治家としての力量によるというほかない。野党との関係でいえば、兵庫県ではかつて労組「連合」を軸にして「連合五党協議会」(略称、五党協)が結成(1994年)された。この枠組みのもと、ポスト自民党の受け皿作りに腐心したのだ。ちなみに結成された時の五党とは、社会党、民社党、新生党、日本新党と公明党である。公明党以外の党は全て消え去ってしまった。

 発足当時の連合兵庫のトップ石井亮一氏が私の出身高の先輩(弟君が同期生)だったこともあり、親近感を抱いたものである。あれから30年が経った。日本維新の会の前身である大阪維新の会が大阪自民党から分裂して誕生したのは2010年。15年前のことだ。「時間の政治学」と〝人の世の交際術〟とが興味深い交錯の彩を見せるときがきた。明治維新(1868年)以来の日本の歴史に、敗戦(1945年)を経て、二度刻印された「77年の興亡」。三たびのサイクルが動き始めた年(2022年)から3年。コロナ禍、ウクライナ戦争、ガザの悲劇と続きゆく一大転換期が日本でも本格的な幕開けの刻を迎えたようだ。(2025-10-25)

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【44】連立離脱から「中道改革」への新たなる挑戦/10-21

⚫︎自公連立26年の区切りを振り返る

 自公連立が26年をもって区切りとなったあと、一週間のてんやわんやの騒ぎを経て、20日に自民党と維新が閣外協力の形で連立を組むことになった。ここでは、自民党との連立を解消した公明党の今後のあり方を、日本政治全体の枠組みの変化の中で総論的に考えてみたい。

 自公連立の始まりは小渕首相主導の自自公政権だった。以来、自由党が離脱したり、保守党が加わったりしたのちに、自公両党による政権は自民党の小泉(第二次内閣)、安倍、福田、麻生と4人の総裁のもとに続いた。その後3年間の民主党政権の後に第二次の安倍政権が誕生したのは丁度私が現役を退いた頃だった。同政権は9年続いたのだが、私は引退後の閑居を契機に、現役時代の後半の自公政権下における内外の政治に関する論評を一般社団法人「安保政策研究会」の会報「安保研リポート」に書き続けた。それを2022年5月にまとめて『77年の興亡━━価値観の対立を追って』と題して出版した。更にその後、一年かけて朝日新聞Web版『論座』と毎日新聞Web版『政治プレミアム』にそれぞれ6回づつ計12回に分けて寄稿したものを、翌2023年5月に『新たなる77年の興亡』と銘打って、出版した。

 この2冊が世に出たときには、既に引退後10年余が経っていた。この論考は、日本が明治維新後77年で敗戦のやむなきに至り、戦後も77年間で「第二の敗戦」とでもいうべき苦境に陥っていることを公明党の視座から論じたものだった。中身を集約すると、自公連立政権は、もう行き詰まっており、「連立政権のジレンマを解消するために国民的大論争を起こそう」(続編の副題)という狙いを持たせたものであった。もっと連立を続けたいなら、国家的課題をめぐる議論をもっと詰めるべしと主張したのである。

⚫︎国家ビジョンを協議する場を持てと提案

 それから3年というもの、私は飽きもせず様々な機会に自公連立を終わらせるべく手を変え品を代えて訴えた。ある時は、自公両党がこの国をどういう方向に持っていくかを明らかにせぬ限り、真の意味で広範囲の国民や党支持者の賛同を得ることは難しいとした。またある時は、自公連立は、当初は自民党の公明党化を狙っていたのに、結局は公明党の自民党化をもたらしただけに終わったのではないかと述べた。更に先の参院選における参政党の躍進については、自民党の保守色を色褪せさせたのは公明党に起因するとまで言い切った。そして、自公両党は共に長期的展望に立った日本の国家ビジョンを作る協議の場を持たぬ限り、ジレンマを解消することは不可能だと論じた。

 26年にもわたる連立の間、両党はこうした協議の場作りをしないまま、「選挙協力」はそれなりの成果をあげてきた。言い換えれば、国家の基本を見据えた難題の解消への努力は棚上げして、当面の足元固めの作業に躍起となってきたわけだ。長期の関係維持には、双方の見えざる努力が必要であった。例えば9年に及んだ第二期安倍政権は功罪相半ばする歴史を持つが、同首相のたくまざる自制により公明党の協力を培った側面があったとされる。高市早苗総裁は安倍氏の後継を自認するなら、安倍的気配りの丁寧さに集約される手法を踏襲すべきだったのに、公明党の神経を逆撫でするだけの雑な対応だった。

⚫︎国民大衆のために「中道改革政治」の強化を

    さて、連立が崩壊してからのこれから、公明党はどう動くべきか。同党首脳は離脱を表明して以来、自民党を主軸にした政権与党に対抗する野党勢力の中に、確たる中道改革路線の固まりを作ると述べている。与党から野党へと立場が180度変わっても、公明党が基本的に目指す政治が変わるわけではない。対外的には「国際平和」を志向し、国内的には国民生活の安定に向けて「福祉と教育」の充実に力を注ぐことは同じである。自公政権で培った統治能力の向上を背景に、国民本位の政策実現を野党の立場から取り組むことが第一に望まれる。公明党の政権離脱、維新の与党入りで政権の右傾化が懸念されているが、そうならぬようにむしろ中道改革の流れを外から強めて自民党政治の変革を進めていきたい。

 自維与党連立と立公国野党共闘がかつてのような不毛のイデオロギー対決になってはならない。ほぼ30年間の日本の政治が先祖帰りのように逆流するのではなく、レベルアップしたそれぞれの力量をもとに、一皮も二皮も脱皮して飛躍することが望まれる。当面はテーマごとに、立憲民主党や国民民主党との折衝を軸に主要野党間の合意形成を計りつつ、連立与党との調整を積み重ねるということになろう。

 日本の政治は「保守と革新」の対立から「保守対リベラル」の時代を経て、今後の与野党の枠組みは、むしろ「保守対中道」に変容していくものと見られる。公明党が誕生して60年。中道を志向する政党は唯一公明党だけだったが、今や主要な野党は中道の呼称を拒まない傾向にある。自民党の中にさえ中道志向の動きは芽生えてきている。その意味では「中道右派対中道左派」の様相もあるといえよう。

 公明党周辺では近い将来、再び自民党との連立に回帰することを期待する向きがあることは否定できない。しかし、民主主義の基本が政権交代にある限り、自民党中心の政権勢力にとって代わる新たな中道改革政権を作る方向に邁進することが本来の道筋だろう。新たな構図に分かれた政党が国民本位の政治実現に向けて政策合意に汗を流すことができるかどうか。〝一寸先は闇だ〟との声がこだまする。(2025-10-21 一部修正)

 

 

 

 

 

 

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【43】使命に生き抜いた気高き人生と愛━━玉岡かおる『負けんとき』を読んで/10-15

 「負けんとき」って言葉を関西の人間が使うニュアンスは、ありていにいうと、「負けたらあかんでぇ〜」とか「負けんときや〜」といった「呼びかけ」の意味合いである。決して「負けない時」ではない。時間軸ではなく人間の対応軸に関する励ましの言い回しといえよう。現代播磨が生み出した当代一流の女流作家・玉岡かおるさんが、一柳満喜子という元小野藩主の娘で教育者とその伴侶であるキリスト教伝道者でかつ建築家のウィリアム・メレル・ヴォーリズ(日本名は一柳米来留)の伝記小説を上梓したのは14年前の2011年秋。それを僕は今頃になって読んだ。著者とは交流もあり、作品もあれこれ読んではきた。が、これは未読だった。読むきっかけは、今年がヴォーリズが近江八幡に活動の足場を定めて120年の記念すべき佳節だからというのではない。強いて挙げれば、7月に僕が友人たちの勧めで開いた『「ふれあう読書」出版記念交流会』の主賓のひとりとしてお招きした彼女がスピーチの中で「赤松さんは小説をもっと読むべし」との発言をされたからだ。後日「では何を?」と訊くと、ご自身のものでなく吉田修一の『国宝』や沢木耕太郎の『暦のしずく』の名があがった。そのつましさに惹かれた◆ちょうどそんな折に、母校長田高校の先輩で旧知の西部晋二さんから『感動建築100選!』が届いた。この本の帯には「建築には素人の人間」が書いた「建築に素人の方」向けの「建築紹介の本」とあった。そして、サブタイトルは「一度は訪れてみたい日本の美しき近代建築」とあり、数々の見事な建築物の写真が満載されていた。当然ながらそこには、ヴォーリズの代表作(1933年竣工、重要文化財)としての神戸女学院の文学館、図書館、理学館もあり、長文の説明も添えられていた。というわけで、「ヴォーリズ満喜子の種まく日々」の副題付きの『負けんとき』を選び読むに至ったわけである。読み終えたいま、人間にとっての愛の確かさと切なさ、そして宗教と教育の重要性を痛感して、大いなる充足感を得ることが出来た◆この本の主題は何か。キリスト教の布教、教育に生涯をかけた夫婦の闘いを表面的流れにする一方、底流には一人の男をめぐる2人の女の闘いを描いた小説だと、僕は捉えた。この両面が競い合うように、時に浮かび上がったり沈んだりしつつ、読むものをして数奇な人生航路の深みに誘う。とりわけ、この小説の妙味は、2組の男女の心の交錯にある。ヒロイン満喜子が江戸末期の旧藩主の娘という立場であり、身分差のあった男性(祐之進)に心を寄せていながら、不幸な出来事(彼の親の事業の失敗)から身を引かざるを得なかった。その間隙を縫うように女友達の絹代が彼の心を掴み取る。一方、その溝を埋めるように、米国人ヴォーリズが満喜子の前に登場し、幾つもの障壁を乗り越えて結ばれていく。この間の女同士の心理の描写は一方に偏らずして切なく心を揺さぶる。下巻の終末近く20年余の時を隔てて、満喜子と祐之進の邂逅の場が胸を打たずにおかない。実は既に絹代は20年前に亡くなっていた。亡くなる前に絹代は満喜子への謝罪の意の表明を夫・祐之進に託していた。そのくだりは「胸を衝かれた。死にゆく者がこの世に残す思いは、我が子を始め身内に向けて尽きないだろうに、自分を思ってくれたとは。競い合ったつもりはないが、若い日、たえずその存在で行く道を阻みあった仲だった。命の淵に立った時、彼女はせめて夫に罪滅ぼしを願ったのだろう。絹代の遺志が胸にしみた。奪った恋を、実らぬまでもふたたび解き放ってやる、それも愛だ」とあった。痺れる思いを抱く◆近江八幡でヴォーリズが残した仕事の痕跡は大きく4つある。キリスト教布教と表裏一体となった学校教育の展開と、その布教の補助ツールとしての役割を果たした薬用軟膏・メンソレータムの販売拠点(近江兄弟社)と、最後に建築の所産そのものの4つである。実は僕個人の思い出は10数年前のことだが、大学同級の親友2人とこの地に遊んだことがあり、安土城跡見学に合わせて近江兄弟社に立ち寄ったのだった。思えばほぼ同じ頃に玉岡さんのこの小説も世に出ていたというのだから、面白い。尤も当時はヴォーリズの営みやその背景を知らなかった。ただ無邪気に🎵メンソレータムがあ〜れば、い〜つでも安心🎶というコマーシャルソングを口ずさみながら、同社屋の前で記念撮影のカメラに納まっただけだった。それがこの小説を読んで一気にジグゾーパズルの残り数枚のピースが埋まっていくように感じるところとなった◆玉岡さんは9月初旬に日経新聞夕刊「心の玉手箱」欄(5回連載)の担当をしており、その第2回に「ヴォーリズのウサギとカメの置物」と題した一文があった。ご自身が力を込めて書きあげた作品を慈しみながらの心温まる文章である。9月20日のヴォーリズの120年を記念する講演会の開催を予告しつつ「彼が愛した日本は今も変わらぬ良き国なのかな?立ち止まるウサギの目線で見直してみなければ」と締めくくっていた。そして、当の記念集会での講演で、玉岡さんは『負けんとき』のテレビドラマ化を参加者に強く呼びかけたという。きっと観るものを深い感動で包み込むものになるに違いない。この本の文中随所に「負けんとき」の言葉が出てきて、読むものの人生をして励ます応援歌の趣きもある。それをもっと広めることになる映像化を僕も応援したい。競争相手は多いに違いない。「玉岡さん。負けんとき!」(2025-10-15)

 

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2025年10月14日 · 8:23 PM

【42】公明党の「連立政権離脱」を考える/10-10

 公明党がついに「連立政権離脱」を決断した。10日の党首会談の場で公明党の斉藤鉄夫代表がその判断を自民党の高市早苗総裁に披瀝したことを巡って、驚きの声が日本列島を駆け巡った。ずっと以前から自公連立解消を言い続けてきた身からすると、「やっとか」の思いはするものの、一般的にはどうせ「腰砕け」だろうとの見方があったに違いない。26年もの長きにわたって続いてきた連立をいざ解消するとなると、思いは複雑だからである。だが、賽は投げられた。先日のフジテレビのプライムニュースに出ていた伊吹文明元衆院議長の言うところの「無政府状態」が一段と鮮明になったかもしれない◆1時45分から2時間ほどの党首会談終了後の双方の記者会見を聴いて気付いたことは、自民党という政党がいかに公明党を舐めていたかである。高市自民党総裁は「公明党から一方的に連立離脱を突きつけられた」と言い切った。今日の会合は「決める場ではなかった」とも。持ち帰って党で相談するいとまも与えてくれなかったと不満たらたらだった。少しの想像力があればわかるはずなのに。一方、公明党の斉藤代表はこれまで幾たびも繰り返し、企業団体献金をめぐっての改革を主張してきたのに、自民党は今日も「これから検討する」の一本槍、これでは待ちきれない。時間をこれ以上かけてしまうと、政権発足にかえって迷惑をかけてしまうとの判断を述べていた◆実は僕の想定は、10日に合意が得られずとも、直ぐに離脱を表明せずに少し時間をかけた方がいいと思っていた。それは、自民党に改革への気がなくても、世間に公明党と自民党の考え方の相違を分かって貰うためにはいささかの時間が必要であるとの観点からだった。そうでないと、公明党に「政治の安定」をぶち壊されたとの批判の刃が向けられる。初の女性首相への期待が高まっているのに、公明党が水を差したとの筋違いの攻撃を受けてしまうこともあり得る、と。そう思って結論は「離脱」であっても、少し時間をかけた方がいいと思ったのだ◆加えて、「政治とカネ」だけではなく、もっと根本的な政治姿勢や国家ビジョンにまつわる自公協議の場を作ることも大事なことだと思っていた。もし、「離脱」をしない場合には、そういった条件もつけて今後に含みを持たせることがあってもいいとさえ思っていた。つまり、様々な可能性を想定しながら、今後の政権運営を考えていたのである。私のような「筋金入りの政権離脱論者」でさえ手順が少し早かったと見える。さてこれから、どうなるか。どうするか。自民党は連立を組む相手を探すことになるのだろうが、果たして今のような自民党と組もうという政党が出てくるかどうか、疑問である。公明党は自民党の改革を政権の内側から進めるというチャレンジに結局は失敗したという他ない。もう一度「真正中道主義」の原点に立ち返って「日本政治の再生」に向けての新たな出発に期待したい。(2025-10-10)

 

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※昨4日、自民党の新総裁に高市早苗氏が決まりました。少数与党の現実から、就任直後の記者会見で、同氏は政権運営は、自公連立が「基本中の基本」とした上で、連立相手の拡大に向けて野党との協議に意欲を燃やしています。一方、公明党の斉藤鉄夫代表は、週明けからの自公両党の政策協議を進める中で、想定される高市氏の政治スタンスへの懸念が払拭されるかどうかを睨んでいます。この辺りについては次回以降に回し、ここでは夏の終わりに観た映画『雪風』について触れてみたいと思います。

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 1945年生まれの僕のような戦後第一世代といっても、戦争というと小説や映画、ドキュメンタリーから、あるいは親の世代から伝えられ、聴くだけだった。小学校に上がる前の頃。僕は近くに住んでいた叔父の働く姿を見て、戦争の悲劇を思い知った。その叔父は、16歳で陸軍少年航空兵を志願して従軍し、フィリピンの戦場で片腕を失って帰ってきた人だった。若くして傷痍軍人になった彼は先端が鉤形の義手を肩からつけて、鉄屑などを集める鉄鋼問屋のような仕事をしていた。朝鮮特需が功を奏してそれなりに財をなした。いつも精力的で快活そのものだった叔父。直接彼から「戦争」についての体験談めいたものを聞かぬままに歳月が経った。大学を出て僕が新聞記者になって、日本の「外交や防衛」を論じるようになった頃に、人伝てに「フィリピンの大空を登り沈む巨大な太陽を見たことがないような者に、戦争は勿論、安全保障が分かるわけがない」と言っていたと聞いた。妙に納得し、いつまでも記憶に残っている◆1ヶ月前の8月最後の日曜日。姫路のシネマコンプレックスで、戦争映画『雪風』を観た。幾つかのラインナップから偶々これと時間が合った。特に予備知識は持ってなかった。見終えて、改めて無謀な戦争に突っ込んで行った日本の無惨さを思い知らされた。と共に、従来の「戦争映画」にはない不思議な爽やかさも味わった。それは軍艦『雪風』の持つ任務から来るものだった。ひと口に軍艦といっても戦艦、巡洋艦、駆逐艦、哨戒艦、潜水艦、補給艦、輸送艦など色々ある。そのうち『雪風』は駆逐艦であり、少し〝がたい〟は小さい。役務は、戦闘以外にも、兵士や物資を運ぶ輸送船団の警備や撃沈された軍艦の兵員を救助することなど多岐に及ぶ。映画を観て初めて知ったのだが、この『雪風』は、大日本帝国海軍史上名だたる「武勲艦」で、1940年に完成してから数多の海戦場で活躍した。かの戦艦『大和』の海上特攻作戦にも加わりながら最後まで生き残った。こうしたことから「幸運艦」の別名がついた。なお、終戦後は「引き揚げ船」としても就労。最終的に中華民国に「賠償船」として譲り渡されたという◆だが、この映画はSNS上などでは不人気である。最大の理由は、「戦争映画」としてのリアル感に乏しいことが挙げられよう。確かに、いかにもセットで作られた間に合せ的な印象は拭がたい。制作費の問題もあろう。全体的に臨場感に乏しく、戦争の持つ厳しさの伝わり方が弱い。そんな中で玉木宏扮する早瀬先任伍長が敵機の直撃を受ける。僕は瞬時叔父を思い出した。心騒いだ。駆逐艦の甲板上に瀕死の状態の兵士の右腕は肩から先がない。その片腕を拾い上げた若い兵士がもがれた肩口にくっ付けようとする。その異様なシーンが頭から離れない。また、海面に助けを求めて漂う兵員たちを救いあげるシーンが連続して出てくる。その一部始終がパターン化してみえる。一つひとつに差があった方がいいのではと思ったりもした。だが、まさにその〝普通じゃない映像〟こそ非日常を浮かび上がらせる「戦争映画」として相応しいのかもしれない◆映画では、戦艦『大和』が飛行隊の護衛もなく、燃料は半分だけ、というまさに「特攻」で〝死出の海原〟に向かう場面が登場する。この『大和』特攻作戦で4000人を超える人々が海の藻屑と化した。この数字を阪神淡路大震災での被災者や「9-11」の米同時多発テロ死の犠牲者と比べるという不遜な誘惑に駆られてしまう。〝大自然の咆哮〟とも言うべき地震の犠牲者と、〝虐げられた異民族の怒り〟の暴発したテロに巻き込まれた死者。どちらも無惨だが、「国家の意思」によって強制的に迫られた死。現実の生活に引き寄せると、あたかも前二者は突然死、後者は余命宣告をされた病死のようなものかと思ったりもする◆戦闘機に乗った航空兵が敵艦に体当たりで立ち向かった「特攻」だけを、特別視する向きは多い。僕も巨大戦艦が丸ごと「特攻」だったとの認識は殆どなかった。改めてその無謀さと無惨さを前にして、心折れる思いがした。先に述べた片腕の叔父は、戦争というものを僕に「感得」させてくれた。そして、彼は晩年、糖尿病の悪化から片脚を切断せざるを得なくなり、やがて両脚とも失って亡くなった。人生とは最後の最後まで壮絶なまでの戦いであることを教えてくれたのかもしれない。(2025-10-5)

 

 

 

 

 

 

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2025年10月5日 · 6:57 AM

【40】「沈黙のパートナー」でいいのか━━自民党総裁選に思うこと/9-30

 「三角大福中」って知ってる?━━自民党総裁選挙の間に幾つかの懇談の機会にお会いした方々に訊いてみた。年配の人は知っているが、比較的若い層の人は知らなかった。まして「麻垣康三」となると、もっと〝知名度〟は低い。前者は、佐藤栄作首相の後継の座を争った1970年代の自民党の領袖たち5人の苗字の頭文字(「角」だけは名前)をとったもので、後者は2005年に小泉純一郎首相の後を競ったリーダーたち4人の苗字と名前の一部をとったものだ。谷垣禎一氏を除いて8人は、全て後に首相になっている。今回の5人の名前の一部を取るとどうなるか。試しにやってみたが、過去の2例のように語呂合わせなり、どこかにいそうな名前は思いつかない。せいぜい「小小高茂林(しょうしょうたかもてばやし)」ぐらいかと、口ずさんでみたが、どの場でも受けなかった。それだけ自他共に認める実力者とは言い難い人たちだからと言えようか◆ただし、いわゆる学歴からすると皆さん立派だ。5人中4人の男性は全員、日本の大学を出たあと、米国の著名な大学で学んで(高市早苗氏は神戸大学を出たあと米議会で仕事をした経験あり)いる。かつて、宮澤喜一首相のあとの自民党を軸とした連立政権時代の首相たち10人(細川護熙氏から麻生太郎氏まで)がすべて日本の私大卒ばかりだったことに比べると、隔世の感がすると言えようか。昨年の総裁選で辛勝してこの1年ほど首相の座にあった石破茂氏とはあれこれと僕も縁があったが、今度の5人とはさして関係は深くない。茂木氏とは衆議院初当選が一緒の同期の桜だったが、一度予算委員会で隣り合わせになり喋った程度の関係だけ。それ以外の方は、小泉氏とは純一郎元首相との縁(最後の内閣で副大臣を務めた)、高市氏とは夫君の山本拓元衆議院議員との縁(大前研一、市川雄一氏らと一緒にマレーシア、シンガポール、豪州旅をした)があるぐらい。林、小林両氏とは殆ど無縁できた。それではならじと、この機会にそれなりに観察した◆尤も20年の議員生活を通して、遠くからながら、将来は必ず総理になる器だと僕が思ってきたのが林芳正氏である。実は彼を最初に意識したのも本人ではなく、親父さんの林義郎元蔵相だった。その昔テレビでジョギングしながらイヤホンを離さず英語を勉強していた姿が放映されていた。芳正氏の只ならぬ英語力を思うにつけ親子の関係に思いを馳せる。彼とは滅多に会う機会はなかった。だが、防衛相に就いた時に、同省きっての俊才・高見澤将林(元国家安全保障局次長)氏が、「これまでお支えした大臣は数多いが、林芳正大臣は最も英邁な人」と賛辞を送っていたことが忘れられない。当方は「防衛なら石破」と思い込んでいただけに意外な感じが強くしたものだ。その林氏は、防衛相の他に農水相、文科相、外相など6つの閣僚を務め「政界の119番」の異名を持つ。閣務に緊急登板の機会が多かったのだ。岸田文雄、石破茂両首相の官房長官として「両者の後継」を強く意識しているかに見える。特に石破首相については「話す相手の地域性などを常に考え、独特の言い回しをしたり、例え話を引用したりするなど言葉を重んじる方だ。類いまれなる言葉の才能があり、非常に参考になった」と強調し、「私が総裁になった暁には、国民に届くような言葉を常に意識したい」と新聞インタビューで答えている◆総裁選まで5日を切った。この間のメディアの報道を見たり聞いたりしている限り、これまで僕がたびたび指摘した懸念は殆ど解消されていない。つまり、総裁候補の自公連立政権に対する考え方の公開についてである。総裁に選ばれたら、今の野党のどこと組むかについては言い辛いかもしれないが、公明党については、長きにわたる関係なのだから、突っ込んだ注文や自省の念の披瀝があっていい。特に、茂木氏は幹事長当時に兎角の問題を抱えていた感が思い起こされるし、高市氏や小林氏は保守政治家として公明党との距離感が懸念されてきている。だが、またしても肝心の点については口をつぐんだままである。公明党は珍しく斉藤代表が「公明党の理念に合う人でなければ連立しない」と言わずもがなのカウンターパンチを繰り出した。おっと、いいぞと呟いた人は多かろう。だが、その後はまた〝音無しの構え〟だ。せめて、党内機関をフル活用して、それぞれの候補の個別の政策、哲学、ビジョン、構想などを探っていることを、たとえ〝フリだけ〟でも見せて欲しい。公明党は「誰がなっても、黙っててもついて来る」と見られている限り、先が思いやられる。かつて、ある先輩党幹部が「公明党は『沈黙の艦隊』か」と、かわぐちかいじ氏の原作をつまみ取りして皮肉ったことがある。政治家のコメント力の巧みさに感心せざるを得なかった。公明党の60年を見続けてきて、今ほど政党として世に注目される存在であって欲しいと願う時はない。(2025-9-30)

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2025年9月30日 · 6:28 AM

【39】不思議な活力源との出会い━━姫路での「第9回異文化交流会」に参加して/9-25

 「自他共尊の社会を目指して」と謳った『異文化交流会』が一昨日(9月23日)に姫路キャスパホールで午後1時から開かれました。バンド演奏や歌やダンスから箏曲とフラメンコのコラボまで全部で11の演目が途中10分の休みを挟んで3時間に渡って披露されました。私も懐かしい友人を誘って参加してきました。この催しは今年で第9回になるのですが、主催はMusic & Danceの会。姫路界隈に住む皆さんが日頃様々な文化芸術と接触した結果を披露し合うものです。兵庫県や姫路市などの地方自治体の各部局が後援してきています。実はこの試みを企画運営している中心者は、僕の竹馬の友で豊田秀昌君といいます。彼とは小学校2年の後半まで一緒だったのですが、その後30年ほどの〝中抜け〟状態の後に、縁あってこの40年近く、軽やかな付き合いをしてきています。ここでは、彼の行動から受けた「触発」と、僕との「共振」とでも言うようなものをご紹介したいと思います◆会場で見聞きした「異文化交流」の実態は、ラテン音楽やフラメンコダンス、ハワイのフラダンス、アンデス系の民族楽器の演奏(写真)や、中東アラブを発祥地域として世界に広まっているベリーダンスなどの披露でした。それに、日本古来の伝統文化としてのお琴が加わって、フラメンコダンスとコラボをしたり、一方、ケーナの演奏でベリーダンスを踊るなどといった異色の組み合わせもありました。そんな中で、アンデス民族衣装をまとった老若男女が、ケーナ、サンボーニャ、チャランゴなどといった珍しい楽器を演奏したのは目を惹きました。たつの市御津町を拠点に活動するグループで結成4年目だといいます。偶々メンバーの1人に30年来の旧知の友人がいるのを発見しました。3年前から月2回の練習に参加してきたといいます。久しぶりの出会いでしたが実に楽しそうで確かなる変身を驚きの目で見たものです。また、普段はCMソングやアニメソングを中心にアカペラで活動しているという男性4人組のコーラスグループが著名なジャズピアニストと組んだ巧みな演奏には、舌を巻きました。日常の仕事の合間に、異文化を取り入れようとする挑戦の姿に目を見張る思いでした◆実はこの催しに僕が初めて観客として参加したのは第2回大会の時でした。会場は僕の生まれ育った地域の公民館でした。舞台というようなものはなく、パイプ椅子を並べた観客席がしつらえられた狭い空間での開催でした。だけども不思議な活力を感じたことを覚えています。7年が経って会場は見事に〝成長〟していました。立派な客席に身を沈めて、壇上袖で挨拶する豊田君(写真)や、応援に駆けつけた姫路市長の話を聞きながら、「豊田の頑張り」に改めて敬意を抱いたしだいです。僕は議員を辞して既に12年ほどが経ち、住まいも姫路から西明石へと転じましたが、姫路での豊田君の地域活動には大いなる敬意を表して、見倣ってもきました。引退後直ぐに、新在家自治会の役員を引き受け、副会長から会長を経て顧問をするなど引っ越すまで5年以上地域活動をしてきたのです。それまでなかった青年部や超青年部(老人会の別名)を新たに作りました。月刊の地域ニュースの発行や、地域の著名人による講演会や演舞会の企画実行など、あれこれと新しい企画にも取り組んだものです。引っ越して5年を超えましたが、秋祭りに担いだ神輿の重さが忘れられずに今でも「里帰り」を心がけています。同自治会公民館に「赤松文庫」と称する、僅かながらの書棚コーナーを作っていただいたご恩も忘れ難いものがあります◆実は豊田君は、この催し以外にも播磨国総社の「輪抜け祭」の展開にも関わり、卒業して60年を超える出身高の合唱団で歌う一方、何かとお世話を焼くほか「英語多読の会」で自身の知性を磨くことも忘れていません。交流会に一緒に行った友人たちと、「これだけの面々を束ねる豊田君の常日頃の努力は大したもんだね。人が好きなだけでは務まらないよ」と大いに称賛し合ったものです。「人生百年時代」と言われる今日、定年後の30有余年ほどの生かし方が問われています。僕の高校時代の仲間たちを見ても、絵を描くグループに所属してひたすら絵筆を握る友や、気象予報士や美術館の学芸員の資格を取って趣味の領域を広げたり、カラオケに没頭する人など多士済々です。来年は10周年を迎える姫路の「異文化交流会」も、大きな区切りにふさわしい軌跡を築きあげた上で、一段と充実した盛り上がりを見せてくれることを期待しています。と同時に僕自身は新たなる挑戦への秘策を練っているところなのです。(2025-9-25)

 

 

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【38】「大衆重視」に生き抜いてきた日々の重み━━『公明』10月号を読んで/9-19

 わずか80頁の小冊子だが、日本の政治、経済、社会、文化をめぐる大事な情報の解説が満載されている━━公明党の理論誌『公明』のことである。今発売中の10月号も実に面白くためになる。色んなことを感じるがここでは一点に絞る。公明党が先の参院選で負けた根本的理由についての専門家の見立てと、公明党の60年の「大衆重視」の取り組み姿勢そのものから、考えてみた。

⚫︎公明党はこの国をどうしようとしているのかの発信を

 僕は2022年5月に拙著『77年の興亡』で、明治維新以来の日本の敗戦とその後の、2つの77年のサイクルの中で語り得る価値観の変遷を概説した。そしてその後2023年7月までの約一年の間に、朝日新聞と毎日新聞のサイト版(『論座』と『政治プレミアム』)にそれぞれ寄稿した論稿6本、合計12本を、翌2023年8月に『新たなる77年の興亡』と銘打って出版した。サブタイトルを「連立政権のジレンマ解消へ国民的大論争を起こそう」とした。連立与党間で国家ビジョンをまとめるべく協議を持てと、訴えた。この論考集を力を込めて書いた一年がいま無性に懐かしい。

 実は2021年の衆院選、翌22年の参院選と連続しての選挙結果も低調で、共に3年後の両院選挙と同様の傾向を見せていた。その得票、議席減の厳しい流れを受けて、僕は公明党が考える国家構想を明確にした上で、自民党との間で連立政権の国家ビジョンを作る必要があると判断した。で、それを作るための協議の場を持てと提案したのだった。ところが、残念ながらその後の2年間、そうした場作りの気配もなく時間だけが過ぎ去った。今度の選挙結果を受けて、いま再びの総括の議論が展開され、様々な内外からの反省や要望の意見が渦巻いている。

 そのうちの一つが、『公明』10月号の小林良彰慶応大名誉教授による『公明党再生に生かす参院選の教訓━━ビジョンの見えない〝現状維持政党〟からの脱却』という論考である。同氏は日本選挙学会の理事長を経験した「選挙・投票行動分析」の専門家として著名な学者だ。その人が選挙結果分析として①無党派層のうち公明党に投票した割合が選挙区、比例区共に全政党の中で最も低い②自民党と並んで公明党は最も現状維持的な政党と認知されており、現状に不満を持つ有権者の受け皿とは見られていない③SNSなどインターネットを政治・選挙の情報源とする者の投票先としてこれまた全ての政党の中で最も低い━━との結果を指摘している。残念ながらこれが公明党を取り巻く冷酷な現実なのである。

 その上で、小林氏は公明党に求められているのは「これからの日本をどういう国にしていくかを中長期的視野に立って立案し、明確なビジョンを示す著書を作成して刊行することで、公明党が何をする政党なのか、何を変えてくれる政党なのかを有権者に明確に提示することである」と強調している。これは冒頭に述べた拙著での僕の提案とほぼ同じ結論である。僕は公明党が独自の国家ビジョンを明確にした上で、自民党との間で連立政権のビジョンを作り出す協議の場を持てと言った。だが、小林氏はまず公明党としてビジョンを本にして出版しろと言っている。もはや自公政権は風前の灯(枠組み拡大は必至)だから、僕のいう自公協議の場作りはもう遅いというほかない。小林氏のいうビジョン本の刊行を即実行して欲しいものだ。

⚫︎「大衆重視」━━野党時代は制度新設、与党時代は制度修正の違い

    「公明党再生」というテーマを考える上で、公明編集部による連載「政治家改革の視点」は毎月興味深く読んでいる。今月号での『〝大衆迎合〟に対する公明党政治の真価発揮を━━「現場第一主義」「合意形成の力」がカギを握る』という論稿も極めて重要である。「自己反省」華やかな季節だが、確かなる誇りも大事にしたいとの思いで命に刻んだ。

 この論稿を読む上で、僕が留意したいと思うのは公明党60年の歴史にあって、ざっくりと前半30年が野党時代、後半30年がほぼ連立への胎動期から自公連立政権時代だという〝二分化する認識〟を持つことである。

 ここで筆者のT氏は、公明党の「大衆とともに」(立党精神)と「大衆迎合」(ポピュリズム)の違いを井上義久党常任顧問の発言に言及した上で、「現場第一主義」と「合意形成の力」をさらに深化させ、国民の真のニーズに即した政策実現に邁進することを誓っている。野党時代の公明党は「教科書無償配布」や「児童手当」など制度新設ともいうべき大改革を実現させた。一方、連立与党時代になると、①幼児教育・保育の無償化、出産育児一時金の増額などの子育て支援②消費税引き上げ時の軽減税率の導入など、現存する制度の補修、修正を沢山してきた。「制度新設」から「修正改革」へと、2つの時代のこの変化は意味深長である。公明党は結党以来、「大衆重視」(大衆とともに)の政策実現に奔走してきたが、その所産に違いがあることを自覚したい。野党時代も与党時代も「派手か地味か」など捉えられ方の違いはあっても頑張り抜いてきたのだ。

 大衆よりもエリート重視に偏向しがちな自民党を時に応じて嗜めたり、誘ったりしてきたののが公明党なのである。ましてや与野党間の「合意形成」は言うはやすく行うは難い。多党化時代のこれからは益々困難をきたす。自公少数与党は誰が比較第一党の新たなリーダーになろうとも、国会運営は変質を迫られよう。公明党はそのときどんな立ち位置を選択するのか。「大衆重視」の真骨頂が問われるときは近い。(2025-9-19)

 

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【37】自立していても自律は疑わしい老人の繰り言/9-15

 その昔、9月15日は敬老の日で、世の中お休みと決まっていました。ところが今は9月の第三月曜日が敬老の日となって、15日に固定されていません。去年の2024年は16日が敬老の日で、一昨年は18日でした。偶々ことしは今日15日が第三月曜日ということで、久しぶりに敬老の日になったわけです。2003年(平成15年)から法改正されて変更になったのですが、実は、この変化、個人的にはほっとしたものでした。実は僕ら夫婦は、9月15日に結婚をしました。1973年(昭和47年)のことです。あの日、これから毎年全国の皆さんが僕らの結婚式を祝ってくれるって、冗談混じりで喜んだものでした。ですが、その後は結婚記念日=敬老の日というのは、積み重なる老いを否が応でも意識せざるを得なくなってきました。尤も、連れ添い歴50年を優に過ぎると、お互いに身も心も「不都合な真実」に直面して、どうでも良くなってくるから妙なもんです◆ともあれ今年僕は傘寿を迎えました。本人は全くといっていいほど老齢であることを意識せず、ほぼ毎朝海岸べりをゆっくりと走ったりしています。ただし、ことあるごとに物忘れの酷さを家人からあれこれ指摘され、〝老化の道〟をひた走ってるのかもしれません。そんな折、さる9日のNHKラジオ深夜便「共に歩む100年人生〜初めての老いを上手に生きる〜」を聴く羽目になりました。というのは、生活評論家で活躍中の沖幸子さんが登場すると聞いたからです。この人、東京界隈に住む姫路出身者が集う「姫人会」の仲間です。かつて姫路市長選に挑戦もした〝強者〟でもあります。上京時に時々会います。深夜起きは苦手とあって「聞き逃し配信」という便利なツールで、〝ラジオ早朝便〟として聴きました。「人生百年」の長寿時代を元気で生き抜けるか、それとも躓いて苦労するか。このあたりを乗り切る知恵をたっぷり聴かせて貰おうと意気込みました◆この番組に僕の友だちが出るというのは、笑医塾塾長の小児外科医である高柳和江さんに続いて2人目です。共に期待に違わず話は実に旨い。番組タイトル名から、年老いた者としていかに価値ある生き方をするかの秘伝を授けてくれるものと勝手に想像していましたが、話の大半は掃除や部屋の整理、整頓の仕方についてのユニークな作法の伝授でした。思えばそのはず、沖さんはドイツ直伝の掃除の作法を日本に持ち込んで起業した最初の人でした。勿論趣味の世界の拡大についてもヒントを提示してくれていましたが、概ね、誰しもが億劫になりがちな掃除や整理が楽しくなるノウハウが中心でした。聴きながらつい、これって〝女性向け〟だなあと思ってしまったのです◆家事といえば今は亡き曽野綾子さんが「段取りをし続けることが、実は老年において人間としての基本的な機能を失わせない強力な方法なのだ」「家事は段取りの連続である。頭の体操にはこれほどいいことはない」(『晩年の美学を求めて』)と印象的な言葉を残しています。若き日より家事に無関心で妻に任せっぱなしできた男たちに厳しい警鐘を鳴らしていました。本を読み終えた時は、俺もカレーやオムレツぐらい作れんとあかんなあ。風呂場やトイレの掃除もせんと、と殊勝げに思ったものでした。ところがもう沖さんの話を〝女性向け〟のもので、男の俺には〝関係ない〟と思う気持ちが出てきてしまいました。そういえば、彼女はアンカーの須磨佳津江さんと実に楽しげな〝女の会話〟をしていました。男性のリスナーたちはすっかり置いてきぼりにされていたように聞こえなくはなかったのです。ひとことでも男たちをドキッとさせて欲しかったなあとは、いつまでも自律できない爺さんの繰り言かもしれません。(2025-9-15)

 

 

 

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